text by 久住 晶子□□

もう一度だけ

 慣れない身体の痛みを気にすることなく、僕は階段を昇った。
 一段、また一段。思うように動かせない身体にいらだちながらも、僕は上を目指す。誰もいない階段に、たどたどしい僕の足音と、荒い呼吸が 大袈裟に響いた。だけど、気にしない。気にしている場合ではないから。

 もう一度だけ。
 もう一度だけでいいから。
 呪文のようにくり返した。わずかな恐れと 期待を胸に秘めて、僕は屋上へと続く階段を登りつめる。

 昇りきったところにある鋼鉄製のドアを、ゆっくりと開いた。


* *

「怖くないの?」
 静かな声で、彼女が言った。
 もう何度も彼女のこの言葉を聞いている。寝ているときも起きているときも、耳の奥に響いて仕方がないくらいに。いつでも大きな無表情の 目が僕に真直ぐ向けられているのに、声だけが穏やかなのが不思議で仕方がない。
「怖くないよ」
 僕はいつも繰り返し答えている言葉を、静かに言った。
 僕の答えに、彼女は相変わらずの無表情で、僕の顔を見つめている。

 割れるような頭痛で、目が醒めた。
 視界はぼやけていて自分がどこにいるのかも判らないので、もう一度目を閉じる。何か硬いひんやりしたものの上に 仰向けになっている事は、剥き出しになった腕に感じる感覚でだいたい判るけど、そんなところに寝た覚えはなかった。体中が変に痛んでいるのは そのせいだろうか。左足も、何かに打ちつけたように痛むし、酷い頭痛も一向に止みそうにはない。
 僕は目を閉じたまま、手のひらを下に向ける。冷たくてすべすべした感触と、一定間隔に走る細くて浅い溝が手に触れて、初めて 僕がどこに転がっているのかが不安になって目を開けた。
 ぼんやりと、見覚えのない天井が見える。仰向けになったまま肩のほうを見るように首を傾けると、フローリングの床が見えた。やっぱり、 見覚えはなかった。
 慌てて跳ね起きたけど、頭痛のせいか、眩暈とこみ上げる吐き気がして、しばらくの間立ち上がることが出来ない。床にへたり込んだまま、 視界の揺らぎが収まるのを待つ。頭から血の気が引くような感覚が気持ち悪い。
「・・・ここ・・・は?」
 僕は額に手のひらを当てて、誰に聞かれる訳でもない呟きを洩らす。覚醒したばかりなのか 酷い眩暈のせいなのか、 はっきりしない視界をめぐらして、辺りを窺った。

 少し離れたところに、僕と同じように床に転がされている人の姿を認めても、僕は、その場を動く事が出来なかった。

 最初の日から何日が経過したのか、僕には判らなくなっていた。時間に対する感覚もとっくの昔に麻痺してしまい、 日付を数えることも数日前に諦めた。部屋にはカレンダーもなく、僕の腕時計は3時を差したまま止まっている。
 どうして、僕はこの部屋に居続けなければならないのだろう。
 はじめはそんなことばかり考えていた。考えは幾つも浮かんだけれど、いつまでたっても答えは出なかった。答えが出ないから面倒になって、 結局 今は何も考えないことにしている。ただ無為にこの部屋の中にいるだけ。寝たり起きたりをくり返したり、窓の外を眺めたり。
 部屋の中には、平坦な時間が流れている。

 冷たく濡れたものが額に置かれている感触で、目が醒めた。恐る恐る額に手を当てると、そこには湿ったタオルが置かれていた。
 さっき目が醒めたときに見た、見覚えのない部屋は僕の夢だったのかも知れない。そう思って、寝転がったまま辺りを見てみたけれども、 夢であるべきはずの光景が広がっているだけだった。相変わらずの見覚えのない床に、見覚えのない天井が見えるだけ。
 額のタオルに手を当てながら、ゆっくりと体を起こす。さっきよりも明確になった視界で、改めて部屋の中を見渡した。
 そこは、何処かの高そうなマンションにありがちな、広い小奇麗なフローリングの部屋だった。部屋の隅には、シンプルなデザインの ソファーなんてものまである。―――その光景に、何かが足りない気がして釈然としない。
何が足りないのかをぼんやり考えていたとき、部屋の奥の扉が静かに開いて、同い年くらいの女の子が出てきた。 手に濡れタオルを持っている。
「気がついた・・・・・・?」
 彼女はゆっくりと近づいてきて、手にもっていたタオルを僕に差し出した。一瞬、何をするべきかがわからず、僕は彼女の顔と、 差し出された手を交互に見ていた。足りないと思ったものは、さっき見た僕と同じ境遇の人―――彼女だという事に気付いたけれど、 どう言葉をかければいいのかが判らなくて、小さく息を呑んだ。
 相変わらず、彼女が僕にタオルを差し出したままだということに気付いてタオルを受け取り、代わりに今まで持っていたものを 彼女に手渡した。
「・・・・・・ここは?」
 思わずそう呟いたけれど、僕の言葉に彼女は困り顔で首を振るだけだった。

 これが、一日目の出来事だった。

 この部屋は、20畳ほどのリビング。10畳くらいのダイニング兼キッチン。ベッドの置かれただけの何もない部屋が二部屋で構成されている。 バスルームもトイレ付き。家賃はいくらだろう?
 一見普通の部屋なのに、外に出る手段がまったくといっていいほどなかった。外に通じていると思われるドアも、リビングにある 日当たりのいい大きな窓も、どうやっても開けることが出来ないのは、はじめの日にすべて確認したことだ。僕たちはいろいろな方法で 外に出る事を試みたけど、どれも失敗に終わって、最後には何かを試みる事を諦めた。
 どうして外に出られないのかは判らなかった。判らないのに出られない。そのことが、この部屋が普通の部屋ではないということの証明で ある気がした。
 子どもの頃に姉さんが持っていた、小さな人形のための生活観のないミニチュアの部屋みたいな感じだな、と思った。 箱の中に部屋が出来ていて、上から覗ける奴。閉じ込められた人形は、主人の許可がないと外に出られない。閉じ込められたまま忘れられる。 閉じてしまえば、ただの箱になってしまうのに。

「・・・怖くないの?」
 夜になって、彼女が僕に尋ねた。
 目覚めたあと、僕と彼女は、どうしてこの部屋に転がされていたのかが判らなくて途方に暮れていた。理由も判らないし、 何の手がかりも見つからない。この部屋から脱出も出来ないという事が判ったのは、つい先ほどのことだった。 思いつく限りのあらゆる方法を試みたのに、それはすべてが空振りに終わった。僕たちは疲れきって、リビングのソファーに座り込んだまま、 しばらくの間 動けなかった。これから何が起こるのかも判らなくて、不安で仕方がなかった。けれど、それを口にしてはいけない気がして、 僕たちはあまり言葉を交わさなかった。
 ふと、彼女が僕のほうを不安そうに見ていることに気が付いた。
「・・・怖くないの?」
 答えを求めているのかいないのかがよく判らない彼女の口調は、何故だか僕を冷静にさせた。どうしてだか判らないけど。 自分の中にあるものは、彼女の言う「怖い」という感覚とは違う気がしたからなのかもしれない。
「・・・怖くない」
 しばらくの沈黙のあと、僕はそう答えた。それ以外に答えようがなかった。

 食事は一日に二回。いつのまにか用意されている。
 朝起きた時と、夕方。決まってそれは人数分のトレイに載って キッチンに置かれている。用意されているところは、一度も 見たことがなかった。誰がその食事を用意しているのかも判らないまま、僕たちはそれを口にする。部屋から一歩も外に出ないのに、 それだけは普段と変わらないのがおかしかったけれど、僕たちは食物を摂取しつづける。
 はじめは、何か悪いものが混入されているのではという思いから、食べるの躊躇っていたけど、今は何も考えていなかった。 目の前に美味しそうな食事が定期的に用意されている環境で、いつまでも食べずにいることなんて出来ないから。二日目の夜には、 用意されていた食事を躊躇わずに口に運んでいた。
 もちろん、体には何の変化も起こることなく。未だに僕は生きている。

「・・・・・本当に怖くないの?」
 再び、飽きることなく彼女が訊ねてきた。
 僕も彼女も、さっき見たことが信じられなくて、はじめのうちは言葉も出なかった。そんな中ではじめに口を開いたのが彼女で、 言っていることは、さっきからずっと一緒だ。
「怖くない」
 本当は、僕も怖かったのかもしれない。だけど僕は何も考えたくなかったので、彼女の問いにずっと同じ答えを返していた。今思うと、 僕はその答えを彼女に返すことで、彼女を安心させるのではなく、自分を慰めたかっただけなのかもしれない。

 怖くなんかない。そう思い込もうとしていたのかもしれない。

 喉が渇いても、キッチンに行けば飲む物があった。水道の蛇口をひねれば水が出たし、ガスコンロがあったから お湯を沸かすことも出来た。
 キッチンには、色とりどりの紅茶缶が何種類も置いてあった。葉っぱから入れるのは面倒だったけど、 そのおかげでいつでもおいしい紅茶が飲めた。 紅茶はいつも彼女が淹れてくれたけれど、飲みたくて仕方がない時は、僕が自分で淹れる事もあった。 おかげで僕は紅茶を淹れるのがずいぶんうまくなった。

「・・・怖くないの?」
 何度も訊ねられた質問に、僕は何度も答えたはずの答えを呟いた。
「・・・怖くない」
 さっきから、僕たちは同じような問答をくり返している。この部屋に来てからもう何日も経過しているのに。その質問は僕たちの 日課のようなものだった。無意味な意識の確認作業。僕にとってはそれ以上でもそれ以下でもない、どうでもいいやりとりだ。
 彼女は、何を考えているのかがよく判らない無表情の大きな目で、僕の顔をじっと見ている。
「本当に 怖くないの?」
 曖昧に肯く僕を見て、彼女は小さくため息をついた。

 ベッドが置かれただけの部屋は、リビングから伸びた廊下の左側に並んであった。 廊下の右側――ベッドの置かれた二つの部屋の向かいにバスルームとトイレがあった。廊下の突き当りには、掃除道具が入った棚があったけれど、 僕たちがそれを使わなくても、部屋の中は丁寧に掃除が行き届いていた。
 二つある部屋のうち、奥の部屋を彼女が使い、僕は手前の・・・向かって左の部屋を使っていた。
 部屋の中に唯一あったベッドは、石鹸の香りのするシーツが敷いてあって、寝心地がびっくりするくらい良かった。僕は毎晩そのベッドで、 夢も見ないほど深く眠り込んでいた。

「怖くないの?」
 そんな事を訊いてくる彼女の顔は、不安さの欠片も感じない表情をしていて。ふと気付いた事を何となく口にしている、といった感じだった。 彼女の大きな目は、真直ぐに僕に向けられていて、黒目がちの大きな瞳は、相変わらず何を考えているかよく判らない。
「怖くないよ」
 いつもと同じ答えを返す。部屋の隅に置いてあった、聞いた事もない名前のアメリカ人作家の小説から顔をちらりと上げただけで、 僕はすぐ本に目を落とした。本を読む以外にする事がなかったから、僕は知りもしない作家の本を読みつづけた。

 バスルームに行けば、いつでも温かいお湯に浸かる事が出来た。蛇口をひねればお湯が出るし、掃除も隅まで行き届いていて心地が良かった。 いい匂いの石鹸が常備されているし、その他にも必要なものはすべて揃っていた。
 お風呂から上がれば、ふかふかのタオルで身体を拭く事が出来る。洗濯の行き届いた着替えも用意されている。 僕は毎日当たり前のようにお風呂に入って、清潔な服に着替える。眠くなればふかふかのベッド寝るだけ。快適この上ない生活だった。
 たぶん、彼女も僕と同じように、この生活を送っているのだろうと思ったけど、あまり興味はなかった。

「・・・本当に怖くないの?」
 彼女が僕の目を見つめて、訊いてくる。そんな会話をしているのに、僕たちときたら、紅茶が入ったマグカップなんかを持っていて、 部屋の隅にあった本を傍らにおいている。深みのある綺麗な色の紅茶からいい匂いの湯気が立っていて、緊張感のかけらもない。
 彼女がゆっくりとした動作で紅茶を飲むのを横目で見ながら、僕は本を手に取った。
「怖くなんか、ないよ」
 僕の答えも、いつもどおり。僕の答えを聞いた彼女の無表情さも、いつもどおりだった。

 リビングルームの大きな窓からは、空しか見えなかった。
 何故だかは判らないけれど、この部屋が高い場所にある、そう思えばあまり気にするべき事ではないのかも知れない。 窓の外に少し広めのバルコニーみたいな場所があったけれど、窓が開かないせいで、そこはまったく意味をなさない場所でしかなかった。 バルコニーに遮られて、下のほうの景色は見ることが出来ず、切り取ったみたいな空が見えるだけ。たとえ窓が開いて外に出られたとしても、 何処にも行きようがないだろう。

「怖くないの?」
 夕食の後に、向かいに座っていた彼女が訊ねる。いつもの無表情ではなくて、 僕の様子を窺うような眼差しには不安の色が見え隠れしているような気がした。
「怖くないよ」
 僕は苛立ちを隠すように、静かに言った。
 だけど、彼女の顔は曇ったまま、大きな目が僕に向けられていて、気拙くなって目を逸らした。

 この部屋に来てから何日も経過しているのに、未だに食事の支度をしているものの正体は知る事が出来なかった。
 食事が用意される時間に 何気なくキッチンのほうを窺っていても、気が付いたら食事がそこにある。 本当に何気なく 美味しそうな匂いをさせ、ほかほかの湯気を立てて、当たり前のように用意されている。それもきっちり二人分。味も確かだ。 少しの疑問は残るけれど、この食事を用意している人物は僕たちのことを殺すつもりはないんだろう。殺すつもりなら、 わざわざこんな部屋には閉じ込めないだろうし。・・・閉じ込めたとしても、食事を与えなければいいことだし、 いざというときは食事に混ぜ物をすればいいだけのことだから。
 そして僕は気付いた。僕たちの命が、この食事を用意している人に委ねられているという事に。
 ・・・だけど、そんな事を考えても、僕にはどうすることも出来なかった。気がつかないふりをずっとしていたかった。

「怖くないの?」
 相変わらずの言葉が僕に投げかけられた。
「怖くないよ」
 僕は読みかけの本から顔を上げることなく、いつもの答えを言っていた。その本は、崩壊しつつある国にいる女の人の話で、 毎日毎日何かが失われていく様子が、僕の置かれている状況なんかよりもよっぽど怖かった。僕には清潔なベッドも用意されているし、 食事もある。着替えだってちゃんと用意されている。僕の周りからは物が失われる事はないのだから、怖くなんかないはずだ。
「どうして?」
 感情を押し殺したような声に驚いて、顔を上げる。無表情の彼女の大きな目が、いつものように僕を見ていた。
「どうして怖くないって言い切れるの?あなたをこの部屋に閉じ込めたのは、私なのかもしれないのに」

 彼女の言葉を理解するまで、僕は呆然と、目の前の彼女を見詰めていた。相変わらずの無表情の大きな目からは、 彼女の真意は読み取れない。
「・・・君が、僕をこの部屋に閉じ込めたの・・・?」
 なにげなく聞き返したつもりの僕の声は、不自然に震えて静かな部屋の中に情けなく響いた。彼女は、僕の言葉に静かに首を振った。
「私をこの部屋に閉じ込めたのは、あなたなのかもしれないのに」
「・・・どういうこと?さっきと言っていることが違う」
 苛立ちを隠し切れなくて問い詰めた僕の声は、予想以上に荒く響いた。
「私があなたを閉じ込めていない事は、私しか知らない事だから。私にとっては答えになるけど、あなたには答えにはならないという事」
 彼女の言っている事が判らなかった。僕は彼女をこの部屋に閉じ込めたつもりなんかないのに。それは僕自身が一番判っている事だった。 だけど彼女には、僕の判っていることは判らないはずだ。僕は僕であって彼女ではないから。
「私が、私を閉じ込めたのはあなただと思っても、あなたには私のこの考えを完璧に否定する事は出来ないでしょ。同じようにあなたが 私を疑っても、私にはそれを否定する事が出来ないの」
 僕は判らなくなってきた。どうして僕はこの部屋にいるんだろう。彼女に閉じ込められたから?・・・あ、でも彼女は「閉じ込めていない」と 言っていたっけ。でも、彼女の言う事を僕が証明する事は、いまのところ不可能だ。
 愕然とした。僕の潔白も彼女には証明できないという事に気が付いて、初めて彼女の言っている事が判った気がした。
「・・・どうしろって言うんだよ・・・」
 僕の声が静まり返った部屋に響いた。それは僕自身がびっくりするくらいに情けない声で、誰にも向けられる事のない 言葉だった。だから、僕の声に彼女は答えない。 僕も彼女に答えを求めない。僕の声はそのまま僕に返ってきて、耳の奥に微かに響いて消えることがなかった。

 そんな事があっても、用意される食事も相変わらずだった。誰が、何時、どうやって用意をしているのかも、判らないまま。 ちゃんと人数分用意されているのも、出来立てでほかほかの湯気を立てながら美味しそうな匂いをさせているのも、いつも一緒。だけど、 さすがにその日の夕食には手を出せそうになかった。彼女が二つのトレイを持って、テーブルに持ってきたのを見てしまったから。
「・・・どっちがいい?」
 そう言って、彼女は二つのトレイをテーブルの上に並べて、ぎこちなく笑った。だけど、 さっきの話を思い出した僕にはその食事を選ぶ事も、食べる事も出来そうにない。結局僕は食事に手をつけられなかった。 今まで安全だと思ってきたことすべてが崩壊してしまった事が悲しくて仕方がなかった。・・・悲しい、という表現は適切ではない気がするけれど。 その感情に、言葉をつけることが出来なかった。
 その日の夕食は、二人揃って手をつけないまま終わって、僕たちはろくに口も利かないままベッドに潜り込んだ。

 残した食事は、次の日の朝目が醒めたときにはきれいに片付けられていて、朝食が当然のように用意されていた。

 この部屋からは逃げ出せない。
 今更ながら、その事実が僕に重く圧し掛かっていた。
 何を今更。だけど、その発端は彼女の一言だったのは間違いない。もう今までのままではいられない。 目をそむけていた現実を真正面から見据えなければいけないと思った。でも、駄目だった。目を逸らしたかった。 出来る事なら気付きたくなかった。気付かせられたくなかった。
 出られない。逃げられない。帰れない。・・・帰るって、何処に?僕に帰る場所はあるの? 僕はどうしていいのかも判らず途方に暮れた。

「逃げられないのかな」
 絶望的な気分の中、僕は彼女に泣き言めいた事をつぶやいた。それは本当に無意識でのことで、気が付いて慌てて口をつぐんだけれど、 もう遅かった。
「・・・逃げようとしていないから、逃げられないんだと思う」
 相変わらず、彼女は僕には判らない事を言う。
「・・・僕が?」
 苛立った声を上げた僕を見て、彼女は少し悲しそうに笑った。
「・・・ふたりとも」

「どっちがいい?」
 食事のたびに、彼女が僕に訊いてくる。結局、僕は美味しそうな食事の誘惑には敵わなくて、再び食事を取るようになっていた。 彼女の言葉を聞いて、何となく安全そうなほうのトレイを選ぶ。そして、それを口にする。 彼女は僕が選ばなかったほうのトレイに載った食事を黙って摂っていた。
 そこではじめて気が付いた。彼女が僕に食事を選ばせているのは、食事が安全だという事を僕に伝えたいからなのかもしれない、 という事を。
「・・・どうして、いつも僕に選ばせるの?」
 僕の考えを肯定して欲しいと思って、わざわざそんな訊き方をしたけれど、彼女は微かに笑うだけだった。
「僕のこと、信用してくれてるの?」
 その言葉を言った僕自身も、彼女を信用しているという事を無自覚に証明している事に、僕は気付いていなかった。

 相変わらず部屋からは出る事は出来なかったけれど、僕たちの生活は、今までとは少し感じが変わっていた。
 あまり気にしていなかった彼女のことを、少しだけ気にするようになってきたからだ。今までリビングで読んでいた本は、 寝る前に部屋で読むようにした。彼女と同じ部屋にいるときには、出来るだけ近くにいて、話をしようと心がけるようになっていた。 何を話していいかは分からなかったけど、何かを話したいという気持ちのほうが強かったので、その気持ちを大切にした。 初めて人と向き合っているような気がして、それが照れくさくも嬉しい事にも気付けた。僕にとっては大きな進歩だ。
 この部屋の話、昨日の夕食が美味しかったという話、好きな映画の話、僕が読んでいる本の話。 それらのすべてが同等の価値を持ったもののように話された。

「どうして、いつも僕に「怖くない」って訊いてたの?」
 ふと気になって、彼女に尋ねたのは、本当になにげない気持ちからだった。
「・・・気になっていたから」
 ぽつり、と呟いた彼女の目は僕からは逸れていて、それが普段の様子と違うので、少し驚いた。
「・・・え?」
「本当は、私、あなたのことは知ってた。・・・その事を知られるのが怖かったからかもしれないけど、本当は自分でも判らない」
 そういった彼女は、少し悲しそうに笑っていた。逸らされた目は、いつの間にか僕を伺い見るように僕に向けられていた。
「知られるのが怖かったって・・・?」
「あなたが私のことを知らないのに、私があなたのことを知っていたら、私が閉じ込めたのだと疑われると思ったから・・・」
 言葉を選ぶような、慎重な話し方だった。
 彼女の言葉を聞いて、僕の中で何かが生まれたような気がした。だけど、その感情を表現するべき言葉が思いつかずに、 ただ押し黙って彼女の口元を見るだけだった。
「でも、怖かったのはそんなことじゃなかった。本当は、・・・囚われているのは私だけ。この部屋から出たくないのも、私。 私はずっと前からあなたに囚われていた・・・」
 ゆっくりと確実に彼女の唇が動く。だけど 僕にはよく判らなかった。頭の中が真っ白になっていた。
「・・・違う、あなたに囚われていたかった。だけど、私を捕らえているのは私自身。・・・多分、あなたが囚われているのは・・・」
「・・・どういうこと?」
 僕が囚われているのは、何?
 だけど、彼女はその答えを言ってくれなかった。
「君は、どうして僕を・・・」
 そんな風に言うのだろう、続けたくても言葉が継げられなかった。
「自覚していないかも知れないけれど、あなたはすごく人気があるんだよ?川瀬 彰くん」
 僕は、この部屋に来てから呼ばれることのなかった自分の名前が、彼女の口から紡ぎ出されるのを聴いて、心臓が止まりそうになった。 彼女が僕の名前を知っていたという事よりも、彼女が僕の名前を呼んでくれた事の方が、僕にとっては重要な事に感じた。
「どうして、僕の名前・・・」
「私には、もう時間がないみたい。ずっとこの部屋に居たかったけど、もう」
 悲しそうに笑う彼女の存在が希薄になっていくような気がして、慌てて目をこする。彼女が何を言っているのかが理解できない。
「何、言ってるの・・・」
 僕の思い違いではなく、彼女の体が揺らぎ始める。少しずつ透明に近づいていく彼女の存在を、僕は呆然と見ていることしかできない。
「ごめんね、私・・・」
 そんなことを言っている間に、彼女の身体は回りの景色と同化し始めていた。慌てて呼びかけようとして、 僕は一番知りたいはずなのに、知らないまま忘れていた事を思い出した。
「名前!・・・君の名前を教えて・・・」
 僕が叫ぶと、彼女はやわらかい表情で僕を見た。
「やっと、私の名前を聞いてくれた・・・」
 消え入りそうな声が頼りなく響いた。
「教えてよ!」
 僕は消えつつある彼女の口元をじっと見ていた。
 彼女の口が緩やかに動いた。けれど、声はもう聞こえない。彼女ともども、彼女が言ったはずの言葉も、部屋の中に消えていた。

 取り残された僕は、どんな顔をして、どんな感情を表せばいいのかが判らないまま、静かに目を閉じた。


**

 目が醒めたとき見えたのは、やっぱり見慣れない天井だった。
「彰・・・!」
 僕のすぐ傍で誰かが叫んだ。ぼんやりとその方向を見ると、見慣れたはずなのに、なぜか懐かしい母の姿があった。母は泣いていた。
「ここは・・・?」
 頭が酷く痛んで、左足も酷い痛みのせいか、動かなかった。母の叫びを聞いて看護婦が駆け寄ってきて、 はじめて僕は病院のベッドに横たわっている事に気が付いた。酷く痛む頭には包帯が巻かれていて、左足はギブスで固定されている。
 僕は、何らかの事故に巻き込まれて、今までの間、意識不明の重態であったという事を、泣き疲れた表情の母から聞いた。 どんな事故かを聞いても答えてはくれなかったけれど、大変な事故だったという事はだいたい判った。だとしたら、 僕が今までいたあの部屋はなんだったんだろう。彼女は、どうして消えてしまったんだろう。

 もう一度会えたら、私の名前を教えてあげる―――。
 確か、あの時彼女はそう言っていた。僕の気のせいかも知れないけど、確かに彼女の唇はそう動いていた。そう思いたかった。 もう一度会えるなんて確信はありもしないのに。
「もう一度だけ・・・」
 呟いた僕の声は、ざわついた病院の中でかき消されるように、溶けて消えた。もう一度だけでいいから、彼女に会って話がしたかった。

「彰?」
 驚いた母の顔が歪むのをぼんやりと見ていた。数秒後に、母の顔が歪んだのは僕の目に溜まった涙のせいだという事に気付いて、 慌てて袖で涙をぬぐった。
「ごめん。何でもないんだ」
 母は、そんな僕を心配そうに見て、言った。
「でも、彰が無事でよかった。あんな事故に遭って、ずっと目が醒めないままだったからもう駄目かと思ったけど・・・」
「僕は、そんなに眠ってたの?」
 何となく気になって訊ねると、母は目に涙を浮かべて、僕の顔をじっと見た。
「事故に遭ったもう一人の女の子の意識が回復して、もしかしたら彰もって思って・・・。そうしたら、彰が・・・」
 女の子、という言葉に僕は過剰に反応した。その女の子について問い詰める僕の剣幕に押されて、母が答える。僕と同じ事故に遭って、 今までずっと眠ったままだった女の子の事を。

 僕は母の静止を聞かずにベッドから降りて、脇に置いてあった松葉杖を掴む。何故だかは判らないけど、 奇妙な確信をもって病院の屋上に向かう。 思うように動かない身体が痛みに軋むのも気にしないで。呪文のように同じ言葉を心の中でつぶやきながら。

 もう一度だけ。僕たちの続きを探しに。


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