乙姫の別荘

たかむら市悟 「海辺にて。」
feat.薊野佑子

静かに広がる海。背後に押し寄せる緑。その狭間のせり出した崖の上に、彼はいた。
気持ちのいい空気が、朝も昼も夜も彼を包む。
海と彼女が、いつもそばに、いたからだ…。

 

「気に入った?」
 その雰囲気を壊さない涼げな声が、後ろから問い掛けた。
「ああ。すごい。」
 僕は振り向かずに答える。
 この場所を教えてくれたのは、彼女だ。ここは彼女の両親の別荘で、好きに使ってくれと言ってくれた。僕にとってこれほどのいい場所は無い。
「じゃぁ、また明日来るわね。」
「そんなに来てくれなくても大丈夫だよ。飯の支度くらい出来る。」
 振り返ってそう言うと、丁度海風が彼女の長い髪を揺らした瞬間が目に入った。僕は目を細める。
「あらダメよ。あなたは遊びにきてる訳じゃないんだから。そんなことは、私がするわ。」
「でも、君も忙しいだろ?」
「大丈夫、けっこう暇なの。あなたは心配しないで、次回作を書いてくれればいいわ。」
「ごめん、ありがとう。」
 彼女は首をかしげて少し笑うと、手を振って去っていった。

 僕はいわゆる、駆け出しの作家というものだ。どちらかというと女性受けのする、多少幻想的な現代小説を書いている。
 締め切りまでまだ間はあったが、どうにも筆がのらないとこぼした僕に、彼女がここへ来ることを薦めてくれた。気分転換になるし、何より次回作に使おうと思っていた雰囲気が、ここにはそのままあった。
海にせり出した崖の上の小さな別荘。周囲には他に建物は無く、海岸線を走る道路と、山と、海、それがここから見える全てのものだった。

 彼女は僕の従兄弟で、つまりここは叔父の持ち物というわけだ。たいした気兼ねなく、僕はふらりとここへやってきた。彼女自身の住む家はここから割と近く、自動車を使えば20分ほどしかかからない。そんな近いところにどうして別荘なんか買うのか、と庶民な僕などは思うのだが、景色が良かったからつい買った、ということらしい。お金のある人は違うな、と思いつつも、僕はこの幸運をすんなり受け入れさせてもらった。

 僕はノートパソコンをかばんから取り出して、居間のベランダに近いところに置かれた丸テーブルの上に広げた。ここなら、広い海を見ながら文章を作れる。少し左を見れば、窓から山の景色も良く見えた。
 彼女が煎れておいてくれたコーヒーを一口すすり、ワープロソフトを立ち上げる。その起動画面を見ながら波の音を聞いていると、少し眠くなってきた。文章を考えるのが億劫になってくる。
 僕の自宅からここまで、2時間ほども電車の旅をしたのだ。久々の外出だったし、疲れて当然だろう。僕は結局一文字も書かないまま、パソコンを終了させた。かばんから寝巻きを取り出すのも面倒で、そのまま隣の部屋のベッドに倒れこむ。ベッドはきちんとメイクされていて、糊の利いたシーツはさっぱりとしていた。僕は瞬く間に眠りに落ちた。

 目がさめると、既に彼女が来ていた。
「あ、起きたの?ご飯食べる?もうお昼だいぶ過ぎてるけど。」
 壁の時計は2時半を指している。夕べ寝たのが7時くらいだったはずだから、20時間近く眠っていた計算になる。どおりで頭が痛い。
「ああ、腹減った…かな。食べるよ。」
 髪の毛をなでつけながら、とりあえず洗面所へ向かう。鏡をのぞくと、寝起きの青白い自分の顔がしかめ面をしていた。
 彼女は、背後の台所で手際よく昼食を盛り付けている。幼い頃はよく、親戚同士泊まったりしたものだ。高校生になる頃にはそういった交流もなくなったが、彼女に寝起きのだらしない姿を見せるのに、さして抵抗は感じない。昔同じ布団で眠ったことが、むしょうに懐かしくなった。
 顔を適当に洗って台所へ行くと、すでに準備は整っていた。
「ありあわせで悪いけど。夕飯はちゃんと買い物してきたから大丈夫よ。」
 彼女は謙遜するが、ありあわせにしては、美味いチャーハンだった。
「どう?調子は。」
 食べる僕に、彼女は無邪気に尋ねる。
「ああ、まあ、ね。」
 僕は曖昧に答えたが、彼女はわかってしまったらしい。クスクスとおかしそうに笑う。
「そんなことじゃないかと思った。環境変えたくらいで、そんなにホイホイ書けるものじゃないわよね。」
「いや、でも書く気はおきたよ。家にいるよりは全然いい。」
「そう?ならよかった。」
 彼女はそう言うと、自然な仕草で僕のグラスに麦茶を足した。僕はいつも後になって、こういう彼女の親切に気づいたりする。あんまり当たり前のように彼女がそうするから、礼を言う事すら忘れがちになる。申し訳ないとは思うが、気兼ねのなさが快くてついついそのままにしてしまう。

 伝えたい言葉を、受け取る相手がいない。海だけが目の前にあり、仮に幸也が言葉を紡いでも、それは波に揺られるだけ。だが、もしかしたら…そうして美汐に、届くだろうか。
 波が岩壁を打つのを見ていると、どうしてだかそこに何かを投げ込みたくなる。花を投げれば、花びらが散りながら幾度も打ち寄せられるのが見られるのだろう。
周りを見回したが、冬の海辺には花は咲いていなかった。
 僕を投げ込んだらどうなるのか。
幸也はそれを思い、暗い海に意識を飛ばした。美汐に逢える、たった一つの可能性かもしれない海に。しかし幸也の身体は一つしかなく、投げ込んでしまえば彼女をここで待つ事はもう出来ない。賭けに出るには、幸也は臆病すぎた。
結局足元の雑草をちぎって投げる。風に乗った緑色は、海面に落ちる前に散り散りになり、大半は手前の岩壁にひっかかって止まった。幸也は感傷をあっけなく打ち切られ、仕方なく少し笑った。

 

 キーボードを打つ手の隣に、彼女がそっとコーヒーを置く。その小さな音に視線を上げると、夕日をたたえた海が光っていた。
「もう夕方か。」
「そりゃ、起きたのが2時半だもの。」
 彼女は苦笑しながら、テーブルの上を指差した。一人分の夕飯が並んでいる。
「作っておいたから。おなか減ったら食べてね。」
「ありがとう。もう帰る?」
「そうね。邪魔しちゃ悪いし。」
 彼女はいたずらっぽく言って笑った。そう言われるとなんだか帰すのが惜しい。
「そんなことないよ。少しいてくれると、気がまぎれる。」
「そう?じゃあわたしも、コーヒー一杯飲んでから帰るわ。」
 彼女はエプロンをはずして、自分の分のコーヒーをカップに注いで戻ってきた。
「仕事、うまく進むといいわね。」
 コーヒーの湯気をそっと吹きながら彼女が言う。
「調子は悪くないよ。いい環境を提供してもらえて助かってる。」
「よく眠れるし、ご飯は出てくるし?」
 冗談っぽく彼女が胸を張ってみせる。
「そう、おかげさまでね。あんまり長々とお世話にならずにすむように、がんばって仕上げるよ。」
「あら、のんびり書いててもかまわないわよ?」
 言いながら、彼女は肩をすくめるようにして笑った。

「じゃあ、そろそろ帰るから。また明日ね。」
「うん、気をつけて。」
 玄関まで送る。彼女は自分の持ち物だという自動車に乗り込んで、夕日とは逆のほうへと去っていった。
 山を見ながら、少し背伸びをする。彼女の車の排気ガスが、違和感を醸し出している。それに背を向けて玄関をくぐって、ふと、編集者の顔を思い出した。ここに来ることは話してあったが、着いてから連絡を取っていない。
 無事書き始めた事を知らせたほうがいいかと思い、かばんの奥から滅多に使わない携帯電話を取り出す。暗記してある編集部の電話番号を押して、かける。が、なにやらピピッと音がするだけで、かからない。液晶画面をよく見ると、アンテナマークのかわりに圏外という文字が表示されていた。
 ここからだと電話が通じないらしい。それでは、と思って部屋の電話を使おうと思ったが、どこにも見当たらなかった。居間にも寝室にも、それらしいものはない。実家から近い別荘だと、電話など必要ないのだろうか。僕は少しの間首をかしげて考えていたが、明日彼女に尋ねればいいかと思い、再びノートパソコンの前に腰を下ろした。

 美汐はいつまでも現われない。幸也は、そっと崖から身を乗り出した。
「美汐?」
返事は無い。波のゆっくりしたリズムと、心臓の速い鼓動はかみ合わない。微かな不快感が彼を包む。
「美汐……?」
もう一度呼んでも、崖の下の岩場に動くものはなにも無く、白い波の飛沫が彼女のドレスの裾のように、ゆっくりゆっくりゆらめいた。
 彼女は、還ったのだろうか。それとも……。

 幸也の愛した美汐は、もうどこにも見えない。手のひらの中の貝殻が、乾いた音を立てて崩れた。
 最後に会ったときの、彼女の表情を思い浮かべる。いつもより少しためらうような微笑みに、どうして気づけなかったのだろう。
僕になにか言いたいことがあった?僕になにか訊きたい事があったのか?
それに気づけば彼女はこれほど唐突に消えはしなかっただろうか?
「……僕が、悪いのか?」

 

 結局書く事に没頭してしまい、腹が減った事に気づいたのは夜10時だった。冷めてしまった夕飯を食べて、もう一頑張りしようとキーボードに手を乗せる。が、数行書き進めたところで、少しだるくなってきた。既に書きあがった部分をスクロールさせてみる。頭の中でカレンダーを開き、締め切りまでの日数と、あと書かねばならない量を計算する。……大丈夫そうだ。この調子で書いていけば、余裕を持って完成できる。
 あまり頑張りすぎるのもよくない。ペースを崩しては元も子もないので、僕はパソコンを終了させた。冷蔵庫から、缶ビールを一本取り出す。冷えたアルミ缶の感触がだるくなった僕の手を癒す。デッキチェアの置かれたベランダに出ると、涼しい風が通り抜けた。気持ちがいい。
 普段そんなに酒は飲まないが、こんないい環境で飲まないのは損というものだろう。プルトップを空けて、勢いよくあおる。月は出ていなくて、薄い雲が星の光もあらかた隠してしまっているのが、少し残念だ。それでもここは、僕にとってもったいないほどいい環境だ。ゆっくりと目を閉じ、風を味わう。僕の鼻先を潮の馨がくすぐった。

 肩を揺すられて、僕は少し目を開ける。眩しい。また閉じる。
「ねぇ、ちょっと起きて。こんなとこで寝てちゃダメじゃない。いくら夏でも風邪ひくわよ。」
 彼女の声だ。
「まさか夕べからここにいたんじゃないでしょうね?」
 夕べ?夕べ……。僕は慌てて身を起こした。
「今何時?」
「あ、起きた。11時よ。もうすぐお昼。」
 ゆうに10時間以上たっぷり寝ていたわけだ。……ベランダのデッキチェアで。
「背中…痛い。」
「当たり前よ。シャワーでも浴びてきたら?」
 彼女があきれたように僕の背中をぽんと叩く。
「そうする。」
 着替えとタオルを持って、僕はバスルームへ移動した。どうにも頭がぼんやりしている。寝すぎだろう。

 熱いシャワーを浴びて出ると、昼食の用意が出来ていた。
「ホントに夕べからあそこにいたの?」
「うん、そうらしい。いや、寝る気はなかったんだけど。」
「だめじゃない。」
 彼女は母親のように言うと、鍋から皿へスープを移した。
「具合悪くない?風邪ひいてたりしたら大変よ。」
「なんともない。ちょっと頭痛いけど、単に寝すぎだろうし。」
 心配そうな顔のまま、彼女はテーブルにつく。今日はいっしょに食事をするようだ。今までは時間が合わなくて一人の食事だったが、こうしてテーブルを2人ではさむとなんだかくすぐったい。
「今日は私、ちょっと遅くまでいようか?そんなだと心配だから。」
「大丈夫だって。昨日はうっかりしただけだから。女の子をそんな遅くに帰らせたら、叔父さんたちに申し訳ないし。」
「何言ってるの。ここうちの別荘よ?それよりも、あなたが風邪こじらせたりしたら、それこそわたしのほうが、叔父さんや叔母さんに申し訳ないわよ。」
 少し怒ったような口調で真剣に言われると、さすがに言い返せない。年下の女の子にここまで心配されるとは、少々情けない。家事にも疎くてだらしの無い僕は、さしずめ放って置けないタイプというヤツなのだろうか。素直に嬉しいとは言えない。
「ほんとに大丈夫だよ。今日はちゃんとベッドで寝るから。」
「うん、絶対そうしてよ。じゃないとわたし、あなたを見張ってなきゃならないわ。」
 彼女は軽く僕を睨んで苦笑しながら昼食を平らげる。けっこうよく食べるところは、昔から変わっていない。僕のほうも、食べるのが遅いのは20年以上変わっていない。彼女は、まだもぐもぐやっている僕を尻目に、自分の食器を洗い始めた。そのまま冷蔵庫から野菜を取り出し、なにやらごそごそ作業をしている。
「なに?まだ食べるの?」
「バカね、夕飯の支度じゃない。いくらなんでもそんなに食べないわよ。」
「そっか、そうだよな。」
 そりゃ、いくら彼女でもそこまで食べないことは考えればわかることだった。ジャガイモをむく彼女の後姿を見ながら、スープの残りをすする。エプロンがなんだか嬉しい。
「今から夕飯の支度するの?」
「ええ、シチューだから、下ごしらえしとこうと思って。」
「そっか、シチューか。」
 今から楽しみになってくる。とりあえず夕食までまた続きを書こうと、僕は席を立った。

「ねぇ、海の底がどうなってるか、知りたくない?」
 夜のコンビニから出て傘を差しながら、美汐は唐突に言った。
「海の底?スキューバでもしに行きたいのか?」
 まといつくような霧雨から少しでも逃れたくてマフラーを巻きなおす。こんな寒いときにする話じゃないだろう、と思う。
「ううん。映像で見える海の底は、本当じゃないかもしれないと思わない?だって幸也、見たことないでしょ?」
 彼女は冷たい雨を眺めるように暗い空を仰ぐ。まるで深海から陸を望むように。
「美汐はあるの?」
 彼女は微かに笑って首をかしげた。幸也はその時、美汐はただ、海に行きたいんだと思っていた。
「そうだなぁ、でも実際行った所で、きっとテレビで見るのと同じ海の底が見えるよ。まさか竜宮城があるなんてこともないだろ。」
 幸也は冗談を言って、さっさと話を切り上げようとした。この寒い中、そんなに長々と海の底の話をしたくはなかった。
「…そうよね。」
 そう言った彼女は、失望した瞳を自分に向けはしなかったか?
冬の夜の凍るような空気は、幸也にそれを気づかせなかった。だから失わなければいけなかったのか。
今までに感じたことが無いほどの後悔が押し寄せる。月に向かってその手を差し伸べながら、次第に満ちる潮のように。あの日の冷たい霧雨が、ひとかたまりになって打ち寄せるように。

 

 キーボードを打つ音が、波の音と混ざる。定期的な波の音と、不定期な指先の音が、微妙なリズムを生んでいる。
 太陽が移動していく速さと競いながら、画面の中に文字を刻み付ける。快調だ。自分が快調だということを意識すると、大抵の場合そこで筆が止まる。意識しすぎるからだ。しかし今は、半分波の音に意識をもっていかれているからか、指は休まずキーを叩く。
 この分なら予定より早く出来るかな、という雑念が少し入ったとき、不意に指が止まった。まずった、波を逃した。
 舌打ちして太陽の位置を見ると、水平線より少し上のそれは、そろそろ赤くなりはじめている。海の色が変わった。
 僕が手を止めて伸びをしているのに気づいたのか、彼女が静かに背後に立った。振り返る。
「一休み?」
 何気ない笑顔で、彼女が僕の手元をのぞきこむ。
「ああ、ちょっと詰まった。でもかなり書けたよ。」
「良かったわね。出来上がったら読ませてくれる?」
「え、興味あるの?こういうの。あんまり読まないかと思った。」
 彼女と僕の小説の内容について会話した記憶はない。少し意外だった。
「あら読んでるわよ。デビューした時から叔母さんが本送ってくれるんだもの。言った事無かった?」
 きょとんとして当然のように言う。
「無いよ。一度も感想とか聞いたことないし。あ、あんまり面白くなかった?」
「そんなことないわよ。面白いわよ。最近はちゃんと自分で買って読んでるんだから。」
 にっこり笑って言う彼女の言葉は、あながちお世辞にも聞こえない。
「じゃあ、今のが出来たら最初に読んで感想くれよ。」
「わ、いいの?すっごい楽しみ。読者一号ね。」
 本当に嬉しそうに笑う。こんなことで世話になっているお返しが少しでも出来るなら、安いものだ。それに僕自身、身近な人が自分の小説を愛読してくれていることを知って、新鮮な喜びを感じていた。
「ちょっと早いけど、夕飯にする?もう出来てはいるの。」
「そうだな、じゃ食べよう。一緒に食べてく?」
「うん、今日はね。シチューは少し作っても美味しくないし。」
 書いた文章を保存して、パソコンの電源を切る。
 夕飯のシチューは期待を裏切らず、とても美味しかった。

 目覚めると、やはり昼はとうに過ぎていた。夕べ7時過ぎに彼女を見送って、わりとすぐベッドに入ったはずだが、眠り癖でもついてしまったのだろうか。
「…頭痛い。」
「やっぱり風邪ひいたんじゃないの?」
 少し咎めるようにしながらも、心配そうに彼女が言う。なんだか申し訳ない。
「いや、寝すぎ。昨日君が帰ってすぐ寝たから、朝起きる予定だったんだけど。」
「呆れた。よくそんなに眠れるわね。」
 テーブルの上を見ると、僕一人分の昼食が乗っている。当然だが彼女自身は既に食べ終えたらしい。僕はのろのろとだるい体を起こして、テーブルについた。
「こんなに寝てたら、目が溶けるかもな。」
「ホントよ。そんなに寝るのにいい環境かしら。私は結構、波の音が耳について眠れなかったりするんだけど。」
 味噌汁を温めながら、彼女が言った。
「そうかな。僕は全然気にならないよ。」
 波の音は唐突に変わることがない。ずっとずっと、流れる時を運んでくるように響きつづける。だから僕は、安心して聞いていられるのだ。

 眠りすぎでも、飯は美味い。寝て食ってばかりでは、原稿が終わる頃にはガリガリの身体が丸々としてしまうかもしれない。そうすると、今持っている服が着られなくなるな。いっそのことイメージチェンジでも図るか。僕はそんなことを思い、胸のうちで苦笑した。
「ごめんね、今日はちょっと用事があるの。夕飯の支度してあるから、あっためて食べて頂戴ね。」
 彼女は時計を見ながら、エプロンを丸める。
「何、出かけるの?」
「うん、ちょっとね。私でもたまには用事くらいあるのよ。」
 少しいたずらっぽく彼女が笑ってみせる。
「そうだよなあ。年頃だし。」
 僕もわざとすねたように言ってみる。すると彼女は噴出して言った。
「年頃だなんて、年寄りくさい言い方しちゃって。でも残念ながら、そんなんじゃないわよ。」
 僕の頭を軽くはたいて、彼女は軽やかに出て行った。

 昼食を一人で食べ、食器を流し台に下げる。下手に洗って壊すのも怖いので、そのまま放っておいた。
 さて、昨日詰まった部分から続きを書こう。詰まった部分から書き出すのには、少し勢いときっかけがいる。でも案の定それはなかなか訪れなくて、僕は手を休めてベランダへ出た。
 起きたときはたいしたこと無かったが、今は随分頭が重くなってきている。寝すぎの頭痛とは少し違う気もする。けれど、風邪の頭痛とはもっと違う気がする。偏頭痛の持病などない僕は、こういう痛みにはあまり慣れない。
仕方なく、一度横になる事にした。眠くは無いが、起きているのもだるい。小説の続きを考えながら、ぼんやり天井を眺める。これだけ寝ていると、どうにも時間の感覚がなくなりがちだ。でも夜は確実に寝ているあたりが、僕らしいというかなんというか。
しばらくすると頭痛も治まってきたので、再びパソコンの前に座る。なんとなく出だしの文章を書き始めると、そのまますらすらと続きは出てきた。やはりこの環境は、僕にはあっているらしい。少々眠りすぎても、これだけ書き進められれば、締め切りに問題無い。
 指は止まらず、言葉を書きとめつづける。ストーリーは出来上がっていたから、後はそれを文章にするだけ。とは言え、楽な作業ではなかったはずだ。それが、今までに無いくらい順調に進む。こんなに書けるんだったら、今後もちょくちょくここを貸して貰えないだろうか。

 眠りの奥で緩やかな流れに飲まれる。微かな光しか届かぬ深く透明な青。ドルフィンキックが水を掻く。彼女の足はひとつの美しい尾となり、真珠貝の輝きを放ちながら、自由自在に水中を踊る。
彼女の顔は、美汐の顔で。けれどその表情は、幸也の知っている美汐の表情とは違う。手招きに誘われ、必死に手足を動かしても、彼女のそばまで進めない。水の中に投げ込まれた鉛のように、ゆっくりとひたすら降下していく感触が気持ち悪い。

 目覚めによって、幸也は陸にひきもどされた。背中が痛む。崖の淵ギリギリで眠っていた。寝返りを一度うっていたら、目は二度とさめなかったかもしれない。ぞっとしながら下を見れば、白い波の隙間に七色の尾が見えるような気がした。
「…美汐…」
 呟く声に応えるように、小さな波が飛沫をあげる。
「…いるのか?」
 波は二度と、応えない。目覚めた幸也のいる場所は、竜宮からは遥か遠く、風ばかりが吹く陸の上だった。

 

 風が少し涼しくなってきて、あたりが暗い事に気づいた。時計を見るともう夜10時を過ぎている。熱中していて気づかなかったが、よくこんな暗い中書いていたものだ。パソコンのディスプレイだけが淡く発光して浮いている。立ち上がって電気のスイッチを入れ、目をこすった。
数時間ノンストップで書いたせいか、かなりの分量が進んだ。学生の頃の自己新記録を軽く越している。あと4〜5枚も書けば終わるだろうか。時間はあるのだから、今回のラストシーンには時間をかけたい。夕飯を先に食べて、その後じっくり書こう。時間はまだ十分ある。

 用意されていた夕飯は、鮭のムニエルと味噌汁、炊き込み御飯だった。冷蔵庫を見ると、サラダも入っている。暖めるべきものを電子レンジに入れて、遅い夕食を取り始めた。
明日書き終わったとして、見直して細かいところを直すのに2日というところか。こんなに一気に進めたから、直しにはもっと時間がかかるかもしれない。それでも、予定の半分くらいで終わってしまう。この原稿を出したら、勢いで次の仕事にもとりかかろうか。ストーリーを練るところから始めなければならないが、それでもここでやるとはかどりそうな気がする。
夕飯の食器を、昼食の食器の上に重ねておく。そういえばこういう洗い物は、水につけておけと言われたような気がしないでもない。昼の分に今から水をかけても遅いだろうか。一応器に水を張ったが、渇いてしまった昼食の皿の汚れは、簡単には落ちそうに無かった。

 ラストシーンを書くために、コーヒーを淹れてパソコンの前に陣取る。数行書き始めたが、連日と同じように、眠気が襲ってきた。やはり夜は波の音が大きく聞こえるせいか、睡魔が襲ってきやすいらしい。これに逆らわずに眠ってしまっても、問題は無いだろう。パソコンを閉じ、電気を消して、窓を開ける。空気を入れ替える間に、軽くシャワーを浴びて、拭くのもそこそこにベッドへ飛び込んだ。

 目がさめる。外はそれなりに明るい。やはりもう昼は過ぎているのだろうか。それにしては、彼女が来ている気配がない。毎日不本意な寝坊が続いているので、時計を見るのが妙に怖い。しばらくぼんやりしていたが、彼女が来ることもなく、仕方なく一人で起き上がった。
 壁にある時計を見ると、針は6時を指している。……もうすぐ夕暮れか。彼女は買い物に行ったか、もしかしたら夕飯を置いて帰ってしまったかもしれない。とりあえず顔を洗って、台所へ向かう。
 台所は片付いていて、食事が置いてあるようには見えない。冷蔵庫にも、調理前の食材とビールと麦茶しか入っていない。とりあえずグラスを出して、麦茶を飲み干す。あまりに寝すぎる僕に、彼女は愛想を尽かしてしまったのだろうか。窓を開けて、風を入れる。涼しい風が通り過ぎ、太陽が……太陽が、見えない。空は晴れているのに。
ベランダに身を乗り出すが、見えるはずの夕日は影も形もない。振り返ると、東の空に、太陽が光っている。……朝?
 6時というのは、朝6時だったのか。今日は珍しく早起きだったわけなのか?これは僕にとって意外な展開だ。
 気が抜けて、腹が減ってきた。冷蔵庫には何も無いことは確認したが、棚にパンくらいあるかもしれない。台所で、ごそごそと食べ物をあさる。流しの上の棚に、食パンの袋があった。
 と、何かが変な事に気づいた。僕は夕べ、食器を流しに置かなかったか?昼食分と夕食分、流しに置いて、水も張った。それが、きれいさっぱり片付いている。眠りながら片付けた?まさか。
 パンをそのままかじりながら、居間のソファに座る。麦茶と食パンはあまり合わないが、気にならない。……しばらく考えるが、食器を片付けた記憶は、やっぱりない。夜の間に彼女が片付けに来たのか?
 もう一度台所へ行って、流しを覗く。渇いている。食器棚には、見覚えのある食器が重なって入っている。洗っていない食器は見当たらない。
 一度気になると、止まらない。結局台所をあてもなくうろうろする。なんの解決にもならない。そうこうしているうちに、車のエンジン音が聞こえてきた。彼女が来たのか?

「あら、起きてたの?早いわね、珍しく。」
「ああ、うん。」
 いつもと同じ、彼女の笑顔が僕を安心させてくれる。
「おなか減った?起きないと思って朝ご飯の用意してないけど、ありあわせで何か作ろうか。」
「あ、えっと、そうだね。さっきちょっと食パンかじったんだけど。」
「そのまんま?」
「うん」
「やっぱりわたしが来ないと、ろくな食事をしそうにないわね。」
 彼女は少し楽しそうに言って、家から持ってきたらしい野菜を冷蔵庫に入れる。
「あのさ、夜来た?」
「夜?」
「うん、洗ってなかった夕べの食器が、今起きたらないんだけど。君が片付けたんじゃないの?」
 僕がそう言うと、彼女の顔から表情が消えた。
「気のせいじゃないの?」
 何気ない風に言うのが、かえって不自然だ。
「いや、確かに夕べ、流しに水を張って置いといたんだけど。」
 彼女は、僕に背を向ける。いつもと違う、居心地の悪い空気が流れる。何かおかしい?
「やっぱり、夜来たんだね。何しに?」
「来てないってば!」
 彼女は悲鳴のように叫んで、こちらを振り向いた。泣きそうな顔。
「気にしないで欲しいの。お願いだから。」
「お願いって言われても……。」
 わけがわからない。何かあるのか?食器のことは、もう聞かないほうがいいのか?とりあえず話を変えよう。
「あ、そうだ。今日当たり、大体出来そうなんだけど。ちょっと読んでみてくれるかな。直しいれるときに、感想とか参考にしたいし。」
「あ、うん。いいの?」
 彼女は、なんとかいつもの笑顔を取り戻している。
「プリンタ持って来てないから、モニタで見なきゃなんだけど。」
「うん、大丈夫」
 機嫌を直したらしい彼女を、パソコンの前へ連れてくる。電源を入れて、ワープロソフトを立ち上げた。
「……え?」
 なぜこの瞬間に限って気づいたのだろうか。いつも何気なく見ていた、表示画面の違和感。日付が、……違う。
「今日、何日?」
「え?」
「だから、今日、何月何日?僕がここに来たのは何日だった?」
 知らず知らずのうちに、声に力がこもってしまう。
「…………。」
 彼女は、眉を寄せて首をかしげる。自分がおかしなことを尋ねているのは、百も承知だ。
「日付が、違う。僕がここに来て5日目のはずだ。僕のパソコンの内蔵時計、4日も進んでる。」
「…………。」
 彼女は顔を背け、僕から一歩退いた。

春の海水は予想以上に冷たく、服にこすれるたびに肌が痛んだ。しかしそれも一歩ごとに薄れる。ときに氷を麻酔に使用するという話を、幸也は思い出す。
「美汐」
 口から出る言葉はただそれだけで。だが、半開きの口から聞こえるそれは、単なるうめきにしか聞こえない。
「美汐」
 波間に見える、七色の尾。黒い絹糸のような髪が、波をなぞりながら水面に漂う。振り向かない美汐を、幸也はただ追った。次第に足は、海の底に届かなくなる。
「美汐」
 いつのまにか、幸也の両手は水を掻いていた。首を出したまま、ゆっくり泳ぐ。彼女が幸也の速度にあわせているのか、美汐の姿は、遠のきも近づきもしない。
 いつも彼女はそうだった。自然な仕草で、自然な笑顔で。幸也に合わせながらも、それを幸也に感じさせない。
「美汐…。逢いたかったんだよ、美汐。」
 美汐が、ゆっくり振り向いた。笑顔。1年振りに見る、彼女の微笑み。
「ずっとずっと、待っていたんだ。」
 幸也は、水から頭を出した美汐の髪に手を伸ばして撫でた。水を含んだ髪が頬に張り付いているのをそっとぬぐう。白い肩に手を這わせる。
ふと、美汐は瞳を曇らせた。
「待っていたのは、わたし」
 幸也は何も言わずに、美汐の冷たい肩を抱き寄せた。
「やっと…ここまで、来てくれたのね…」

 

 どうして、彼女はそんな顔をしている?僕はどうして頭が痛い?
波の音が単調すぎるから、僕は気づくことが出来なかったのか。そうなのか?
僕は、僕はここで……。
 彼女は後ろから、僕の肩に手を置く。手は意外なほど暖かく、ゆっくり僕の胸へとまわってきた。
 僕は、パソコンの、電源を落とした。

終わり

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