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「生理食塩水」 琴川 みや 指先がぬめる。 ああ、この感触は知っている。授業中にあてられて答えられない時と同じ感触。困ったとき、どうしていいかわからないときの感触。汗が手のひらから沸いて出て、それが指先をこんな風にする。僕は今、困っているのか?どうしていいかわからないのか? ・・・・確かにわからない。手はどのくらいきつく縛ればいいのか。目隠しはしたほうがいいのか。足は足首だけ縛ればいいのか。それとも膝も縛るのか。そもそも、相手を横たえておくのは正しいのか。 目の前には固い筋肉が、黒く横たわっている。学生服によったしわが、彼の腕や足の太さを誇張していて、僕は少しつばを飲む。これをこのままにするためにはどうしたらいいのかだけを、考える。たまたま手に入れたカブトムシを、どうすればいいのか悩むように。 僕の背中を、ドンとつよくたたく腕。それは憎らしく、誇らしく、妬ましく、美しく、そして背中以外の部分にも強い打撃を与えてくる。彼の腕は、少しひらめくだけで既に凶器で、僕はいつもそこから目をそらす。が、彼がそれを赦すはずもなく、ひたすら腕は僕を追い、打ちのめす。 だが僕は逃げながら、彼がやすやす追いついてくるその瞬間を、心待ちにしているのだ。あの腕は僕を追う。僕を打つ。その恍惚は、今まで出会った何よりも、僕の心をいっぱいにした。 それは、なんなのだろう。彼以外の腕で、足で、言葉で打たれたところで、僕は少しも特別に感じることはない。彼はこの世で一番強く、残酷で、だからこそそれに触れる喜びも大きい。 僕は毎日、彼の腕を待つ。 ・・・・彼は僕をどう思っているのだろうか。彼の腕を知って1年以上経って、僕は唐突に疑問に思った。僕を打つその腕は、肩は、そしてそのなんの感情もないかのような表情は、僕に触れる前と後と、どう変化していくのだろう。 彼の腕は、僕以外の人間も追い、そして打つ。それは彼にとってはなんてことのない行動で、僕に対してもそうなのかもしれない。そして、そうでないかもしれない。 確かめるには機会が必要だった。僕が、彼の話を聞く機会。そして彼が茶化したりせずに僕の話を聞いてくれる機会。 僕は小壜を用意した。最近生物の先生が購入した、授業用のかえるの解剖標本から、息を詰めて液体を移す。古いものは成分が変わっているかもしれない。が、数日前にこの教室にきたばかりのこれなら、まだ平気だろう。 そして僕は、彼を手に入れた。物体として。 彼はこうしてみると、まるっきり塊だった。息をしている様子は、普段の彼を思い起こさせ、なんとなく恐ろしい。しかし僕が触れても、縛っても動かない彼は、さっぱり僕の快感を刺激しないのだ。 彼が目を開けているところを想像する。彼の目は僕を視界に入れても、認識はしていない。ただそこにいる人間で、男で、クラスメイトなのだ。・・・・僕を男だと思っているのは知っている。彼は女には手をあげないから。ただ、僕が女子の制服を着ていたら、もしかしたら僕も打たないのかもしれない。 彼は僕を見ないわけで、彼が目を開けたところを想像しても楽しくなかった。 彼がその腕で僕の首を締める所を想像してみた。彼の手のひらがぐっと首に押し当てられる。彼の肩の筋肉に力が入って、形が変わる。僕は抗うことなく、彼の腕の中で痙攣するのだ。それはなんと楽しいことだろう。これはよい想像だ。 今度は、彼が僕を殴りつづけることを想像してみた。彼に襟元をつかまれ、引き寄せられ、頬をたたかれる。これは一見心地よいことだったが、幾度もたたかれることを想像すると、たいして楽しくなくなってきた。あまり痛みがつづくのもよくない。 僕は何を望むのだろう。こうして彼を縛り、僕についておもうところがあるのかどうかを尋ね、そしてどうするのだろう。それを思ったとき、彼の肩を思い切り揺すって目を覚まさせたい衝動に駆られた。 しかし、僕はそうしなかった。彼が目覚めたら、こんな戒めなど解いて出て行ってしまうかもしれない。それは嫌だった。 僕はどうしたいのだろう。この強い力に、自分のものにならないものに、何かを伝えたくてこうしたはずなのに。目覚めなければいい。いや、目覚めて僕をどうにかして欲しい。 どちらだ。 そして、僕が待ち望み、恐れた瞬間は、やはり訪れた。彼の目が、痙攣し、開く。 半分開いた目は何度か瞬きし、暗い室内を目を凝らして認識しようとしているようだ。まだ、僕のことは見ていない。 僕は彼の前へ、ゆっくり出て行った。 「な、誰だ。」 僕の足を認めて、彼はかすれた声を出した。僕はそれにこみ上げるものを感じる。 彼は顔を上げて、僕の顔を見た。眉をしかめるその動きにすら、僕の身体はおののく。 「堀内?」 彼は僕の名前を覚えていた。その事実は、かなり僕を高揚させた。別にフルネームを覚えている必要はないのだ。僕を識別していた、という事が肝心なのだから。 「お前、ど、どういうことだ? 説明しろ!」 身体を動かすことが出来ない事に気づいたらしく、彼はあせったように僕を見上げた。その目は少し怯え、少し怒り、そして僕に向いている。征服感というのは、こういうものか、と思う。思いのほか気持ちがいい。 しかし、説明しろと言われて説明できるほど、僕は頭が良くない。僕は彼の側にかがんで、彼を戒める縄を指で辿った。程よく絞まっている。 「お、お前が……こんなことしたのか? ただで済むと思ってんのか?」 こんなときでも強がる彼が、可愛らしい。彼はもう僕の手中にあるというのに。 どう縛るのがいいかわからなかった僕は、結局全体を縛った。肩から下、足首から上を、ハムに巻いてある紐のようにグルグルと縛ってある。彼が解こうと動くたび、縄は動いてその筋が辿れないほど乱れる。僕は一応綺麗に間隔を置いて縛っていたので、彼が気を失っている間はとても美しかった。こんなに乱れるのは惜しい気がして、僕は縄を少しずつずらして、元の位置に戻す。 「な、なにを……。」 抵抗していた彼は、僕が縄をジワジワとずらすのが気になったのか、動きを止めた。僕は大きくずれた肩と腰の縄を治す。縄と縄の間に出来る空間は、彼の体を包む学生服を覗かせていて、僕は堪らなく触りたくなった。胸のあたりに大きく開いた部分を、そっと指で押す。 「うっ……。」 彼はビクリと身を竦ませる。もう一度それが見たくて引き続き触ったが、大して反応は見られなかった。それでも体温の染みた学生服はとても好きな触感で、僕は幾度も指を往復させた。 「何とか、言え。」 彼が情けない声を出したので、僕は彼の身体を触るのをやめて顔を上げた。僕が黙っているので不安になったのだろうか。 「何のためにこんなことしてんだ。誰かに言われたのか?」 彼はそれなりに対立したり喧嘩をしたり、敵が多い。僕もその手先として使われているとでも思ったのだろうか。そんなわけないのに。 僕は再び、彼の身体を触る事にした。胸だけでなく、いつも触れる腕の筋肉をなぞる。 「何を、やってるんだよ。」 僕に逆らうのは得策ではないと考えたのか、最初ほど逃げようとはしない。僕は黙って腕を撫でた。緊張しているせいで、ピンと張っている。学生服を脱いだ状態でその腕が見たかったが、脱がせるには縄を解かなければならないので諦めた。 「何をやってるって言ってんだよ!」 彼は震える悲鳴を上げた。そんな彼の声を聞いたのは初めてで、そしてその声が嫌いではないことに気付く。 だが、大きい声を出すと、もしかしたら誰かやってくるかもしれない。僕はとりあえず、左手で彼の口を覆った。呻き声の振動と、吐く息の水蒸気が手に直接伝わる。 それはとても直接的な刺激だった、僕にとって。彼の命が、存在が、今僕のものだと言う証が、手のひらに響く。僕は高まり、震えた。足の付け根にじんわりとした感触が広がる。 僕は、恍惚と彼を眺めた。彼の怯えた目と、そして彼の顔を半分覆った自分の手を。しかし、唐突にそこに痛みが走った。手をはずして見てみると、赤く流れる血。 「ざまぁ…みろ…」 彼が、歯で噛んだらしい。舐めると、彼の唾液と僕の血が混じった、体液の味がする。彼を見ると、彼も唇に血を滲ませていた。これは僕の血だろうか。 「なに、すんだ……やめろ……や、やめろ!」 彼の叫びを無視して、僕はゆっくりと、自分の顔を彼の顔に近づける。彼の身体が動くのが邪魔で、僕は彼の腹にまたがって肩を両手で抑えた。 彼の唇に鼻を近づけると、少しの血の匂いと、ミントのガムの匂いがした。音を立ててガムを噛むことで何か力を示そうとするのが、彼のやり方だった。こうして匂いでそれを感じると、大変に微笑ましく思える。 彼はもう叫ぶのをやめ、荒い息をついていた。両目は大きく開いて、信じられないものを見るように僕を見ている。僕は彼に少し微笑むと、舌を出して、それで彼の唇の血を拭った。先ほど僕の手を舐めたときと、同じ味がする。が、感触はまるで違って、大変面白い。 僕は彼が静かなのをいい事に、半開きになった唇を何度も舐めた。流石に口の中に舌を入れれば、先ほどの左手と同じく噛まれてしまうだろうからやめておかねばならない。僕はそれがとても残念だった。何かいい方法はないかと考えながら舐めていると、口を閉じさせなければいいということに気付いた。僕は相変わらず目を見開いたままの彼の顎と頬を、両手でしっかりと抑えた。彼は少しうめく。 僕は、そうして開かせた彼の口に、舌を入れた。開いたままで乾いてしまった歯を撫でて、ゆっくりその奥へ向かう。生暖かく湿った口の中が、僕の舌を滑らせる。思いついて、僕は彼の舌を捜した。奥のほうに逃げるように縮こまった舌は、引きつらせているせいで震えている。僕は自分の舌を目いっぱいのばして、それを舐めた。舌と舌がこすれ合う感触が、とても楽しい。 ひとしきり楽しむと、僕は口を離した。彼の顔を戒めていた両手を解くと、彼は思い切り僕から顔をそらした。 「お前、変態なのか?」 その質問は尤もだな、と、僕はぼんやりと思った。今、彼の口が舐めたくて舐めたが、これは冷静に考えるとキスだ。同性のクラスメイトに戒められてキスをされたとしたら、そう考えて当然だろう。 しかし僕は、その事についてあまり考えたことがなかった。今彼に欲情しているのが変態ということになるのなら、変態だろう。それでいい。 「離せ、俺は変態じゃない。解け!」 彼は荒々しく叫ぶ。僕は彼に馬乗りになったままなので、彼のもがく動きは僕に激しく伝わった。 「何で俺なんだよ、この変態! どけ、降りろ!」 彼の声は、だんだんかすれていく。だがもがくのをやめようとはせず、また縄がずれはじめた。僕はそれを直そうと、一旦彼の上から降りた。 やはり動かしやすいせいか、肩のあたりが一番ずれる。相変わらず動こうとする彼を抑えながら、上から順番に縄を直していった。 だが、腰のあたりの縄を直しているときに、気付いた。彼の欲情に。 「やめろ、見るな、離せ!」 縄の下、学生服の不自然な膨らみ。僕は歓喜を覚えてそこに手をやった。 「触るな、やめろ、やめてくれ……。」 彼の身体は大きく震える。熱い。彼は、とても熱い。 「俺は、俺は変態なんかじゃない。違うんだ! 離せ!」 彼はほとんど泣きそうな声を出している。しかしそれはどうでもよかった。ただ手の中の熱が、解き放たれる瞬間の彼が見たいという欲求に、僕は取り付かれていた。 縄の隙間に手を入れて少し広げ、ファスナーをおろす。開いた布の間から、熱がこぼれる。湿った熱気が手にまとわりつき、僕は指先を少しこすり合わせた。 「触るな、触るな…」 嗚咽のように、喉に引っかかった声。それでも彼の欲情は冷めることはない。 下着の前の開きから手を入れると、肌の感触に当たった。一度触れると、手は止まらない。自分のものとほとんど同じ感触だが、やはり大きさは違うし、なにより僕の気分が違うというのが一番大きい。僕はたちまち夢中になった。 下着の隙間からのぞく部分はとても少なく、僕は何度も手の角度を変えた。だが、どうしても上手く動かせる角度が見つからない。 「…………」 必死で歯を食いしばる彼に、寄り添う体勢になって、先ほどまでとは逆に手を入れる。すると、ようやく動かしやすい角度になった。 撫でるだけだった動きを、少し強くする。手に当たる感触の湿度が高くなってきて、僕はますます動きを早く強くした。 ふと、頬に息が当たった気がしてそちらを向くと、目を閉じ、歯を食いしばった彼の唇の隙間から、熱い息が出ているのが見えた。身体をずらして、その頬に顔を近づける。 「ふ……ふ……う……」 僕の手の動きに合わせて、うめきと息が漏れる。僕は、初めて意識して、その唇に自分の唇を当てた。僕にとって、だからこれはキスだった。 僕は目を閉じず、ただじっと、近すぎる彼の顔を見ていた。彼の目は僕がキスした瞬間少し動いたが、開かなかった。目を閉じ、歯を食いしばったままで、少し唇を緩めただけだった。 さっきと違って、意識すると僕の口は動かなかった。唇を合わせただけで、ただじっと触れるだけのままでいた。少し時間が過ぎたとき、彼が少しうめき、唇が振動した。同時に彼の身体が引きつるように動く。僕は彼を握ったままの手を動かすのをすっかり忘れていた事に気付いた。 再び手を動かしながら、今度は舌を出して、先ほどのように彼の口の中への進入を試みる。彼はあっさりと歯を開き、同時にがっくりと頭を落とした。目を閉じて、完全に脱力したらしい。僕と戦う気も、自分と戦う気も、もうないのか。 僕は急に、彼への興味を無くした。 僕は顔を上げ、ゆっくりと彼の下着の中から手を引き抜いた。手にはまだ、脈打つ感触が残っていたが、それを自分の制服のすそで拭う。 「ほり、うち?」 掠れた声で問い掛けるのを振り返ると、彼が薄く目を開いていた。熱っぽく潤んだ目はとても綺麗だったが、僕にはただそれだけだった。 恋じゃなかったのか。心の中で、僕がつぶやくのを、僕は遠く聞いた。彼が僕をどう思っているのかなんて、ホントはどうでも良かったことに、今気付く。 彼は堕ちた。それに冷めた僕は、だから恋じゃなかったのだ。僕は、結局単なる欠陥品でしかなかった。 立ち上がった拍子に、僕の頬から涙が落ちる。何か彼に言いたかったが、何を言えばいいかわからない。 「おい、おい堀内、どこに……」 彼は僕を呼び止めた。それが何故なのかだけは少し気になったが、それ以外はただ悲しいだけだった。悲しい理由は考えたくなかった。 僕は窓を開けて、外に出た。 終わり。 |