音楽の流れる地下室だけが、ふたりの寄り添える場所だった。
「ふたりのときは、優しいのね。」
ルカは小さく呟いた。それが相手に聞こえなくてもかまわないと思いながら。ミツヒコは答えない。並んで寄せ合っている肩の温かさに、ルカは意識を集中した。まるでふたりには同じ血が通っているかのような気持ちになる。
そして音楽。それはまるでふたりの魂に同時に流れる血潮のように、ひとつの鼓動を打っていた。同じ波に揺れるひとつの水槽に棲む熱帯魚のように、ふたりは繋がっていられるのだ。それがルカの地下室だった。
「ねえ、魔法に出会えるのは、小さな子供ばかりじゃないの。」
ルカは前を見つめたまま、かすれた声で続ける。
「あなた知ってた?」
ルカが魔法を手に入れたのは、もうひとつきも前のこと。
夜の繁華街はまだ真昼のように明るく、客がいるのかもわからないブティックやドラッグストアーが店を開けている。
ミツヒコは先に帰ってしまった。恋人のマリからの電話に何気なく受け答えをし「もうすぐ帰るところ」などと真顔で言っていた。ルカの存在は抹殺されていた。借りていたレコードを返して、一緒に食事をしただけだ。けれどマリはそれも知らない。
ルカは、カクテルを飲みすぎて頭が痛かった。ミツヒコと駅で別れてから、彼女はひとりで繁華街に戻った。珈琲を一杯飲んで、煙草を七本吸って、それからもう一度通りへ出る。輸入品を取り扱っている、エスニックな雑貨屋が目にとまった。エキゾチックな音楽が聞こえ、かすかにお香の匂いが鼻につく。ルカは気紛れにその店に足を踏み入れた。見慣れない異国の品をひとつひとつぼんやりと眺めているうちに、お茶の葉が置いてあるのを見つけた。どこの国の何というお茶なのかわからない。無造作に色ガラスの瓶に入れられ、コルク栓がしてある。手にとって軽く振るようにし、中の茶葉を眺める。大き目の葉のほかに何かハーブがブレンドされているようだった。ルカは、棚を見回してその品物の値段を確認しようとした。しかし、どこにも値段は書かれていない。そもそも本当にお茶かどうかも怪しいものだった。
「これ、お茶ですか?」
レジの店員に向かってたずねる。髪の毛をきりりとひとつにまとめた若い女性がルカの手元を見て言った。
「まあ、淹れ方はそうですが。薬なんです。」
「なんの?」
店員は、少し間を置いてから口の両端を引き上げるようにして笑った。
「青い瓶は『人魚姫』です。」
ルカは、不気味な期待感に襲わる。
「…あの、効果は……」
「物語をご存知なら想像がつくかと思いますけど…」
店員の言葉にルカの胸が震えた。
お茶の葉を手にしたルカは、とてもロマンチックな気分だった。
彼女は、レコードをたくさん買いこんで、ステレオを地下室に運び込んだ。大きなスピーカーは新調した。そして、ミツヒコをそこに招き入れれば、ルカの地下室は完成だ。
「ねえ、今度うちに来て。昨日おもしろいもの買ったの。だから、遊びに来てね。」
いつも通りのミツヒコが、電話の向こうでうなずいた。
音楽の流れる地下室は青い蛍光灯の光に照らされ、まるで時の流れが死んでしまっているかのようだ。
熱帯魚の水槽の照明だけが白っぽく光っている。空気すら青ざめている部屋の中で、ガラス越しの水ばかりが、やたら透明で生々しい。スローモーションのように揺らぐ水草の狭間を泳ぎまわるネオンテトラ。その背筋を彩る青と赤の鱗は発光して見える。
時が死んだ部屋の中の、宙に浮いた音楽は伸びやかで、ふたりは化石のようになりつつあった。
「あ、ほら。この曲、あなたが初めて貸してくれたCDに入っていたやつ。」
なめらかなベース音の上に、ハスキーな声の男性が囁くように歌うのが聞こえる。
「優しくて広がりがあって、お店の視聴コーナーで初めて聞いた時は、しばらく立ち尽くしたって言ってたでしょ。」
ルカは何かにすがるかのように語る。
「よく、覚えてるな。」
無感動な声で応じるミツヒコ。
「あなたは、忘れちゃったの?」
ルカは怯えるようにたずねた。
「…好きだよ。この曲。」
その音楽はミツヒコに刻まれていたとしても、それについてルカに語ったことは、彼には刻まれていないのかもしれなかった。ルカの中では、アルバムに貼り付けた写真のように鮮明な記憶であっても…。
ひとつの音楽がふたりの間をつないでいるはずだった。同じリズムで呼吸できるはずだ。ルカは、まだ、それを信じていた。
青い花模様のティーカップとポットを温めて、沸かしたてのお湯で心をこめてお茶を淹れる。
「ねえ、乾杯しましょう?」
ルカは、ミツヒコの前にカップを置いて言った。
「お茶で乾杯?まあいいけど、何に乾杯するんだ?」
「んーと、なんでもいいの。とにかく今日は記念日にするから。」
ルカは言って、ミツヒコのカップの中をじっと見つめた。青い瓶は『人魚姫』。ルカのカップのお茶はジャスミンだった。『人魚姫』は、ミツヒコだけ。
ミツヒコは、立ち上がろうとするが、足がひどく痛むらしく自分の体重を支えることができない。
「どこへ行きたいの?」
ルカは優しくたずねる。
「外」
ミツヒコはうなるように言った。
「ひとりでは無理よ。買い物ならわたしが行ってきてあげる。」
膝をついたままへたりこんでいるミツヒコをそっと支え、ルカは言った。ミツヒコは、立ち上がるのをあきらめ、息を切らせながら足を伸ばして座りなおした。それから、両手を使って壁際に移動し、大きなクッションに身をうずめてぐったりとする。
「あなた、まるで陸に上がった人魚みたいね。」
ルカは、そっと言って微笑んだ。
「ミツヒコ、夕飯よ。一緒に食べようね。」
ルカは言って、地下室にお盆を運びこんだ。
「今日はね、グラタンなの。ほうれん草のグラタン。熱いから気をつけてね。」
ルカは、ミツヒコのいる壁際まで低いガラスのテーブルをずるずるとひきよせ、その上にお皿やフォークを並べた。ミツヒコは、自分の前に並んだご馳走を思いつめた表情で眺めるだけで、動こうとしない。
「食べて」
ルカが優しく言う。
「毒なんて入ってないわよ?」
ミツヒコは、何か言おうとしたがそれは言葉にはならず、かすかなため息のようになって宙に溶けた。ただ小さく首を振ってうつむくことしかできなかった。ルカは、ミツヒコを見て少し悲しそうな顔をすると、グラタンをフォークで少しつついてため息をつく。
「飢え死にするつもりなの?」
「食欲がないんだよ。運動してないからね。」
ミツヒコは無感情にそう言ったが、語尾に含みがあるようでもあった。ルカは、瞳を曇らせ「そう」と呟き、自分も食べるのをやめてしまった。
地下室の音楽は鳴り続け、ふたりの時間はぬかるみのように、重たく部屋を満たしていた。
メランコリックなバラード曲がフェイドアウトする。それにつれて、耳障りな音が浮かび上がった。高くか細い電子音を、携帯電話が発していた。それは、ミツヒコのズボンのポケットにあった。ルカの表情が凍りつく。ミツヒコは、それには気づかずのろのろとした動作で電話を取り出す。
「地下でも通じるなんて、性能のいい電話ね。」
ルカは言って、彼の電話を素早くとりあげた。光る液晶に「着信」の文字と「マリ」の名が表示されている。
「これはもういらないでしょ。」
ルカは、不自然に笑顔を作りミツヒコに告げた。
「おまえどういうつもりだよ。」
ミツヒコが、低い声で言う。彼の声も電話の着信音も、部屋に大音量で流れはじめたゴスペルの、緩やかで力強い音の波に飲み込まれる。
「そういえば、わたし知ってるのよ。携帯のメモリに、わたしの番号は入っているのに、わたしの名前は入ってないってこと。」
ルカは、にっこり笑ってくすんだ黄色に光る液晶画面をミツヒコに示した。
「わたしの気持ちを知っていて、それを無視し続けたくせに。何かやましいことでもあるの?どうしてわたしの番号は男の人の名前で入ってるの?」
ミツヒコは答えにつまりながら表情に感情を表さないようにしていた。
「いや…。俺は別に。マリが嫌がるから。」
それを聞いたルカの顔から笑みが抜け落ちた。
「ああ、マリがね。」
ルカは、真顔で言うと携帯電話のストラップを人差し指と親指でつまみ、熱帯魚の水槽の上に掲げた。
「じゃあ、余計にこんなものないほうがいいわよね。」
ルカは言いながらミツヒコの表情を確認する。ミツヒコは「やめろよ」と聞こえぬ声で言った。スピーカーから流れる重低音がふたりを阻んでいた。「だめ」とルカは言い、携帯電話をそっと水の中に降ろした。小さな泡が立ち昇り、熱帯魚の泳ぐ水中に電話は優雅な物々しさでゆるゆると沈む。水底に電話の角が舞い降り、底に敷いてあった砂が静かに舞い上がった。うやうやしく横たわる電話の周りを、驚いた魚たちがせわしなく泳ぎまわっている。淡く黄色に発光していた液晶画面がやがて消えて灰色になった。ミツヒコは押し黙ったままルカから顔を背ける。しばらくの間、音楽がふたりを沈黙させた。
「怒ってるの?」
ミツヒコのほうへゆっくりと歩み寄り、その顔を覗き込んでルカはたずねた。ミツヒコは答えない。
「わたしのこと殺したい?」
部屋の音楽ばかりが空回りするように軽やかに流れていく。
「おまえだろ。怒ってるのは。」
ミツヒコは重々しく口を開いて、そう言った。
「今ごろ、気づいてもだめだよ。」
ルカは言って、ミツヒコの背中に腕を回して抱きしめた。
「ごめん」
ミツヒコはぽそりと言った。それを聞いたルカはくすりと笑って、彼の背中に回していた腕をほどいた。
「何が、ごめん?マリが大事でごめん?愛せなくてごめん?わたしを傷つけてごめん?何がごめん?」
ルカの声は次第に大きくなり、高ぶった感情に押されて目に涙が浮かぶ。
「許して欲しいの?何を許されたいの?」
ミツヒコはルカの瞳をじっと見つめたまま、何も答えられずにいる。悲しそうな顔をしたまま、ぴくりともしない。
「いい方法を教えて上げる。あなたもわたしも、お互いから開放されるいい方法。」
ルカは言って、ミツヒコの両手首をそっと自分の手で掴んだ。その手を引き寄せ、自分の首へと持ってくる。ミツヒコの掌を、自分の頚動脈に押し当てた。
「わたしを殺すの。力を入れて、わたしの首を締めて。」
ぼんやりと目を細めてルカは微笑んだ。
「そうしたら終わりになるわ。わたしが死んで、動けないあなたは、わたしの屍を抱いたまま飢え死に。いい方法でしょう?」
ルカが言い終えて掴んでいたミツヒコの手を離すと、その手はだらりと垂れ下がってルカの首から離れた。
「……殺さないんだ。」
ルカはミツヒコの瞳を覗き込み、かすれた声で言った。ミツヒコは、開放された両手で自分の顔を覆った。そして両肩を寄せるようにして、息を殺している。
「わたしを傷つけることなんかできないのよね。わたしの血を見る勇気なんてあなたにはないの。そうやってわたしを追いつめるの。だからこうなったんだもの。」
ルカの声はやわらかく淡々と響いた。