海辺にて。

 

たかむら市悟

 

 静かに広がる海と、空と、雲と、光。

 背後には緑色が押し寄せる。

 気持ちのいい空気が、朝も昼も夜も僕を包む。

「気に入った?」

その雰囲気を壊さない涼しい声が、後ろから問い掛けた。

「ああ。すごい。」

僕は振り向かずに答える。

 この場所を教えてくれたのは、彼女だ。ここは彼女の両親の別荘で、好きに使ってくれと言ってくれた。僕にとってこれほどのいい場所は無い。

「じゃぁ、また明日来るわね。」

「そんなに来てくれなくても大丈夫だよ。飯の支度くらい出来る。」

振り返ってそう言うと、丁度海風が彼女の長い髪を揺らした瞬間が目に入った。僕は目を細める。

「あらダメよ。あなたは遊びにきてる訳じゃないんだから。そんな余計なことは、私がするわ。」

「でも、君も忙しいだろ?」

「大丈夫、暇よ。あなたは何にも心配せずに、次回作を書いてくれればいいわ。」

「ごめん、ありがとう。」

彼女は首をかしげて少し笑うと、手を振って去っていった。

 

 僕はいわゆる、駆け出しの作家というものだ。どちらかというと女性受けのする、多少幻想的な現代小説を書いている。

 締め切りまでまだ間はあったが、どうにも筆がのらないとこぼした僕に、彼女がここへ来ることを薦めてくれた。気分転換になるし、何より次回作に使おうと思っていた雰囲気が、ここにはそのままあった。海にせり出した崖の上の小さな別荘。周囲には他に建物は無く、海岸線を走る道路と、山と、海、それがここから見える全てのものだった。

 彼女は僕の従兄弟で、つまりここは叔父の持ち物というわけだ。たいした気兼ねなく、僕はふらりとここへやってきた。彼女自身の住む家はここから割と近く、自動車を使えば20分ほどしかかからない。そんな近いところにどうして別荘なんか買うのか、と庶民な僕などは思うのだが、景色が良かったからつい買った、ということらしい。お金のある人は違うな、と思いつつも、僕はこの幸運をすんなり受け入れさせてもらった。

 

 僕はノートパソコンをかばんから取り出して、居間のベランダに近いところに置かれた丸テーブルの上に広げた。ここなら、広い海を見ながら文章を作れる。少し左を見れば、窓から山の景色も良く見えた。

 彼女が煎れておいてくれたコーヒーを一口すすり、ワープロソフトを立ち上げる。その起動画面を見ながら波の音を聞いていると、少し眠くなってきた。文章を考えるのが億劫になってくる。

 僕の自宅からここまで、2時間ほども電車の旅をしたのだ。久々の外出だったし、疲れて当然だろう。僕は結局一文字も書かないまま、パソコンを終了させた。かばんから寝巻きを取り出すのも面倒で、そのまま隣の部屋のベッドに倒れこむ。ベッドはきちんとメイクされていて、糊の利いたシーツはちっとも湿っぽくない。僕は瞬く間に眠りに落ちた。

 

 目がさめると、既に彼女が来ていた。

「あら、起きた?ご飯食べる?もうお昼だいぶ過ぎてるけど。」

壁の時計は2時半を指している。夕べ寝たのが7時くらいだったはずだから、20時間近く眠っていた計算になる。どおりで頭が痛い。

「ああ、腹減った、かな。食べるよ。」

髪の毛をなでつけながら、とりあえず洗面所へ向かう。鏡をのぞくと、寝起きの青白い自分の顔がしかめ面をしていた。

 彼女は、背後の台所で手際よく昼食を盛り付けている。幼い頃はよく、親戚同士泊まったりしたものだ。高校生になる頃にはそういった交流もなくなったが、彼女に寝起きのだらしない姿を見せるのに、さして抵抗は感じない。昔同じ布団で眠ったことが、むしょうに懐かしくなった。

 顔を適当に洗って台所へ行くと、すでに準備は整っていた。

「ありあわせで悪いけど。夕飯はちゃんと買い物してきたから大丈夫よ。」

彼女は謙遜するが、ありあわせにしては、チャーハンは美味かった。

「どう? 調子は。」

食べる僕に、彼女は無邪気に尋ねる。

「ああ、まあ、ね。」

僕は曖昧に答えたが、彼女はわかってしまったらしい。クスクスとおかしそうに笑う。

「そんなことじゃないかと思った。環境変えたくらいで、そんなにホイホイ書けるものじゃないわよね。」

「いや、でも書く気はおきたよ。家にいるよりは全然いい。」

「そう? ならよかった。」

彼女はそういうと、僕のグラスに麦茶を足した。

 

 幸也は、そっと崖から身を乗り出した。

「美汐?」

返事は無い。波のゆっくりしたリズムと、心臓の速い鼓動が合わない。不快な感じがした。

「美汐……?」

もう一度呼ぶが、崖の下の岩場に動くものは無く、白い波の飛沫が彼女の着ていた服のようにゆっくりゆらめいた。

 彼女は、還ったのだろうか。それとも……。

 

 幸也の愛した美汐は、もうどこにも見えない。手のひらの中の貝が、音を立てて割れた。

 今日彼女に会ってからの、彼女の表情を思い浮かべる。いつもより少しためらうような微笑に、どうして気づけなかったのだろう。

「どうして、何も言わなかった…?」

彼女の気持ちに気づけば彼女はこんな唐突に消えたりはしなかったのだろうか?

「……僕が、悪いのか?」

 

 キーボードを打つ手の隣に、彼女がそっとコーヒーを置く。その小さな音に目を上げると、夕日をたたえた海が光っていた。

「もう夕方か。」

「そりゃ、起きたのが2時半だもの。」

彼女は苦笑しながら、テーブルの上を指差した。一人分の夕飯が並んでいる。

「作っておいたわ。おなか減ったら食べてね。」

「ありがとう。もう帰るの?」

「ええ。」

エプロンをはずして、彼女は自分のかばんにそれをしまった。

「もう少し、いる気は…ない?」

もう既に腹は減っている。だが、一人で食事をするのは、どうにも気が進まなかった。ここの雰囲気のせいなのだろうか、人恋しい気分になる。彼女にはいい迷惑だろう。

彼女は少し目を丸くすると、斜めに目を伏せて笑った。

「じゃ、いてあげようかな。でも、私がいてもいなくても……あまり変わらないんじゃないの? 原稿書いてる間。」

「ん、まぁ原稿かいてる間は、頭真っ白だから……退屈させてごめんね。」

「ううん、それはいいの。ここにいるのは楽しいから。」

料理と掃除洗濯をするのが、楽しいものなのだろうか。僕は普段そういったことをしたがらないタイプなので、少し羨ましい。しかしすぐに、彼女が僕に遠慮をさせまいとそう言ってくれているのだろう、と気付いた。

刺身とコロッケがメインとしてならんだテーブルに移動する。この統一感のないメニューが、家庭っぽくて嬉しい。

「一人で食事するのが……ちょっとね。」

言ってから、甘えているみたいで恥ずかしくなる。

「そうね。じゃぁ、食べ終わるまではいてさしあげましょう。」

彼女はおどけたように言って、向かいがわに座った。僕は食べながら、彼女の家族、つまり僕の叔父や叔母、従兄弟たちの話を聞いた。ここに来る前に少し挨拶をしただけで、あまり最近の様子は知らない。特に彼女の弟は、以前会ったときの二倍くらいに育っていて驚いた。

 話しながらだと、食事は当然ゆっくりになる。結局一時間くらいかけて夕食をとり、彼女は簡単に皿を洗った。もういいかげん帰らなければならない時間だろう。

「また明日くるから。」

「うん、気をつけて。ありがとう。」

玄関まで送る。彼女は自分の持ち物だという自動車に乗り込んで、去っていった。暗い海岸道路を、ヘッドライトが箸のように移動していく。

 黒くそびえる山を見ながら、少し背伸びをする。彼女の車の排気ガスが、違和感を醸し出している。それに背を向けて玄関をくぐって、ふと、編集者の顔を思い出した。ここに来ることは話してあったが、着いてから連絡を取っていない。

 無事書き始めた事を知らせたほうがいいかと思い、かばんの奥から滅多に使わない携帯電話を取り出す。暗記してある編集部の電話番号を押して、かける。が、なにやらピピッと音がするだけで、かからない。液晶画面をよく見ると、アンテナマークのかわりに圏外という文字が表示されていた。

 ここからだと電話がかからないらしい。それでは、と思って部屋の電話を使おうと思ったが、見当たらなかった。居間にも寝室にも、それらしいものはない。彼女が明日来たら尋ねればいいか、と思って、再びノートパソコンの前に腰を下ろした。

 

 波が岩壁を打つのを見ていると、どうしてだかそこに何かを投げ込みたくなる。花を投げれば、花びらが散りながら幾度も打ち寄せられるのが見られるのだろう。周りを見回したが、冬の海辺には花は咲いていなかった。

 僕を投げ込んだらどうなるのか。幸也はそれを思い、暗い海に意識を飛ばした。美汐にあえる、たった一つの可能性かもしれない海に。しかし幸也の身体は1つしかなく、投げ込んでしまえば彼女をここで待つ事はもう出来ない。賭けに出るには、幸也は臆病すぎた。

結局足元の雑草をちぎって投げる。風に乗った緑色は、海面に落ちる前に散り散りになり、大半は手前の岩壁にひっかかって止まった。幸也は少し笑った。

 

 どのくらい時間がたっただろうか。夢の中でキーボードを叩いているような感じがすることに気付いて、僕は我に返った。画面を見ると数行、意味のない改行が繰り広げられている。どうやら書きながらうとうとしていたらしい。改行を消し、今までに書きあがっている部分をスクロールさせてみる。彼女がかえってから二時間没頭したおかげで、かなり進んでいる。今こんなに眠いのは、その集中力の反動かもしれない。

 頭の中でカレンダーを開き、締め切りまでの日数と、あと書かねばならない量を計算する。……大丈夫そうだ。この調子で書いていけば、余裕だろう。

 書いてからすぐ寝ると、作品の夢を見てしまいそうで、気が進まない。何かしてから寝ようと思い、少し迷って、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。デッキチェアの置かれたベランダに出ると、涼しい風が通り抜けた。気持ちがいい。

 普段そんなに酒は飲まないが、こんないい環境で飲まないのは損というものだろう。プルトップを空けて、勢いよくあおる。月は出ていなくて、薄い雲が星の光もあらかた隠してしまっているのが、少し残念だ。それでもここは、僕にとってもったいないほどいい環境だ。僕は、ゆっくり目を閉じて、風を味わった。

 

 肩を揺すられて、僕は少し目を開ける。眩しい。また閉じる。

「ねぇ、ちょっと起きて。こんなとこで寝てちゃダメじゃない。いくら夏でも風邪ひくわよ。」

彼女の声だ。

「まさか夕べからここにいたんじゃないでしょうね?」

夕べ?夕べ……。僕は慌てて身を起こした。

「今何時?」

「あ、起きた。11時よ。もうすぐお昼。」

ゆうに10時間以上たっぷり寝ていたわけだ。……ベランダのデッキチェアで。

「背中痛い。」

「当たり前よ。シャワーでも浴びてきたら?」

「そうする。」

着替えとタオルを持って、僕はバスルームへ移動した。どうにも頭がぼんやりしている。寝すぎだろう。

 熱いシャワーを浴びて出ると、昼食の用意が出来ていた。

「ホントに夕べからあそこにいたの?」

「うん、そうらしい。いや、寝る気はなかったんだけど。」

「だめじゃない。」

彼女は母親のように言うと、鍋から皿へスープを移した。

「具合悪くない?風邪引いてたりしたら大変よ。」

「なんともない。ちょっと頭痛いけど、これは寝すぎだし。」

心配そうな顔のまま、彼女はテーブルにつく。今日はいっしょに食事をするようだ。今までは時間が合わなくて一人の食事だったが、こうしてテーブルを2人ではさむとなんだかくすぐったい。

「今日は私、ちょっと遅くまでいようか?そんなだと心配だから。」

「大丈夫だって。昨日はうっかりしただけだから。女の子をそんな遅くに帰らせたら、叔父さんたちに申し訳ないし。」

「そう?」

年下の女の子に心配されるほど、情けなくはないはず、と自分では思っていたのだが。家事にも疎くてだらしの無い僕は、さしずめ放って置けないタイプというヤツなのだろうか。あまり嬉しくない。

「今日はちゃんとベッドで寝るから。」

「うん、そうしてね。」

彼女は苦笑しながら昼食を平らげる。けっこう食べるところは、昔から変わっていない。僕のほうも、食べるのが遅いのは20年以上変わっていない。彼女は、まだもぐもぐやっている僕を尻目に、自分の食器を洗い始めた。そのまま冷蔵庫から野菜を取り出し、なにやらごそごそ作業をしている。

「なに?まだ食べるの?」

「バカね、夕飯の支度じゃない。いくらなんでもそんなに食べないわ。」

「そっか、そうだな。」

そりゃ、いくら彼女でもそこまで食べないことは考えればわかることだった。ジャガイモをむく彼女の後姿を見ながら、スープの残りをすする。エプロンがなんだか嬉しい。

「今から夕飯の支度するの?」

「ええ、シチューだから、下ごしらえしとこうと思って。」

「そっか、シチューか。」

今から楽しみになってくる。とりあえず夕食までまた続きを書こうと、僕は席を立った。

 

 虹色の光が、ゆらゆらと目の前を移動する。オーロラよりも薄くて布のようなそれを、幸也は邪魔に思って振り払った。かきわけた指先に、細い糸が絡みつく。長くのびたそれを辿る。いつのまにか幸也は、糸に縋って、明るい海を泳いでいた。海水がさらさらとして心地よい。やがて糸の果てが、見えてきた。糸だと思っていたそれは、女からのびる一筋の髪の毛で、つい、と引くとその女が振り返った。

美汐だった。こんなところにいたのか。でも、彼女は髪の毛で自分を導いてくれた。幸也は微笑み、両手を伸ばした。が、美汐はひらりとその手を避ける。美汐の身体を覆うように漂っていた髪の毛が散り、彼女の足が魚の尾なのが見えた。

人魚……。それは美汐の顔をしているのに、美汐のしない表情を浮かべた。それでも美汐を求め、幸也は手を伸ばす。しかし、前へ踏み出すたびに足元は崩れていった。頭上で美汐が微笑んでいた。その唇が、どんどん離れていく。水の中にいるはずなのに、ひたすら落ちていく。明るかった海が、遠ざかる。不安で泣きそうになる。

がくん、と落ちきったところで幸也は目を覚ました。

 背中が痛む。崖の淵ギリギリで、幸也は眠っていた。寝返りを一度うっていたら、目は二度とさめなかったかもしれない。ぞっとしながら下を見てみると、白い波の隙間に虹色の尾が見えた気がした。

「美汐?」

呼ぶ声に答えるように、水面が一度揺れる。

「いるのか? そこにいるのか?」

水面はもう揺れなかった。

 

「ねぇ、海の底がどうなってるか、知りたくない?」

コンビニから出て傘を差した瞬間、美汐が唐突に言った言葉がそれだった。

「海の底?スキューバでもしに行きたいのか?」

幸也はマフラーを巻きなおす。こんな寒いときにする話じゃないだろう、と少し眉をしかめた。雨の粒が少しついたままだったマフラーは、首筋にふいの冷たさを感じさせ、幸也はドキリとする。

「ううん。映像で見える海の底は、本当じゃないかもしれないと思わない?だって幸也、見たことないんでしょ?」

「美汐はあるの?」

彼女は笑ったまま首をかしげた。幸也はそのときは、美汐は単に海に行きたいんだと思っていただけだった。

 左手に持った傘を右のほうへかたむける。右手で、美汐の肩を抱いた。長い髪のほつれに、雨がからんでいる。寒くてあまり動かない指先で、幸也はそれを解いた。

「実際行った所で、きっと映像と同じ海の底が見えるよ。世の中そんなにファンタジーじゃない。」

幸也は、ひたすら美汐の髪をぬぐいながら、言った。どんなに冷たくても、彼女の髪を、雨に濡らしたままにしておきたくなかった。

「そうね。」

答えた美汐の髪は、雨を含んで、生きているようにうねった。

 

 

 キーボードを打つ音が、波の音と混ざる。定期的な波の音と、不定期な指先の音が、微妙なリズムを生んでいる気がする。が、音楽の素養はないのでよくわからない。

 太陽が移動していく速さと競いながら、画面の中に文字を増やしていく。快調だ。自分が快調だということを意識すると、大抵の場合そこで筆が止まる。意識しすぎるからだ。しかし今は、半分波の音に意識をもっていかれているからか、指は休まずキーを叩く。

 この分なら予定より早く出来るかな、という雑念が少し入ったとき、不意に指が止まった。まずった、波を逃した。

 舌打ちして太陽の位置を見ると、水平線より少し上のそれは、そろそろ赤くなりはじめている。海の色が変わった。

 僕が手を止めて伸びをしているのに気づいたのか、彼女が静かに背後に立った。振り返る。

「一休み?」

「ああ、ちょっと詰まった。でもかなり書けたよ。」

「そう。出来上がったら読ませてね。」

「え、興味あるの?こういうの。あんまり読まないかと思った。」

彼女から、僕の小説の感想を聞いたことは無い。

「読んでるわよ、割と。言った事無かった?」

「無いよ。一度も感想とか言わないじゃないか。」

彼女はとぼけた顔で首をかしげる。

「感想……そうね、読んで胸一杯になっちゃうから、あんまり言葉に出来ない、感じ、かな。だから今まで言ってなかったんだわ。」

彼女は夕日に光る海に視線を向けて言った。僕にとって、それは最大の賛辞だ。幻想小説と言われがちだが、一応恋愛小説のつもりで書いているんだし。

「今のが出来たら最初に読んでよ。君の反応が、見てみたい気がする。」

「わ、いいの? すっごい楽しみ。」

本当に嬉しそうに笑う。今書いている作品を読んだら、彼女はどんな顔をするのだろうか。今まで担当編集者以外で、目の前で作品を読んで貰った経験がない僕は、不思議な期待感でいっぱいになった。

 夕日が海に反射して、あたりはすっかり赤くなる。彼女の白い頬もその色になっていて、僕は少し恥ずかしくなって目をそらした。風が、赤を反射する彼女の髪を少し吹き上げる。

「ちょっと早いけど、夕飯にする?もう出来てはいるの。」

笑顔で振り返る彼女に、僕はあわててうなずいた。

「そうだな、じゃ食べよう。一緒に食べてく?」

「ええ、今日はね。シチューは少し作っても美味しくないし。」

書いた文章を保存して、パソコンの電源を切る。夕飯のシチューは、やはりとても美味しかった。

 

 目覚めると、やはり昼はとうに過ぎていた。夕べ7時過ぎに彼女を見送って、割とすぐベッドに入ったはずだが、眠り癖でもついてしまったのだろうか。

「頭痛い。」

「風邪?」

「いや、寝すぎ。昨日君が帰ってすぐ寝たから、朝起きる予定だったんだけど。」

「呆れた。よくそんなに眠れるわね。」

当然だが彼女自身は既に食べ終えたらしく、僕一人分の昼食がテーブルに載っている。

「こんなに寝てて、目溶けるかもな。」

「ホントよ。そんなに寝るのにいい環境かしら。私だと結構、波の音が耳について眠れなかったりするんだけど。」

味噌汁を温めながら、彼女が言った。

「そうかな。僕は全然気にならないけど。」

波の音は唐突に変わったりしないから、安心して聞いていられる。

 眠りすぎでも、飯は美味い。寝て食ってばかりでは、原稿が終わる頃にはガリガリの身体がぷくぷくになってしまうかもしれない。それもイメチェンということでいいかな、と少しだけ思う。

「ごめんね、今日はちょっと用事があるの。夕飯の支度してあるから、あっためて食べて頂戴。」

彼女は時計を見ながら、エプロンを丸める。

「何、出かけるの?」

「うん、ちょっとね。流石にそんなに毎日あいてないわ、私だって。」

「そうだよな。年頃だし。」

「そういう用事じゃないってば。すぐそういう風に言うの、おじさんみたいよ。」

僕にとっては割とショックなせりふを残して、彼女は出て行った。

 昼食を一人で食べ、食器を流し台に下げる。下手に洗って壊すのも怖いので、そのまま放っておいた。

 さて、昨日詰まった部分から続きを書こう。詰まった部分から書き出すのには、少し勢いときっかけがいる。案の定それはなかなか訪れなくて、僕は手を休めてベランダへ出た。

起きたときはたいしたこと無かったが、今は随分頭が重くなってきている。寝すぎの頭痛とは違う気もするが、風邪の頭痛とはもっと違う気がする。偏頭痛の癖なんかはないので、こういう痛みには慣れない。

仕方なく、一度横になる事にした。眠くは無いが、起きているのもだるい。小説の続きを考えながら、ぼんやり天井を眺める。これだけ寝ていると、どうにも時間の感覚がなくなりがちだ。でも夜は確実に寝ているあたりが、僕らしいというかなんというか。

しばらくすると頭痛も治まってきたので、再びパソコンの前に座る。なんとなく出だしの文章を書き始めると、そのまますらすらと続きは出てきた。やはりこの環境は、僕にはあっているらしい。少々眠りすぎても、これだけ書き進められれば、締め切りに問題は無いだろう。

指は止まらず、言葉を書きとめつづける。ストーリーは出来上がっていたから、後はそれを文章にするだけではあったのだが、楽な作業ではなかったはずだ。それが、今までに無いくらい順調に進む。こんなに書けるんだったら、今後もちょくちょくここを貸して貰えないだろうか、と僕は虫のいいことを考えたりした。

 

春の海水は予想以上に冷たく、服にこすれるたびに肌が痛んだ。しかしそれも一歩ごとに薄れる。麻酔の変わりに氷を使うこともある、という話を、幸也は思い出す。

「美汐。」

口から出る言葉はただそれだけで、だが、半開きの口から聞こえるそれは、単なるうめきにしか聞こえない。指の感触はもうない。どこが指だかわからない。

「美汐。」

波間に見える、虹色の尾。黒い糸の束のような髪が、水面に漂う。振り向かない美汐を、幸也はただ追った。次第に足は、海の底に届かなくなる。足のしたから感触がなくなって、幸也は自分の足も、魚の尾になったような気がした。

「美汐。」

いつのまにか、幸也の両手は水を掻いていた。足は動いているのかわからない。肩が軋む。それでも前に進んでいるらしいのは、なんとなくわかった。

「美汐。」

海をこんなに近くに感じたのは、初めてのことだった。あれほど憎んでいたのに、海は幸也を殺しはしなかった。美汐を連れ去った海は、幸也もまた、そこへ連れて行ってくれようとしている。

「美汐。」

どんどんなくなる感触とは反対に、視覚だけは研ぎ澄まされていく。美しい、美汐が見える。水に馴染み、だが決して融けない、美汐の髪が。

「美汐。」

歌うように、踊るように、幸也は進む。もう、腕を動かさなくてもよかった。美汐の光る髪が、自分を導いてくれる。前に伸ばした右手に、黒くしなり、虹色に光る美汐の髪を、しっかり巻きつけた。

「美汐。」

天使に連れられたネロとパトラッシュは、こんな風だったか。緑のはしごを昇っていったチトは、こんな風だったか。

「美汐。」

前に進んでいるはずなのに、幸也は昇りつめるように感じていた。上と、前は、同じだった。ただ、身汐のいる方向、それだけだ。

「美汐。」

この先にあるものを知っていて、そして感じる幸福と快感は、幸也を腹の底から笑わせた。開いた口に、海水が入ってくる。幸也はためらわずに飲み込んだ。

「美汐。」

美汐がいれば、全ての調和がとれる。ただその存在だけで、幸也はこんなにも幸せになれる。

「美汐。」

美汐に、出会えてよかった。

「美汐。」

美汐に、また会えてよかった。

「美汐。」

美汐を、愛してよかった。

「美汐。」

 

風が少し涼しくなってきて、あたりが暗い事に気づいた。熱中していて気づかなかったが、時計を見るともう夜10時を過ぎている。よくこんな暗い中書いていたものだ。パソコンのディスプレイだけが浮いている。立ち上がって電気をつけて、目をこすった。

数時間ノンストップで書いたせいか、かなりの分量が進んだ。学生の頃の自己新記録を軽く越している。あと4〜5枚も書けば終わるだろうか。時間はあるのだから、今回のラストシーンには時間をかけたい。夕飯を先に食べて、その後じっくり書こう。時間はまだ十分ある。

用意されていた夕飯は、鮭のムニエルと味噌汁、炊き込み御飯だった。冷蔵庫を見ると、サラダも入っている。暖めるべきものを電子レンジに入れて、遅い夕食を取り始めた。明日書き終わったとして、見直して細かいところを直すのに2日というところか。こんなに一気に進めたから、直しにはもっと時間がかかるかもしれない。それでも、予定の半分くらいで終わってしまう。この原稿を出したら、勢いで次の仕事にもとりかかろうか。ストーリーを練るところから始めなければならないが、それでもここでやるとはかどりそうな気がする。

夕飯の食器を、昼食の食器の上に重ねておく。そういえばこういう洗い物は、水につけておけと言われたような気がしないでもない。昼の分に今から水をかけても遅いだろうか。一応器に水を張ったが、渇いてしまった昼食の皿の汚れは、簡単には落ちそうに無かった。

ラストシーンを書くために、コーヒーを入れてパソコンの前に陣取る。数行書き始めたが、連日と同じように、眠気が襲ってきた。やはり夜は波の音が大きく聞こえるせいか、睡魔が襲ってきやすいらしい。これに逆らわずに眠ってしまっても、問題は無いだろう。パソコンを閉じ、電気を消して、窓を開ける。空気を入れ替える間に、軽くシャワーを浴びて、拭くのもそこそこにベッドへ飛び込んだ。

 

目がさめる。外はそれなりに明るい。やはりもう昼は過ぎているのだろうか。それにしては、彼女が来ている気配がない。毎日不本意な寝坊が続いているので、時計を見るのが妙に怖い。しばらくぼんやりしていたが、彼女が来ることもなく、仕方なく一人で起き上がった。

壁にある時計を見ると、針は6時を指している。……もうすぐ夕暮れか。彼女は買い物に行ったか、もしかしたら夕飯を置いて帰ってしまったかもしれない。とりあえず顔を洗って、台所へ向かう。

台所は片付いていて、食事が置いてあるようには見えない。冷蔵庫にも、調理前の食材とビールと麦茶しか入っていない。とりあえずグラスを出して、麦茶を飲み干す。あまりに寝すぎる僕に、彼女は愛想を尽かしてしまったのだろうか。窓を開けて、風を入れる。涼しい風が通り過ぎ、太陽が……太陽が、見えない。空は晴れているのに。

ベランダに身を乗り出すが、見えるはずの夕日は影も形もない。振り返ると、東の空に、太陽が光っている。……朝?

6時というのは、朝6時だったのか。今日は珍しく早起きだったわけなのか?これは僕にとって意外な展開だ。

気が抜けて、腹が減ってきた。冷蔵庫には何も無いことは確認したが、棚にパンくらいあるかもしれない。台所で、ごそごそと食べ物をあさる。流しの上の棚に、食パンの袋があった。

と、何かが変な事に気づいた。僕は夕べ、食器を流しに置かなかったか?昼食分と夕食分、流しに置いて、水も張った。それが、きれいさっぱり片付いている。眠りながら片付けた? まさか。

パンをそのままかじりながら、居間のソファに座る。麦茶と食パンはあまり合わないが、気にならない。……しばらく考えるが、食器を片付けた記憶は、やっぱりない。夜の間に彼女が片付けに来たのか?

もう一度台所へ行って、流しを覗く。渇いている。食器棚には、見覚えのある食器が重なって入っている。洗っていない食器は見当たらない。

一度気になると、止まらない。結局台所をあてもなくうろうろする。なんの解決にもならない。そうこうしているうちに、車のエンジン音が聞こえてきた。彼女が来たのか?

「あら、起きてたの?早いわね、珍しく。」

「ああ、うん。」

いつもと同じ、彼女の笑顔が僕を安心させてくれる。

「おなか減った?起きないと思って朝ご飯の用意してないけど、ありあわせで何か作ろうか。」

「あ、えっと、そうだね。さっきちょっと食パンかじったんだけど。」

「あら、生で?」

「うん。」

彼女は家から持ってきたらしい野菜を、冷蔵庫に入れる。

「あのさ、夜来た?」

「夜?」

「うん、洗ってなかった夕べの食器が、今起きたらないんだけど。君が片付けたんじゃないの?」

僕がそう言うと、彼女はすっと顔色を変えた。

「気のせいじゃないの?」

「いや、確かに夕べ、水をちょっと張って置いておいたんだけど。」

彼女は、僕に背を向ける。いつもと違う、居心地の悪い空気が流れる。何かおかしい?

「やっぱり、夜来たんだね。何しに?」

「来てないってば!」

彼女は悲鳴のように叫んで、こちらを振り向いた。泣きそうな顔。

「気にしないで欲しいの。お願いだから。」

「お願いって言われても……。」

わけがわからない。何かあるのか? 食器のことは、もう聞かないほうがいいのか? とりあえず話題を変えよう。

「あ、そうだ。今日当たり、大体出来そうなんだけど。ちょっと読んでみてくれるかな。直しいれるときに、感想とか参考にしたいし。」

「あ……うん。いいの?」

「プリンタ持って来てないから、モニタで見なきゃだめだけど。」

「大丈夫。」

機嫌の直ったらしい彼女を、パソコンの前へ連れてくる。電源を入れて、ワープロソフトを立ち上げた。

「……え?」

いつも何気なく見ていた、表示画面に、気づいた。日付が、違う。

「今日、何日?」

「え?」

「だから、今日、何月何日? 僕がここに来たのは何日だった?」

「…………。」

彼女は、眉をしかめる。

「日付が、違う。僕はここに来て5日目のはずだ。僕のパソコンの内蔵時計、4日も進んでる。」

だから、食器が。

「…………。」

彼女は顔を背け、僕から一歩退いた。

 

美汐が、ゆっくり振り向いた。

「あいたかった、美汐。」

右手に絡まったままの美汐の髪に、唇で触れる。

ふと、美汐は顔を歪ませた。

「ほんとうに?」

幸也はうなずいた。自分がどんな顔をしているかは、わからなかった。

 

 どうして、彼女はそんな顔をしている? 僕はどうして頭が痛い? 波の音が単調すぎるから、僕は気づくことが出来なかったのか。

彼女は後ろから、ゆっくり僕の胸へ手を回した。振り向く僕の頬に、彼女のやわらかな髪が当たる。潮の香りがした。

僕は、パソコンの電源を、落とした。

 

了