国境の長いトンネルをぬけると雪国だった。
あの時、
“国境越えるんだ、私。”
と彼女は言った。私は思わず
“えっ大丈夫なんですか?“
と聞いた。
“わかんない。死ぬんじゃないかなあ、私。”
と彼女は言った。
“えっ死ぬ?“
と私は聞き返した。
“だって、越えたら雪国だし。私は鰐だし。”
と彼女は答えた。笑っていた。
熱帯地域
1
湿気の多い場所で目が醒めた。睫毛が水玉をピンとはじいて飛ばした。水玉は朝の光に銀色に輝きながらバスタブの外に落ちていった。
昨日の晩、バスタブで眠ってしまった。髪を水につけないよう首を大きくそらして頭をバスタブの縁に乗っける変なポーズのまま。
体は冷えきっているし、首や頭もだるいし、いつもと違う目覚め方をしてしまった、というだけでなんだか新しい季節を迎えたような気がする。変な朝だ。
サトコはバスルームから出ると、体重計に乗ってみた。
サトコは、ごくごく普通のティーンエイジャーの女の子だが、一つだけ自分に架していることがある。それは、体重が1kg減ったら、未知の場所へ出かけよう、という決め事だ。
最初は、太めの自分を人目にさらすのが恥ずかしくて、ダイエットのつもりで始めたことだった。でも今では逆に、外へ出かけるための動機作りになっている。このごろのサトコは、ほうっておいても体重は勝手に減ってゆき、待っていても外へ出かける気分にはならなかった。
どうしてだろう?
エネルギーの使い方とエネルギーの補給の仕方を取り違えている自分がいる気がする。
それでもこうして無理やりにでも出かけて行こうとしているわけで。誰にも、何にも、自分にも、決して甘んじているわけではないと思うのに、強いわけでも、何かに秀でているわけでもない、というのは一体どういうことなんだろう。
でも、それはどうしようもないことなのだ。本当に。
体重計の針が振れて、サトコはしかめ面をした。
体重計の針はサトコの体重が一晩で3kg減ったことを示していた。
サトコは急に体の冷えを厳しく感じ、威勢良くくしゃみをして、その悪寒をふり払うと、今日はいつもの3倍大変だぞー、と考えた。
ところで、あまり外に行かない人間が、行きあたりばったりで未知の場所に行こう、としてもたかが知れている。あたりならカフェ、アジア風アクセサリー屋、美容院、中古CD屋。はずれだと英語教室をしている新興宗教の教会、インターネット通販の店、ラッセンばかりある押し売りギャラリーだったりした。
体重が1kg減るごとに名詞が降り積もって行く。
どこに出かけても、たどり着くまでの光景や、出会った人や交わした会話や自分がどう感じたのか、何も思い出せない。何も記憶に残らない。ただ、脳みその中に、未知、既知、あたり、はずれ、という箱があって、その中に単語が投げ込まれるだけだった。サトコは時々その箱の中を整理する。そして、陳列した単語を眺めやり、その次に膨大な箱の残りの空間を眺め、まだまだ足りない、と思うのだった。
もしかしたらその繰り返しは、永遠に終わらないのか、と思っていた。
自分が絶望しているのか、希望を探しているのか、不幸せなのか、生かされているのか、憂鬱なのか、楽観的なのか、なんなのかわからなかった。ただ、この方法しか知らなかったから、この方法でやっていくしかなかっただけだ。
2
土を飲む
未知の場所に行く時には、お祈りの時間をもうけましょう。
この飲み物をのむと、アフリカの大地に立った気がするでしょう?そしてアフリカのリズムを感じるでしょう?ドコドコズンドコ。アフリカ人のリズム感はサイコー。
植物の葉っぱをすりつぶすと空気に近い物になる気がしませんか?でも豆をすりつぶしたら、それは土に近いものになる気がしませんか?
もっと苦くて、臭くて、まじりあったもの。ひざまづくもの。踏みしめるもの。
未知の場所に行く時には、お祈りの時間をもうけましょう。
アフリカ人のリズムが聞こえている間は、野蛮な勇気を持てます。どこまでも行けるようー。
「本日のコーヒーをお願いします。」
「今日はグアテマラになっております。」
ズンドコズンドコ。
3
コーヒーを飲んだあと、“熱帯地域”という看板を見つけた。テレクラかラーメン屋か?というレベルのデザインの看板だった。地元だったし、怖い場所だという気はしなかった。二階立てコーポの二階の端。細い階段を上った。ぼろくて音が鳴った。かまわずにズンドコ上った。
“熱帯地域”のドアの前まで来た時、はじめてヤバイかも…と思ったが、もう引き返せなかった。そのドアは、あまりにも他の部屋のドアと違っていた。黒檀でできた大きなドアだったのだ。場違いすぎる。危険信号だ。
ドアはこっちがノックする前に開いた。中から女が出てきた。真っ赤なベリーショートの髪をした、やたら背の高い、目つきの悪い女。女がサトコを目玉だけ下へ動かして見た。
0.1秒後、女の長い爪がサトコの腕に食い込んだ。0.2秒後、ドアの中に引きずり込まれ、0.3秒後、ドアが閉まった。轟音とともに。女は重そうなドアを片手で一瞬で閉めた。
(※これから起こったことを読みたい人はこのまま。飛ばしたい人はここをクリック。ちなみにその女はレザーのボンテージと黒光りするピンヒールを身につけていた。)
4
腕をつかまれ、そのままソファアに投げ飛ばされた。腕に青いアザができている。サトコが、いってえーと思いながらそれを見つめていると鞭が振り下ろされる音がして、サトコが顔をあげ狭い部屋を見渡すと、この部屋で何が起こっているのか、全貌がすぐに理解された。
「ああ、お許しください。鰐子女王様。」
鰐子と呼ばれたその女はまた鞭を振り下ろす。足下に、何縛りというのか知らないけれど、両手両足を一つに縛られて、顎だけで全体重を支え、尻を突き出す体勢の手のこんだ縛り方をされた男がうずくまっている。豚の丸焼きみたい。とサトコは思った。
「頭が高いのよ、おまえは。ただの豚吉のくせに。ほら、この可愛い私の妹に挨拶しなさい。」
と言って、鞭の先をサトコに向けた。「は…はい…。」
「こっち向いて!頭が高いっていってるでしょう!」
また鞭。男は頭を床にこすり付ける。そのたびに男の尻が上がっていって鞭が効率良くあたる仕組み。気持ちわるいなあ、とサトコは思った。しかも、“この可愛い私の妹”というのはサトコ本人のことなのらしい。
「妹君様、本日の御調教よろしくお願いします。」
「そう。やっと言えたわねえ。えらいわよ。私は妹と積もる話がありますからね。おまえはもうあっちに行きなさい。そうよ、もっと後ろ。もっと。もっと後ろに下がって。そう、その辺で石ころになってなさい。石ころよ。石ころ。」
鰐子は、“もっと後ろ、もっと後ろ”と言いながらハイヒールの先で男を蹴り飛ばした。そして、男が石ころになったのを見届けると、私の隣りに座った。ソファアに鰐子の体が深く沈み、鰐子はふうー、と大きな息をすると、本当にリラックスしたように喋りだした。
「本当に馬鹿でごめんなさいね。あの豚キムチ。あいつあれでも、レコード会社の社長なのよ。」
「はあ。」
「最近多いのよ。村上龍っていう作家知ってる?」
「はい。」
「トパーズっていう本があるんだけど。あの本に出てる客、こいつだよ。」「ああ、そういえば。」
「それにしてもひさしぶりよねえ。えーと名前なんだったっけ?」
「…サトコですが。」
「サトコちゃん。さすがに私にそっくりだわ。」
そう言いながら、鰐子はサトコの上にのしかかってきた。
「ちょっとー。」
「妹よね?」
と怖いくらい優しく言いながら、鰐子の手がサトコのパンティーとブラジャーに触れた。
「ちがうーー」
「妹よね?」
と言いながら鰐子がサトコの胸をもんだ。
「ちがうぎゃーーーーー」
「妹でしょ?」
といいながら、サトコのパンティーをプロの速さで抜き取ってポイッと投げた。
「ひーーー」
「………そんなに止めて欲しいなら、お姉様お許しください、って言って。」
「・……。」
「言って。」
鰐子が急に冷徹に言った。
「……。」
「言いなさいよ。」
「お…」
と言いながら、こうやって人の理性は壊れて行くんだな、と感じていた時、
「こらー豚吉なにやってんのよーーー!」
と鰐子が叫んで、サトコの上から飛びのくと、“豚吉”がサトコのパンティーに口をのばしているのを見咎めて(手足が縛られているので)、豚吉に迫り、
「豚吉…そんなにこれが食べたかったの?かわいそうに…。」
と優しく言った。「はい…鰐子女王様…ぐすん。」
「そう、でもね、これは食べるものじゃないの。」
と優しく言いつつ鰐子は自分の靴の裏側からナイフを取り出す。
「わーーー!お…お許しくださいー。うえーん。」「ふふふ…」
と鰐子は笑い、そしてナイフの先端で豚吉の体をなぞるように滑らせて、そして手足を縛る縄を切った。ドブチッと凄い音がした。
「いーい?これはね、こうして使うのよー」と言いながら、鰐子は今まで縛られていたせいで手足が痺れて動けず、縄の跡が体に残るなんとも痛々しげな男にパンティーをはかせ始めた。
「いやですう。」
「あはははは。豚吉ったら女の子みたい〜!そうだ、女の子の名前をつけてあげましょう。なにがいい?」
「マ…マミちゃん…」
「マミちゃんがいいの?あはははは。マミチャン?あははははははは。聞いた?マミちゃんだってーーー!!」
と言って鰐子は手を叩いてキャッキャッと子供みたいに笑った。サトコはその様子を見ながら、畜生、私のはくものなのに、と思っていたが実は自分でも信じられないほど冷静に見ていた。他にどうしようもなかったし。もうそれ返して欲しくなかったし。
鰐子はひとしきり笑うと、また鞭を床に叩きつけて厳しく言った。
「いつもの場所に立ちなさい、マミちゃん。」
「い…嫌です、恥ずかしい〜。」
はいまた鞭。
「いいこと?あんたが恥ずかしがるのをみて、私は喜ぶのよ。分かってる?」
「恥ずかしい〜」
「いいから立ちなさい!」
はいまた鞭。
この後、不思議なことが起こった。サトコには全く理解の範囲を越えることだったが、後で鰐子によってたった一言二言で説明されてしまうこと。
鰐子はマミちゃんが手足の痺れによってよろけているのにも構わず、立たせ、歩かせ、そして部屋の壁の真中で両手をつかせた。
突然、サトコは昔好きだったバンドの歌を思い出した。その歌詞はこういうのだ。
壁に両手をついてマイ・プレイボーイ
純白の涙を オオオオオ
汚い君の瞳(め) 最高さ
銀色に見える ブルーアイズ
サトコは思わず、オオオオオ、というおどけたメロディーのところだけ口ずさんでいた。そうすると悪い予感に心が震えるのを誤魔化すことができた。
その壁は一面に劇場の緞帳のようなカーテンがひかれている。劇場でいえば上手にあたる場所から鰐子は言った。
「さあ、マミちゃんの恥ずかしいところ、みんなに見てもらいましょうね!」
サトコはみんな?と思った。
鰐子が天井からたれているロープを引っ張った。すると、緞帳が、サーッと開いて、一面ガラス張りの壁があらわれ、向こう側にスタジアム級に広い部屋があらわれた。部屋いっぱいの“みんな”がこっちを向いていた。
5
“みんな”は、ピンと背筋を伸ばして、激しい運動をしていた。ダンスにも似たそれ。でも特定のステップがあるわけではなく、美しくもない。むしろ滑稽な。しかし、その集中力と真剣さは伝わってくる。流す汗の量から。全員が軍隊の様に禁欲的に動く様子から。
音が聞こえないので、彼らが何をしているのか一瞬わからなかったが……向こう側の人達はエアロビクスをしているのだった。
サトコは、最初、この壁はマジックミラーになっているのだと思った。向こう側から、この女モノパンティーをはいて両手を壁につく男と、ボンテージの女は見えていないのだ、と思っていた。
それほど、向こう側の人々はエアロビクスに熱中していたし、全然どうじていなかったからだ。
しかし、そうではなかった。鰐子が向こう側の人々へ手を振った時、エアロビクスをする人々の中で手を振りかえしている人がいることにサトコは気付いた。
鰐子が言った。
「さあ、マミちゃん音声を入れるわよ。」
といって鰐子が壁の赤いスイッチを押したら人々の威勢の良い“イチ・ニイ・サン・シイ ニイ・ニイ・サン・シイ”という掛け声が聞こえてきた。それとともにダンスミュージックが爆音でなだれ込んできた。
♪
ビバー シバー ビバー シバー ワニーコー
ビバー シバー ビバー シバー ワアニー コー手に入れようぜ 完璧なバディ
からだをきたえ 幸せなあした
イヤー トゥーサウザン いまこそ命かけるぜ
ゲット グラヂュエイション さあ行け自分に勝つんだ
まだみぬー地平をーめざすーのさーーーー
同じーー場所などーーいたくはないーーー
知りすぎたー明日などーもう要らないーーーボクラはーーーー変わってみせるーーーーー
手に入れようぜ 完璧なバディ
からだをきたえ 幸せなあした
道踏み外しながらいこ ワイディングロード
まッさかさまでもいいさ バンジージャンプ
ビバー シバー ビバー シバー ワニーコー
ビバー シバー ビバー シバー ワアニー コー間奏の間に鰐子が、“今日は、この子、マミちゃんなのーみんな笑ってあげて!”とマミちゃんの頭をつかみながら言ったら、向こう側の人達が本当に楽しい冗談を聞いたかのように、エアロビクスに向ける集中力を解いて鰐子のために笑う声も聞こえた。
ビバー シバー ビバー シバー
ビバー シバー ビバー シバー
鰐子はなんていう名称なのか知らないけれど、ペニスベルト?、みたいな物を腰に装着して、
「さあ、マミちゃんバイブを入れるわよ。」
音声の時と同じ気軽さで“入れるわよ”、と言って男を四つんばいにさせると、本当に入れてしまった。
その後、男が気持ち悪い声で“いきます、いきます、マミはもういきます〜”と叫び、イチ・ニイ・サン・シイの声とダンスミュージックにまみれながら本当に村上龍の小説にでてくる男みたいにタイミングよく射精した。
サトコが本当に村上龍の小説にでてくるアイという女の子の立場だったら、サキという女王様に命令されて、四つんばいになっている男の下に入り、口でその射精を受けなければいけないのだった。でも、鰐子がサトコにそうさせなかったのは、これは思いやりなのかなあ、と意識の遠のく頭のなかでサトコは思い、そして自分がいかされたみたいな疲労感に陥り制御不能の眠りにおちこんでしまった。