■ 常闇のトバリ ■

著/ 薊野佑子 (2006.7)
過去の作品、長編 『睡夢の淵』の一部を抜粋して、練り直したものです。
(朗読20分)

 夜は暗いが、街は明るい。
 だけどわたしは、昼も夜もなく真っ暗な洞窟にいた。

 すでにお酒の酔いは回っているけれど、終電も終わってしまっているので、朝までいられる三軒目の店を探すことにした。
 一軒目の店を出たときには家に帰ろうと思っていたのに。みんなと駅で別れてから、また街へ引き返していた。今日はうちへ帰っても眠れる気がしない。だから、もう少し飲もうと思っただけだ。
 夜といっても街は明るい、ネオンの光が目に刺さる。

 そしてたどり着いたのが、窓ひとつなく締め切られた店だった。どことなくレトロな木製の扉に、アンティークな金属パネルが打ちつけてある。『Bar 常闇(トコヤミ)』。ネオンの明かりや原色の看板ばかりが連なるこの街の中で、その扉は上品にも思えた。だからたぶん、わたしはその扉を開いてしまったのだと思う。

 扉の向こうは、洞窟だった。そこはまるで、闇の住処(すみか)。壁には油を使ったランプが灯ってはいるが、薄暗さでどれくらいの長さの通路なのか、よくわからない。
歩いていくと、何か聞こえてきた。低く響く音が、リズムを刻んでいる。その旋律に引き寄せられるように先へ行くと、洞窟の右手から光がさしていた。横穴が部屋になっているようだ。
 光のもとへたどり着いて横穴をのぞきこむと、暗闇に慣れていた目がくらんだ。その部屋は天井が高く、大きなブリキ缶で薪が燃やされていて、炎が踊るように部屋を照らしていた。大きな石を切り出したカウンターと椅子もあるけれど、バーテンダーの姿は見えない。
 奥のほうでは大柄な男性がウッドベース(コントラバス)を弾いている。大きな手が弦の上を走り、柔らかい音が振動となって、体に届いては消える。
 そして壁際によりかかって立っている、華奢な女性がひとり。思い切り短い髪が印象的だ。インディゴブルーのジーンズに、キャラメル色のゆったりしたセーター。袖をひじまでまくりあげて、腕組みをしている彼女の指先には、煙草が煙をあげていた。

 彼女はわたしのほうを、ちらりと見た。しかし、すぐに視線をもどして煙草を口にくわえた。わたしが座ろうか迷っていると、彼女はびっくりするような大きな声で言った。
「座ったら?」
 わたしは、彼女に軽く会釈をして、カウンターの一番端に座った。
「あなた、ここに来るの初めてね。」
 彼女はまた大きな声で言った。
「あの、いいんですか?演奏中に」
 わたしが言うと、彼女は一瞬「え?」と首をかしげ、それから声を立てて笑った。
「いいの、いいの。彼の趣味で勝手に弾いてるんだから。この人ってウッドベースを演奏してるか眠ってるかで、ほとんどしゃべりもしないのよ。だからわたし、彼をバスって呼んでるくらいよ。」
 彼女はそう言って、つぼめた唇から煙を吹き出した。たしかに演奏者は、わたしたちの会話などお構いなしに集中しているようだ。
「あなたなんて名前?」
 彼女にたずねられて、答えかけたわたしは、次の瞬間愕然とした。何故なら、………思い出せなかったから。バカみたいにぽっかりと、わたしの記憶は空白になっていた。自分の名前が思い出せない。名前どころか、自分が何者かも思い出せなかった。わたしは呆然としたまま、言葉につまっていた。
「言いたくないなら、別にいいわ。あたしはトバリっていうのよ。」
 彼女に言われて、わたしはやっと我に返った。
「いえ、そういうわけじゃなくて、思い出せないんです。」
 トバリは、別に驚く風でもなく、わたしの顔をまじまじと見てからこう言った。
「いいわね。気楽そうで。」
 いいわけがなかった。
「でも、それじゃわたしは…、いったい誰なんでしょう。」
「いいじゃない。思い出せないんでしょう?」
 彼女は短くなった煙草を地面に押し付けてつぶすと、焚き火の中に放り込んだ。
「自分のことがわからないなんて。」
 わたしが呟いている間、トバリは新しい煙草に火をつけようとしているところだった。箱には、ジプシーが風に煽られて踊っている絵が描いてある。彼女は、銀色のライターで煙草に火をつけて、息を吸い込んだ。いかにも美味しそうに煙を吐き出して、それからもう一呼吸して言った。
「思い出せないのは、思い出したくないからじゃないの?」
 わたしは少し考えたが、からっぽの記憶について、何の感情も沸いてこなかった。
「よく、『眠るとすぐに忘れる』なんて言う人もいるけど、あたし全然眠れないのよね。いいじゃない。思い出せないなんて。」
「でもわたしは、知っていたいです。自分のことだもの。」
 わたしが言うのを聞いてトバリは、どこか遠くを見るように笑った。
「そう?今のあなた以上に、どんなあなたが必要?」
 答えられない。
「よく、小説にあるじゃない。記憶喪失の主人公が記憶を取り戻したら、犯罪者だったとか。」
 トバリは冗談のように言ったが、わたしの過去にも、思い出したくないようなそんな自分がいるのだろうか。浮かない顔で宙を見つめていると、彼女が言葉を継いだ。
「ま、あなたじゃ、それはなさそうね。きっと大丈夫よ。」
 何もわからなかった。自分が良いことをしてきたか、悪いことをしてきたのかも。
「あたしは、忘れることができないから。だからあなたがうらやましいのよ。」
 確かに、何も思い出せなければ、忘れたい過去などありもしない。
「忘れられないんですか…」
「違うの。忘れたくないのよ。」
 彼女はきっぱりと言った。
「あたしはどうしても手放せない。だから記憶を、何度も何度も繰り返して。傷ついても繰り返して、そして、」
 トバリはそこまで言って、また煙草を口にくわえた。わたしはそれを眺めながら、彼女の言葉を待った。しかしトバリは、煙を上に向かって吹くとそのままの姿勢でぼんやりしていた。
「そして?」
 わたしがそっと問いただすと、トバリは、はっとしてこちらを向いた。
「そして?ああ。そして、眠れないのよ。だって『眠ると忘れる』ってよく言うじゃない。」
 トバリは言って、こめかみを押さえた。
 わたしにはわからなかった。痛みをともなうような記憶も、それを捨てられない大切な何かも、何も持っていなかった。

 ふと、辺りにまといついていた音楽が止んだ。バスが、楽器をそっと壁に立てかけて、火の側に腰をおろした。トバリが無言で、ライターを放る。バスはそれを慣れた手つきで受け止めて、赤い箱の煙草を取り出して火をつける。
「眠っていいんだよ」
 バスは、煙草の火を見つめたままぼそりと言った。まるで彼の楽器のような、低くて響く声だった。トバリは真顔で、漂う煙を見つめている。
「あんたが弾かないなら、あたしが歌う。」
 ふいにトバリは言って、歌い出した。

 夜の闇 雨は止み 気に病み
 病み上がり 闇雲に 闇を探る
 夜は闇 私は病み そして闇

 ハスキーな低い声が、地に響く。その歌は、優しくそっと辺りを包み込んで、わたしはいつしか眠りに落ちていた。途切れる意識の一歩手前で、『眠るとまた、忘れるのかしら…』そんなことが頭をかすめていた。

 朝は来ない。トコヤミの洞窟では、夜が一日中を占めている。わたしが目覚めたとき、トバリはいつのまにか座り込んで、バスの肩に頭をもたれかかっていた。わたしは、気だるい体を起こして、ぼんやりと辺りを確認する。やはり、ここは洞窟だった。ブリキ缶で燃えている炎はいくらか小さく、あたりは薄暗くなっていた。と、ふいにトバリが血相を変えて目を覚ました。
「あたし寝てたかしら」
 わたしは反射的に、「いいえちっとも」と答えていた。
「そうよね」
 トバリは言いながら、自分の記憶を確認でもするように考え込む。バスは、まめだらけの手を組んで、静かな寝息を立てていた。
 いったい、今は何時だろう。わたしは、外に出ることを考えていた。ただ、自分を求めてここから出て行かなければならないのは、確かだった。
 わたしが立ち上がると、トバリがゆっくりと視線を上げてわたしを見た。
「もう、行くのね」
 送り出すでも、引き止めるでもない、そんな言い方だった。
「はい。行きます」
 わたしは言って、歩き出す。移りゆく時間も、わたしの名前も、ここにはなにも見当たらない。まるで、死んでいるようだった。だから違う。わたしが、探していたのは、ここではない。
 もときた洞窟の道を進んで、つきあたる。そこは確かに、入口の扉だった。ここを開いたのが、遠い昔のように思える。冷たい石に囲まれた中で、その扉だけが今は生々しく感じられた。
わたしはそっと、扉を開ける。

 闇の器は、閉じた瞼。眠りと目覚めの象徴。
 開いたのは、扉ではなくて、わたしの瞼だった。光が、脳髄を貫くように差し込んだ。朝の匂いがする。植え込みの緑の匂いが、鼻をつく。とっさに自分の状況がつかめず、辺りを見回す。どうやら、駅前に座り込んで一夜を明かしてしまったらしい。
「眠ると、忘れるですって…?」
 わたしは、誰にも聞こえないように呟いてみた。なにもかも覚えている。わたし自身のことや、帰る気になれなかった昨日のこと。つまりそれは、忘れられない記憶のことも。
  胸を痛めながら、何度も何度も繰り返す、忘れないように繰り返す。忘れられないから繰り返す。それでも、わたしは眠るだろう。お別れした恋人と、一緒に暮らしたその家に、記憶を抱いてひとり帰って。

FIN