どこまでも続く広い広い草原を、太陽の昇る方向にずっとずっと渡っていったところに、その丘はありました。
丘の中腹には小さな寄せ木の小屋があり、少年は、思い出せる限りのむかしから、たったひとりでそこに暮らしていました。
少年の仕事は、風をみることでした。
毎日、日の出とともに目を覚まして、少年は朝焼けの丘を駆けあがります。
丘のてっぺんには草原をいちめんに見渡せる、大きな大きな木があります。
少年はいつもその木といちばんの「おはよう」を交わし、そうしていちばん高いこずえの上で、やってくる風を待つのでした。
空のように澄んだ目をとじて、白くとがった耳をかたむけ、少年は風の伝えてくれることを、体いっぱいに受けとめます。
次に雨の降る日や、やがて訪れる隊商のこと、空をゆく渡り鳥たちの様子などを、少年はそのたびに草原に住む人々に知らせてくれるのでしたが、どうして少年が風をみることができるのか、どうして風は少年のもとを訪れるのか、知っている人は、誰ひとりいないのでした。
*
少年のいる丘は決してけわしいわけではないのですが、なぜかそこにたどりつくのには、不思議と長い時間がかかりました。
けれども陽に透けたはちみつ色の髪の少年は、とてもやさしく笑うことができましたから、人々はみな幾度となくこの丘をのぼっては、少年に会いにやってくるのでした。
少年のもとを訪れる人はさまざまで、恋をしていることを話すものもあれば、家族や仕事について語るものもありました。ときには一言も話さずに、ただ少年とふたり、日がな一日、走る雲を眺めているものもありました。
少年はいつも静かに人々に向きあい、そうして空がばら色に染まるころになると、やさしく笑ってこう言うのでした。
「さあ、お陽さまといっしょに、あなたもはやく、おかえりなさい。」
少年のその言葉を聞くと、人々の胸のなかは夕暮れを注ぎこまれたみたいにあたたかくなって、軽やかな足どりで丘を降りてゆけるのでした。
*
ある日、ひとりの少女が泣きながら少年のもとを訪れました。
「父さんも、母さんも、大きらい。妹が生まれたから、わたしはもういらない子なの。」
真っ赤な目から涙をぽろぽろとこぼしつづける小さな少女の手を引いて、少年は丘のてっぺんへとのぼりました。
「大きな木でしょう。」
さやさやと緑の葉を風に揺らす木を見あげて、少年は言いました。
「この木はね、ずっとずっとむかしからここにあって、君や、君の父さん母さん、草原の人たちを見守ってる。木は言葉を話さないから、いつもはそのことに気がつけないけれど、ほら、こうして心をまっさらにして寄りそえば、わかるよ…――。」
少年と少女は手をつなぎあったまま、もう片方の手を幹にまわしました。
大きな木の大きな幹は、ふたりの両腕をいっぱいに広げてもまだまだ余ってしまうくらいで、少女は、まるで自分たちのほうが木に抱かれているみたいだと思いました。
「やさしい気持ちが伝わってくるね」
少女がそう言うと、少年はいつものやわらかな笑顔でうなずきかえしてくれました。
「君の父さんも母さんも、それから君の妹も、君のことが大好きだよ。
だからもう、ひとりで泣かなくていいんだ。」
ばら色の夕焼けと少年の長い指に背中を押されながら帰る途中、ふと気になって、小さな少女は少年にたずねました。
「こんなに遠いところでたったひとりぽっちで、あなたは寂しくないの?」
少年はそれを聞くと、困ったように笑いました。
「寂しいって気持ちはたえられないから、忘れてしまったんだよ。」
いつもと違ってどこかたどたどしく言葉をつなぐ少年の目を見ていたら、少女はなぜだか、たまらなく悲しくなりました。
小さな少女は、少年にしがみついて、夢中で言いました。
「わたし、毎日あなたに会いにくるわ。ずっとずっと、ずっとここに来るわ。
だから、だからね――」
だから、の先になんと言いたかったのか、少女は自分でもわかりませんでした。
けれどもその言葉どおりに、少女は忙しい毎日の仕事のあいまをぬって、欠かすことなく、少年のもとを訪れるようになりました。
太陽がさんさんと降りそそぎ、風が草原をつつむような日には、ふたりは決まって1日を丘のてっぺんの木の上で過ごしました。
「こんな日は、風がいのちの歌をうたうんだよ。」
少年は少女にそう教えてくれました。少女は少年のように風の歌を聞くことはできませんでしたが、少年がうれしそうにしていると、少女もそれだけでやさしい、うれしい気持ちになれるのでした。
春が終わり、夏が訪れ、秋も、長い冬も過ぎゆき……ふたりはそんなふうにして、いくつもの巡る季節をともに過ごしました。
けれども時の流れとともに少女が少しずつ髪を伸ばし、大きくなってゆくのに対し、はちみつ色の髪の少年はいつまでも変わらず、出会ったころのままなのでした。
いつの頃からか、春が訪れるたびに、少女の胸は痛むようになりました。
「ずっとずっと、一緒にいるわ。」
少年の白い手を握って、少女は何度も何度もそう言いました。
少年はその度に笑って少女の髪をすいてくれましたが、少女の胸の痛みは、彼女の背が伸びるのと同じように、大きくなってゆくのでした。
*
出会って七度目の春のある日、少女は少年に言いました。
「草原に住むわたしたちのように、あなたも羊や犬や、生き物たちと一緒に暮らすのはどうかしら?」
そうしたら、わたしが来ることができないあいだも、あなた、ひとりじゃないわ。
首を傾げてひたむきに言いつのる少女は、どこか悲しそうに見えました。
少年が、よく傷ついたうさぎや迷子の小鳥たちの世話をしていることを、少女は知っていました。人間と同じように、動物たちが少年をとても慕っていることも、少年が、いつも最後にはなついている動物たちを無理にでも返してしまうことも―少女は本当によく、知っていました。
「ねえ、そうしたほうがいいわ。」
大きな目に涙をいっぱいにためて、少女は少年の手をぎゅっと握りました。
少年は少女の様子にほんの少し驚いたようでしたが、やがてじっと少女の目をみつめ、それから静かに、首を横にふりました。
「いつか君と、いのちの歌の話をしたね。」
少女の手をそうっと握りかえして、少年は言いました。
「ねえ、生き物はみな、帰るところを持っているんだよ。いのちの歌をうたえるたったひとつの場所を、みんなこの地上のどこかに、持っているんだ。そうしてその場所には、一緒に歌をうたう誰かがいる。いのちの歌を一緒にうたう誰かが。…ぼくにはそれをしてあげることが、できないんだよ。」
やわらなか緑の葉とお陽さまの光に包まれた少年は、透きとおるように見えました。このときの少年の、空に似た澄んだ目を、少女は今までにみた何よりもうつくしいと思い、けれどもまた、今までにみたなによりも寂しいと感じました。
言葉をなくして立ちつくす少女に、少年は目をほそめて、やさしくほほえみかけました。
「君も、一緒にいのちの歌をうたってくれる大切な誰かを、もうみつけているんだね。」
少女が隊商として村を訪れた青年から結婚を申しこまれていることを、少年は知っていたのでした。 小さかった少女はいつしか子どもではなくなって、ひとりの青年に愛される、若い娘となっていたのです。
少年は少女に手を伸ばし、小さな頃からそうしてきたように、木の上に招きました。
「ぼくはここから、みんなを見てる。
風が伝えてくれる君の歌を、ここでずっと聞いてるよ。…だからもう、泣かないで。」
頬にのばされた少年の手は、雪のようにひんやりと心地よく、涙で熱した少女の心ごと、やさしく癒してくれました。
「ありがとう」
少年はそう言ってまた笑ってくれましたが、少女は首を振ることしかできませんでした。
丘の上の木の上から見渡す草原は、涙でゆれてどこまでもどこまでも広がってゆき、いつしか空と深く溶け合ってゆきました。
*
別れの日、少女は少年に、草色の小さな笛を渡しました。
「あなたと一緒に、いのちの歌をうたえる誰かは、きっといるわ。 もしこの地上にいないのだとしたら、それはきっとこの空のどこかにいるのよ。
でも、おぼえていて。この地上でも、あなたのことをずっと想っている、友だちがいるってことを。」
少女はほんとうは、そう伝えたかったのですが、涙が胸にいっぱいにひろがってきまって、言葉になりませんでした。
少女はもう泣かないと決めていたのです。ですからかわりに、いっしょうけんめいに笑って、こう言いました。
「あなたを忘れないわ」
少女が花嫁となって草原を出る朝、空に、誰も見たことがないようなうつくしい虹がかかりました。
丘を通るとき、少女はふりかえって、あの大きな木を見上げました。
はちみつ色のお陽さまの光といっしょに、少年はそこにいました。
少年は、いままでみたどの笑顔よりもあたたかいやさしい笑顔で。いつまでもいつまでも、手を振りつづけてくれました。
「君を、ずっとみてるよ」
***Epilogue***
「母さん、いつもなにをみてるの?」
丘から遠く、遠く離れた村のこと。
空がばら色に染まるころになるときまってそうたずねてくる幼い娘を、若い母親は笑って抱きしめます。
「見ているのじゃなくてね、聞いているの。
母さんの故郷の草原から聞こえてくる、笛の音を。
母さんの大切な友だちが、風が、伝えてくれる歌なの。
父さんの、母さんの、あなたの――すべての、生きとし生けるもののための歌。
…いのちの、歌よ」