失われた村の女のこと

著: アララギ紗夜ノ

 私は、夢を見ていたのかも知れない。
 否、本当は夢ではないことが解っている。
 ただ、これが夢であってくれればと願っているのに過ぎない。
 願わくば、失われた村の女に幸あらんことを。



「ようやく思い出しました」
 女は云った。
 唐突に沈黙が破られて、これまで女が喋らなかったことに気づいた。
「なにをです、」
「私の名前です。ずっと忘れていたのです」
「名前を忘れていたのですか、」
 この女は記憶喪失の類だろうか。
「名前など個体識別の手法にすぎません。識別する必要がないなら名も必要ない。
 此処には私の名を呼んでくれる者はありません。私が呼ぶべき名もない。
 だから忘れていたのです。必要ないから」
「しかし、忘れてしまうわけにはいかないでしょう。
 名前を忘れることはあなた自身を忘れることにも等しいのではありませんか」
 女が私を見た。
 なんて物わかりの悪い男だろう。女が苛々しているのがわかる。
 否、苛々しているのは私の方だ。私が自分の感情を女の中に見ているのだ。
「アイデンティティが名前の中に収斂されるというのは幻想です」
 思いの外穏やかに、女は云った。
「例えばこれがコップと呼ばれていることを忘れてしまったとして、あなたは何か困るでしょうか。
 これに水を注いでそこから飲む方法さえ知っていればそれでよいではありませんか。
 私は私の名を忘れてしまっても私が何者なのかまで忘れは致しませぬ。
 誰に名を呼ばれなくても私がなすべきことを忘れた日は一日としてございませぬ。
 山羊の世話をし、畑を耕し、糸を紡ぎ、食事の支度をする。家を片づけ、水を汲み、薪を集める。
 私が山羊という名を忘れてしまったとしても、彼らが私の世話を必要としていることにかわりはありません」
 女はそう云って焼きの見事なタンブラーを手に取ったが、視線は不安そうに灯りに注がれていた。
「そう云われてしまえばそうですが」
 私は所在なく女の作った食事に手をつけた。素朴な田舎料理だが、私はそれを気に入った。
 女は相変わらずぼんやりとタンブラーを握りしめたまま、灯りを見つめていた。
 中の水が零れそうで、そればかりが気になった。



 私がその村を訪れたのは、ある市で出会った男の話に心を惹かれたからだ。
 最西端の街から徒歩で3日ほどさらに西へ行ったところに気狂いの村があるという。
「ザアリ村、と云うのだそうで」
 西国から来たというその紗売りの男はぼそぼそと口元を隠しながら云った。
 悪いことを話すときは口を隠すのだと教えてくれた友人も西国の出身だった。
 災いってものは口から入ってくるのさ、何でも出てきたところに落ち着かなきゃならないからね。
 日頃寡黙だったその友人は酒を飲むとさらに押し黙ったが、時折そんなことを云った。
 真実は日常のちょっとした所に潜んでるもんさ、というのが彼の云い分だった。
 そしてまた、真実なんて奴ぁ探しちゃいけない、あんなに不実なもんはないとも云うのだった。
「西域の古い言葉で失われた村の意味でさ。なんでも村人がみんな狂ったみたいになって死んじまったんだそうです」
 恐ろしいことで、と云いながら、男はやって来た女の客の相手をはじめた。
 私は何となく立ち去り難く、かといって商売の邪魔をして男の機嫌を損ねたくもなかった。
 ザアリ村のことをもっと聴きたい、否聴かねばならぬのだと自分に云い聞かせ、売り物の紗を手にとってみさえした。
 成り行きによっては少しばかり買っても構わぬ、情報料は惜しまないのが私の信条だ。
 私は噂話を訊ね歩くのを生業にしている。否、口の悪い友人なら道楽にしていると云うだろうか。
 噂といっても所謂スキャンダルではない。もっと得体の知れない、つまり秘匿された真実のある噂だ。
 曰く、あそこの羊が山羊を産んだそうだ、曰く、どこそこの街じゃ若い娘がたくさんいなくなったそうだ、曰く、南の国は空が落ちるらしい。
こうした人の口から口へと渡る噂の源を探し当て、噂の生成過程を解き明かす。
 噂の裏には大概風俗習慣に対する無理解や天災の教訓が隠されているものだ。
 ザアリ村というのもいずれその類だろう。だが村人がみんな死んでしまったとは穏やかではない。
 土着の宗教か、疫病か。
 一度訊ねてみる価値はあるだろう。
「そいつがお気に召しましたか、」
 気がつくと男が私に向き直っていた。さっきの女は帰ったらしい。
「お客さんは目が肥えてらっしゃる。そいつは手前が知ってる中じゃ一番腕の良い織り師の織ったもんで」
 そう云われて私ははじめて自分が手に取っていた紗を眺めた。
 神話に出てくるような不可思議な動物が織り込まれた見事な紗だった。単調な色使いが美しい。
 私はまったく素晴らしい、結構な品だと大急ぎで褒め、ところで、と切り出すと、男も心得顔でただの噂でございますがねと前置きして語りだした。



「お気に召しませんか、」
 女が炎に語りかけた。
 それが私にむけられた問いであることに気づくのに一瞬を要した。
 私は女の拒絶するような沈黙に気圧されて料理を褒めることを失念していたようだ。
 この辺りでは提供されたもてなしに手放しで感謝するのがマナーだと聞いていたのに。
 私は慌てて感謝の意を表し、すぐに褒めなかった言い訳をもごもごと口の中に仕舞った。
 幸いにも女は気を悪くした様子はなく、はっきりと言えば私のことなど眼中にないようであった。
「まだ言葉を覚えていてよかった。こうしてあなたとお話しできますもの」
 私は女が何を云い出したのかつかめず、
「ええ、そうですね」
 とだけ応えた。
 私はすでに女のペースに合わせることを放棄していた。
 そんな私の胸中を知ってか知らずか、女はようやく私を見た。
「不思議に思われませんか、私、喋っているでしょう」
 私は溜め息を吐いた。
「ええ、大丈夫ですよ、勿論。ただ私のアドバイスを聞き入れてもらえるなら、あなたはもっと召し上がるべきだ」
「そうね。でも今日は食欲がないのです。最近はいつもですけれど」
 よろしかったらどうぞ、と女は自分の皿を押し遣った。
「ああ疲れた。久しぶりにたくさん喋ったから顔の筋肉が疲れたわ」
 女は再び炎を見つめて黙った。その顔には疲労の色が濃く現れていた。
 しかし女を疲弊させたものは急に話をしたことばかりとは思われなかった。
 私はじっと待った。
「醜悪ね。私、まだ喋ろうとしている」
「話すことは醜悪ではありますまい、人は話すようにできているのですから」
「ええそう、コミュニケーションの手段に人は言葉を選んだ。対話する必要があったから。
 なんて文学的なのかしら。誰がそんなことを信じて、
 必要だったのは共通認識のためね。目の前にない何かを、ものでない何かを議論する時、
 言葉は必要だったに違いありません。特定の音を物に結びつけるのは人ばかりではないけれど、
 私たちは大変な数の音を造った。抽象思考にまで音を付けたでしょう、
 でも私には共通認識を持つ他人がありません。だから忘れてしまったってよかった。
 役に立たない物は忘れるようにできているのですもの、人って」
「しかし、そう簡単には忘れられないでしょう、人は言葉を使ってものを考えるのだそうですから」
「抽象思考はね。でもものなんて考えなくても生きていかれるのです。
 生活に必要な動作を一々言語に置き換えなくなって、誰に伝えるわけでなし、頭の中にイメージがあれば事足りましょう。
 それでもつまらないことばかり考えている。毎日毎日、繰り返し。時間だけは分けて差し上げたいほどありますもの。
 私はまだこんなに難しいことが考えられる、まだ言葉を忘れていない、まだ狂っていない。
 私、必要もない言語を手放すまいと必死なのです。あさましい。吐き気がする」
女は苛々と顔を背けて、すっかり日の暮れた窓の外を見遣った。



 風が強くなった。西国特有の黄色い砂が吹きつけてくる。
 事実上最西の村を出てからすでに半日が経過した。
 ここより西にぁだぁれも居りませんよ、と云った男の貌が落ちつきなく見えたのは私の穿ちすぎだろうか。
 そろそろ神殿が見えてきてもよい頃合いである。
 ザアリ村は元々修道院村であったらしい。大陸では一般的な「時の門人」を祀った神殿を中心に人が住みついたようである。
 辺境ながら大きな修道院で、往時は修道女もたくさんいたという。
 しかし何時の頃からか修道女は減り、村人も一人また一人といなくなったようだ。
「まだ遠いのですか」
 私は道案内を請うた若い男に訊ねた。
「なに、もうすぐそこでさ」
 悪い人間ではないのだが、なにしろこちらが訊ねなければ何一つ口を利かない男だった。
 あの村には近寄るもんじゃない、今頃はもう生きた人間の住む処じゃないと云う彼を、とにかく道案内だけでもと頼んで連れてきたのだ。
 話したがらぬのも無理はない。
 それでも私はこの若者からある程度の情報を引き出していた。
 事の起こりは原因不明の疫病だった。
 発病すると微熱や倦怠感がかなり長期にわたって続き(ときには一年にもなるという)、次第に思考力が冒されていく。 
 体力の低下により肺炎などを引き起こして死亡するまでに、ほとんどの者は脳を冒されて、自分が何者であったかさえ覚えていないのだ。
「ほんとに狂ったみたいになっちまうんです。否、違う、赤ん坊になっちまうんだ」
 小さな村は恐慌状態に陥った。まだ発病していない者は田畑を捨てて逃げ出した。
 家族から患者を出した者は感染者として村を出ることを認められなかった。
「うちの村にも随分逃げてきました。おおかたはもっと遠くに行っちまったが」
 事態を重く見た衛生局は医師を派遣したが、原因は究明できなかった。
 その間にも死者・感染者は数を増し、小さな村はあっという間に人口を激減させたのである。
 このとき衛生局が採った対策は実に驚くべきものであった。
 ザアリ村を(かつてはまだザアリ村ではなく、西の院村と呼んでいた)隔離したのである。
 村から出ることも、村へ入ることも禁止された。
 医師もなく、外部との交流を断ち切られた村はただ滅ぶに委せられたのだ。
「国は西の院村を見捨てたんでさ」
 若者はそういって頬を紅潮させた。
「怒っているのですね、」
 すると彼は、怒っているには怒っているが、それは自分に対するものだと云った。
「村の年寄り連中は何も云わないんだ。自分とこの村に累が及ばなけりゃどうでもいいです。こんなひどい話ってありますか、
 でも自分も同じなんだ。自分だって結局何も云わなかったんです、結局、」
 若者らしい怒りだった。
 そう云うと、彼はますます怒って押し黙った。どうやら青々しい矜持というものをつついて仕舞ったらしい。
 隔離されたとはいっても人の口に戸は立てられぬ。
 村の存在まで忘れられるとは少し不自然にも感じられるが、疫病騒ぎが起きる前から既に鄙の村だったようだ。
 若者の村の住人のように少しでも心に咎めるもののある者は口を開きたがらぬ。
 ザアリ村から逃げ出した者たちならば尚のことである。
こうしてザアリ村は人々の記憶から消えかけてきたのであろう。
「あれでさ」
 男が前方の石造りの屋根を指さした。
 もう口を利くまいと思っていただけに、そのぶっきらぼうな物言いが微笑ましくもあった。
「云っときますがもう生きてる奴なんかいやしません。旦那も狂っちまったって知りませんからね」
 男は云うだけ云うと、もと来た道を戻りはじめた。
 私はその背中に向かって礼を述べ、男の示した神殿を目指した。

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