烙印

著:文月瑠那

 街は、病んでいた───。



 噂が流れ始めたのは、いつ頃からだったのだろうか。
 恐ろしい、恐ろしい伝染病の噂。
 私が人づてに聞いた話では、その病気にかかった人の体には、青紫色の痣が出来るという。痣の出来た部分の組織は壊死し、やがてそれが全身に広まり、ぐずぐずに腐って死ぬという。
 感染経緯は空気感染とも言われているが、一番有力な説では接触感染である。
 そして何よりも恐ろしい事に、この病気に薬はない。
 痣が出来たら最後、それが広がり死に至るのをただ待つしかないのである。
 だから患者は一所にまとめられ、ひたすら訪れる死を待つだけの生活をする。治療法がないからそこに医師はいない。いや、かつて医師だった者がいることにはいたが、彼等もまた他の人々と同じ、死を待つ身であった。





 私がその噂を聞いたのは、もう半年くらい前であろうか。
 最初は、根も葉もない風聞だと誰もが思っていた。
 しかし、二ヶ月ほど前からそれはテレビや新聞でも取り上げられるニュースとなり、私の学校でも、クラスの人数が激減し始めた。親しかった友人達も、今ではもう半数くらいしか残っていない。誰も何も言わないが、いなくなったクラスメートは、発病して収容所に送られているのだろう。
 それが、一月前。


 私は、今逃げている。
 この一月で、街の様子はがらりと変貌してしまった。
 もう今では、病気に感染していない人を探す方が難しい。
 収容所に入りれなくなった患者は街に溢れ、ますます病気を広めていく。
 青黒い爛れた醜い痣は、私の脳裏に何よりも濃く焼き付いている。
「空気感染の噂は嘘だったんだね」
 私は唐突にそう言った。彼女は、急にどうしたんだと驚いた顔をした。
 そう、私は一人で逃げているわけではない。走る私の右手は、お姉様の左手をしっかりと握っている。お姉様といっても、彼女は私の姉ではなく同級生だ。
 「お姉様」というのは、4月の誰よりも早く生まれた彼女のあだ名である。
「どうしたの?」
 お姉様は、きょとんと首をかしげた。私達の背はほとんど同じだから、間近に不思議そうな黒目がちの瞳が迫る。
「だって、空気感染するなら、私もお姉様もとうに発病してておかしくないでしょ」
「触れなければ大丈夫なんだよね」
「そう。気を付けなきゃいけないのは、死体と、発病してる人。一番怖いのは、まだ服で痣が隠れてる人だよ」
 マジョリティとなった発病者達は、私達マイノリティの非発病者を見ると、仲間に引き入れようと手を延ばしてくる。そこに、助けてくれる者の存在はない。
 信じられるのは、確実にまだ発病していないとわかっている、自分と共にいる仲間だけである。
 私の仲間は、逃げ始めた当初は5人いた。今ではもう、お姉様一人しかいない。
 つい先日まで一緒にいた彩子も、今はいない。朝起きたら彼女はいなくなっていた。お姉様が、発病したんだってと私に向かってぽつりと言った。
 結局、私は発病した彼女の姿を見ることはなかった。だけど、最初に痣が現れたのが顔でなければいいと思った。可愛らしい彼女の顔に醜い痣が出来るということは、やがてそうなってしまうとしても、あまりにもむごい想像である。
 逃げ歩いていた私達の足は、何となく学校に向かっていた。
 数足の靴が散らばった、誰もいない昇降口を通り、階段を上がって教室に入る。
 人気のないがらりとした教室は、つい最近までそこで繰り広げられていた日常生活を思い出させて、悲しくなった。
 あそこに、私がいた。あそこにはお姉様がいた。あっちに彩子がいて、この辺には真美がいて───、
「他のとこ、行こうよ」
 私と同じ事を考えていたのか、お姉様がぽつりとそう言った。私も黙ってうなずいた。



 街には、人がいない。
 開け放たれた商店の中には店員がおらず、車道を走る車もいない。バス停はあれどもバスは来ない。
「誰もいないね…」
「だって、みんな死んじゃったもん」
 昼間の明るい日差しが、絵空事の様に虚しく私達に降り注いでいた。
「私達、最後の二人なのかな?」
「違うよ、あいつらはまだいる」
「そっか、まだいるよね」
 お姉様が言うあいつらというのは、感染者の中の過激派集団である。非感染者を見かけたら、積極的に感染させようとする連中で、彼等は何故か皆迷彩服を着ている。
 あまりにも特徴的だから、見分けは簡単につく。けれど、無法地帯となった街の中で、彼等から身を守るのは至難の業だった。彼等は───、銃器を持っている。
 どうしてそんな物を手に入れられたのかはわからないが、確かに私は彼等の手に銃を見た。発砲する姿も見た。あれは、多分マシンガンなのだろう。
「早く、死ぬといいね」
 数ヶ月前だったら、とても恐ろしい事を言う娘だと取られたであろう台詞を、私は平然と口にした。お姉様も、当たり前のように一つ大きくうなずいた。
 私達は、商店の割れたショーケースの中から菓子パンを取り出し、歩きながらそれを食べる。そこに、物を盗むという感覚はなかった。もう、売る側も買う側もないのだ。人のいなくなった街では、資本主義は崩壊している。店のパンを勝手に食べるのも、野山の草を摘むのも同じ事であった。
「これから、どこに行こうか」
 私達は、閑静な住宅街を通り抜け、ビルの建ち並ぶ方に向かった。
 歩いていて思うのだが、この街はとても狭い。
 一日で全てを回ることはできないとはいえ、街の中を全て徒歩で移動できる。かつて車が走っていた頃には、バスやタクシーで簡単に一回りすることができた。バスの中では、恒常的に非感染者達が笑いさざめきあっていた。
 もっと広い場所に出るための手段が何かあったはずなのだが、それが何かは思い出せない。お姉様に訊いてみても、彼女はそんなものの存在は知らないと言った。
「ここでいいんじゃない?」
 お姉様が示したビルは5階建てで、新しいとも古いともいえないくらいの建物だった。
 私達が今までいた場所は、昨夜奴等の襲撃を受けた。
 お姉様の手を引いて、私は隠れ家から必死に逃げ出した。外に駆け出してからは、私よりも足の速いお姉様に半ば引っぱられるような形で、やたら滅法右左の指示を出しながら走り続けた。どこに逃げれば奴等が来ないかなんて誰にもわからなかった。曲がり角ごとにお姉様が「どうする?」という態度をとるから、私は適当に叫んでいただけである。それでも、私達は奴等の視界から逃げ切り、それから今まで街を彷徨い歩いていた。
「何かさ、みんな嘘のようだよね」
 降り注ぐ日差しはこんなに暖かくて、静かな澄んだ空気が気持ち良い。
 けれど、そう言う私自身が、誰よりもそれが真実ではないことをわかっていた。
 目を閉じると、今でも脳裏に昨夜の惨状がまざまざと浮かび上がってくる。昨日私達を襲撃した「奴等」、あの建物には、私達以外にも非感染者のグループが数グループ住んでいた。
 夜中、平穏な眠りの空間を引き裂き鳴り響いた突然の銃声と、悲鳴、怒号。
 打たれて死ぬ者。腐り落ちる奴等の屍。血と膿の嫌な臭いの中、崩れ落ちる建物と銃弾の嵐の中から、私達は無我夢中で逃げ出した。
 追ってくる者はいなかった。他に逃げ出してくる者もいなかった。あの建物にいた人間は、感染者も非感染者も、私達以外全滅したのだろう。
 それが、昨日。
 それなのに、その出来事がもう夢か幻のように思えてしまうくらい、今日は暖かく心地良い。それだけ自分の感覚が麻痺してしまっているのかと思うと、ぞっとするが。
「ここでいいいね」
 元は何の建物だったのだろうか。私達は階段を上がり、コンクリがむき出しになった狭い二つつながりの部屋に入った。
「どっちにする?」
 手前側の部屋に無駄かもしれないけれど鍵を掛けて、両方の部屋に一枚ずつ布団を敷く。
「どっちでもいいよ」
「じゃあ、奥でもいい?」
「うん」
 ドアの向こうに消えていくお姉様は、昨日あんな事があったのだから当然かもしれないが、少し元気がないような気がした。だから、私は二つの部屋を仕切る壁に向かって、殊更に明るく言った。
「早く、寝ちゃおう。後しばらくここに籠もってれば、きっとみんな片付くよ」
 もうしばらくすれば、感染者達はみんな死ぬ。この悪夢の様な日々からは、もうすぐ解放される。例え残った人間が、私とお姉様の二人だけだったとしても───。
 私は布団に潜り込むと、ぎゅっと固く目をつぶった。
 ブラインド一つない窓の外から入る光はまだ明るかったが、昨夜から逃げまどって疲れてきっていた体は、あっという間に眠りに落ちていった。





 目を覚ました時、部屋はまだ真っ暗だった。
 もう一度寝直そうかと目を閉じた瞬間、私の鼓膜にかたり、という不審な物音が響いた。
「お姉様?」
 壁に向かって私は声をかける。
 物音は、彼女の部屋の方から聞こえてきた。
「お姉様!」
 彼女はまだ眠っているのだろうか、少し声を大きくして、私はもう一度呼んだ。
 かたり、がたり、という音は、まだ鳴り続けている。
 ───おかしい。
 いくら何でも、この音の中眠っているなんて。平和だった時ならまだわかるが、逃亡生活を続けているうちに、私達はどんな微かな音でも気付き、目覚めてしまう体質になっている。
「お姉様!!」
 私は大声で叫び、彼女の眠る部屋の扉を開けた。
 暗い部屋の中に人の気配はない。しかし、正面の壁から光の筋が洩れていた。最初に室内を覗いたときは、壁と同じ色で目立たなかったから気が付かなかったのか、あそこにもドアがあるらしい。
 不安に駆られた私は走って部屋を通過すると、そのドアをぐっと押し開けた。
 急にぱっと明るい空間が広がり、瞬間的に目がくらんで見えなくなる。
「お姉様?」
 私は目を閉じたまま、お姉様を呼んでみた。
「お仲間ならいないよ」
 見知らぬ男の声に、私はぱっと目を見開く。
 まぶしさに何度か瞬きをして、ようやく焦点を合わせた先には、青黒い顔をした迷彩服の男がいた。
「あ、あんた…」
「部屋を見ればいい」
「お姉様はどうしたの!」
「部屋を見ろ」
 男は私の質問には答えず、同じ言葉を繰り返す。
 背を向けた瞬間撃たれるか病気をうつされるのではないかと、私は男の位置に注意しながら、そっと出てきた扉を開けた。
 右手だけで壁をまさぐり、電気を点ける。
「見てみろ」
 喉の奥の方で嫌な笑い声を上げながら、男が言った。
 灰色のコンクリの床の上に、私の寝ていた部屋と同様に白い布団が敷かれている。片端が少しめくれ上がった掛け布団の、紅い柄が目にまばゆい。近付いてみると、白い布団の上に青紫色の染みがあった。
「ま、まさか…」
 私は男を振り返る。男は、また喉の奥だけで笑った。
「見ろ」
 ぴんと伸ばされた男の腕が、布団の上を通り、私の上を通り、背後の壁に向けられる。恐る恐る振り仰ぐと、そこにはぐしゃりと何かを叩きつぶしたかのように、赤褐色の血液の色が混じった、青紫がどろりと流れていた。
 暗い部屋を通過したときは見えなかった物の全てが、今白光の下に照らし出されている。
 私は、悲鳴を上げた。
 ぐっと胃の腑から酸っぱいものが沸き上がってくる。
「あの女は、もう感染していたんだよ」
「だって、そんな事」
「気付いていなかっただけさ」
「何で。そんなことあるわけないでしょ!」
「あるんだ」
「何で!」
「頭だ」
 男は、帽子の上からぐいと自らの頭に指を突き立てる。
 私は、全てを理解した。
 感染したお姉様の痣は、頭皮にあったのだ。
「…じゃあ……」
 その時、私の左手の肘が、じんと痛んだ。
 震える指で、私はシャツを恐る恐る捲り上げる。
 肘の関節の内側に、青い物が見える気がする。視線を逸らしたい気持ちを必死にこらえてその部位を凝視すると、10センチくらいの楕円状に広がる爛れた痣があった。
 私は絶望し、絶叫した。

*       *       *


 実際に声に出していたかはわからないが、悲鳴を上げてわたしは飛び起きた。嫌な夢を見てしまった。
 まだ夢の残滓が残っている気がして、わたしは二三回頭を振る。そして何気なく左手の肘の内側に右手を当てると、そこがじんと熱い様な気がした。
 あわててそこを見るも、眠るときは電気を全て落とす部屋の中では、電化製品の時計表示の明かりによる、ぼんやりとした腕の形の影しか見えない。
 わたしは恐る恐る立ち上がると、壁に付けられた電気のスイッチを入れた。
 ぱっと部屋が明るくなる。
 それに目が慣れるまで十数秒。
 室内の物がくっきりと見えるようになっても、わたしはなかなか腕に視線をやることができなかった。
 機械仕掛けになってしまったかのように重い首を動かし、ようやくやった視線の先には、パジャマの布地が広がっている。恐る恐るそれをまくり上げると、わたしはその場に座りこんでしまった。
 腕の内側は、青く染まっている。
 すぐにそれは先日病院でやった血液検査の際に、看護婦さんに失敗されて出来た内出血の跡だと思い出したが、しばらくはいい気持ちはしなかった。

                                 〜終〜

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