砂の部屋

 暮嶋有未:著

 オブジェのように歪んだ壁でできている、迷宮のような廊下を歩いている。
 廊下の幅は妙に広くて、まるでこの廊下そのものが一つの部屋であるかのように思え、わたしは途方に暮れた。

 ふいに聞こえてきた嬌声に目をやると、廊下に埋め込まれた鏡の奥で、鮮やかな緋色の着物を着た女が二人、身をひねり、袖を振って笑っているのが見えた。艶やかな紅を差し、濡れたような唇をしている右側の女の顔は、どこか見覚えがあるような気がした。

―同じ部屋の子だったかな…

 ぼんやりとした頭の片隅で一瞬そんな考えがうかんだが、何が「同じ」なのか、どこの「部屋」なのかもすぐにわからなくなってしまう。

―記憶の保存をしておかないと、こんな時に不便なのよ…

 ずきずきと頭が痛む。
 天地まるで関係なく廊下のあちこちにある鏡たちは、二重三重に合わせあい、反射しあっているので、わたしは彼女たちが本当はどこにいるのか、全くわからない。
 しばらく眺めているうちに、二人の女の姿はゆっくりと歪み、やがて消えてしまった。きっと、廊下のどこかにある鏡の位置が移動したのだろう。

 その時、廊下の奥から、私を呼ぶ声が聞こえた。
《砂の部屋》に行くようにと、その声は私に伝えている。

 そこでわたしはようやく、この奇妙な回廊が、待合場所もかねているのだということを思い出した。わたしは『訪問者』を迎える仕度の途中だったけれど、廊下のどこかにある鏡に映し出されたわたしの姿を見て、誰か『訪問者』の指名が入ったのだろう。

 わたしはちょうど右側に現れた鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を確認した。
水浴びをしたばかりのしんと冷えた身体は柔かな白いローブに包まれており、普段は高く結い上げられている長い髪も、同様にして頭に巻かれている。仄白い顔は、髪などで隠されるところがなにひとつないせいか、いつもより余計幼く見えた。

「このままでいいんですか?」
わたしがそう問うと、『訪問者』がそれを望んでいるのだと鏡の中から答えが返ってきた。
 変わった人だなと思い、ついでわたしはその人を知っているかしらと考えた。
 わたしには常連である『訪問者』が多いらしいのだが、わたしは人の顔を覚えることをしないし、記憶を保存しておくことも滅多にないので、いつもはそういったことに気をとめることもない。だが、何故かこの時は、それがひどく気になることのように思われた。

《砂の部屋》で、わたしは『訪問者』であるその男を迎えた。
彼は、一言も喋らなかった。
だからわたしも、一言も喋ることなく、ただ彼に身体を任せた。

 「砂の部屋」は文字通り砂で埋め尽くされた部屋で、熱した身体に、さらさらとした細かな粒子が心地よい。彼に抱かれながらわたしは、この前「砂の部屋」に入ったのはいつだっただろうと考えたけれども、やはり思い出せなかった。ただ以前にも、このような砂の上で、誰かに抱かれたことがあるのは確かなことのように感じた。

 砂はただそこにあり、わたしたちのすべてを受け止める。
 音も感覚も―そのもっと奥にあるものさえも。
 わたしは、自分とこの男が、いつしか砂に溶けてしまうのではないかとぼんやり思った。

「白い砂だ…」
右手に握り締めた砂をさらさらとこぼしてわたしがなんとなくつぶやいた時、
「海の砂だからだよ。」
わたしを抱きしめたまま、男がふいに耳もとで囁いた。
それは驚くほど低く、芯まで響くような声で、わたしの身体はほんの少し震えた。
「海の砂?」
横たわったまま眼差しだけを動かしてわたしが問うと、
「そうだよ。君はいつも決まってそれを聞くね。」
彼はそう言って、やはり低い声で小さく笑った。
「そうなの?ごめんなさい。」
つられて微笑んだわたしに、彼はぽつりと言った。「私がね…」
「私が、砂の色を変えているんだよ。」
彼は、目許だけをほころばせてもう一度微笑んだ。

…どうしてだろう?何故だかわたしは、ひどく悲しいような気持ちになった。

「ごめんなさい。わたし、記憶の保存をしないものだから…」
やっとのことでそう言うと、彼は砂を握ったままのわたしの右手を掴んで、そっと自分の頬に寄せた。
「この白は、無機物の色じゃないんだ。月光の下で眠る、珊瑚の死骸の色なんだよ。
 …海の、もうひとつの色だ。」
 微笑んだまま、彼はわたしの右手を静かに開いた。
 真っ白な粒子が、彼の骨ばった頬に音もなく降り注ぐ。
わたしは苦しいくらいに息を詰めて、ただただその光景を見つめていた。
「だが、このことは忘れていい。…いや、忘れてほしい。」

 彼がそう言った時、わたしは頷くことしかできなかった。

わたしが、自分が涙をこらえているのだということに気がついた時、彼は目を閉じて囁くように言った。
「――ありがとう。」
 そうして彼はもう一度、わたしを抱きしめた。

 …なにか悲しい夢をみたような気がする。

 目覚めると、彼は身なりを整えて、部屋を出ようとしているところだった。
「また来るの?」
 わたしは自分の上に掛けられたままの彼のコートを無意識に握りしめながら、砂の上に上半身だけを起こして、そっと聞いた。

彼は黙ったままわたしの額に口づけて、そうしてほんの少し微笑んだ。
わたしはなにか言おうとして―
― 結局、何も言うことができなかった。

 ただ、涙が出た。

 わたしの眼から音も無く零れ落ちるその水滴は、足元の乾いた砂に吸いこまれ、
やがて消えた。

fin

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