「夏の花が好きな人は、夏に死ぬ」
小説にあったこの綺麗な呪縛のような言葉を、馨一がいつも心の奥に眠らせていることを知っていた。彼がそれを口にしたのはたった一度だったけれど、その時の声の響きが、温度が、なによりも雄弁にそれを物語っていた。
わたしの庭で、歌うように呟いたその横顔は、姉の書斎の前を通りかかる時とそっくり同じ、笑みとも愁いともつかない表情を湛えていた。
「わたしは、5月に死ぬと思う」
馨一は、知っていたのだろうか?
彼にそう微笑んだあの日から、約束のように、祈りのように――わたしがその答えを心の奥に眠らせて、信じ続けていたことを。
5月の空は光の色をしている。
視界の端に映るときには、雲が溶けこんだような淡い色をしているくせに、ふと思い立って見上げると、まぶしい光ばかりが、目の裏に残像を残す。
*
今朝目が覚めて、わたしははじめて、ひとりで姉の書斎に入った。
書斎は、階段を降りてすぐのところにある物置を改造して作った、小さな空間だ。
馨一の本が半分と、姉の本が半分。びっしりと本で埋められ、人が2人以上入るといっぱいになってしまうこの場所を、姉は家の中のどの場所よりも気に入っていた。
「ありがと、寧子」
この書斎を作った日の姉の満ち足りた笑顔、天窓からの光を集める長い髪を、わたしは昨日のことのように鮮明に思い出せる。
「寧子の本も置いていいからね」
姉は何度もそう言ったけれど、わたしは自分の本を置くどころか、この部屋にひとりで入ることさえできなかった。
書斎は、姉の聖域だった。
わたしたちが両親の死後ずっと暮していたアパートを引き払って、馨一の住むこの家に移り住んだのは、去年の秋のことだ。
馨一は21歳で、姉ともわたしとも、ちょうど3歳ずつ離れている。
姉と馨一は、去年の1月に知り合った。
「寧子、1週間後に引越しだから」
9月に入ったある日の夕飯時に姉がそう言うまで、彼はほとんど毎日、わたしたちの住むアパートに通っていた。
書斎を持つことが夢だったのと笑った姉に、馨一はそれならこの機会に作ろうと応えた。
「だって瑞江さんの荷物、半分以上が本でしょ?」
馨一は優柔不断なくせに、一度決めたことに関しては異様なくらい行動が早かった
引越しの日、彼はやってきたわたしたちを置き去りにして、書斎のドアを作るための蝶番を買いに出かけていった。
その日のことは、とてもよく覚えている。
「本棚はどうするの?」
玄関口でそう問いかけたわたしに、馨一は真顔で、そんなの後回しだよ、と答えた。
「書斎の入り口が観音開きの戸だと、使いにくいだろう」
順番も論理もめちゃくちゃだと思ったが、屈みこんでやたらと力強く靴紐を結ぶ彼の後姿を見ていたら、わたしは何も言えなくなってしまった。
馨一の濡れた落ち葉がたくさんついた靴の裏や、薄緑の開襟シャツから覗く頼りない項が子どものようで、せつなかった。なにかを彼に、伝えたかった。
靴紐を結び終えて降りかえった馨一は、混乱して涙ぐむわたしを見て、少し驚いた顔をした。彼は訳もわからずごめんねと謝り、壊れ物を触るようにわたしの髪を撫でた。
「あとで、寧子の庭も作るから」
傷ついた動物を見るようなやさしい彼の目に、わたしは何度も首を振った。なにかを言おうとして口を開いてはみたものの、言葉はなにひとつ出てこなかった。
「いってらっしゃい」
その時、奥の間から一瞬だけ顔を出して姉が叫んだ。
ふわりと翻った彼女のワンピースの裾が、残像のようにわたしたちの網膜に残った。
綺麗なオレンジイエロ―は、明るい姉の顔立ちによく映えて、蝶々のようだった。
わたしたちはしばらくの間ぼんやりと、姉のいたその場所を見ていた。
吹きぬけの高い位置にある窓から、夕方の陽射しが降り注いできていた。
「…いってきます」
馨一は、困ったように笑うと、わたしの目を見て、もう一度繰り返した。
「大丈夫だよ。…いってきます」
馨一の出ていったドアからは、一瞬だけ、ばら色に染まりかけた秋の空が見えた。
*
「何かを得るってことは、何かを信じられるようになるってことだよ」
かつて馨一は、わたしにそう言ったことがある。
「寧子が自分は何も持っていないと思うのは、寧子自身が、何も信じていないからだよ」
彼もまた、姉の書斎にひとりで入ることができなかった。
彼がわたしのためにつくってくれた庭に、わたしは姉の好きな花の苗をたくさん植えた。
「春になったら、たくさん咲くよ」
慰めるような自分の声の調子に戸惑いながらわたしが言うと、彼は石段に腰掛けたまま、こっくりと素直に頷いた。
微かに白い冬枯れの空は、あるいはわたしたちによく似合っていたのかもしれなかった。
わたしと馨一は、とてもよく似ていた。
*
姉はわたしに何でも話したから、わたしは馨一に会うずっと前から、彼のことをたくさん知っていた。美大で油絵を専攻していることや、大きな家にひとりで住んでいること。
好きな画家に作家、音楽のことはもちろん、彼の手と腕の形がとても綺麗なことや、左の目の下にほくろがあって、笑うと少し幼く見えることも、全て。
馨一にはじめて会ったのは、姉の勤め先の図書館がある市立公園の中だった。
3月半ば、地面の上に、うっすらと筆で刷いたように雪が残っていたことを覚えている。
馨一とわたしは、なぜか揃って真っ白なダッフルコートを着ていた。
「あなた達の方がきょうだいみたい」
寒さで鼻の頭を赤くした姉は、子どもみたいな笑顔でそう言った。
「そうだね、僕もそう思う」
長毛種の犬みたいな前髪の下で目を細めて、馨一がわたしに微笑んだ。
実際の馨一は、わたしが想像していたよりも、ほんの少しだけ背が高かった。
翌月、わたしははじめて姉以外の人間に、わたしの庭を案内した。アパートの裏にある猫の額みたいに狭いその庭を、わたしは9つの時から6年間、ひとりで管理していた。
「どの季節がいちばん好き?」
ひととおり植物について質問した後、馨一は屈んで葉に触れながら、ふいにそう聞いた。
表情の全く読めない、整った横顔で。
「…夏かな」
膝を抱えるようにして屈みこみながら、わたしは目の前にある、カモミールの花に手を伸ばして答えた。
「夏の、はじめ」
この人もきっとそうだろうと思った。
花びらを掴む指が微かに震えた。つめたく心地よいなにかが胸の中にすうっと広がってゆくような、不思議な感覚があった。
「じゃあ夏の庭が、いちばん綺麗なんだね」
長い前髪を風に遊ばせながら、彼はゆっくりと言った。
斜め下から見上げた馨一は、わたしの庭の中、背景の水色の空になじむことなく、奇妙に浮いて見えた。
「夏の庭にも、来ていいよ」
逆光の中、眩しさに目を細めながらそう言葉を返すと、馨一は静かに微笑んだ。
*
サンダルとセミの声、蚊取り線香の白い煙。
アパートの裏のあの庭は、もうどこにもない。
彼の家で新しい庭を作りながら、わたしは繰り返し繰り返しあの真夏の庭を思った。
姉の帰りを待ちながら、日がな1日ふたりで過ごした、わたしの庭のことを。
「お姉ちゃんのこと、好き?」
彼が図書館で借りてきた画集を見ながら、わたしは彼に問い掛ける。
「うん」
日に焼けた麦藁帽子を被った彼が、わたしの庭に水を撒きながら、答える。
「好きだよ」
なぜ姉が、わたしを連れて彼の家に移ることを決意したのか、わたしはついに聞くことができなかった。
姉は、一月前に他界した。交通事故だった。
ニュースでは桜の開花宣言が成され、わたしの庭でも、姉の好きな色とりどりの花が、咲き誇っていた。
*
今朝目が覚めて、わたしははじめて、ひとりで姉の書斎に入った。
馨一の取りつけた真鍮の重いドアノブを引く時、少し手が震えた。
わたしは目を閉じたまま、息をつめるようにしてその場所を開いた。
書斎には、馨一がいた。
馨一は籐製のアームチェアに深く腰掛けて、頬杖をついていた。
本の独特の匂いに埋められた部屋の中、天窓から降り注ぐ光が彼の横顔を明るく照らしていて、それはまるで教会の絵のような光景だった。
「馨一」
彼の眠りを覚まさないように、わたしは小さな声で彼の名を呼んだ。
窓の外から鳥の声が微かに聞こえる以外に、そこには何もなかった。
姉のたてる伸びやかな笑い声も、それに応じる馨一の低い囁き声も、わたしの沈黙も…もうどこにもなかったから、わたしははじめて、彼の名を呼ぶことができた。
「馨一」
天窓の上に広がる空は、光の色をしている。わたしの涙は頬を伝って、裸の首や胸へと落ちてゆき、やがては体に巻きつけていたシーツを濡らした。
彼に歩み寄り、その手や頬が冷たいことがわかっても、わたしは幸せだった。
*
「夏の花が好きな人は、夏に死ぬっていうね」
わたしの膝の上に広がった画集を覗きこみながら、馨一は言った。
「この庭って睡蓮は咲かないの?」
1年前の、5月のことだ。
「咲かないよ。だって池がないじゃない」
笑いながら顔をあげると、彼はもう既に水道の近くに移動して、ホースをひっぱりだしていた。
「水やってもいい?」
「…いいけど、少しね。」
池は作らないでね、と言うと、彼は声をあげて笑った。
「睡蓮、好きなの?」
そう聞くと、彼は、さあ…と首をかしげた。
「寧子は?」
ホースの先から、水のアーチができる。きらきらと光る水飛沫が、綺麗だった。
「花って、苦手だから」
うっすらと浮かぶ虹の向こうの馨一を見ながらわたしが笑うと、
「そういえば僕も、それほど好きな花ってないなあ」
そう言って、馨一もわたしに微笑んだ。
水を含んだ夏の緑が重そうに風にそよいだ。
その時馨一は、夢のなかのようにゆっくりと、空を見上げた。
光の色の、5月の空。
「わたしは、5月に死ぬと思う」
それは叶わない約束であり、届かない祈りだった。
それでもわたしは、馨一に伝えたかった。
(わたしたちは、夏のはじめに死ぬと思う)
*
書斎から出て、わたしは庭に向かった。
納屋から一番大きなスコップを出し、庭の隅を、黙々と掘った。
明るい空の下、それはとても幸せな仕事だった。
「あら寧子ちゃん、精が出るわね」
向かいの家のおばあさんが、道路からわたしをみつけて、にっこりと笑った。
「お姉さん、お元気?」
「お義母さん…!」
後ろからやって来たお嫁さんが、あわてておばあさんの方に駆けて来る。
「はい、元気です」
わたしはお嫁さんに目で会釈すると、おばあさんにむかってゆっくりと肯いた。
「義兄も姉も、とても元気です」
「そう、よかったわ」
お嫁さんが、申し訳なさそうにわたしに黙礼した。
「今度は何を植えるの?」
おばあさんが目を細めてそう問うのに、わたしは馨一のように答える。
「池を、作るんです」
――何だよ、急に。
あの日馨一は、茶化すように笑って、ホースをこちらに向けた。
そして彼は笑顔のまま、もう一度ゆっくりと、空を見上げた。
――新しい庭には、池を作ろうか…
池を作ろう、馨一。
わたしたちの庭に、池を作ろう。
池には、空が映るだろう。
光の色の5月の空が、わたしの庭に、咲くだろう。
「わたしたち、空の庭で、もう一度会うんです」
わたしは、ゆっくりと微笑んだ。