山の手の大学の脇に細い坂道がある。
不忍通りと目白通りを結ぶおまけのような坂道。
わざわざ丁字路まで出なくてもよいショートカットであるが、ここを通る者は意外に少ない。
幽霊の通り道だから。
そう云うと、そんなこと考えるのはあんたたけでしょ、と友人は嗤った。
両側を高い塀に囲まれた逃げ場のない道は若い娘には危険であるから、というのがどうやら正解のようである。
やれやれ、女というのは難儀なものだ。
そういうあんたは何なのよ、と友人が訊ねる。
別に答えを期待している問いではない。その証拠にこう続けた。
だいたい幽霊なんて今どき流行らないぢゃないの。もう一寸ましな冗談はないの。
どんな冗談ならましなのだろうか。
わたしとて幽霊を信じているわけではない。
しかしこの坂が地元の人に幽霊坂と呼ばれているのも確かだ。
人通りの減る夕暮れ時など、落とした物が独りでに浮かび上がるのだそうだ。
昼間子供が落としていった通学帽、女物のハンケチ、ずっと捨てられたままの壊れた折り畳み傘。
そんな物が薄暗がりの通りを人知れず浮遊する様を想う時、わたしの背中をつと寒いものが奔る。
莫迦々々しい。
そう、とても莫迦々々しい。子供でもあるまいに、つまらないことを怖がるなんて。
しかし。
幼い頃生理的に記憶された恐怖はけして褪せるものではない。
ビジュアルが伴えば尚のこと。
つまらない冗談と云われようと、わたしの眼前を浮かぶ白いハンケチが失せることはない。
何よそれ。ちっとも幽霊じゃないぢゃないの。
そうだろうか。
そうよ、幽霊なら恨めしやって云うもの。
そうかも知れない。だいたいわたしが本当に怖れているものは幽霊ではない。
幽霊ならば夕闇の迫る頃とか丑三つ時に現れるのだろうが、なにしろそれは真っ昼間にやってくる。
丁度今日のようにわんわんと耳鳴りのするような暑い日に。
それなら通らなければよいぢゃないの、と彼女の声が聞こえるようだ。
本当に。我ながら莫迦なことしている。
本当に?坂道が怖くて遠回りする方がよっぽど莫迦げていやしないだろうか?
こんな暑い日に。
何を好んで炎天下の大通りを歩く人があるだろう。
怖れることなど何もない、ただの坂道だ。
怖れることなど何もない。
怖れることなど何もない。
寝台には紙のように薄い少女が横たわっていた。
消毒液の匂いがする。
板張りの床は塗られた蝋が剥がれて濁り、腐ってぐすぐすと音をたてた。
漆喰の塗り壁は所々剥がれ落ち、碧翠色の黴に侵食されている。
建て付けの悪い嵌め殺しの窓が寒風にカタカタと鳴った。
ここは病室のようだ。
足許から這い上る冷気が不快で居心地が悪い。
高足の台に乗せられた真鍮の洗面器には秋桜色の消毒液が張られている。
ふと熱心な視線を感じて少女を見た。
目が合った。
「それは私の血の色なの」
少女は嗤っているようだった。
紅の唇が蒼ざめた貌によく映えた。
「さっきそこに垂らしておいたから。そのうち壁も床も染まります」
何の話だろうか。
ここは不快だ。
「人の血液には鉄分が多いからいつまでも明くはありません」
ここは寒い。
「それでもそれは私の血の色です」
少女は嗤っているようだった。
びいどろの眼がわたしを捕らえている。
わたしはこの少女に喰らわれるのだろうか。
まっすぐの視線に括られることに怯え、わたしは窓の外を見遣った。
歪んだ凸凹のガラスの向こうに歪んだ桜の樹があった。
既にほとんど葉は落ち僅かばかりの黄色い葉が風に煽られている。
「あの葉っぱはわたしなの」
少女の視線がわたしの首を締めつける。
「あれが落ちたときわたしも死ぬんだわ」
風の通り抜けるようなひゅるひゅるという声がうたった。
少女の視線がわたしの背を這う。
少女の視線がわたしの脚に絡む。
少女の視線がわたしの脳を犯す。
ここは不快だ。
「きみの命は」
ここは寒い。
「随分と軽いのですね」
返事はなかった。わたしは視線から解放された。
わたしは何時になく寛大になって振り返った。
少女は人形のように眠っていた。
わたしは病室を出た。
こんなにも簡単なことが、あの少女にはできなかったのだ、あの時わたしにできなかったように。
わんわんと耳鳴りがする。
ここは、
山の手の大学の脇の細い坂道だった。
また、白昼夢を見てしまった。