クロッカス
Wani:著
ファーンが私達の守り神だった。
ファーンは、黒味がかったコリー犬種でアメリカで生まれ育った。飼い主のローリーさんは少年の頃からファーンを可愛がっていたが、23歳の時に徴兵されて、ネバタ州の田舎町から地雷の散らばるヨーロッパの東の方へ、ファーンを一人おいて行ってしまった。「すぐに帰ってくるからね。」と言い残して。
ファーンは待った。丸太でできた河沿いの小さな家で10年待った。それでも、ローリーさんの帰ってくる気配はまるでなかった。電話も、手紙もなかった。10年目の冬にはじめて、ファーンは、もうローリーさんと一緒にハドソン河で鱒釣りをしたり、カヌーくだりをしたり、森の中でローリーさんのためにトリュフにするきのこを探したり、鹿撃ちをしたり、二人の誕生日やクリスマスにローリーさん自慢の特製ハンバーグを食べたりすることはできないのかもしれない、と思って悲しくなって暖炉の前で泣いた。10時間くらい泣いた。窒息しそうになって、深呼吸をして、それからファーンは、ローリーさんのいるところへ行ってみよう、と決めた。
もし、ローリーさんが生きているのなら、また一緒に暮らしたいし、死んでいるのなら、お骨を拾ってこよう、と思っていた。それからが実に気の遠くなる話だ。
ファーンは30年かけて世界を巡った。氷河に乗って太洋を渡り、ラッコの親子をしゃち鯱から守り、南の島で花々とサボテンの大きさに感動し、自称ロマノフ王朝の生き残りだという乞食の未亡人にホワイトシチューの施しをうけた。マフィア同士のやばい伝令に走ったこともある。あやしげなドックショウに出て資金稼ぎをしたこともあった。いよいよ戦場が近くなると、背後に銃弾をうけながら国境越えをし、負傷兵をキャンプまで運んだ。その兵隊が「ママ、ママ、」と泣きながらクリスマスに死んでいったのを見て、自分はなんて遠くまで来てしまったんだ、とはじめてホームシックにかかりかかったが、地雷探査隊として軍隊で働くことになり、功績を残した。
ファーンは軍隊で少将にまで地位を上げ、勲章を貰い、戦争の終結とともに母国に帰還することとなった。帰還時にはパレードが行われた。
結局、当初の目的は果たされないままの帰国となり、意気消沈して丸太小屋に戻ってみると、ファーンよりも5年早く任務を終えて帰っていたローリーさんがいた。そして、すでに別の犬を飼っていた。同じコリー犬だった。
二人が仲良く暮らしている様子を見たファーンは、元飼い主と顔を合わせる前に黙ってその場を去った。もうこの家に自分の居場所がないのはわかったし、ローリーさんは貧しいので家族がこれ以上増えるのは無理だ、ということもわかっていた。ファーンは玄関ドアの前できびすを返すと、そのまま涙を振り切るように走りつづけた。走りつづけてそのまままた世界を一周する旅になった。その旅は、それから50年、世界中から戦争がなくなるまで続いた。その間に、ファーンは世界的に有名な犬になっていった。彼は私達が生まれるずっと前から旅を続けてきたのだ。
だが、私達は彼の背負っていた具体的な物語を知らなかったし、知りたいと思うこともなかった。ファーンが時々テレビのCMなどに出演するのを見ていたが、私達にとって彼は「平和の象徴」であると同時に、長い年月の間にあまりにも多くの象徴になりすぎていて、例えば、アメリカ、忠誠、旅行記、基金、愛、といったものだが、なんとも気に留めるべくもないほどありふれたものだったのだ。あれは、99年の花咲ける5月。
私達は、オーディションの結果集められた女性5人組で、デビューまでの合宿という名目の同居を始めたばかりだった。お互いにまだ緊張が解けない時期だった。個性の強すぎるメンバーぞろいで、一緒に生活していても共通点が見出せなかったし、会話も少なかったし、このグループではだめなんだろう、というムードが漂い始めていた頃だった。そういう中で、あきらめ、というよりもむしろ苛立ちを感じているメンバーがいたとしたら、唯一、オーディションの主催者でもあったジェリだったと思う。
ある朝、ジェリが朝食をとりながら新聞を読んでいた。メンバーの中で新聞を読むのはジェリだけなのだが、その彼女が突然「ぎゃーー」と叫んで、何事かと思ったら、コンビニに走っていって週刊誌を買ってきた。その雑誌にはなんと一世紀弱続いた漫画の最終回が載っていた。私達は一冊の本を中心に取り囲むようにして床に転がりながら、はじめて漫画でオリジナルの本物のファーンを見た。
私達はすぐさまファーンに手紙を書いた。
「ハロー、ファーン。私達は今、丘の上の赤い屋根の白いおうちで暮らしているの。あなたにもう行き場所がないのなら、私達と暮らしませんか?クロッカスガールズより。」こうして、ファーンは私達の家族になった。ファーンが来てから、グループの関係性が少しずつ暖かいものに変わっていった気がする。それは、ファーンが潤滑油になっていたからなのだ、ということに最近気づいた。当時は必死で見えていなかったことだが。
こんな風に、クロッカスガールズは、不思議な拾い物をよくしていた。
そんな、自分たちの運命を変えた拾い物の中の一つについて、これから語ろうと思う。それは、偶然私達の前に落ちてきて、すぐさま拾い、そして突然失われた。
そのことについて思う時、喚起される感情は沢山あるが、今は冷静に話せる。そうなるまでに時間がかかった。そういう種のものだ。だってこれは私の青春そのものだったのだから。