睡夢の淵

過ぎし日のわたしとの合作 :ユーコ

    *** 序 ***

 

「あなたって、なんなの?」
 今にも泣きだしそうな顔をして、そうわたしにたずねたのは、ほかでもないわたしだった。それでわたしは考えた。名前とか住所とか、そんなもので、答えになるのかしら。わたしという存在は、そんなことで証明できるの?信じられるの?わたしという存在、ここという場所。大きな宇宙の一点でしかないちっぽけなわたし。
 なんだかわたしは、疲れている。「只生きる」ことに疲れている。わたしの存在ってなんだろう。わたし何をしたくて生きてるんだろう。そんなことすらわからずに、空腹を満たしたり、呼吸することさえめんどうに感じられる時がある。ましてや、日常にさしせまるたくさんの悩み。それと戦う意味が、わからなくなる。
 わたしは旅に出ようと思う。夜、誰も知らないところへひとりで出かけよう。まるで吟遊詩人のように、疑問ばかり記された詩(うた)を抱いて、魂の底の眠りの奥で、ゆっくり考えよう。ここからは遠い、わたしだけの国で。

1、不安の湖とカイ

わたしは小舟に座っていた。水面から立つ霧に包まれて辺りは白く、何も見えない。わたしも真っ白なワンピースを着ていて、危うく辺りに溶けてしまいそうだ。ここは、どこだろう…。
「お目覚めですか、お嬢さん。」
 突然の呼びかけに辺りを見回す。声の主は見当たらない。
「お嬢さん、わたしですよ。カイです。」
 しゃべっていたのは、小舟の先頭だと思っていた部分だった。魚の頭の形をしたそれが、振り返ってわたしに声をかけていたのだ。
「カイ?」
「そうですよ。いやだなあ。あなたの船じゃないですか。」
 えらを動かしながら流暢にしゃべっている。よく見れば、船全体が銀の堅い鱗で覆われている。後ろでは、すべらかな尾びれが優雅に水をかいていた。
「ここは…どこ?」
「湖ですよ。不安の湖。」
「みずうみ…。ふあんの…?」
「そうですよ。落ちないように気をつけてくださいね。ここで泳いだらたいていの場合助かりませんから。」
 わたしは、恐る恐る船から水面をのぞき込んだ。ゆらりゆらりと奇妙に波立っている。
「湖?」
「そうですよ。どうかしましたか?」
「海じゃなくて?」
「ええ、湖です。」
「でも波が…」
 言いかけたとき、霧の奥でピシャンと水のはねる音が聞こえた。
「何かいるのかしら」
「水以外は何もいませんよ。だいぶ岸に近くなってきましたからね。水の不安が強まっているんです。」
「どういうこと?」
「水が不安に揺れているんです。引き込まれないように注意してください。」
 わけがわからず、聞き返そうとした時、トプンと波が船にひっかかった。
「ほら来た。お嬢さん、しっかりつかまって。」
「この水、生きているの?」
「違いますよ。ただここの水は感情の塊なんです。不安で不安で、誰かにすがりたくて仕方ないんです。」
 波の手がわたしに向かって差し伸べられる。カイはやっと見えてきた岸に向かってスピードを上げた。わたしは波の立てる心細そうな音に耳をかさないようにして、カイにしがみついて目を伏せた。
「ご無事ですか、お嬢さん。岸に着きましたよ。」
 カイの声に顔を上げると、煙るような霧の向こうに黒々とした深い緑の森が威圧的にそびえているのがかいま見えた。
「波に足をとられないように、気をつけて降りてくださいよ。」
 船から乗り出して下を見ると、ちゃぷちゃぷとさざ波が揺れていた。寄せては返し、寄せては返し…。その動きにも不思議と不安を帯びて見える。
「さあ、お嬢さん。」
 カイにうながされて船を降りたわたしは、それから次の瞬間途方にくれた。
「えっと、わたし、ここへ何をしに来たのかしら。」
「さあ。でもそんなこと、いちいち考えるほどの事でしょうか。」
 けれどわたしは、考えていた。カイが言うようにお気楽な気持ちにはなれないでいた。
「だって、目的がなかったら…」
 わたしはちょっと考えてから後を続ける。
「何にもできないわ。」
「すべての存在は、目的など持たずにそこにあるものですよ。」
 カイは、学者のような口ぶりでしみじみと言った。
「じゃあわたしは、ここへ来てどうしたらいいって言うの?」
 そう言うわたしは、カイと議論をするつもりでもなんでもなくて、純粋に自分を持て余し、混乱していた。わたしが半泣きになりかけると、足もとの水が素早くうねって足首にまとわりついた。
「お嬢さん、心を乱さないで。水に隙をつかれますよ。」
 カイが素早くわたしに言う。生ぬるい水の感触に身震いしながらわたしは答えた。
「でも、そんな意味のない存在だなんて言われたら、わたしどうしていいか…」
「無意味だなんてとんでもない。あなたはここにいるんです。そしていつもいるとは限らない。いつ掻き消えてしまうかもわからない。だから、意味はあるんです。与えられた時間は大切に扱わなくては。」
 古典劇を暗唱しているようにすらすらとカイは言った。その言い方は、なんだか腑に落ちず、わたしの勘にさわった。
「だって、わけもわからず、わたしはいつの間にかわたしで、いつのまにかここにいて、それで、ただ生きていられるほど与えられた時間は楽じゃないわ。」
 わたしはとにかく困惑していた。なぜそんなにいらだったりするのか自分でもわからないくらいだった。
「どうしていいのか、わからないのよ…」
 わたしはうつむいたまま、ぼんやりと呟いた。ひどく疲れてでもいるのか、ふわふわと落ち着かない心地だった。
「ヒビキ女王にお会いなさい。」
 カイは唐突に言った。
「それ誰なの?どこにいるの?」
「この国のどこかにおられます。はっきりと所在はわかりませんが、会えばきっとお嬢さんのためになると思いますよ。」
 わたしはカイの言葉を聞きながら、少し気持ちを落ち着けた。足元で不穏に波を立てていた水も次第に凪いできた。
「ここ…なんなの?わたしの知らない国?」
「いいえ、よく知っているはずの、けれど知るのが難しい国です。目覚めて忘れてしまった夢のような。例えば眠り。『睡夢(スイム)』です。」
 カイの言葉を聞いた瞬間、わたしは頭の芯がじんとしびれたように麻痺した。思い出そうとすればするほど、忘却の彼方へ遠のいて行く。そんな感じだった。そしてわたしはカイの言葉が、確かな意味を持って認識することができなくなった。
「ありがとう。あとは自分で考えてみるわ。わたし、とりあえずでかけます。」
「その意気ですよ、お嬢さん。さしあたり、この湖沿いに婆さんが住んでいるから、そこで休ませてもらうといいでしょう。陰気くさい婆さんですが、そんなに悪い人じゃありません。それでは、ここでお別れです。」
「また会える?」
「お望みならいつなりと。」
 カイの言葉を額面どおり受け取ったわけではないものの、わたしは少しほっとして笑顔になった。
「それじゃ、また」
 わたしは、カイと不安の湖に背を向けて歩き出した。

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