夢の話
記録:蒼乃 瑚音
冬のある日のこと。大学の休みを利用して、私はマホとアイコと東京近県のちょっとした山に
ある温泉地へと足を向けた。早朝駅のホームで待ち合わせ、列車に揺られること1時間半くらい
だったろうか。列車の中でこの小旅行の企画者であるマホが宿泊を予定している旅館のパンフレッ
トを見せてくれた。列車を降りた駅のロータリーは1、2台のバスと2、3台のタクシーが留まれるほどの、如何
にも田舎の駅といった感じのこじんまりとしたものであった。旅館へ行く路線バスの出発時間に
はまだ随分と時間があり、駅前には小さな商店しかなく時間もつぶせなかったから、私たちはタ
クシーを使って山の上の旅館を目指した。タクシーは、枝葉が覆い被さるような曲がりくねった道を上へ目指し進んでいった。何故か青
々とした葉を茂らせた木々が続き、耳を切り裂くような風の冷たさや数日前のものであろうか、
木々の根元に残る雪がなければ冬であるということも忘れてしまいそうであった。「この温泉マークは何だろう?」
パンフレットについていた地図を見ていた私が言った。
山の中腹あたりに、目的とする旅館のある温泉街とは別に小さく温泉のマークがある。平べった
い丸から3本の湯気の出ているあれである。
「えー、せっかくだから行ってみようよ。」
とは好奇心旺盛なアイコ。
「そうね、時間もまだ結構あるし。そのあとバス停からバス乗って。あとできればせっかく空気
のいいところに来たんだからちょっと散歩もしようよ。」
私に目で同意を求めながらマホも言う。
「そうだね。よさそうだったらそこでもまたお風呂入っちゃうってのもいいしな。」旅先での開放感とそれに後押しされた気まぐれが、恐怖への始まりであったことはその時の私
たちには知る由もないことであった。
タクシーは道が大きく右に曲がっている、坂の途中の展望台のような所で止まった。生憎空は
薄曇で少し霧も出ているらしい。そこから麓の景色を臨むことはできなかった。日頃から割と地
図を見慣れている私がパンフレットを眺めて、3人は先ほどの温泉マークへと向かった。
「道路の反対側なんだけど、林だしあの崖の上登るトコある?」
崖、といっても斜面を切り崩して道路を通すためにできたものみたいだから、2m位だろうか。
「あそこに木の手すりがあるけど?」
マホが目ざとく、崖のくぼんでいる所に少しばかり古くなった手すりを見つけた。近くに行くと
大?温泉(一部かすれて読めず)という字も読める。あまり土の上を歩く格好ではなかったが、
踏み固められて土の露出した道を奥へと進む。左右は杉の林だろうか。背が高く上の見えない木
が続く。空気も冷たく林の中ということでむせ返るような青臭さもある。ふと、顔を上げると、
レンガ色と、小豆色、こげ茶色、上手く言い表せない色をした建物があった。「こんにちは。」
玄関ロビーに顔を出したが誰もいない。外だろうか。3人は人を探して再び外へと出た。
水音?建物の裏のほうだ。どうせうろついていたら誰かやってくるだろう。そう思い音がするほう
へと歩く。
「わあ、温泉だよ。すごい湯気。」
「うん、きれいに掃除してあるけど、でもお湯が濃いのかな?硫黄みたいなのがどんどんお湯に浮
いてきてるよ。ちょっとこれじゃあ入れないかも。」
「ほんとだー。せっかくなのにねー。」
建物のすぐ裏は露天風呂が並んでいた。人が来ないから必要ないのか、目隠しのついたてがなく、
林にそのまま出ていけるようになっている。靴についていた泥で風呂の端、私たちの立っている場所のタイルが汚れてしまった。この厚く硫黄臭いお湯をどうすくい流すかを相談しているとき私は立ち並ぶ木々の景色の中に違うものを見た。
(子供がいる。)
子供好きの私は気配で感じるのだ。目を凝らしてみるとやはり、いる。20メートルくらい離れたところだろうか。5歳くらいの男の子で着物を着ている。林の中に立ち、こちらを見ている。
・・・見られている?!
「行こう。」
私はあまり気分がよくなくなりそう呟いた。とにかく他に人がいないか。もう一度ロビーに顔を出す。
気分が悪いのか、それとも湯気が顔に当たったのだろうか。空気は冷たく耳が裂かれそうに寒いのに額は汗ばんだように湿っているのがわかる。「おや、お客さんかな?」
ロビーではフロントカウンターの中で口髭を生やした管理人、上品な男性がこちらに気づいて微笑みかけてくれた。安堵のため息が出た。
「頂上の旅館に泊まる予定なんですけど、こちらにも温泉があると冊子にあったので寄ってみたんです。」
「ああ、温泉ならうちは源泉だからね。温まり方が違うよ。…ただね、せっかく来てもらったんだけど今は営業していないんだ。ちょっといろいろあってね。その冊子もきっと古い地図をそのまま使ってるんだな。」
社交的なマホが管理人と話している。
「それより、お子さんですか?さっき勝手で申し訳なかったんですが裏のお風呂の方に行ったんですけど、林の方に男の子がいたもので。」
どうも気になって仕方のない私は、すこし落ち着いた雰囲気に安心し、残る一欠けらの不安を払拭しようと口をはさんだ。
「え?」
「え?」
俄かに緊張が訪れる。
「あなた、あの子に会ったんですか?」
「いえ、会ったと言うよりは見かけたという程度ですけれど…。」
「いけない、早くここから出た方がいい。なかなか信じてもらえないかもしれないけれどあの子は、
恐ろしい。人ではない。」
「どういうことですか!?」
険しい顔をし、カウンターにある冊子をパラパラとめくりながら、彼は答える。
「わからない。ただ、ここを訪れた人で、命の危険にさらされたのも少なくない。妻の墓もそばにある。私は、どういうわけか気に入られているようでね、逆かもしれないが害はない。ここは離れられなくなったけれど…。」
カタン。
振り返るとロビー奥の扉が開いた。瞳に光のないあの、子供が立って静かに嘲っている。
「早くっ!もうバスが来るらしい。ここは私が時間を稼ぐからっ!」
一歩、二歩。その子は近づいてくる。
私たち3人は何も言わずに走り出した。恐怖で声が出ない。外に出る。泥がパンツの裾に付いても気にするものはいない。杉の間の低木の枝葉が顔や体に当たる。私が先頭で時々振り返る。マホが1番後ろだ。しかしアイコと2人すぐ後ろについてきている。訳がわからず飛び出したが顔面は蒼白。直感が言葉をなくしその身を走らせる。あの崖を降り道路を渡る。バス停には1人男の人がバスを待っていた。恐怖に怯え走ってくる私たちを見て、噂に聞いていたのだろうか、彼の表情も見る間に強張っていく。
バスだ。突然その男の人は道に沿って走り出した。なんだっ!?
バスもスピードは落とすものの停留所を過ぎても止まらない。ドアが開く。彼は走りながらバスに飛び乗った。そういうことか。
「マホちゃんっ、アイちゃんっ早くっ!!」
2人を確認するため足を緩めた私の横をマホが駆け抜ける。
「待って!」
アイコが遅れる。
「大丈夫っ!?」
振り返る。目の前には必死で走るアイコと、その肩にまさに手をかけようと飛びつこうとしている、
子供がいた。音がなくなる。時間がものすごく遅く流れ出す。
アイコの肩越しに子供が嘲う。嘲う子供はその目を私に向けていた。
ぎゃ嗚呼ああああああああああああああああああ!!!
一本目、終わり。