ゆめのせってい
見渡す限りの赤い花。
どこまでもどこまでも続いてゆく、終わりのない風景。
小さな変わった形の風車と深い井戸、そしてこの赤い花たちの他にはなにひとつないこの場所で、わたしは育った。年老いた父と母、今はここにいない兄と、幼い弟。わたしは彼らと血が繋がっていない。わたしたちは誰ひとりとして、血の繋がりをもたない「家族」なのだ。
それでもわたしは父が、母が…家族が好きだった。この場所で花を育てながら、一生を終えても良いと思っていた。いや、むしろそれを望んでいた。
この薄い花弁をもつあどけない花が、人を、あるいはもっとおおきななにかを「狂わせる」ものであることを漠然と知っていた。
兄が出てゆく先は本当は戦場であり、あの穏やかな人がたくさんの人を殺し、多くのなにか重大なものを壊しているのだことも。
やがて彼は、出ていったときと少しも変わらない笑顔で、帰宅するだろう。そしてわたしたちもまた、見送ったときと少しも変わらない様子で、彼を迎えることだろう。
もしも誰かにしあわせかと尋ねられたら、わたしはきっと笑うだろう。
笑って、それから少し首をかしげて、そうしておしまいにするだろう。
わたしが知っているのは、風と雨と、わたしの家族、それからこの赤い花のことだけ。
それ以外のことは、なにも、知らなかった。 知らなくても、よかった。
大好きだったおばあさまから、卵をもらった。
午後の病室は、窓辺から光がきらきらと降り注ぎ、シーツも、花も、果実も、それからおばあさまのお顔も、すべてが金色にぼやけて見えた。
「大切な人にお渡しなさい。」
相変わらずの凛としたうつくしいお声で、おばあさまはそうおっしゃった。
わたしは「はい」とちいさく返事をしてゆっくりとお辞儀をし、そうして部屋を後にした。
もう二度と会えないことを、知っていた。
卵は、冷たいような、あたたかなような不思議な温度で、羽のように軽い。
さあ、一刻も早く、あの人に会わなくては。
病院の入り口が…いや、外の世界が、強く光っていた。
わたしは卵をしっかりと胸に抱き、光の方角を目指して歩いた。
自動ドアが開くのがひどく遅く感じられる。此処を出たら一気に走り出そうと知らず知らずにうつむいて前傾姿勢になっていたわたしの前に、すっと影ができた。
「あの、つかぬことを伺いますが…」
顔を上げると、そこには濃紺のスーツの男が立っていた。
逆光で、男の顔は良く見えない。彼はゆっくりと一言一言を区切るように言った。
「あなたは、御婦人から、なにか、渡されたでしょう?」
わたしは考えるより先に、男を突き飛ばして走り出していた。
ちょうどやってきたタクシーに滑り込む。手が、震えていた。
…急がなくては。
車を降りて走る。 白尽くめの女、背の高い少年、腰の曲がった老婆…わたしの持つ卵を求めて押し寄せてくる人々を無理矢理に交わして走る。最後の角まであともう少しだ。
…もうすぐ、もうすぐあの人の場所にたどり着ける。
そう思った瞬間、その男はわたしの前に立ちはだかっていた。
「随分と急いでいるね」
巧みに隠しているけれども、濃いサングラスの下には恐ろしい目があることが本能的にわかった。全身を黒に包んだ、上背のある「黒い男」だった。
「さあ、卵を渡しなさい」
低い声で、男がささやく。
背中の、肩甲骨の上の方を、恐怖がぴりぴりとした痛みとなって駆け抜けてゆく。
…ああ、どうしよう。
「それはあなたのものではないのですよ。」
男がゆっくりとわたしに詰め寄る。 頭が割れそうに痛み、視界がたわんだ。
意識と一緒に、わたしを繋ぐ意志の糸が揺らぐ。
「さあ、早く」
男がわたしの肩を掴む。ズキズキ脈を打つ頭と裏腹に、体はどんどん麻痺して行くようだった。わたしの両手はのろのろと卵を前方に差し出そうとしていた。
そのときふいに光がわたしの頭の中に溢れた。
強い、強い光。
誰かの顔が、強く強く、頭の中にイメージされた。
それが何であるのかわたしにはわからなかったのだけれど、それでもわたしは確信した。
…この卵は、わたしのものだ。
わたしは、両手で抱いた卵を、みぞおちの右下あたりに、ぐっと寄せ付けた。
なんの迷いもなかった。
まるで当たり前のことのように、卵はするりとわたしの体内に入っていった。
卵は跡方もなく、わたしの内に消えた。
これでいい。
これで、いい。
「ね、これはわたしの卵です。」
言葉を失う男に、わたしはにっこりと微笑みかけて、そう言った。
わたしはいま、いばらにからまれた道をただひたすらに歩いている。
いったいどれほどの月日を経ているのだろう。そしてそのあいだどれほどの命を、魂を、嘆きを――つつみこんできたのだろう。この濃い緑色のうつくしい、いばらの途は。
足元にひっそりと息絶えている拳銃やナイフ、そして鈍く悲しい光を放つ大きな指輪を、わたしは見て見ぬふりをしながら、ただひたすらに歩いている。
彼はやはり、戻ってこなかった。
彼もやはり、戻ってこなかった。
かつて人々はみな口を揃えて言った。
「こんなにうつくしい君を置いて、彼が戻ってこないはずなどないよ」
彼自身もやはり笑って言っていた。
「すぐに戻ってくるよ」
男たちを闇の眠りに誘い込んだ城への道を、わたしはなんら躊躇することなく歩く。
一筋の血も、わたしは流すことはなかった。
やがて道は絶え、わたしは城の扉を開ける。
わたしはただ足元だけを見つめて、ひとつの汚れもない乳白色の螺旋階段を上りつめる。
… その扉は、わたしの目の前で音もなく開いた。
棺の中ではあどけない顔をした少女が、静かに眠っている。
長い睫毛と、濃い生意気そうな眉、ばら色の頬。
少し厚めの唇はうっすらと開き、肌は透けるように白い。
――…ぜつぼうで、涙が出た。
そこにいるのは、まぎれもなくわたしだった。
いちばんはかなく、いちばんうつくしかった14歳のわたしが、そこで眠っていた。
彼女の胸の上で組んだ左手の近くには、大きな指輪が置かれている。 わたしはそれと同じものが嵌められている自分の左手の薬指に、力尽きた彼をそっと重ねた。
彼がわたしではなく彼女を選ぶであろうことを、わたしはずっと前から知っていたように思う。 彼を哀れに思った。そしてわたしを。
「さようなら」
わたしは眠る彼女――わたしに微笑むと、薬指でゆっくりと引金を引いた。
銀色のがっしりしたゴーグルを渡されたぼくは、目の前の奇妙に歪んだ球形のカプセルを見て、ほんの少し躊躇した。
光がオイルに反射している時みたいな淀んだ虹色のカプセルを何かに似ていると思ったのに、それがなんなのかどうしても思い出せない。
ゴーグルを握ったまま立ち尽くすぼくの背中を、誰かの細い指がつい、と押した。
振り返るとそこには、白衣を着た年齢のよくわからない短髪の女がいた。
「すぐに終わりますよ」
ぼくの背を押した指と同様、神経質そうなその女は、カルテに目を落したまま、ぼくの顔を見ることなく言葉を重ねる。
「ほんの1分程度です」
仕方なくぼくは、ゴーグルをはめると、そのカプセルの中に自分の体を収めた。
女はぼくの体が完全にカプセルに入ったのを確認すると、胸と右腕でカルテを支えて書きこみながら、左手でカプセルのスイッチを押した。真夜中の冷蔵庫みたいな幽かな機械音をたてて、ぼくが今通りぬけたカプセルの入り口が閉じてゆく。
女の頭の上で点滅していた蛍光灯の残像が瞼から消えると、ぼくの視界は本当に真っ黒になった。
カプセルの中は少しずつ温度が下がってゆき、ぼくの座っている場所は―いや、ぼくは、まるで溶けてゆくかのように、どんどん軟化してゆく。
重力を失う。耳元に、そして全身に、どろりと重いメロディが流しこまれる。―これは、バロックだ。
そう思ったのが、ぼくの最後の記憶だった。