十二時過ぎて魔法がとけて、わたしには硝子の靴しか残らなかった。美しいのはこの硝子の靴、華やかな衣装、結った髪、紅の色。わたしではない。王子様は、片方の硝子の靴をたよりにわたしを探していると言うけれど、灰かぶりのわたしが、その靴の持ち主ですなどと言えやしない。着飾っているわたしがお姫様に見えても、今のわたしを見てお姫様だと思うはずがないわ。
だけど自分でもわからない。着飾って舞踏会にいたわたしと、屋根裏で暮らすわたしとどちらが本当のわたしなのか。そして王子様がお好きなのが魔法のかかったわたしなら、それは本当にわたしかしら。
魔法使いは言いました。
若い娘は誰でもそう。誰かのために綺麗になりたいと望むけれど、その美貌を愛されるだけでは満足できないものなのです。そしてその姿と心とどちらが自分か考える。愛しい人に、姿と心とどちらを愛しているのか問いつめる。そんな愚かなことはお止しなさい。どんな姿もどんな心も、あなたから生まれるものはすべてあなたを表現しているのですよ。ただ着飾った姿や心に溺れないこと。若い娘が気をつけなけれなならないのはそれだけですよ。
「水を汲みに行きましょう。」
赤茶くしおれた花をつかんで。たったひとり砂漠の真ん中。灼熱の砂を踏んだ。
「水を汲みに行きましょう。」
あの泉は蜃気楼。知っていたのに歩いてた。何かに向かって動きたかった。
その渇望をたてかけて、少しだけほっとした。
「水を汲みに行きましょう。」
枯れた花を抱いてうずくまった。
わたしの瞳は涅色(クリイロ)だとか。
昨夜の夢で誰だかわからない、低い声の人に言われました。
わたしの瞳は、淀んだ水底の明礬(ミョウバン)のように、
黒く沈んでいると。
その国の王様は、数字と目盛でできている。
遠い遙かな国からやってきた旅人は、王様に悩みを打ち明けた。
「一体今は、いつなのでしょうな。時が流れはじめがわからないので、どれくらいして私が生まれたのか見当もつかないのです。それ故私は不安です。いったい私はいつ存在しているのでしょうな。」
すると王様は、自信を持って応えます。
「わしの国の時間は、わしの国ができたときに流れはじめ、今日はちょうど十九年と三十一日である。今日をおまえの誕生日とし、この国に存在するがいい。」
それで旅人は安心した。
この国に留学しに来た若い男が、王様に悩みを打ち明けた。
「いったいここは、どこなのでしょうな。僕の家のある国のある星のある空は、どこにあるのかいくら勉強してもわかりません。まったく自分が小さすぎてどこにいるのか見えもしません。それで僕は不安なんです。まるで迷子になったようだ。」
すると王様は、応えます。
「おまえの言うことはもっともだ。この空の場所を示す地図はわしも見たことがない。そこで、空の向こうの目盛はゼロの向こうと同じこと。無いと考えろ。おまえの家は、わしの国の目盛で測るところ五十四と二十八の点である。おまえの大きさだって簡単なこと。」
そう言ってこの男にたくさん目盛と数字のついた帯を与えました。これで男は晴れ晴れと去って行った。
この国の人はみんなそれで安心。朝も昼も数字と目盛を神様のように拝んでいる。この神様さえいれば、なんだってはっきりとして見えるから安心なのだ。
大きな地震があったので、ドコカ国ではたくさん人が死んだとか。ある日、ココノ国の灰色の新聞に、大きな黒いゴシック文字でこう書かれた。
『死者5102人』
「まあかわいそうに。」
と若い奥さんは言っていた。僕は5102人の死体を思い浮かべることはできなかった。
「まったく大変だ。」
お屋敷の旦那様は言っていた。僕は5102件のお葬式なんて思い浮かばなくて、もちろんそれがどれくらい大変かもよく分からなかった。
「なんて酷い」
と近所のおばさんは泣いていた。僕は5102人のために何万人の人が泣いているのか見当もつかなかった。
僕には何にもわからなかった。灰色の新聞の真っ黒い文字は、死体でもお葬式でも涙でもなく、ただちっぽけな文字だったから。
博士は、感情のあるアンドロイドを創った。人間と同じように痛みも感じるようにした。そしてアンドロイドの頭脳はコンピューター。一度経験したことは決して忘れない。
アンドロイドはいつも哀しそうだった。喜びの数より痛みの数が多かったから。その頭脳の中に順番に記録されたあらゆる痛みが、いつでもはっきり思い出せた。アンドロイドは忘れたかった。どんなに楽しいことがあっても、アンドロイドの哀しい記録は帳消しにはなってくれなかった。喉もとを過ぎた熱さに震えるのはもう嫌だった。
その小さな少年は、人の話を聞くのが嫌いだった。まじめな顔をした大人が彼に言うことはたいてい彼の気にくわないことばかりだからだ。その少年をつかまえて何かを諭そうとしたり用事を言いつけたりお説教をしたりしようとすれば、たちまち少年は大きな声ではしゃぎながらどこかへ逃げてしまう。
その女性は、ただその少年と話しがしたかった。けれど、少年は名前をたずねようとしても全く彼女と向き合おうとしない。彼女はたまりかねて走り回る少年をつかまえてこう言った。
「お話をひとつしましょう。物語よ。」
少年は物語は大好きだった。強い英雄が活躍する物語は特に好きだった。そこでひとまず彼女の物語を聞こうと思った。
昔々、ある国にとても可愛らしい小さな王子がいました。お城にはこの王子のための教育係がたくさんいます。そして毎日王子に言うのです。
「さあ王子、今日は地理のお勉強をいたしましょう。」
「おや王子、大陸の歴史はもう覚えましたかな?」
「まあ王子、この間のお行儀作法きちんと復習なさいまして?」
「さて王子、今度は宗教もご理解なさらないと。」
王子はどんな気持ちがしたでしょう。
少年はもう考えただけでうんざりした。
「そんなこと言う奴等がいるお城なんて出て行っちゃえばいいんだ。」
「そう。王子はもう教育係たちの言うことを聞きたくなかったわ。だから耳が聞こえないふりをしたの。」
ある日王子は、誰に話しかけられても答えなくなりました。困った教育係は紙に文字を書いて読ませようとしたけれど、それも読めないふりをしました。えらいお医者にみせてもさっぱり原因はわかりません。王子がわざとやっているのだから当然です。けれど王子は万々歳です。嫌な勉強はしなくていいし、しかられたって聞こえないと思えばなんてことありません。
そうしてお城で王子に手を焼いているうちに、戦争が始まりました。そこで王子は危険を避けて、数人の従者と森の小さな屋敷に移り住みました。王子はうるさい教育係から離れられて喜びました。これからはもう好き勝手して暮らせるのです。
けれど、王子は耳が聞こえないと思っている従者たちは王子に話しかけることはありません。教育係のように王子に何かさせようとしない代わりに、王子を退屈させないようにかまってやることもしません。王子は次第につまらなくなりました。お城の様子が気になり出しましたが、誰も王子に教えてくれません。戦争はいつまで続くのか、お父さまやお母さまは元気なのか、お城にいた頃はちっとも気に止めなかったようなことが気に掛かり始めました。
実は戦争は終わっていました。王様は負けたのです。そして今は裏切り者の悪い大臣が国を牛耳っていました。王子は耳も聞こえず字も読めないと思われていたため、お父さまとお母さまが死んだということさえ伝えられなかったのです。
ここまで物語を聞いた少年は、突然大声で泣き始めた。少年は、お父さんとお母さんが大好きだった。確かに少年にとって都合の悪いことをよく言うのだが、とても優しい両親だということはよくわかっていたからだ。
雨のち晴れの日。
父さんは黒い傘を一本忘れた。電車の中に忘れてきた。
その電車には七本の傘が忘れられた。
雨のち晴れの日。
母さんは花柄の傘を一本忘れた。美容院に忘れてきた。
その美容院には五本の傘が忘れられた。
雨のち晴れの日。
兄ちゃんはビニール傘を一本忘れた。コンビニの傘立てに忘れてきた。
そのコンビニには三本の傘が忘れられた。
雨のち晴れの日。
傘お化けは現れる。この日いろんな人が傘を忘れる。
だからきっと現れる。僕はそう思う。
ふたつのふうせんを持っていた。空に向かって浮かぶふうせんをうっとりと眺めた。
そっと握っていたひとつのふうせんの糸が、わたしの指の間をするするくるくると、摩擦した。
「あ、待って」
思う間もなく、空へ逃げてしまった。遠く遠くへ逃げてしまった。
手元に残ったもうひとつのふうせんを見やった。急に不安になった。いくらぎゅっと握っても不確かな糸の細さが、わたしをますます不安にさせた。わたしは、ふうせんの糸をたぐりよせた。赤いふうせんが目の前まで降りてきて、わたしは急いでそれを、両手につかまえた。
「飛んで行っちゃ嫌だ」
大切なふうせんを両腕に抱き締めたらこんどは、ぱちんと、割れてしまった。足元に、ゴムの切れっぱしがぽとりと落ちた。
わたしの手元にはもう、なんにもなかった。
それはなにかの修行か儀式めいていた。綺麗な織物を張った、木製のひじ掛けのある立派な椅子が、いくつも積み上げられていた。けれど、その椅子たちは上等で、クッションがきいているため、積み上げられた椅子はぐらぐらしていた。天井に届くくらい高く積まれた椅子の塔は、三つの壁に囲まれていて、ぎくしゃくと危うい曲線を描きながら、あちこちを壁に支えられて、なんとか積み上っている。
振り袖を着たわたしは、それを登る。三つの壁には、手掛かりがあって、そこと椅子と両方を掴みながら登れば、なんとか倒れずに済む。
わたしは上に行きたかった。そこには全然違うお屋敷が広がってるのだ。陰気な和式の建物ではない。豪華な絨毯が敷かれた、大きな大きな階段があって、その下は落ち着いた広間になっている。わたしは、そこに、ひとりでいていいのだ。使用人の他は誰もいない。わたしひとりが、贅沢にうっとりしたり、不安になったりしながら、ひとりで過ごせるのだ。
てっぺんまで登ると、天井の裏がロフトになっていて、オフホワイトの布が乱雑にしかれていた。インド風の女性がひとりいて、わたしが自力ではい上がるのを、ゆったりと眺めていた。
やっとのことでわたしがロフトにはい上がったときには、振り袖はぐちゃぐちゃだった。インド風の女性は、もの憂げに笑って言った。
「わたしの国では、両思いになれることなんて、めったにないのよ。」
意味はわからなかった。でもわたしの中でなにかがしっとりした音をたててくじけた。わたしが望む物は、いつもわたしの行く先にはないのです。
春休みの旅行。桜の名所を探すわたし。雑誌のある地名に目が留まる。
「花咲か崎」…はなたがさき…とルビがふってある。昔は、「はなさかさき」と言っていたのが、発音しにくいため「はなたがさき」になったという。
この土地には不思議な言い伝えがある。ひとりの老婆の語る物語が記事になっていた。
花咲か崎には「ねむり姫」がおる。白い肌で長い黒髪の姫君。その頃のお大名の一人娘だったとか。その姫君には若いお侍の恋人がいて、結婚の約束までしていたんじゃ。しかし、いつの時代も男は残酷でねえ。当時ここいらは、貿易が盛んで異国の物がいろいろあったもんだ。その中にあった一枚の絵が姫君を不幸にした。それは聖母マリア様の絵だったとか。金髪の美しい女の絵でねえ。若いお侍はその絵に魅せられて、海の向こうの国へ行ってしまったんだよ。勉強のために行くだけで、すぐに帰ってくると言ったが、姫君はそれきりお侍が帰ってこないことがわかっていたのじゃ。泣いて引き留めたがお侍は聞き入れなんだ。きっと金髪の女を見つけて一緒になったんだろうという話じゃ。
それで黒髪の姫君は、大層異国の女を嫌った。当時キリシタンの教会にあった聖母マリアの像もたいそう嫌がって、壊してしまわれたとか。そして、自分の姿を描いたステンドグラスを代わりに置かせたのじゃ。その教会はもう当時の建物ではないが、ステンドグラスだけは残っている。今は姫君の供養のために新しく造った教会に安置されておる。
姫は、お侍が帰ってこないとわかっていても、待ち続けずにはいられなかった。そしてある日、姫は眠ったまま目覚めなかった。待っている時間を、目覚めて過ごすことが辛かったんだのう。生きながら眠り続けて、どうやっても目を覚まさなかった。医者にもどうすることもできず、そのうち本当に死んでしまったのだそうな。それが、ちょうど桜の美しい時分だったそうで。ところが姫が死んでしまったその日、花咲か崎の桜に異変が起きた。ほの赤かったはずの花の色が、真っ青に青ざめた姫の死に顔のような色に、青ざめて輝くような白になってしまったのだ。後世、ここの桜は「死に桜」とも呼ばれるようになったが、それがふさわしい名前かどうか。桜の木の下には屍体が埋まっているというが、ここの桜の下には、生きながら眠り続ける姫の魂が今も眠り続けて、絶望的な思いで恋人を待ち続けているという物語なのじゃ。
花咲か崎にいらしたら、「ねむり姫の長塚」へおいでなさい。青ざめた桜の花が今でも咲くところですからねえ。そして教会で、姫のステンドグラスをご覧になることです。