此処
――白い。
扉を開け、始めに受けた印象はそれだった。
時が凍りついてしまったかのような部屋。壁も、カーテンも、そして、部屋の奥で仲良く並んだ二つのベットも、すべてが白かった。
開け放たれた窓から、三月の暖かな陽射しが差し込み、部屋の白さを一層際立たせる。時折、その窓から柔らかな春風が吹き込み、白いカーテンをひらひらと揺らしていた。
「ひさしぶりだね、瑠璃子さん。元気にしていた?」
僕は、二つある内の片方のベットへと歩み寄り、そして声をかけた。返事はない。元より返事なんて期待していなかったから、別に失望などはしなかった。ただの自己満足のようなものだ。
「あれから、もう一年も経つんだね。僕がこの部屋を最初に訪れてから一年、あの日以来、今日までこの部屋を訪れたことは一度もなかったけど、その事はできれば大目に見てほしい。僕にだって色々と物事を整理する時間が必要だったんだ」
僕は、瑠璃子さんに向かって話を続けた。瑠璃子さんは、身動ぎ一つすることなく、ただ天井を見上げながら静かな呼吸を繰り返している。ふと窓の外に視線を向けてみると、そこには一年前とまったく変わらない風景がひろがっていた。
……あれから一年。思えば、この一年間は色々なことがあった。
何事もなく三年生へと進級した僕は、まず新しいクラスに新城さんの存在があることに驚いた。新城さんが同じクラスに居るということ自体は、別段なんの不思議もない。ただ、あの時のことが頭の中にある僕は、彼女の顔を直視することが、なんとなく憚られた。しかし、電波の力によって、あの時の記憶を消されている新城さんは、他のクラスメイト全員にそうするように、僕に対しても明るく話し掛けてきた。僕は、改めて電波の力に舌を巻きつつも、次第と新城さんと打ち解けて話せるようになっっていった。
また、僕は高校に入って始めて、友達と呼べる存在を持つようになった。
きっかけは到って単純。ただ席が隣であったということ、ただそれだけだった。
始めは何気ない挨拶、それから少しずつ話をするようになり、気がつけば、友達と呼んでも問題ないような仲になっていた。一人友達ができればあとは簡単で、その彼の紹介で、僕には、さらに数人の友達ができた。もう何年もの間、友達といった存在と無縁であった僕には、それはすごく新鮮なものに感じられた。色々と話してみると、彼等は、びっくりするくらいの知識や経験を持ち、面白い考え方をしていた。彼等の話を聞いていると、今までなんの根拠もなく他人を見下してきた自分が恥かしくなった。今年は大学受験が控えているということもあり、あまりハメを外すようなことはできなかったけど、高校生活最期の年に友達をつくることができて本当に良かったと思っている。
そう、受験と言えば、僕はなんとか大学には入ることができた。二流の私立大学の哲学科だけど、一応、本命の大学ではあったので、それなりに喜んだことを憶えている。あと一ヶ月もすれば、僕はその大学に通うことになるわけだ。
三月の風は暖かいようで、それでもどこかに冬の冷たさを含んでいる。僕は、時折吹き込む風に、そんなものを感じながら、瑠璃子さんにこの一年間のことを話して聞かせた。瑠璃子さんは、あの時からずっとそうだったように、今も静かに瞳を閉じたまま僕の話を聞いてくれている。
こうして、改めて振り返ってみると、この一年間は本当に平凡な一年間だったと思う。むしろ順調であったと言ってもいいかもしれない。穏やかで、それでいて、毎日はそれなりに充実していた。一日一日、着実に前進しているという実感を持てた。
そんな日常の中、僕はふとしたきっかけで、あの夜のことを思い出す。一年前のあの日、夜の学校で起こった凄惨で、悲しくて、それでも、どこかに優しさを感じたあの夜の出来事は、平安な日常を送っている僕の心を激しく揺さぶった。
夕暮れの屋上、誰もいない教室、新城さんの笑顔、そんなものを見ると、僕はあの夜のこと思い出す。そして、本来、その中にあるべき存在――瑠璃子さんのことを想った。
あの夜の出来事は、あまりに現実離れしていて、あれは本当にあった出来事なのか? 今でも信じられないことがある。夕暮れの屋上の、その真っ赤な世界の中心で、瑠璃子さんはあの微笑を浮かべてるのではないだろうか? 僕は時々、そんな想いに駆られてしまう。あの出来事は、全てが幻で、ちょっと視線を変えてみれば、瑠璃子さんはひょっこりと姿を現わしてくれるのではないかと……。
でも、今、僕の目の前には、こうして瑠璃子さんの体がある。真っ白な病室の中で、身動ぎ一つすることなく昏々と眠り続ける瑠璃子さんの姿。自ら食事を摂ることもない為、もっぱら点滴によって必要な栄養分と摂取しなければならず、その白く細い腕へと伸びる透明な点滴のチューブが痛々しく映った。
僕は、瑠璃子さんのそんな姿をしばらく見つめたのち、その手をそっと握ってみた。瑠璃子さんの手は仄かに暖かく、あの夜に感じた瑠璃子さんの体温そのものだった。そして、それは僕に、今、ここにいる瑠璃子さんが、幻でもなんでもないということを教えてくれた。瑠璃子さんは、夕暮れの屋上でも、放課後の教室でもなく、この白い病室でずっと眠り続けているのだと。
僕は、改めて瑠璃子さんの手を握りなおし、そして目を閉じた。
あの夜、僕はたしかにあの場所にいた。こうして瑠璃子さんの手を握っているだけで、僕は、不思議とそのことを実感できた。今まで、色を失っていたあの夜の出来事が、生々しいほどに甦ってくるのを感じた。
そう、僕はたしかにあの場所にいのだ。繰り返される平穏な日常は、あの夜からリアリティを奪っていた。リアリティを維持するには、あの夜の出来事はあまりに非現実的であり過ぎたし、日々の暮らしは、あまりに平穏過ぎた。だけど、今、ここにいる瑠璃子さんは間違いなく本物であり、現実だった。そして、その存在はあの夜が真実であることの証明だった。僕は、こうして瑠璃子さんの体温を肌で感じることにより、始めてリアリティを取り戻すことができた。
僕は、そっと目を開け、そして瑠璃子さんの手を元の位置へ戻した。
僕の手から瑠璃子さんの手が離れたあとも、その体温は僕の手の中に残っていた。僕は、自分の手をぎゅっと握り締めた。
一年前のあの夜。あの夜を境にして僕は大きく変わった。僕は、今の僕の暮らしに小さな満足感をもっている。一年前の僕なら、一笑に付すどころか、嫌悪の眼差しを向けたかもしれない。でも、それでもいいと思っている。人は変わるものだし、変わらなければならないと思う。じっと一つのところに留まることなんて、未来へと続く今を生きる人間には不可能だからだ。でも、僕は以前の僕を否定しようとは思わない。あの時感じたことも、また、真実だと思うからだ。
ふと、僕は瑠璃子さんの寝顔へと目をやった。瑠璃子さんは相変わらず身動ぎ一つすることはなかったけど、こころなし、その小さな唇に微笑みを浮かべているように思えた。だから、僕は瑠璃子さんに微笑みを返した。
穏やかな風が吹き、真っ白なカーテンがひらひらと揺れる。僕は、その風に背中を押されるようにして席を立った。そして、小さな声で「さよなら」と言い、僕の入ってきた扉へと足を向けた。部屋を出る時、僕はもう片方のベット――月島さんが眠るベットへと一礼をしてドアを閉めた。部屋を出てからは、病院の出口まで一度も振り返ることなく、真っ直ぐに歩いた。病院の庭先に植えられている広葉樹には、新緑の葉が生い茂り、新しい季節の薫りをはなっていた。
了
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