この夏、私の想い





 太陽が、すごく、まぶしい。
 生まれ育った雪国とは違う太陽の光。あの街を少し離れただけなのに、日の光がこんなにも違うなんてちょっと驚きだった。視線を地上におろせば、目の前に広がるのは、どこまでも果てしなく広がる青い空と、遥か水平線の彼方まで続く青い海。海岸には大勢の人々が集り、夏の海を楽しんでいた。
 私はその光景を少し離れたビーチパラソルの日影の中から眺めていた。海辺で遊んでいる子ども達の笑顔がとてもまぶしい。太陽の光を一杯に浴びながら元気に走り回っている姿は、こうして眺めているだけでとても幸せな気持ちになれる。
 ちょっと視線をずらして、海で泳いでいる人達の様子を眺めてみる。泳ぎの上手い人も、そうでない人も、一緒になって泳いでいた。
 そんな中に相沢さんと真琴の姿を発見し、私は思わず微笑みをもらした。浮き輪をつけ必死になって泳いでいる真琴に、相沢さんはつきっきりで泳ぎ方を教えいる。海水を飲み込んでしまったのだろうか? 真琴は泳ぎを中断して咳き込んでいた。涙目になり「あう〜」といつもの台詞を言う真琴の姿が容易に想像できて少し可笑しかった。相沢さんはそんな真琴に対し、やれやれといった感じで背中をさすっていた。
 相沢さんと真琴。長い間望んでいた姿が、今、目の前にあった。
 とても心温まる光景。あの日、あの子が消えてしまった時からずっと夢見てきた姿。
 真琴が帰ってきたのは今年の春。それは突然の出来事だった。私も相沢さんも当然の事ながらそれに驚き、そして心の底から喜んだ。なぜ真琴が帰ってこれたのかは分からない。でも、私達は素直にその奇跡に感謝した。神様の存在を信じてもいいと思った。
 特に相沢さんの喜び様はひとしおだった。真琴が消えてしまった事で一番傷ついたのは相沢さんだったのだから、それは当然の事だ。相沢さんは文字通り私の手をとって、踊るようにその喜びを表現した。正直、ちょっと恥かしかったけど、相沢さんが喜んでいる姿を見るのはとても嬉しい事だった。
 真琴が居なくなった後の相沢さんの姿は、見ていてすごく辛いものがあった。相沢さんは極力明るく振舞おうとしていたけれど、無理をしていたのは一目瞭然だった。顔では笑っていても、その瞳には常に悲しいなにかが居座っているように思えた。
 私は相沢さんに元気になってもらいたかった。相沢さんには私の様になって欲しくはなかった。だから私は、私に出来る可能な限りの事をした。相沢さんの前では決して悲しい顔をしないよう努力した。面白くはなかったかもしれないけれど、冗談を言ってみたりもした。勇気をだして、お花見に誘ったりもした……。
 でも、相沢さんに元の笑顔は戻らなかった。結局、私では役不足だったのだ。
 だから、真琴が帰ってきて、相沢さんに元の笑顔が戻った時、私は本当に嬉しかった。真琴が帰ってきたそのことよりも、相沢さんが元気を取り戻してくれた事の方が、私にとっては嬉しい事だったのかもしれない。
 もう一度、相沢さん達の様子を眺めてみた。相沢さんと真琴はちょうど海からあがったところで、相沢さんが真琴になにを言ったのか、真琴は顔を真っ赤にして怒っている。浜辺でいがみ合うふたり。やがてふたりは追いかけっ子を始めてしまった。
 追う真琴に、逃げる相沢さん。
 真琴は怒っていたけれど、二人はとても幸せそうだった。そんな二人をこうして遠くから眺めているだけで、私はとても温かい気持ちになれた。ふたりが幸せであるならば、それだけで私も幸せだった。

 
――だけど……。

 だけど、なぜ、私の胸は苦しいのだろうか?
 真琴と一緒の時の相沢さんの笑顔。とても幸せそうなその笑顔は、私自身も望んできたもの。でも、私はそれを見ているだけでとても苦しくなる。胸がぎゅぅ、と締めつけられる。温かさと苦しさが入り混じった複雑な感情。こんな感じは始めてだった。
 この感情が芽生え始めたのはいつのころからだっただろうか? 最初はただ純粋に喜んでいた。ふたりの幸せそうな姿を見ているだけで、私の心は満たされた。とても温かい気持ちになる事ができた。
 でも、やがて私はそんなふたりの姿を見る事に苦痛を憶え始めた。今でもふたりの幸せそうな姿は私に温もりを与えてくれる。それは私が長い間望んできたものだから、私が幼い頃の、あの時以来の夢だから……。でも、真琴と接している時の相沢さんの笑顔を見てしまうと、その温もりの中に奇妙な異物が混じり始める。それは言葉では言い表せない感覚。苦しく、そして切ない。それは、水の中にそそがれた油のように、混じり合うことなく私の心の中を漂い、そして掻き乱した。
 ……私は、一体、どうすればいいのだろうか?

 その時だった。いきなり後ろから、冷たいなにかが私の頬に張りつた。
「きゃっ!」
 私は驚きのあまり、思わず短い悲鳴を挙げてしまった。驚いて振り向いてみると、そこには無邪気に笑う相沢さんが立っていた。
「もう、いきなりなにをするんですか」
 相沢さんはひとしきり笑ったあと、「悪い、悪い」と言って、先程、私の頬に張りつけたと思われる缶ジュースを差し出した。
「コーラで良かったか?」
 私は「ええ」と言って、そのコーラを受け取った。コーラはよく冷えていて、受け取った両手から心地よい冷たさ伝わってきた。
「それにしても、いきなりあんな事するなんて酷いです」
「ははっ、天野がぼーっとしてしてたもんでついな」
 私の抗議に対して、相沢さんは悪びれたふうもなく答えた。コーラの栓を抜きながら、私の隣に腰を下ろし、自分のコーラを一口飲んだ。
「真琴は、どうしたんですか? どこにも見当たりませんが……」
 私は周囲を見渡してみたが、真琴の姿はどこにも見当たらなかった。それを聞いた相沢さんは、また無邪気に笑って言った。
「真琴なら撒いてやったよ。今ごろどこかで迷子にでもなってるんじゃないか?」
「もう、あまりいじわるしたらダメですよ。真琴がかわいそうです」
 相沢さんは無邪気に笑いながら、手をひらひらと振り「大丈夫、大丈夫」と言ったあと、残ったコーラを一気に飲み干した。そんな相沢さんの無邪気な笑顔。真琴と一緒にいる時、
真琴について話している時、相沢さんは本当に無邪気な笑顔を見せる。その笑顔は、私にあの感情を呼び起こさせ、私の胸はぎゅぅ、と締めつけられる。苦しく、そして切なくなる。
「相沢さん……、一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
 私は相沢さんの顔を直視する事ができず、うつむき加減になりながら、前から聞こうと思ってた事を聞こうと思った。相沢さんは飲み干したコーラの缶を右手で弄びながら「うん?」と答えた。
「なぜ……、私を誘ってくれたのでしょうか?」
 相沢さんが私を海に誘ってくれた時、私は最初、その申し出を断ろうと思った。せっかく相沢さんと真琴のふたりの旅行を邪魔したくないと思った事と、なにより、相沢さんのあの笑顔を見るのが辛かった。
 しかし、相沢さんはどうしても私を連れて行きたいと言い、結局、私は誘いを断ることができなかった。
「うーん、どうしてと言われてもなぁ」
 相沢さんは両手を高く上げて、伸びをしながら答えた。
「天野には色々世話になったからな。その恩返しはしなきゃならないと思ってたし、それになにより俺達は友達だろ? 友達を遊びに誘うのは当然だと思うけどな」
「友達……ですか」
 
――友達。それは私にとって長い間、縁のなかったもの。その言葉を相沢さんから聞いた瞬間、私は嬉しくもあり、そして、なぜだか悲しくもあった。
「それと真琴も天野のことを連れて来いって。あいつ、天野と一緒じゃなきゃ嫌だってうるさくてな」
「真琴が、ですか?」
「ああ、あいつ、すっかり天野になついててな。ホント、あいつの遊び相手になってくれて助かるよ」
「そんな……、私も真琴と遊ぶのは楽しいですから」
 私はそう言いながら、浜辺を見つめていた。この浜辺のどこかで相沢さんの姿を探している真琴のことを思っていた。
「あと、もう一つ」
「なんですか?」
「天野を誘った理由だけど、俺、なんだか天野に避けられてるような気がしてさ、もしかしたら嫌われちゃったかな? と思って。もしそうならば、その理由を聞きたかったし、なにより謝りたかった。」
 相沢さんは、ぽりぽりと頬を掻きながら言った。
「……俺、天野に対してなんかしちゃったかな?」
 私は慌てて「そんなことありません!」と答えた。たしかに私は相沢さんの事を避けていた。だけど、それは決して相沢さんの事を嫌いになった為ではなく、ただ、私自身の弱さの為。相沢さんの笑顔から、あの感情から逃れる為。その為に相沢さんに心配をかけさせて知らなかった。
「わ、私は、相沢さんの事を嫌いになったりしてません! 私、相沢さんのことは……」
 そこまで言って言葉に詰まった。私にとって相沢さんとは一体なんなのか? 考えたこともなかった。
 
――相沢さんは私の友達? 相沢さんは私の事を友達だと言った。だけど、私はそれを認めることができなかった。自分の口から『相沢さんは私の友達です』と言う事ができなかった。それを言ってしまうと、私の中でなにかが終わってしまうような気がした。
 真琴を接点として私は相沢さんと出会った。悲しい昔話。私と相沢さんとの間には、常に真琴の存在があった。それは真琴が消えたあとも同じ。私達は同じ傷を持つ同志だった。そこに真琴の姿はなくても、強く、その存在を意識した。そして、真琴が帰ってきたあと、そこには文字通り真琴の存在があった。私が相沢さんと会う時、そこには常に真琴が居た。それがなぜだかはわからない。でも、私が相沢さんと会う時は常に三人だった。
「そうか、それを聞いて安心したよ」
 私が言葉を言い終える前に、相沢さんの答えは返ってきた。
 相沢さんは、相変わらず、あの無邪気な笑顔を浮かべていた。その瞬間、私と相沢さんの目が合い、なぜだか私はドキッ、とした。
「ほら、前はよくふたりで話したりしてたのに、最近はなんだかそういう事がなくってさ。なんだか、俺、天野に嫌われたかな〜? って。でも、結局は俺の思い過ごしだったというわけだな」
 相沢さんはそう言って笑った。でも、私の胸はドキドキと高鳴っていて、その笑顔を見ることができなかった。
 なぜ、こんなにも胸が高鳴るのか? いつもなら、相沢さんの笑顔はあの感情を呼び起こすのに、なぜ、今はそれが起こらないのか? なんとなくだけど、私はその理由がわかるような気がした。

 
――それは、その笑顔が私に対して向けられたものだから――

 思えば、私は相沢からこんな風に笑いかけられた事なんてほとんどなかった。あるのは、真琴が消えたあとの悲しい笑顔だけ。私は、相沢さんのそんな笑顔なんて見たくなかった。相沢さんには元気になってもらいたくて、それで、色々と努力をした。相沢さんにとっては迷惑だったかもしれないけれど、私なりに頑張った。でも、真琴が帰ってきて、相沢さんに本当の笑顔が戻ったあと、私は相沢さんの笑顔を見ることができなくなっていた。相沢さんの笑顔を見るのが恐かった。あの感情を呼び起こしたくなかった。いつしか、私は相沢さんを避けるようになっていた。でも、私に向けられた笑顔は、あの感情を呼び起こす事なく、そのかわりとして、私の胸を高鳴らせた。
 
 あの感情を呼び起こすもの。
 その正体がなんなのか、今、はっきりとわかった。
 私は、真琴がうらやましかったのだ。
 そして、私は相沢さんの事が
――

「あーっ! 祐一、見つけたぁ!」
 突如、私の思考をさえぎるかのように、浜辺の方から大きな声が聞こえた。見ると、手にした浮き輪をぶんぶんと振りまわし、真っ直ぐこちらに走ってくる真琴の姿があった。
「やべっ! 天野、悪いが俺は逃げる。またあとでな」
 相沢さんは、そう言って真琴とは反対の方向へ走っていった。
「こらーっ! 待ちなさいよーっ!」
 再び始まる相沢さんと真琴の追いかけっ子。ふたりは本当に仲が良かった。
 相沢さんの表情はとても活き活きとしている。本当にうらやましいくらいだった。
 やっぱり、私では真琴に敵いそうにない。相沢さんは真琴の事が好きで、真琴も相沢さんの事が好きだった。そして、私はそんなふたりが大好きだった。ふたりにはずっと笑っていてもらいたい。心からそう思う。
 私は立ちあがり、「うーん」と大きく伸びをした。
 太陽は相変わらずまぶしかったが、それはとても心地よいものに感じられた。
 この夏、私の想い。生まれて初めて抱いたその想いは、まるで蜃気楼のように現われ消えた。誰にも知られる事のなかった想い。私はこの想いを密かにしまいこんだ。
 浜辺では、相沢さんと真琴が延々と追いかけっ子を続けている。
 私は、そんなふたりを飽きる事なく見守り続けた。
 海はきらきらと輝き、空は貫けるように青く、それは永遠に続いているように思えた。




 了



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