おみやげ 前話






「私、川口茂美。よろしくね」
 私がその子に声をかけた理由。それは同情や憐れみといった類のものだったのかもしれない。
 進級にともなうクラス換えで、私の前の席に座っていたその子は、新たな環境に対する不安と期待が充満する教室の中で、ひとり浮いた存在だった。
 周囲のクラスメイト達が、新しい教室で、新しい友達を作ろうと互いに声を掛け合う中、その子はただそれを眺めているだけで、周囲の人間は明らかにその子を避けいるように見えた。
 その子が周りから避けられる理由。それは私も知っていた。
 その子は重度の癇癪持ちだった。
 授業中、休み時間、放課後。その子は周囲の状況に関係なく、なんの前触れもなしに突然泣き出すという話しだった。それも、生半可なものではなく、周囲の人間を寄せ付けることを許さないような、そんな激しい泣き方だと聞いていた。
 私自身、その現場を見たことはなく、少し噂で耳にしたことがあるだけだったが、そのために、その子が周囲から孤立している現状を見れば、それがあながち嘘ではないものと思えた。
 でも私は、楽しげな喧騒に包まれた教室の中で、周囲の人間が楽しそうにはしゃいでいる姿を、ただ眺めていることしかできないその子のことを、見過ごすことができなかった。
 せめて、私だけでもその子の友達にならなくてはならない。その時の私は、そんな使命感じみたものまで抱いていたのかもしれない。
 私にとって友達という存在は、ごくあたりまえのもの、空気のように自然なもの、あって当然のものだった。
 小学校、中学校、そして高校と、私は常にクラスの中心にあり、私の周りには、必ずだれかしらの存在があった。それが私にとってのあたりまえだった。
 だから、私にはその子を救う義務があると信じていた。
 今にして思えば、すごく傲慢な考え方だと思うが、それがその時の私の偽らざる本心だった。
「えっ…? あ、あっと……えっと……」
 突然、声を掛けられたその子は、私の言葉になんて答えから良いかわからずどきまぎと慌てふためいていた。
 私は、そんなその子の姿を見て、『かわいいな』と思うと同時に、『かわいそうだな』とも思った。
 この子は、自分がこんな風に他人から声を掛けられるなんて想像もしていなかったのだろう。
「……あっ! わ、わたしは、神尾観鈴……よ、よろしく……」
 思い出したかのように自分の名前を答える。ちょっと上目使いで、私の顔を窺うような仕草。それを見て、私は思わず「くすりっ」と微笑をもらした。
「うん、よろしくね。そういえばさ
――
 そのあと、私達はどうでもいいような話に花を咲かせた。
 始めはどぎまぎとしていた神尾さんも、話しているうちにだんだんと馴染んできてくれて、色々と自分から話してくれるようになった。
 神尾さんはとてもいい子で、私達はきっと良い友達になれると思った。
 窓の外を見上げれば、そこには一面に広がる青空が見える。
 私は、その青空が私達の出会いを祝福してくれていると、そう単純に考えていた。






「ねえ、茂美。あの子と友達になったって……ホント?」
 ホームルームが終わり、帰りじたくを済ませている私に、友人のひとりがそう尋ねてきた。
「?? あの子って?」
「ほら、神尾観鈴……だっけ? あなたの席の前に座ってる子」
「ああ、神尾さんの事? 友達って言っても、さっき少し話しただけだけだよ。たしかに今日一緒に帰る約束くらいはしたけど……それがどうかしたの?」
 そう言うと、その子は『やれやれ』といった感じの顔をした。
「まったく、茂美はあいかわらずのお人好しなんだから……。そうやって、すぐに誰とでも友達になれるっていうのは、たしかにあなたの良いところだけど……」
 そう言って、その子は「はぁ〜」と小さくため息をつく。
「でもね、あの子は違うの。あの子は普通じゃないんだから…」
「ひどい癇癪持ちだってこと?」
 私がそう言うと、その子はちょっとびっくりした顔をした。
「なんだ、知ってるんじゃない」
「そりゃ知ってるわよ、そのくらい」
 と、私は答えた。
「じゃあ、なんで友達になろうなんてするのよ?」
「なんでって……。だって、可哀想でしょ。神尾さんだって好きで癇癪起こしてるわけじゃないだろうし……。それに、私はそういうことで差別をするのは好きじゃない」
 それは、その時の私の偽らざる本心だった。
 私は、本気で神尾さんのことを可哀想だと思っていたし、そんなことで差別を受けている神尾さんの現状を許すことができなかった。
 そして、なにより私はそんな彼女を救う義務があると信じていた。
 しかし、私のそんな思いは伝わることなく、その子は大きなため息を吐き出す
「茂美は、あの子が癇癪起こしているところを見たことないからそんなこと言えるんだよ。あの子の癇癪ってホントに凄いんだよ。先生達だって、あの子のこと扱いかねてるんだから」
 たしかに、それは私も感じていた。担任の教師の神尾さんに対する態度。それは正しく『腫れ物にさわる』という形容詞がぴったりくるような態度だった。
 友達はおろか、教師からも見捨てられた神尾さん。
 私は、ふと、先程一緒に話していた時の神尾さんの笑顔を思い出した。
 最初は、話しかけられたことにとまどい、ただ曖昧な笑みを浮かべていただけだけど、それでも話しているうち、その笑顔は本物のそれへと変っていった。
 その笑顔はとても可愛くて、学校中の生徒から、教師達から、その存在を疎まれている子のようには見えなかった。ああ、本来この子はこんな顔で笑うことのできる子なんだ。と思った。
 教室の片隅で、なにかに耐えるようにじっとしていた神尾さんの寂しそうな横顔と、私に話している時の、まるで、なにかから解放されたかのような彼女の笑顔。その二つが私の中で交錯し、私の意思はより強固なものとなった。
「とにかく、今日は神尾さんと一緒に帰るから。その時にお互い気が合えば友達になるんじゃない?」
 私は言葉ではそう言いつつも、心の中では神尾さんと友達になろうと決めていた。
 あんな風に笑える子が、何百人もの生徒達の中、ひとり孤立している状況なんて絶対に間違っていると思った。
「もーっ! どうなっても知らないからねーっ!」
 鞄を持って、教室を出て行く私に、その友達は最後の抗議の声を上げたが、私はあえてそれを無視した。
 私と神尾さんが友達になれば、あの子も考えを改め、神尾さんの友達になってくれると思った。そして、それはその子だけじゃなく、クラスのみんなも、神尾さんに対する考えを改めてくれると思っていた。
 私を含む何人もの友達の中、みんなと笑い合う神尾さん。もう教室の片隅で寂しい顔をすることはない。教室を出て、神尾さんとの待ち合わせ場所へと向かう中、私はその未来を信じて疑わなかった。






 始業式の後の放課後。長い休みが明け、久し振りに会う友達同士の話しに花を咲かせる。 
 校舎から校門までの道のりには、そんな生徒達がつくる下校の列ができていた。
 そんな中、神尾さんは校門の壁に背中を預け、友達と楽しく下校する生徒達を眺めながら私のことを待っていた。
 しかし、その表情はとても友達を待っているようには見えなかった。なにかに怯えているような、さもすれば今にも泣き出してしましそうな、そんな表情をしていた。
 もしかして、私のしたことは神尾さんにとって迷惑なことだったのかもしれない……。
 一瞬、そんな考えが頭をかすめた。しかし、すぐにそんな考えは頭の中から振り払う。こんなところで私が弱気になってはダメだ。教室で神尾さんが見せてくれた笑顔。あれは絶対に本物だった。まれに孤独を好むような人もいるけど、神尾さんはそういう人ではない。そう信じた。
「ごめーん、待ったーっ?」
 私は胸中の不安を隠すかのように、務めて明るく声を掛けた。
「ううん、わたしも、いま来たところ」
 神尾さんはそう言って「にははっ」と笑った。
 神尾さん独特の可愛らしい笑い方。その笑顔は、教室で私に見せてくれた笑顔とまったく同じものだった。その笑顔を見て私は内心ホッとする。やっぱり神尾さんは孤独を好むような人間ではなかったのだ。
「それじゃ、行こっか」
 そう促がし、私達は学校を後にする。
 私と神尾さんの通学路は、途中まで一緒だった。
 晴れ渡った青空の下、右手には海、左手には住みなれた町並みを抱え、私達は色々なことを話した。学校のこと、家族のこと、趣味のこと……。とても他愛もない話だったけど、話している間に、ふたりの距離がどんどんと近づいていくのを感じた。ふたりは必ず良い友達になれる。その時の私はそんな確信を抱いていた。
「あっ……わたしの家、こっちだから」
 楽しい時間はあっという間に過ぎ、やがて別れの時間が訪れる。自分の家の方向を指し、別れの挨拶を告げようとする神尾さんの顔は、どことなく寂しい影があった。それは、このひとときが神尾さんにとっても楽しいものであったのだと思えた。
「あっ、ちょっと待って」
 神尾さんが、別れの言葉を告げようとする瞬間、私はそれをさえぎった。ふたりが別れるまえに、私にはやることがあった。
「あのさ、今度の休み。どこかふたりで遊びにいかない?」
 私の突然の提案に、神尾さんは困惑の表情を浮かべる。
「ねっ、いいでしょ。今度の休みは、私、暇なんだ」
 困ったような、嬉しいような、そんな複雑な表情。彼女は、今までこんな風に人から誘いを受けたことがないのだろうか?
 最初こそ困惑していた神尾さんも、やがて私の提案に乗り気になってくれた。元々、彼女も私の提案に反対ではなかった。ただ、こういう誘いに馴れていなかっただけなのだ。
「うんっ! それじゃあ、約束っ!」
 そういって私は、右手の小指を差し出す。
 それを見て、神尾さんは再び困惑の表情を浮かべた。
「指切り……嫌?」
 私は、小指を差し出したまま、小さく首をかしげて問い掛ける。
「あっ! ううん、そんなことない。そんなことないよ」
 正直、高校生にもなった私達が道端で指切りなんて、とても恥かしくて出来ないことだと思う。でも、神尾さんはそんな素振りを見せることなく、私の指にそのきれいな指を絡めてくれた。
「それじゃ、いくよっ!」
 抜けるような青空。繰り返す波の音。歌うような小鳥たちのさえずり。住みなれた町の片隅で、今日、始めて知り合ったふたり。そのふたりが、互いの指を絡め、声を合わせて『ゆびきりげんまん』を歌い上げる。
「ゆびきりげんまん うそついたらはりせんぼんの〜ますっ」
 どこか恥かしさを感じながら、それでもふたり笑いながら、約束の呪文は最後の一節を向かえる。
「ゆびき〜たっ!」
 その瞬間、彼女の指は私の指から離れ、ふたりの約束は成立する――はずだった。
 だけど、神尾さんの指は私の指に固く絡められ、約束の呪文は、最後の瞬間に反古された。そして、神尾さんは私に指を絡め、顔を伏せてたまま動こうとしない。
「どうしたの、神尾さん? 指……離さないと……」
 私は、そう言って神尾さんの顔を覗き込み、そして、その瞬間愕然とした。
 神尾さんは泣いていた。その大きな瞳からは、遠慮というものを知らないかのように涙が溢れ出ていた。
「う……ううっ……うううっ……」
 やがて、神尾さんの口から、そんな呻きのようなものが漏れ始める。

 
――癇癪。

 神尾さんに対する噂。『なんの前触れもなく』『突然』『先生達でも手がつけられない』次々とそんな噂の断片が私の頭をかすめていった。
 私はなんの解決策も見出すことができず、神尾さんの癇癪はますます酷くなる一方だった。
「う……ううっ……うわ
―――――ん!」
 爆発したかのように泣き出す神尾さん。そしてその瞬間、切れることのなかった指は、約束を拒絶するかのように乱暴に切られた。
「か、神尾……さん?」
 私は、あまりのことに、恐る恐る声を掛ける。
 でも、その声は神尾さんの泣き声にかき消され、差し出すその手は乱暴に跳ね除けられる。私はただ、激しく泣き続ける神尾さんの側らに立ち、その姿を呆然と見つめることしかできなかった。
 さっきまで繰り返し聞こえたきた波の音も、小鳥のさえずりも、いつの間にか聞こえなくなっていた。抜けるように澄んだ空は、残酷なほど青く、そして冷たかった。








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