おみやげ 後話
しん、と静まり返った教室。カリカリという音だけが教室を支配している。
教師が黒板に板書する音と、それを生徒達がノートに書き写す音。
私も、そのカリカリという合唱に加わりながら、しかし、その心はここになかった。
ふと、教室全体を見渡してみる。
新しいクラスになってから、まもなく1ヶ月が過ぎようとしてた。
最初、よそよそしい雰囲気があったクラスも、今では、みんな新しい環境に慣れ始め、その空気を満喫していた。ただひとりのクラスメイトを除いて……。
神尾観鈴さん。ひとつ前の席に座る私のクラスメイト。
始業式の日の帰り道。
癇癪を起こした神尾さん。
その場に立ち尽くすだけの私――
結局、あの後、私は神尾さんが泣き止むのを待つしかなかった。
神尾さんが泣き止むまで、恐らくそれほど時間はかからなかったと思う。
しかし、それは恐ろしく長い時間だった。その永遠とも思える時間、私は神尾さんの身を心配するわけでもなく、ただ、この地獄のような時が、早く過ぎ去ってくれることだけを願っていた。
そして、癇癪がおさまり、なんとか話せるくらい落ち着いた後、神尾さんは「にははっ、また……やっちゃった……」と力なく笑った。
その表情は、いままで私と話していた時に見せてくれたようなものではなかった。
なにか怯えているような、誰かにすがるような、弱々しく、今にも消え入りそうな、そんな表情だった。
それを見た瞬間、私は、なにがなんだか分からなくなった。
なにもしてあげられなかったことの無力感。神尾さんが苦しんでいる間、自分のことしか考えていなかったことの罪悪感。
それらが、私の中でごちゃごちゃに掻き混ぜられ、私は混沌の渦の中に放り込まれた。
とても混乱した状況。そんな中で、私はわけも分からず「ごめんっ!」という一言だけを残し、自分の家の方向へと走り去った。その時の私は、その場から一刻も早く逃れたいという気持ちしか持ち合わせていなかった。それは、最悪の別れ方だった。
翌日、教室で再開した神尾さんは、本当に申し訳なさそうな顔で、無言で頭を下げた後、自分の席に着いた。
なぜ、神尾さんがそのような顔をしなければならないのか、悪いのは私のはずなのに、なにもしてあげられなかった私が悪いのに……。
せめて、私のことを怒って欲しかった。なにもできなかった無力さを罵って欲しかった。自分の事しか考えていなかった卑しさを軽蔑して欲しかった。
そうすれば、私は心の底からに謝れた。自らの罪を償うつもりだった。
だけど神尾さんは、私の犯した罪を背負うように、全て自分が悪かったとでも言うかのように、私に対し静かに頭を下げた。
――私は、なにも言えなくなってしまった。
なにか声をかけようとしても、癇癪を起こした苦しそうな神尾さんの顔や、その後のなにかに怯えるような表情、そして、全ての罪を背負うかのように頭を下げる姿が、フラッシュバックのように私の脳裏をかすめ、本来かけるべきはずの言葉は失われてしまう。
結局、私は神尾さんに一言も声をかけることが出来ないまま、1ヶ月という時間が過ぎ去ろうとしていた。
神尾さんは、一人も友達をつくれないまま、今も私の目の前に座っている。
なにかに耐えるような神尾さんの後ろ姿。
私には、それが無言で泣いているように見えて、思わず視線を窓の外へ逸らした。
窓の外は、今日もよく晴れている。
雲ひとつない、どこまでも澄み切った抜けるような空。それは卑小な私を軽蔑するかのように、冷たいほど青かった。
「ねぇ、今度の連休。どこかいくんでしょ?」
通いなれた通学路とは違う道を歩きながら、隣を歩く私の友人がそう尋ねてきた。
「あっ、うん……。家族と、旅行にね……」
通いなれていない道。
あの日以来、遠回りになることを承知で、通学路を変えた。
神尾さんが癇癪を起こした場所。あの場所を通ることは、私にとって耐えがたい苦痛だった。
あの場所を通るたびに、神尾さんが苦しんでいる姿と、あまりに無力で卑怯な自分の姿を思い出し、自責の念に責めたてられる。
それを避けて通るために、わざわざ、この友人と一緒に帰るといった口実までつくって通学路を変えた。
それは、神尾さんに対する無言の言い訳のようなものだった。
別にあの道を、神尾さんのことを避けているわけではない。ただ、この友人と一緒に帰らなければならないからしょうがないんだ。そう言葉にすることなく神尾さんに対して言い訳をしている。
私は、そんな言い訳までつくって自分を守ろうとしている。そんな自分が、たまらなく嫌だった。
「あ〜、いいな〜。あたしもどっか行きたいよ」
うらやむような友人の声。その声はとても明るく、それは私を元気づけてくれているようだった。
「ねっ、おみやげ買ってきてよね。絶対だよ」
まるで、おねだりをするかのように甘えてくる。
普段から明るい子ではあるが、今日はいつもにも増して明るい。
実際、この子は長い間塞ぎ込んでいる私を見かねて、元気づけようとしてくれているのだろう。それは、すごくありがたいことだと思う。
落ち込んでるとき、励ましてくれる存在。
悩んでいるとき、その悩みを聞いてくれる存在。
そういう存在があるからこそ、辛いときも、悲しいときも、私はそれを乗り越えていくことができるのだと思う。前に進むことができるのだと思う。
――だけど。
だけど、あの子は……神尾さんは、辛いときや、悲しいとき、どうしているのだろうか?
落ち込んでいるとき、励ましてくれる人はいるのだろうか?
悩んでいるとき、その悩みを聞いてくれる人はいるのだろうか?
そう思うと、私だけがこうして励ましてもらっていることが、ひどく申し訳ないことのように思えてきた。
本来なら、私が神尾さんにとって、そのような存在になるはずだった。
神尾さんの友達になるつもりだった。
だけど、私のやったことは酷い裏切りだった。
期待をもたせて、そして、それを裏切った。
神尾さんが一番辛いとき、私は救いの手を差し伸べることなく、彼女を見捨てた。
神尾さんにとって、最も残酷な方法で、彼女を傷つけた。
そんな私に、友達に励ましてもらう権利などがあるのだろうか……?
「もーっ! あたしの話、聞いてるの?」
そんな物思いに耽っていた私の顔を覗きこみながら、その子は抗議の声をあげた。
「あっ、うん。おみやげでしょ。ぜったい買ってくるよ」
私は、努めて明るく振舞った。
たとえ、私にそのような権利がなくとも、この子の気持ちを無駄にしてはいけない。そう思った。
「まったく……。まだ、あの子のこと気にしてるの? いつまで気にしててもしょうがないんだから、さっさと忘れちゃいなさいよ」
一見、冷酷そうに聞こえるその子の言葉は、私を動揺させた。
そう、私はいつもでこうして悩んでいるのだろうか?
この子の言う通り、こんなことはさっさと忘れてしまい、みんなと同じように神尾さんのことを避けるようになるのだろうか? それともまた別の方法があるのだろうか?
通い慣れていないけど、通い慣れ始めたこの道で、私はその答えを見出すことができなかった。
始めて訪れる街を、なんの目的もなく歩いていた。
私の生まれ育った田舎とは、まったく違った都会。
街を行き交う人々は、周囲のことに関心がないかのように、足早に歩みを進めている。
5月の始め、日本中がほんの一時の休息を得るゴールデンウィーク。
私は、家族と共にこの街へと遊びにに来ていた。
本当は、遊びになんかいく気分ではなかった。だけど、家族に心配はかけたくなかったし、あの町から少しでも離れられるならと思い参加することにした。
それでも、家族と一緒に遊びまわる気分にはなれず、私は適当な理由をつけて家族とは別行動をとっていた。
――それにしても、
都会に住む人々は、『他人』というものに関心がないのだろうか?
次々と早足で私を追い越していく人々を眺めていると、そんな些細な疑問が浮かんでくる。
みんながみんな、回りは目もくれず、まっすぐ前だけを見て歩いていく。
都会に住む人間にとって、他人などは路上に転がる障害物に過ぎないのだろうか?
周囲をたくさんの人に囲れながら、私はなぜだか酷い孤独を感じた。
どこからか涌き出てくるような人々の目の中に、私の存在など、どこにも写っていないのではないか? そう感じたからだ。
しかし、その孤独感は、その時の私にとってありがたいものだった。
他人の優しさや、気遣い、思いやり。そういったものを受けたくはなかった。
今の私には、そういうものを受け取る資格はないのだ。
それは、自らに課した罰のようなものなのかもしれない。
そうして、ひとり見知らぬ街をさまよい歩いている時、私は一軒の店の前で歩みを止めた。
それは、看板に『長瀬古物店』と書かれた、あまり綺麗とは言い難い店構えで、ガラス越しに見える店内には、ところ狭しと様々な商品が雑然と置かれていた。
普段の私なら、決してこのような店に足を踏み入れることはしなかっただろう。でも、その時の私は、なんとなくこの店に惹かれるものを感じていた。
どことなく寂れた雰囲気の店先が、その時の私の心理と合致したのかもしれない。
どこかに惹かれるものを感じつつも、恐る恐る、店内を窺かがうようにして足を踏み入れる。
薄暗い店内、雑然と積み上げられた商品の山、そして、その店の奥にはこの店の主と思われる一人の中年男性が、新聞を読みながら座っていた。
その人は、どこか抜けたような感がする人で、この店をそのまま人間にしたかのようだった。
私が店に入っても、ちらっと一瞥しただけで、いらっしゃいと声をかけるわけでもなく、すぐに新聞に視線を落とす。
そんな店主の姿を見て、ちょっとした気後を感じてしまったが、気をとりなおして、店の中を一通り見て回ることにした。
店内に置かれた商品のほとんどは、私には、なんの価値があるのかわからないガラクタのように思えた。
古びた人形、なんだかよくわからない置物、どこかのアフリカの部族が使っているような仮面、そんなものばかりだった。
なんでこんなガラクタばかりの店に入ったのか? そんな後悔を憶えながらも店内を回っていると、ふと、綺麗な小瓶を見つけ、私は足を止めた。
それは、周囲のガラクタとは一線を画すかのように光を放っている。まるで、砂利の山の中に埋もれた宝石のようだった。
私は、思わずそれを手にとり、あらためて、じっくりと眺めてみた。
小瓶の中には不思議な砂が入っていた。
七色に輝く綺麗な砂。小瓶を傾けてみると、サラサラと音たてるように瓶の中を転がりながら輝いた。それは、とても綺麗だった。
私は、しばらくその綺麗な砂の入った小瓶に見とれていた。だから、自分のすぐ後ろに人が立っていたことなんて気づかなかった。
「それが気に入ったのかい? お嬢さん」
突然、自分の真後ろから声を掛けられ、私は、思わずびくっとしながら振り向いた。
そこには、さっきまで奥で新聞を読んでいた、この店の主らしき人が立っていた。
「えっ!? あっ……。はい、とても、綺麗な品ですね」
あまりに突然のことに、私はどぎまぎしながらそう答えた。
「それは星の砂といってね、沖縄の海岸で採れる古代原生生物の化石なんだよ」
「化石……ですか?」
「ああ、そうだよ。かつてその砂は、その一粒一粒が生きていたんだ」
私は、あらためてその七色に輝く砂を見つめてみた。
この砂の一粒一粒が、かつて生命としてこの星に息づいてきた。太古の地球を、懸命に、精一杯生き、そして今は、こうして仲間とともに眠りについている。この砂の輝きは、そういった生命の輝きなんだと思えた。
「すみません、これ譲ってもらえませんか?」
私は、急にこの砂が欲しくなった。
この綺麗な砂は、私になにかを教えてくれている。そんな気がした。
「うん? ああ、別にかまわんよ……」
私は、その星の砂を売ってもらい、「ありがとうございます」とおじさんにお礼を言って店を出た。
おじさんは笑顔で私を送り出してくれた。
さっきまで暗い店内にいたせいか、外に出ると太陽の光がすごくまぶしく感じられた。
その夜、私はひとりホテルのベットに寝転びながら、星の砂を眺めていた。
小さな瓶の中で、サラサラと音をたてるように転がる星の砂。
人工の光を反射して、七色に輝くその姿は、かつて生命としてこの地球で輝いていたころの姿を誇っているようだった。
生命の輝き。
この砂が綺麗なのは、かつて一生懸命生きたことの証なんだ。
精一杯生きてきたからこそ、何万年という時が経た今も、こうして光り輝くことができるのだ。
この七色に輝く命の先輩達を眺めながら思った。
私もこの砂のように輝きたい。
たくさんの仲間達とともに輝きたい。
どれだけの時が経とうとも、その光を失うことなく輝いていたい。
そのために、私は精一杯生きなければならない。
やるべきことをやらなければならない……。
私は心の中で一つの決意を固め、そして眠りについた。
七色に輝く星の砂。その生命の輝きに願いを託して。
久しぶりに吸う教室の空気。
連休明けの教室は、長い連休をどのように過ごしたのか? そんな話題でいっぱいだった。
家族と山へ出掛けた人、友達と少し遠くの街まで遊びに行った人、教室のあちらこちらからクラスメイト達の明るい声が聞こえてくる。
「茂美〜、連休中はどこに行ってたの〜?」
扉を開け、教室に一歩足を踏み入れた瞬間、私にもその明るい声がかかる。
私のクラスメイトで、友人のひとり。その子の声を聞いて、さらに数人の友人が私の元に集ってきた。友人達は、私が連休をどのように過ごしたのか、しきりに聞いてくる。
「ごめん、ちょっと用があるからあとでね」
私はそう言って友人達の質問責めをかわし、そそくさと自分の席についた。
そして、私は自分の鞄の開け、その中から一つの小瓶を取り出す。
それは、私が連休中、古ぼけた古物店のおじさんに譲ってもらった綺麗な小瓶。生命の輝きを放つ星の砂。
旅行から帰ってきたあと、私は星の砂を半分に分けた。
その半分は、今、私の部屋の引出しの中にしまってある。
そして、もう半分は、今、私の手の中に握られている。
同情とか憐れみとか、ましてや義務感なんてものじゃない。
私自信が輝くため。たくさんの友人達とともに輝くため。
そのために、私は、今すべき事をしなければならない。
今、私の視界の中心にあるもの、私のひとつ前の席に座っているクラスメイト、その長い髪の毛を一つに束ねた後ろ姿が寂しく揺れた。
周囲の楽しげな喧騒からはずれ、ひとり、なにかに耐えるようにじっとしているその子の背中を見つめながら、私は手にした星の砂をぎゅっと握り締めた。
心臓がバクバクと音をたて、自分が緊張していることが嫌でもわかる。
そんな胸の鼓動を落ち着かせる為、大きく深呼吸をしながら自分自身に言い聞かせた。
大丈夫、きっとうまくいく。私達は絶対に友達になれると――
私の願いを託した星の砂。
私は改めてそれを握り締めた。
手のひらから勇気が伝わってくるような気がした。
小さな命の先輩たちも私を応援してくれている。
そう思うと嬉しかった。
私は立ちあがり、そして一歩を踏み出す。
ともに輝く未来のために。
「あの、神尾さん……。ちょっと、いいかな?」
了