鈴の音
1
ホームに一歩降りた途端、世界がぐるりと回転したような気がした。構内には、次の列車の到来を知らせるアナウンスが響いていた。人々のざわめきは絶えることなく続いている。発車のベルはけたたましいほどに騒々しかった。思わず眩暈を感じてしまうほどの喧騒だった。
私は重たいバックを抱えるようにして持ち上げながらコンクリートの地面に両足をつけた。私をここまで運んでくれた新幹線は、周囲の喧騒など素知らぬ風をしてその場に鎮座している。「お前のことなぞ知ったことか」。なぜだかそんなことを言われているような気がした。
「はぁ」
私はちょっとだけため息をついた。そして、その場を離れた。生活用具一式など様々な荷物を詰め込んだ旅行用バックはとにかく重たかった。こんなことになるなら、ケチケチしたりせずにキャリー付きのバックを買っておくんだった、と少しだけ後悔をした。
私が東京に抱いた第一印象は「不安」だった。生まれ育った雪国とは、なにもかもが違っていた。人々は何かに憑かれたようにして、皆一様に早足で歩いている。周りのことなどまったく関心がないとでもいうように真っ直ぐ前だけを見つめていた。ティッシュやチラシを配る人が差し出した手を、まるで存在しないもののように無視して通り過ぎて行く姿には、さすがに驚きを禁じえなかった。
私は、行き交う人々の間を四苦八苦しながら進んだ。なにかの拍子で抱えた荷物がぶつかったり、肩が触れたりする度にペコペコと頭を下げながら歩いた。そういった人たちのほとんどは、何事もなかったかのように歩いていくだけだった。これから、こんなところで四年間も過ごさなきゃいけないんだ。正直、そう思うとちょっとだけ気が滅入ってしまった。
財布の中から切符をとりだし改札を通った。ひとごみを避けるようにして改札近くの柱の横に立つ。抱えていた荷物を地面に降ろして思わず一息ついた。腕時計に目をやり時刻を確認する。午後の三時を少し回ったところだった。私はきょろきょろと辺りの様子を窺った。約束の時間は過ぎているはずなのに、肝心の約束の人を見つけることができなかった。バックからメモ帳を取り出して約束の内容を確認してみる。「三月×○日午後三時、東京駅新幹線改札前」。どうやら遅刻のようだった。
私は大きくため息をついた。それと同時に自然と笑みがこぼれてくるのを感じた。あの人はいつまでも変わらないな。そう思うと少し可笑しかった。
笑いを押し殺すようにして、再び辺りを見回してみる。待ち人が現れる気配は依然として感じられなかった。
私は、柱に背中をあずけてぼんやりと行き交う人々の様子を眺めていた。真っ直ぐと前だけを見つめながら、早足で歩くさまは相変わらずだった。
皆、なにをそんなに急いでいるのだろうか? こうやって一人で周囲の様子を観察していると、まるで自分が世界の流れから取り残されているような錯覚を覚えた。考えてみれば、今、私は見ず知らずの土地に一人で立っているのだ。約束の時間になっても表れない人だけを頼りにして、右も左も分からない場所で呆然としているのだ。
そう考えると急に不安になってきた。行き交う人々の視線が気になりだした。みんな、田舎者の私を馬鹿にしているのではないだろうか? 大きな荷物を抱える、いかにも上京したての私に好奇の視線を向けているのではないだうか?
さっき前を通ったサラリーマン風の人と視線が合ったような気がした。女子高生の笑い声がやたらと耳についた。みんな、私のことを噂しているのではないか。そう感じられるようになり、真っ直ぐ前を見ることができなくなった。ただ、じっと地面を見つめたまま待ち人が現れるのを待ち続けることしかできなかった。
「天野?」
ふいに名前を呼ばれた。慌てて顔をあげると、待ちに待っていた人の顔が目の前にあった。
「相沢さん!」
私は思わず弾んだ声をあげてしまった。それを聞いた相沢さんは相好を崩て
「よかった。やっぱり天野だったか」と言った。
「もう、完全に遅刻ですよ。すごく待ったんですからね」
私は照れ隠しするようにちょっと怒ってみせた。事実、じっと下ばかり見つめている姿を相沢さんに見られたと思うと、少し恥ずかしかった。
「すごくって、まだ15分くらいしか経ってないだろ。このくらい許容範囲だ」
「どこが許容範囲ですか。五分前行動は社会の常識ですよ」
「いやいや、俺なんか雪の中で2時間待たされたことがある。それを考えれば15分くらい遅刻のうちにはいらないよ」
私は思わず呆れてしまった。それと同時に自然と笑いがこみ上げてきた。まったく悪びれもせずにあっさりと言ってのける相沢さんが可笑しかった。
「なんですか、それは。理由になっていませんよ」
私がそう言って笑うと、相沢さんもつられて笑った。さっきまで感じていた不安は不思議と感じられなくなっていた。
「近くに車が停めてあるんだ。とりあえずは落ち着ける場所に移動しよう」
相沢さんはそう言うと私の荷物を持ち上げた。私は迷うことなく「はい」と答えた。
2
都心を抜けると、車の数は目に見えて減っていくのが分かった。周囲の建物も高層ビルから住宅、マンションなどへと変わっていった。相沢さんが運転する車は快適なスピードで住宅街を走っていた。途中、何度か細々とした路地に入った。相沢さんがこの土地に慣れ親しんでいることがはっきりとわかった。
「いつ、免許をお取りになったのですか?」
私は聞いた。相沢さんは一呼吸おいてから答えた。
「こっちに戻ってすぐだったかな? とりあえず、なにかやってないと落ち着かなくてね」
「そう、ですか」
それで会話は途切れた。
思えば、元々会話の多い関係ではなかった。ふたりの間に共通する話題は限られていたし、お互い触れたくはないこともあった。しかし、あの雪国を離れて、なお、ふたりの関係がこうして続いているのは、その触れたくはない出来事のお陰でもあった。
高校時代、ふたりは無言の時を過ごすことが多かった。それでも、同じ「傷」を持つもの同士としてそれで十分だった。私たちは独りではない。そう思えるだけで十分のはずだった。少なくとも私はそう思っていた。
しかし、相沢さんは違ったようだった。相沢さんは三年生になると早々と東京の大学へ進学することを決めた。周囲の人々へは元々いた場所に帰りたくなっただけだと、そう説明していた。
私には相沢さんの考えることは分かっていた。本当は、あの場所に留まることに耐えられなくなっていたのだ。同じ「傷」を共有するものとして、その気持ちは手に取るように理解できた。
正直に言えば、相沢さんが東京に進学すると聞いたときはショックだった。結局、私では相沢さんの支えになることが出来ないのかと思うと同時に、私自身、相沢さんという支えを失うことが怖かった。長い間、独りで耐えてきた私であるけれど、人のぬくもりを思い出した今、再びそれを失うことが怖かった。
しかし、私は相沢さんの決断に異を唱えることはしなかった。同じ「傷」を有するものだからこそ、相沢さんの気持ちは痛いほど分かったからだった。東京へと通じる新幹線のホームで、私は、ただ無言で相沢さんを送り出した。
その後、私はただ呆然と日々を過ごしていた。相沢さんという支えを失った私には、なにかをする気力は残っていなかった。しかし、もう独りに戻ることはできなかった。人のぬくもりを思い出してしまった以上、再びそれを求めることしか私にはできなかった。だから、私は相沢さんと同じ大学に進学することを決めた。まるで、人のぬくもりを求めて人里にまで下りてきたあの子たちのように……。
「なあ、天野」
ふいに名前を呼ばれ、私は慌てて答えた。
「は、はい。なんでしょう?」
「今日、泊まる場所決まってるのか?」
一応、今後生活するためのアパートは向こうで探してあるが、大家さんへの挨拶は明日で、今日はどこかのホテルに泊まる予定だった。私は相沢さんに対して、そのように返答した。
「なら、今日は俺の部屋に泊っていかないか?」
私は思わず相沢さんの顔を見つめた。相沢さんの表情はなにかが貼りついたように動かなかった。見ようによっては運転に集中しているだけのようにも見えた。私は、ふと視線を窓の外へと向けてみた。車道には一台の車も走っていなかった。
3
相沢さんの部屋は、静かな住宅街のマンションの一室にあった。大学生の一人暮らしでマンションだなんて贅沢だと私が驚くと、海外で働いているご両親にどうしてもと言われて仕方なしにな、と相沢さんは説明した。
部屋は男性の一人暮らしにしては、驚くほど綺麗に片付けられていた。本当は誰かと一緒に暮らしているのではないだろうか? そのことを相沢さんに聞いてみると、少し怒った声で「そんなことはない」と言った。
その後、私たちは近くのデパートで買い物をし、少し早めの夕食をとってから、さもそれが当たり前のことであるかのように体を重ねた。どちらから言い出したわけでもなく、自然とそうなった。
なにもかもが今までと同じだった。私たちはあの街にいたときから互いに体を重ね合ってきた。それを欲したときは、いつもどちらかともなく行為に及んだ。ふたりの意思が噛み合わないときはなかった。求めていないときは一切行為には及ばないし、求め合うときは常に一緒だった。不思議とふたりの欲求は一致した。
しかし、互いに体を重ね合わせることはあっても、決して心を重ねることはなかった。相沢さんの心はいつもそこにはなかった。相沢さんは、私の顔を見つめながら、常に他のものを見ていた。瞳の奥に私の姿を見つけることはできなかった。私はそんな相沢さんを受け入れた。それで構わないと思っていた。刹那的なぬくもりを相沢さんの体温に求めていたのかもしれない……。
私たちが始めて求め合ったのは、あの子が消えてから一ヶ月くらいたったときのことだと思う。相沢さんに誘われて向かったものみの丘で始めての行為に及んだ。そのときも、どちらからともなく始まり、そして、心を重ね合わせることはなかった。それは、今、こうしているときも同じだった。
お互い、申し合わせたかのように絶頂を向かえ、そのまま背中を正面にして眠った。
行為を終えた後、私たちはいつも背中を向け合ったまま眠った。背中越しに相沢さんの体温を感じ、一時ばかりの浅い眠りにつくのが常だった。そういうときは、決まってなんの夢も見ることはなかった。
短い眠りから覚め、目蓋を開いてみると、既にあたりは暗くなっていた。上半身だけを起こし、ベットの脇に置いてある目覚し時計で時刻を確認すると、既に午後の八時を回っていた。思ったより長い時間眠っていたようだった。
私はそのまま上体を起こし、地に足をつけベットから起き上がった。申し訳程度にかけてあったシーツがはらりと落ちて、相沢さんが眠るその横にかかった。相沢さんは相変わらずこちらに背中を向けたまま眠っている。いや、眠っているふりをしているだけかもしれなかった。実際、相沢さんの寝息は、こんなに近くいるはずなのに、私の耳には届いていなかった。
床に落ちていた服を拾い上げゆっくりとした動作で身に着ける。喉の渇きを覚えたので、キッチンでお水をもらおうと寝室のドアに手をかけた。相沢さんを起こさないよう、ゆっくりとドアを開ける。すると、部屋の片隅にある書斎机の上でなにかが光るのが見えた。僅かに空いたドアから漏れた廊下の光に、それが反応したのかもしれない。
一体なんだろう? 多少の興味を覚えた私は、開いたドアをそのままに、その光る物体の側まで歩いていった。近づいてみるとそれがなんであるかすぐに分かった。それは小さな一個の鈴だった。どこにでまあるような安物の鈴。付け根には髪留めのような輪ゴムがついていた。試しに手にとって鳴らしてみると、ちりん、と綺麗な音が寝室に響いた。
背後からもぞもぞとくぐもった音がした。振り返ると、相沢さんが上体だけを起こしてこちらの方を見つめてるのがわかった。
「申し訳ありません。起こしてしまいましたか」
私がそう言うと、相沢さんは手で制しながら「いや、いいんだ」と言った。
「これ、あの子のものですか?」
この鈴には見覚えがあった。たしか、いつもあの子は身に着けていたものだった。腕を動かすたびにちりんちりんと鈴の音を鳴らしていたのでよく憶えていた。
「ああ、俺があいつに買ってやったものだ」
相沢さんは言う。暗くてその表情はよく分からなかった。
「大切に、されているのですね」
相沢さんはなにも答えなかった。ただ、じっとこちらを見つめていた。
私は手にした鈴をじっくりと観察した。その鈴が大切に扱われていることは暗い部屋のなかでもよくわかった。ふいにあの子の横顔を思い出した。私の記憶の中のあの子は、いつも相沢さんの隣にいた。雪のときも、病んだときも、常に相沢さんが隣にいた。そして、今でも相沢さんの隣にはあの子はいた。多分、それはふたりが出会ってからずっと続いてきたことなのだ。
今までも、そしてこれからも、相沢さんの心の中心には常にあの子の存在があるのだろう。同じ「傷」を持つものとして、私にはその想いが痛いほどよくわかった。こうしてあの街を離れて暮れらしていても、相沢さんの傍らにはちゃんとあの子がいるのだ。はたして、それが良いことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。ただ、そのことを思うと、私は嬉しいような、悲しいような、そんな複雑な感情を覚えた。「ああ、これで良かったのだ」と思う半面、なぜだか少し寂しかった。
「相沢さん」
私は、手にした鈴をじっと見めたまま言った。
「この鈴、ずっと、大切にしてあげてくださいね」
相沢さんは無言のままだった。ただ、かすかに肯いてくれたような、そんな気がした。私はもう一度鈴を鳴らした。ちりんちりんと鈴の音が響いた。
了
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