春 雷 1 







 春先の天気は変わりやすい。昨日までの穏やかな好天が嘘のように空には暗い雲が渦を巻いている。時折大地に響くくぐもるような低い唸りは今夜の荒天を知らせている。春の嵐はこの時期の風物詩といってもいいものだが、草木の生長にはかかせぬとはいえ、軍事面ではこれほどやっかいな物も他になかった。
「こいつぁちとまずいことになりそうだぜ…」
 燕北の峠からわずかに南、都市同盟との国境沿いの駐屯地である。シードは眼下のデュナン湖から吹き上げてくるなま暖かい風に、あからさまに眉を曇らせた。
 このあたりの気候には通じていないが、シードはもともと山育ちの男である。雨粒とともに叩き付けてくるような風と上空の雲の早さから本格的な嵐が近いことを察っし、部下に天幕の強化などいくつか細々とした指示を出す。ルルノイエ育ちの兵達は山の嵐の怖さを知らない。怪訝な顔で作業に取りかかっている兵達に睨みを効かせながら、シードは仮あつらえの馬屋に向かって歩き出した。
 駐屯地の中ならば、嵐に慣れない者たちもさほど問題もなく夜を越すことも出来るだろう。だが問題が一つ残っていた。
 ――小隊が一つ戻ってきていないのだ。
 もともと大した任務が与えられているわけではない。穏健派のアガレスの元では、国境間近への派兵といっても、せいぜいがところ都市同盟への示威としての面が強い。特に今回は皇王とミューズ市長との会見も控えているのだ。些少な小競り合い一つとて、一歩間違えれば大きな問題になりかねない微妙な時期であるだけに、派兵という名目はどうあれ、実質的には新兵の訓練が主な目的の駐屯であった。
 勿論訓練だけが目的ではない。山中行軍の訓練などと称しながら、シードはいくつかの小隊を斥候として分水嶺の向こうの都市同盟側に派遣していた。
 そのうち一隊が帰隊予定を半日過ぎても戻ってこないのだ。おなじく山に出していた他の隊は、視界の確保に手間取って予定時刻を多少過ぎながらも、無事戻ってきているのである。新兵ばかりの隊ではあるまいし、さほど危険な任務というわけでもない。斥候といっても目的はほとんど地図づくりで、村落に近づくこともあり得ない。荒れ始めた天候のこともある。なんらかの事故に巻き込まれたとしたのなら、あまり良い状況は考えられなかった。
「しかしだからと言ってですねっ! 国境警備の総責任者自らが、言っちゃあ何ですが、たかが十四、五人の小隊を探しにこんな嵐の中を飛び出していくなんてぇ馬鹿な話がありますかっ。捜索隊なら嵐が治まってから出せばいいでしょうがっ。ここであんたになんかあったら一体何人の首が飛ぶと思ってるんですっ!!」
 嵐におびえる馬どもを前に右往左往している兵に気づかれることもなく、シードが愛馬を引き出していると、誰に聞いたものやら、副官が血相を変えて駆け寄ってきた。
「他にこの天気で馬出せる奴がいんのかよ? ちょっと心当たり見て回ってくるだけだぜ、無茶はしねえよ」
「そういう問題じゃあありませんっ!!」
 ますます強まる風に外套をさらわれながら、シードはさっさと馬装を整える。副官の怒鳴り声など、風の音に比べれば屁でもない。
「ちっとだって言ってんだろ。すぐ近くで動けなくなってるんだったら助けようもあるだろうが。まあ、ひとっ走り見て、すぐ戻ってくらぁな」
 腹帯を堅く締めて鞍に飛び乗る。手綱を握って腹をければ、たちまち愛馬は意を得たりとばかりに、仮設の馬場を飛び出してゆく。
「あんたって人はそれでも…ッ!」
 一瞬の間を置いた副官の必死の叫びは、横殴りの風雨も手伝って、たちまち後方に千切れて消えていった。

 デュナンに春を告げる山鳴りは、嵐とともにやってくる。古傷の痛む季節もようやく去り、さて体をほぐそうかと思った矢先に待ち構えているこの荒天だが、だがフリックはけっして嫌いではなかった。
「……ま、不謹慎かもしれないけどな」
 幼い頃から、嵐がくると意味もなく胸を躍らせるような子供だった。この年になってもどうやらそういうところは変わらないようで、こうして痛いほどの嵐の中を馬を走らせることを考えると恐ろしく気分がいい。斥候の報告を確かめに出るのでなければ、気の向くまま馬を走らせて、春の奔放な空気を満喫したいところなのだ。
「まあ春だぁな。ハイランドの奴らぁ、ありゃあ、虫か? 雪が融けたとたんにうじゃうじゃうじゃうじゃわいてきやがる。ああ、つれてくんのが面倒だったらそのまま埋めてきてもいいからな〜。捕虜ってな金がかかっからよ」
「馬鹿言え。それが出来るくらいなら俺らがわざわざ出る必要だってないだろうが」
 リューベの北で起きた山崩れに、どうやらハイランド兵が巻き込まれていたらしいとの報告に、あわただしく出立の準備をすすめるフリックの背に、窓に目張りをしていたビクトールが声をかける。よほど嵐に浮き立っているのか、いつもの揶揄に答えるフリックの声も、どこか弾んだものになる。
「おお、ただ埋めちまうのはもったいねえ。まずは奴らの装備をはぎ取って、懐さぐって頂くもんは頂いちまわにゃお天道さまにも申し訳が立たねえってなもんよ。ハイランドの兵にゃあ、金は俺たちがちゃーんと使ってやるから安心して成仏するように伝えといてくれや」
「――ああ、そうか。うちの砦が貧乏なのは、おまえがそうやって成仏願った相手が貧乏神になって取り憑いてるせいだったんだな。確かに生臭坊主の念仏じゃあ、成仏どころか貧乏神になって化けて出たくもなるだろうさ」
 窓にとりついたまま念仏を唱える真似をしてのけるビクトールに軽口で返すと、やはり周囲で壁だの天井だのを補強していた傭兵どもがどっと沸いた。
 そのいちいちに笑いながら因果を含めているビクトールに、処置なしとばかりにことさら大きく肩をすくめてやってから、フリックは正面の扉に手をかける。観音開きの扉を開けた途端、傭兵達の賑やかなだみ声さえも吹き飛ばす強風がまともに顔にぶつかってきて、フリックは思わず眼を眇めて空を見上げた。
 風は相変わらず強く吹いていた。雲の流れは速く、遠く、西のほうから山鳴りにも似た低い唸りが響いている。歩みを進めるほどに吹き付ける風を孕んでは流されるマントを造作なく捌いて馬にまたがると、フリックは意識せずその顔に深い笑みを浮かべた。 
 嵐はまだ、南方にとどまっているようだった。峠は今夜半になることだろう。
 いまだかすかな遠雷の音を聴きながら、その異名に雷を抱く青年は、強い南の風に押されるように北に向かったのである。

 リューベよりもわずかに北に上がったあたり、斥候が傭兵砦に知らせてよこしたその現場では、崩落を続ける崖の上部にとりのこされた者を助けようと、懸命の作業が続いていた。
 ところどころに崩れ残った一角を残したきりほとんど表土が流出してしまった斜面は、無惨に生々しい岩盤を露呈している。土壌を支える木々など残るはずもなく、安定を失った斜面は、いつ第二の崩落を起こしてもおかしくはない状態だ。
「……時間の問題だな、こりゃ」
 最初の土砂崩れに巻き込まれなかったのが奇跡的だ。土台をさらわれて不安定に揺れる炭焼き小屋の残骸に必死にしがみついている人影を認めて、フリックは状況の難しさに眉を顰めた。
 おそらく夜半から荒れ始めた天気を避けたものだろう。荒天時の避難小屋も兼ねている炭焼き小屋には、ハイランド兵も軒を借りていたのか、助けを求める者のなかに、確かにハイランド兵の姿も見えている。
 現地に到着したフリックは、その場でままならぬ救出作業に協力していたハイランド兵からざっと事情を聞き出した。自身も少なからぬ傷を負ったそのハイランド人はフリックの先ほどの推測を即座に肯定し、それからいまだ現場に取り残されたままの同僚たちの助けを求めてきた。
 その男にまずは武装を解き、それからまずは手当を受けるように指示を出しながら、フリックは今後の対応に素早く頭をめぐらせた。
 政治的にはかなり微妙な時期である。山崩れそのものは純然たる事故なのだが、そこにハイランド兵が絡んできたとなると話は違ってくる。
 山嶺に隔てられているため、このあたりでは、ハイランドと同盟領の国境線ははっきり定められている訳ではない。山を生活の糧にする者にとってはそんな名目的な国境線など何の意味もない。通るものとてほとんど見られぬ山道に関所などが設けられるはずもなく、一応慣例的に分水嶺が国境と見なされているだけなのが実状だ。街道沿いでもあるまいし、常ならば国境侵犯など、なんの問題にもなりはしない。
 しかし軍属の人間となるとそう簡単な話ではすまなくなる。一人や二人のハイランド兵ならばそれなりにごまかしようもあるだろうが、ざっと一瞥しただけでも、十数人、おそらく小隊一つ丸ごとの人員である。ことを公にする事は避けたいが、見なかったことにするには少し人数が多すぎた。
「――ま、出来る限りの手は尽くしてやるさ」
 雨足は時間を追うごとに強まっている。ハイランド兵から聞きだした話では、いまだ取り残されているものの多くは、崩落にともなう落石や飛石で大なり小なり怪我を負っているという。ハイランド兵を助ける義理はないが、戦時でもないのに遭難者を見捨てるわけにもいかないだろう。朝から救助作業にかかりきりだった人間の疲労もそろそろ限界にちかい状態だし、何より本格的な嵐が近づいてきていた。二重遭難の愚を冒す気はさらさらないが、助け出したいのならもはや一刻の猶予も無いのは一目瞭然だった。
 取り残されている自力では動けない者を助けるために、フリックは重い装備をはずすと命綱に手をかけ、辛うじて斜面に張り付いている炭焼き小屋の残骸に目をやった。
 絶え間なく表層の瓦礫が流れ落ちる不安定極まる礫場がおおよそ百メートルにわたって続いている。そのほぼど真ん中、崩落の開始点から僅かに下がったあたりに、それは必死にしがみついている。
 取り残されたままの遭難者を助け出すには、命綱と彼我に渡されたロープだけを頼りに、ここを往復するより他に方法がない。遭難者の怪我の状態にもよるだろうが、復路はおそらく人一人抱えての道のりになる。とてもじゃないが全員無事に助け出せるとは思えなかった。

 覚悟していたよりも、よほどきつい仕事だった。足を踏み外して、足下の瓦礫ごと斜面を滑落しかけたなんてのはほんの序の口で、一度など頭ほどもある落翳が頬をかすめて飛んでゆきさえした。
 風鳴りはますます強く、嵐の近いことを告げていたが、浮き石の転がる不安定な礫場では、ほんのわずかな動きですら、破滅的な事態を招きかねない。内心の焦りを押し隠しながらたかが五十メートルほどの距離を進むだけで、精魂が尽きかける。そんな行程を幾度か繰り返して、曲がりなりにも自力で歩ける怪我人を三人ほど助け出したときには、もう夕刻に近い刻限になっていた。
 夕闇が迫るほどの時刻でもないのに、にわかに暗さを増した空に、とうとう救出作業の中止が告げられた。ここに到着した当初には、まだどうにか形を保っていた小屋は、ここ数時間のうちに随分構造物を風にはぎ取られ、見るも無惨な有様を呈しており、フリックは思わず肩にかけていたロープを握る手に力を込めた。
 全員を助けることなど不可能だと、はなから承知の上だった。だが、それでも動くことの出来ぬ怪我人をここに残していくのは辛かった。せめてあと半刻の猶予があれば、あるいは息のあるもの全員を山から降ろすことも可能かもしれない。しかしそんな時間など残されていないことは、他の誰よりフリックにはよくわかっていた。
 先ほどからずっと右手の紋章がうずき始めている。
 屋根すら剥ぎ取られて僅かな壁と柱だけを残すこの小屋は、何もかもが押し流された土石流の斜面に、なおも不吉な墓標のようにしがみついている。あたりを阻む梢が失われた今、刻一刻と近づく雷雲の前に、それはあまりにも無防備な姿をさらしていた。
 風雨を遮る用にも耐えなくなった粗末な小屋が、春の峻烈な稲光から中の人間を守れるはずもない。落雷、崩落、豪雨、暴風……いずれの条件一つをとっても、ここに残していく人間が死を免れる可能性は万に一つもないだろう。
 断腸の思いで唇を噛み締めたフリックは、ことここに至っても、脱出を拒んでいる小隊長とおぼしきハイランド兵の腕を強引に引き寄せた。
 右手の疼きが痛みに変わる。
 最早、一刻の猶予も残っていなかった。
 なおも脱出を渋る小隊長を有無を言わせず殴りつけて昏倒させ、担ぐように自分の体にくくりつける。末期の蛇のように闇色の風にのたうちまわる命綱の縄尻を捉えようと目を凝らしたその時、一際烈しい閃光が天頂を貫いた。
 黒と白にくっきりと区分けされた色のない景色の中、すべての事物がひどくゆっくりした動きに変化する。雷光に鮮やかに照らし出された命綱は、いつの間にか巻き付けていた右腕からするりと抜けて、まるで嘲笑うように遠ざかる。必死に伸ばしたその右手に、縄の感触を確かに感じた途端、宿した紋章に疼痛が走る。

 光芒に続いて、衝撃波を伴った轟音。手の中に握りしめたものだけは離すまいと思った刹那、フリックの視界は残像一つ残さずに暗転した。
   



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