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その瞬間に何が起こったのか、はっきりしたことは覚えていない。
けれども右手首に巻き付いた命綱だけで小屋の残骸からぶら下がっている状況に、どうやら落雷に跳ね飛ばされたのだろうと思い当たる。ロープが灼き切られたため、肩に担ぎ上げていたはずの小隊長の体がずり落ちかけていて、フリックは悪態をつきながらも、左手一本で自分よりも大柄なハイランド兵の、意識のない体を引き上げてやった。
「……ち…っ…」
炭焼き小屋のむき出しになった根太に回しておいた縄を右腕だけでたぐり寄せ、フリックは二人分の体重をなんとか足場となる小屋の土台まで引き上げようとする。周囲の土壌に色鮮やかにのこる放電痕の様子からすると、二人を打ち据えた雷は、ほぼ直撃といってもいい状況だったようだ。綱を握りしめる右腕からは、手袋ごしになお、紫色の小さな放電が続いているのである。雷の紋章が衝撃を引き受けてくれたものなのか、フリックには落雷によるダメージはほとんどない。だが左手一本で支えているこのハイランド兵が果たして息を残しているものかどうか、この状態では確かめようもなかった。
生死もさだかではないハイランド人など見捨てれば、フリック自身は楽に足場まで戻ることが出来るだろう。だがフリックは抜け落ちそうな両の肩の痛みを堪えて、ゆっくりと、だが確実に斜面を登っていく。
そのフリックの努力をあざ笑うがごとく、さきほど小屋に置き去りにしてきた負傷者の体が、いくばくかの材木とともに斜面を転がって落ちていった。
永遠とも思える十五メートルを、気の遠くなるような時間をかけてどうにか登りきると、そこには完膚無きまでに崩れた炭焼き小屋の残骸が、そびえ立っていた。
あたりに投げ捨てられたように散らばって動かない先ほど見捨てることを決めた負傷者たちを、敢えて視界から閉め出して、フリックは僅かにのこった足場に、先にハイランド兵を押し上げようとした。
土砂降りの雨に、視界は十メートルを切っている。崩落する土砂は、たちまち泥流となって、伏していた者を押し流す。根太に回したロープで体を支えていなければ、フリックも、彼らと同じように押し流されていたのは間違いない。
足をさらおうとする泥流に、作業はよりいっそう困難なものとなった。両腕はすでに感覚を失いかけており、刻一刻と状況は悪化してゆく。それでも幾度か繰り返すうちに、フリックは、どうにかハイランド兵の体を足場に乗せることに成功した。
その成功に、一瞬気が緩んだのかも知れない。根太から床板まで一気に体を持ち上げようと、命綱から手を放したのが完全に裏目に出た。
確かに床板をつかんでいたはずの手は、次の瞬間には空しく宙を掴んでいた。息を呑む間もなく天地が流れ、失墜感に全身が支配される。
泥流に呑まれれば、まず助かるまい。必死に寝太に向けて伸ばした腕はしかし、感覚を失って用をなさない。思わず目を閉じたその瞬間、右肩が外れるほどの衝撃に襲われた。
――だが。
「なーに鈍くさい真似してやがるんだよ」
覚悟していた泥流の代わりというにはあまりにも不似合いな声に、フリックは呆然と目を上げた。とっさに何が起こったのが、判断が出来なかった。
「…ったく、これだから同盟の奴ってのはよ」
小屋の残骸から半身を乗り出した人物が、腕の力だけで一気にフリックを足場まで引っ張り上げた。そこでようやく、自分が右腕を掴まれて宙づりになっていたことに気がついた。ことのいきさつは呑み込めないが、どうやら圧死を免れたことだけは確からしい。
ようよう身を引き起こしたフリックの前で、見覚えのない赤毛の男は、どこか事態を楽しんでさえいるように、不謹慎にも笑みまで浮かべて見せたのである。
そのハイランド兵は結局一度も意識を取り戻さないまま、日が落ちた頃に息を引き取った。
「――気の毒しちまった……あんたもそんな怪我までしたってのにな」
ハイランド側に少しばかり下った山小屋である。横たえた男の上に三十分ほども跨って蘇生術を施していた男は、軽く頭を振ると、短く息を一つ吐き出した。
死んだ男の肩口を、まるで労うように叩いて立ち上がると、男は口の端だけの笑みを浮かべて、今度はフリックの腕をとる。
「あーあ、まだ放電治まんねえのかよ。っとに雷の紋章ってのは始末に負えねぇな……ほらよ、これでちょっとは楽になるだろ」
有無を言わせぬ強い力で押さえられた肩に、水の紋章の呪文が染みこんでゆく。脈打つような痛みが薄れていく安堵に詰めていた息を吐き出せば、シードと名乗った目の前の男は、何故だか嬉しげにのどの奥で小さく笑い声をたてた。
「――なんだよ…?」
「いやぁ……同盟の奴ってのは随分と人が良いもんだよな?」
どこか挑むような笑みでフリックをのぞき込んでくる男は、そのふざけた物言いに反して、随分ときつい眼差しをこちらに向けている。
油断のならない相手だと思う。治癒の呪文をかけるためとはいえ、壁にもたれたままの格好で肩口を取られたのは、つくづく不覚といっていい。
「…言ってろよ。お前のほうこそ随分面倒見が良いじゃねぇか。ハイランド人ってな大概排他的だって評判だぜ……それがまあどうした風の吹き回しなんだか。ああ、そうか。だからこんな大荒れになったんだな」
内心の焦りを悟られぬよう、こちらもわざと人の悪い表情でシードを睨み返し、軽口で返してやる。
「そりゃあな。同盟と違ってハイランドは貧しい土地柄だ。余所もんに優しくしてりゃあこっちが飢えちまう。共倒れになるよりゃ遙かにましだと思うがな」
フリックの軽い挑発に、悪びれもせず開き直ってみせたシードは、そこで一旦言葉を切って、表情を改めた。
「――成程ねぇ。先刻までの呆けた様子じゃあまさかと思ったが……てめぇやっぱり只者じゃねぇだろ。紋章までしっかり腕にくっつけやがって、よもや今更ただの村人だなんてこたぁ言わねえよなぁ、なあ優男の兄さんよ」
肩を掴んでいるシードの手に僅かばかり力が込められた。
「外されたかぁねえだろ、その肩。さっさと白状しちまった方が身のためだぜ?」
自らの優位を確信しているのか、勝ち誇った笑みを浮かべて見下ろしてくるシードに、フリックは関節の軋む微かな痛みに顔をしかめて、ため息にも似た息を吐き出した。
「……あの、なあ…」
右の手のひらを上に向けて反撃する気のないことをアピールしつつ、左手で太股に巻いた隠しからごくさりげない動作でナイフを抜いた。刃先をまっすぐ急所に向けて動きを牽制しながら、フリックはシードに、苦笑まじりに肩に回された手を外すよう促した。
「ったく血の気の多いガキが…。お互いまだ名前くらいしか名乗ってないってのに、白状するも何もあったもんじゃないだろうが」
「はっ、どうだか。こうでもしなきゃお互いどこまで正直に言う気だったのかわかりゃしねえ。で、そういうからにゃ、当然話してくれるんだよなあ?」
向けられたナイフに僅かに眉を上げ、シードはゆっくりとフリックから身を離し、おどけた様子で両の手のひらを開いてみせた。探るような視線の強さは変わらないが、どうもそこに面白がっているような気色が加わったのは気のせいではないだろう。
そしてそれはフリックにしても同じことだった。
「そっちこそな。シードってったな。お前だってあのくそ度胸だ。ただの一兵卒なんかじゃあないんだろ?」
「まあ、そりゃそれなりにゃあな」
シードがフリックの素性を訝しく思うのと同じく、フリックもまた、目の前で不遜な笑みを浮かべている赤毛のハイランド人の正体を今ひとつ掴みかねていた。
死んだ兵に対する態度一つとっても、それなりの地位にあることは間違いない。だが、正規の軍人にしては、この男の行動は少々破天荒に過ぎているような気がする。
少なくとも、あの落雷の直後、この男があの崩れかけた小屋まで降りてこなければ、今頃崩れた斜面の取り付きあたりで土砂に埋もれていたのは確実だった。たかだが、といってしまえば語弊があるが、あの場所に取り残されていたのは、この男にとっては、所詮生死も定まらぬ部下と、対立する国の人間なのだ。まともな感覚と判断力を持っているそれなりの地位の人間ならば、まず助けに飛び出そうなどとは考えまい。
それをあっさりこれで貸し借りなしだななどと言い捨てただけで、この男は自軍の部下のみならず、フリックをも助けてハイランド側の安全地帯まで引き上げたのである。並の胆力で出来ることではないだろう。
油断のならない相手なのは確かだ。だが、どうやらこの事態を楽しんでいるかのように、試すような色合いを帯びた視線を向けてくる若い男に、なぜか不快感は感じなかった。
どうせ一夜をともに過ごすことになるのだ。ならばシードのほのめかしに、ここは乗ってやるのが得策というものだろう。フリックはナイフを元に収めるとゆっくりと緊張を解いて笑顔を作った。
「ま、お互い今晩はここを動けやしねぇんだ。こうして角突き合わせてるよりゃあ、せいぜい身の上話でもして夜を過ごした方がまだマシってのに異論はないさ」
「はっ、酒もないってのになあ。何が悲しくて野郎とんなボロ屋で夜通し打ち明け話しなきゃなんねえのかねえ」
ことさら大仰にシードは肩を竦めた。
それが一晩の休戦協定が成立した瞬間だった。
濡れて重い服を脱ぎ捨て、体中いたるところにこびりついた泥をそれでこそぎ落とした。兵士の遺骸は小屋の土間に安置してやった。シードの馬も、迷ったあげくに結局小屋に上げた。
暖をとろうと囲炉裏に火を入れても、吹きすさぶ雨交じりの暴風に根こそぎ奪われた体温は、そうそう簡単には戻ってこない。先ほどまで互いの馬鹿話であれほど盛り上がっていたのが嘘のように、二人とも黙りこくって小さな燠火に手をかざしていた。
「なあ…このまま寝ちまったら死んじまったりしてな」
「何馬鹿言ってんだか。屋根があって毛布があって……それでお前みたいな殺しても死にそうもない奴が死ぬもんか」
ちびた蝋燭の頼りない灯りではシードの表情は伺えない。饐えたにおいのする毛布を頭までひっかぶったまま、喉の奥に引っかかるような嫌な笑いを含ませた冗談ともつかない言葉に、フリックはシードを一瞥して短く息を吐き出した。
体力が消耗しているのだろう。先ほどからどうにも頭が重かった。小屋の屋台骨を軋ませる風の音が耳について離れない。変に神経が昂ぶっていて、眠れないのはわかっていたが、それでも少しでも体を休めようと、フリックは被っている毛布をかきあわせて目を閉じた。裸の上半身を直にこする固い毛羽立ちが気に障って、そのことがさらにフリックの神経をささくれだたせた。
「…なあフリックさんよ、あんた大分参ってるみたいだな」
だから突然耳元で囁かれたシードの声に、まともな反応を返せなかったのも、多分疲れのせいなのだ。
そう、まともな状態なら、たとえ目を閉じていても、炉ばたを囲むように斜め前に座っていたシードが、背後に移動した気配に全く気付かないことなど、あり得るはずがない。
「――眠りたいってんなら、ことと次第によっちゃあ協力してやってもいいんだぜ?」
含み笑いを耳朶に吹き込まれ、とっさにどう反応するべきかわからなくなったフリックのその背中に、シードは体重をかけるように絡み付いてくる。
「鳩尾に一発入れてやってもいいし、締め技かけて落としてやっても面白いな。ああ、明日の頭痛さえ覚悟してくれりゃあ、こいつで頭思い切りぶん殴るってのも悪くねえな」
フリックの動きを封じ込めるように、シードの腕は首筋から肩へ、肩から胸元へと絡み付く。動く気力など元から無いが、からかわれているのはどうも気に入らない。いっそ本当に言ったとおりに気絶させてくれたほうがどれほどマシか。それを声に出すのすら億劫だったが、ぼそぼそと口の中だけでつぶやくようにそういうと、シードはフリックの首に回した腕に力を込めた。
「――そうしてやってもいいんだけどな。けどそれじゃあな。お前をあっさり楽にしてやる義理はないんだよなあ。無料奉仕ってのは癪に障る。なあ、一つ取引といこうぜ?」
まるでこちらの弱気につけ込むように喉の奥で笑うシードの、後に続いた台詞はなんとなく予想がつくが、それが単なるからかいのためだというのが気に入らない。勿論本気であっても空っとぼけたシードの提案を受け入れてやる気はさらさらなかったが、少なくとも本気でぶちのめしてやれる分、まだマシと言うものだ。
「……その前に雷喰らわせてやるよ」
疲れ切っているはずなのに、いや、だがらこそか、次第につのるいらいらに、フリックはことさら邪険に毛布を被りなおし、それから軽い放電をのし掛かってくる男に食わせてやったが、懲りない男は短い笑いをこぼし、なおも体重を掛けてくる。
その重さを他の誰かと混同しそうな錯覚にフリックは内心ひどく毒づきながら、それでもシードを振り払う気にはなれなかった。
翌朝は見事なまでの晴天となった。
気温こそいまだ冬の名残をとどめているが、一夜にして空気の匂いまでが春を孕んだものに変わっている。
「……春だぁねえ」
雨に濡れたままの木々は、早春の曙光に照らされて、匂い立つような色を露わにしており、嵐の傷跡を生々しく残しながらも、なお美しく、まだ淡い空にすっくと枝を差し出していた。
昨日の崩壊現場は、まだむごたらしい傷跡を広げていたが、フリックはその隣の斜面に下山路を見つけだしていた。
「ああ、いっそあいつを捕虜にして部下どもと交換させるってのも手だったかねえ」
危なげなく下山していくフリックの姿を、シードは山頂からしばらく目で追っていた。一度もこちらを振り向かないのが何となく癪に障る。
お互いことを大事にするのは望まないから、ここは、ハイランド、同盟ともども口を拭って、何事もなかったことにしようではないかと、シードのこのところの最大の懸念は、極めてあっさりと解決してしまった。と、そうなってくると、フリックをあっさり返してしまったことが、俄然不満に思えてくる。
「連れてかえりゃあちったあ楽しみが増えたってのにな。勿体ないことしちまった」
冗談というには少々剣呑な目の光のままからりと笑って、シードはもう一度、フリックに目をやった。
いまならまだ、ぎりぎりシードの声が届くだろう。大きく息を吸い込んで、シードはフリックに向けて声を張り上げた。
「フリック!!」
大分小さくなったフリックが、こちらを振り仰いだ。
「貴様は俺が殺してやる! だからそれまで…!」
言葉を聞き取ったのか、フリックが剣を抜いてシードの声に応えた。
「死ぬんじゃねえぜ! いいか、分かってんだろうな!!」
フリックが振る抜き身の剣が、日の光を反射して強く輝いた。
その目を射る光の残像に目を眇めるうちに、フリックの姿は眼下に広がる森の中に消えていったのである。
皇王アガレスとミューズ市長による休戦協定は、それからちょうど半月後に締結された。
ルカ・ブライトによる協定破りによって、戦端が開かれたのは、さらにその三ヶ月後のことである。