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第十五講 『金明水と富士講』、その後▼『金明水と富士講』2001年7月、私は日本風俗史学会の『風俗史学』という雑誌に「金明水と富士講」という論文を掲載させていただいた。金明水とは、富士山頂にある井戸状のものである。富士講や麓の御師たちはこの水に霊的なものを認め珍重していた。この井戸の論文自体については受付にある業績を見ていただきたいが、ここで私が主張したことに以下のものがある。
つまり、金明水は井戸としてはニセモノなのではないかというのが私の主張であった。 ▼小林氏のお手紙小林謙光氏からコピー入りの封書を郵便で頂いたのは8月下旬である。小林氏は小田原市在住の富士講研究家で、特に足柄地方の富士講を精力的に研究しておられる方である。当然小林氏にも『風俗史学』をさし上げている。この封書はそのことに対する礼状であったが、しかし氏の書簡には以下のようにあった(表記等ママ)。 金名水・銀名水にも興味を持ち、富士山頂で水が湧く理が長い間、理解できませんでした。ところが昭和四十七年に朝日新聞の「富士山の盲点・永久凍土」(樋口敬二氏)の記事を読んで、山頂の稜線部一帯が永久凍土であると知り、金名水・銀名水は夏には永久凍土の上に水が溜まるのではないかという素朴な疑問を抱きました。 当然のことながら、私は大いに驚愕した。永久凍土の存在など初耳だったからである。同封されていた朝日新聞の記事は昭和47年8月3日付夕刊のもので、筆者の樋口敬二氏は記事を見る限り名古屋大学教授(当時)で氷雪物理学を専門とする研究者である。そこには以下のようにある。 雪の消えた八月でも、山頂では、地面のすぐ下に氷がある。この事実は・・・一種の涼感を呼ぶのではあるまいか。 まさに根拠とした文献が手落ちであることを提示された格好となり、私はさらに狼狽した。永久凍土の存在が事実なら、金明水が水理学的な井戸である可能性が生じてくる。永久凍土はその名の通り地中が凍結したまま融けていない地層だから不透水である。氷は凍結した水だから、当然水を通さない。つまり金明水の地下から広い範囲にわたって永久凍土があるとすれば、この不透水の地層が受け皿となって下へ流れ落ちない地下水の流れが可能となり、従って井戸も可能になるというわけだ。さらに検索エンジンGoogleで「富士山 永久凍土」をキーにして検索すると、数多くの結果が表示され、例えば静岡県のインパク静岡パビリオンの説明や、毎日新聞2000年6月11日付の記事、さらに国土交通省中部地方整備局富士砂防工事事務所の富士山直轄砂防30周年記念シンポジウム『富士山の自然と保全』〜世界に誇れるFUJI-YAMAを新世紀に伝えるために〜でのパネリスト・増沢武弘氏(静岡大学教授)による報告など、現在では地球温暖化による永久凍土の縮小が問題になっていることを知るに至った。 ▼後日の調査 小林氏へ調査する旨告げたものの、長らく着手していなかった。失業して時間が空いたのを機に調べてみることにしたが、とはいえ実際に富士山頂で地面を掘るわけでもなく専ら文献で調べるのみである。国立情報学研究所情報検索サービス(NACSIS-IR)などで調べてみると、富士山の永久凍土について研究した藤井理行氏がこのことについて論文を残しており、藤井氏は現在国立極地研究所の教授をなさっていることが判明した。その論文や他に何か文献が無いかと思い、板橋区にある国立極地研究所の図書室をたずねてみることにした。お目当ての論文とは、藤井理行・樋口敬二「富士山の永久凍土」(『雪氷』34-4)である。これは先行して見つけた南坂丈治・岩田幸雄「富士山大沢崩れで発生する土石流と凍土層について」(『新砂防』42-4)に参考文献として挙げられている。極地研究所図書室の職員は、飛び込みの私に親切に応じてくださった。そして目的を話した私に持ってきてくださったものが藤井理行『富士山およびネパール・ヒマラヤにおける山岳永久凍土の研究』(198-?、自筆原稿の電子複写)であった。なおこの文献は、コピーを製本したものであるにもかかわらず、存在が公開されている。そして、このコピーを紐解くうちに、藤井氏が金明水を直接調査している記述があることを発見したのである。現在金明水はコンクリート製の蓋に封じられており、その中を窺うことはできなくなっている。「金明水と富士講」で書いたように、明治時代に金明水・銀明水で細菌調査を行った例はあるものの、それ以後金明水を科学的に言及した話は寡聞にして知らない。そういう意味でもこの報告は貴重である。
以上よりわかったことは、溶岩は必ずしも透水性ではない(永久凍土も必ずしも不透水ではない)という自らの知識の誤り、しかし金明水の場合は元来透水性の良い永久凍土が不透水となり地形的に水が溜まったものではないかということ、である。確かに金明水の周囲は平坦な低地であり、水が溜まりやすいことは容易に想像し得る。銀明水も地形的には似ている。結果として、私が「金明水と富士講」で述べたような金明水人造設備説は間違いで、水理学的に説明しうる井戸であったことになる。その点、お詫びして訂正したい。
実は失業して資料収集している間によい論文を見つけた。 其所〃も大かた見わたさるれバそこはめぐらで右の方に原のごとき所あるにいさゝか下りてみれば是なんおさんすいといへり ちひさき井なれどいかなる日でりにもかれずとぞうべ ことしの夏だにかれせねばあやしき水也けり 今ニ同じさまなる井あれどそこは水かれて雪いさゝか消のこりたり 思ふに山水と三水とひが心えをし人の堀そへしなるべし 吉田口から登って取り付きのピークである薬師岳から右へ行き、金明水に降りた時の記述である。引用冒頭の「そこ」とは、釈迦の割石(白山岳にある巨石)などの名所を指す。山頂を一周するお鉢めぐりを勧められ、気が進まずに断ったけれども金明水には興味を引かれたのである。状況としても位置関係は合致する。ともかく、これを読んで驚くべきは枯れているとはいえ、井戸が三つあったということである。周囲の記述からして、銀名水と合わせてもう一つあったということではなく、金明水の場所に井戸の穴が更に二つ開いていたということである。賀茂季鷹は「山水」を「三水」と思い込んだ人によって掘られたのだろうというが、もしかすると、水が出るまで試みたなど別に理由があったのかもしれない。また、金明水は当時「おさんすい」と呼ばれていたこともわかる。「金明水」という呼び名自体、銀明水と対であることを意識された故のものであろう。 ここで以上をまとめるに、金明水は1790年には成立しており、「おさんすい」と呼ばれていたということである。 ▼まとめと反省
「金明水と富士講」について、金明水が水理学的な井戸ではないのではないかという説は私の邪推に終わったが(明るくない、特に理系の分野に関することは十分すぎる準備をしてから論ずるべきであった。それがこの論文の反省点の一つである)、その成立年代については概ね妥当であるとして、そのまま言い続けてよいのではないかと思う。この点については、もう少し詳しく年代を特定できる史料の発見を望みたい。 |