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| 観光地名 | : | 福昌寺跡(島津家墓地) |
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| 電話番号 | : | 099-216-1327(鹿児島市観光課) |
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| 住所 (リンク先は地図) |
: | 鹿児島市池之上町48 |
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| 地図 (powered by Google Map) |
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| 訪問日 | : | 2006年9月30日 |
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| HP | : | 福昌寺跡(島津家墓地)(楽天トラベル旅コミ[口コミ]) (リンク先は楽天トラベル(旧・旅の窓口) ・ 旅コミ(クチコミ) ・ 鹿児島県・(鹿児島・桜島)(口コミ)のサブ・コンテンツ。 その他、 鹿児島市観光ガイドでも福昌寺跡として、 鹿児島県公式観光ガイド「ゆっくり・悠・遊・観光かごしま」でも福昌寺跡(ふくしょうじあと)として、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でも福昌寺 (鹿児島市)として、 Samurai Worldでも福昌寺跡 鹿児島市として、 やまものの部屋でも獅子文六の「南の風」と福昌寺跡, 福昌寺跡のキリシタン墓地として、 鹿児島県四地区観光連絡協議会・かごしまの森でもおすすめ観光スポット検索: 福昌寺跡(ふくしょうじあと)として、 川元パパのホームページでも福昌寺跡として、 愛知学院大学 禅研究所でも【研究活動報告 研修旅行レポート 鹿児島 平成17年度】として、 Laudate-聖パウロ女子修道会(女子パウロ会)WEBSITE - キリスト教(カトリック)を知りたい人のための道案内でも日本キリシタン物語−1.鹿児島の福昌寺にてとして、 ザビエル上陸450周年記念 ホームページ(St. Francis Xavier Memorial Association)でもイラストで見るザビエル街道・福昌寺跡のキリシタン墓地として、 絵画と写真の旅(SAWARADEのホームページ)でも福昌寺跡,島津家墓所,ザビエル記念公園として、 ポンコツ山のタヌキの便り(ブログ)でも 福昌寺跡と斉彬の墓, 福昌寺跡近くのキリシタン墓地として、 CASE REAL Blog(blog)でも→2007, Shimazu Nariakiraの中で、 Copernicus(blog)でも廃仏毀釈として、 世界の端っこで何かを叫ぶ(blog)でも島津斉彬の中で、 ♪#マユ#の部屋♪(blog)でも福昌寺へG0→として、 (´・(ェ)・`)クマー の森(blog)でも回想の鹿児島稽古 その3の中で紹介されています。また、廃仏毀釈については、Samurai World・歴史再発見でも鹿児島に寺院がほとんどないわけ, 鹿児島に寺院がほとんどないわけ その2で解説されています。) 福昌寺跡(島津家墓地)訪問記(「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」更新情報)(カミタク・ブログ内記事。コメント,クチコミ情報はこちらへどうぞ。) |
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| 交通案内 アクセス |
: | 鹿児島への切符の予約は、【楽天トラベル】航空券予約, 【楽天トラベル】ANA楽パック(航空券+宿泊併せて)予約, 九州新幹線「つばめ」等のJR九州(九州島外のJR各社の予約も行う場合、JR CYBER STATION), 【楽天トラベル】高速バス予約で行うことができます。レンタカーご利用の方は【楽天トラベル】レンタカー予約でレンタカーの予約ができます。
鹿児島市内についた後の移動手段としては、観光地周遊バス・カゴシマシティビューの南洲公園入口バス停(リンク先は地図)で下車し、南洲神社入口交差点(リンク先は地図)で右折(北上)し、この三叉路(リンク先は地図)ここで心持ち斜め前に曲がり、鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校の角の手前(リンク先は地図)で左折し、突き当たり(リンク先は地図)で右折し、この辺り(リンク先は地図)を回り込めば、ここが福昌寺跡(リンク先は地図)です。玉龍高校前バス停には、鹿児島市営バスの2番線:清水・常盤線, 6番線:吉野線(東高校下経由), 6-2番線:吉野線(せばる団地経由), 6-3番線 吉野線(葛山行き), 22番線 葛山線で行くこともできますので、公共交通機関としてはこの方が便利かも知れません。 カゴシマシティビュー1日乗車券は市電・市バスも乗り放題なので便利です。 |
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| 最寄りの温泉地,宿泊地 |
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| 解説 | : |
福昌寺跡(島津家墓地)は、薩摩藩主・島津氏宗家の菩提寺だった名刹の跡地です。後述の廃仏毀釈により福昌寺は廃寺になってしまいましたが、今でも島津家歴代の墓が福昌寺跡に残っています。鹿児島県高等学校歴史部会編『鹿児島県の歴史散歩 歴史散歩 (46)』(山川出版社,2005)pp.20-21によれば、1394(応永元)年に島津氏第7代当主島津元久によって曹洞宗の玉龍山福昌寺として創建されました。室町時代の南北朝合一直後の頃です。開山は伊集院氏出身の石屋真梁との由です。福昌寺は薩摩,大隅,日向の三州の僧侶を支配する僧録所になり、江戸時代には薩摩藩最大の寺院として繁栄したとの由です。福昌寺には最盛期には1,500人もの僧侶がいたとの由で、原口泉著・NHK鹿児島放送局編『NHKかごしま歴史散歩』(日本放送出版協会,1986)p.133によれば、天保年間(1830〜1843年)に作られた『鹿児島城下絵図』や『三国名勝図会』に、この時期の広大な寺域と堂塔が描かれているとの由です。この『鹿児島城下絵図』は、塩満郁夫・友野春久『鹿児島城下絵図散歩−新たな発見に出会う』(高城書房,2004)として現代の本に収録されている絵図がそうなのではないか、と推測します。 『鹿児島県の歴史散歩 歴史散歩 (46)』pp.20-21によれば、戦国時代の1546(天文15)年の忍室和尚が福昌寺住職の時に後奈良天皇勅願所となり、また、1549年には、島津貴久から宣教の許可を得たフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が福昌寺住職・忍室和尚と宗教論争を交わしたとの由で、ザビエルゆかりの史跡としても知られています。 しかし、このせっかくの名刹も、明治時代の廃仏毀釈で廃寺になってしまいました。薩摩藩の廃仏毀釈の歴史は、薩南学派と呼ばれる儒教の朱子学の薩摩独特の学派に起源があると言われています。薩南学派とは、戦国時代が始まった頃の島津氏第11代当主島津忠昌により薩摩に招かれた、京都五山の臨済宗の禅僧・桂庵玄樹(けいあん げんじゅ)が始めた学派です。『NHKかごしま歴史散歩 』pp.133-137によれば、桂庵玄樹は中国・明(みん)に7年間滞在して朱子学を修め、薩摩では朱子学を正しい儒学として広めて、これが薩南学派の礎となったとの由です。桂庵玄樹は一時期京都に戻って建仁寺や南禅寺の住持となりますが、最後には薩摩に戻って来て薩摩で没しました。『NHKかごしま歴史散歩 』pp.133-137によれば、やがて戦国時代末期・安土桃山時代・江戸時代初期の頃には、島津氏第16代当主・島津義久や第17代当主・島津義弘が桂庵玄樹に連なる儒学を重んじ、桂庵玄樹の孫弟子・一翁玄心に学んだ南浦文之が島津氏第18代当主&薩摩藩初代藩主の島津家久(忠恒)の侍読になり、文之の弟子の泊如竹は島津氏第19代当主&薩摩藩第2代藩主の島津光久に儒教の一派である宋学を講じたとの由です。『NHKかごしま歴史散歩 』pp.133-137によれば、光久は「学文の道」をもって政道とし、しばしば訓令を出して家臣の教化に努めたとの由です。なお、島津光久は、鹿児島市の名園・仙巌園(磯庭園)を築いた藩主でもあります。 その後、島津氏第25代当主&薩摩藩第8代藩主の島津重豪(しまづ しげひで)が作った藩校・造士館では、『NHKかごしま歴史散歩 』pp.133-137によれば、朱子学を学ぶべきとして異学を禁じ、造士館の訓導師・後醍院真柱(まはしら)によって国学、特に平田篤胤の復古神道が広められたとの由です。このため、八田知紀などの、平田篤胤門流の国学者が輩出し、平田篤胤流の復古神道が、明治維新における薩摩藩の思想的背景になっていったとの由です。 『NHKかごしま歴史散歩 』pp.133-137によれば、1868(慶応4)年3月布告の「神仏判然令」に始まる神仏分離政策の下、上述のように過激な平田篤胤流国学が充満していた薩摩藩では「神仏分離」を「廃仏毀釈」に曲解し、激しく仏寺が破壊されるに至りました。この1868(慶応4,明治元)年に薩摩では、由緒の無い寺や別当寺(神社付属寺)はほとんど廃され、かろうじて各地の名刹28寺と福昌寺・宝満寺 (志布志市)など6寺が残されたとの由ですが、翌1869(明治2)年にはこれらの名刹さえ廃されるに至りました。Samurai World・歴史再発見・鹿児島に寺院がほとんどないわけ その2によれば、薩摩藩で廃仏毀釈が激しかった理由は上述のような過激平田篤胤流国学の充満に加えて、明治維新後の新政府の財政難を支える意味からの寺院の財産没収と僧侶の兵士への転職の一石二鳥政策という意図もあったとの由であり、薩摩藩での廃仏毀釈運動の責任者は家老桂久武であったとの由です。 この過激な廃仏毀釈の結果、薩摩藩では文字どおり1寺も残らず寺院が全滅し、『NHKかごしま歴史散歩 』pp.133-137によれば破壊を免れた寺院は神社に衣替えされ、福昌寺は島津氏は島津氏菩提寺であったために長谷場神社(はせばじんじゃ)となって(一旦は)神社として残ったとの由です。『NHKかごしま歴史散歩 』pp.133-137によればこの時、薩摩藩領の薩摩,大隅,日向の三州では廃された寺院は1,616ヶ所に及び、2,966人の僧侶が還俗させられた上でその3分の1が兵士になったとの由です。『NHKかごしま歴史散歩 』pp.133-137によれば、薩摩藩には寺請制度が無く檀家を持つ寺院が少なかったり、民衆への影響力が大きかった一向宗が薩摩藩では禁じられていたりしたために民衆と寺との距離が遠かったことも廃仏毀釈が容易に成功してしまった背景要因であったとの由です。上述の2,966人という薩摩藩領還俗僧侶数対比では、福昌寺最盛期在籍僧侶数1,500人は過半数と言える数字であり、このような数字からも最盛期福昌寺の規模の凄さを窺うことができます。 『鹿児島県の歴史散歩 歴史散歩 (46)』pp.20-21によれば、廃仏毀釈は徹底しており、福昌寺跡の島津家歴代の墓石には法号(戒名)とは別に神号が追刻されているとの由です。『鹿児島県の歴史散歩 歴史散歩 (46)』pp.20-21によれば福昌寺は再興されることなく境内の一部は墓地として昭和まで残されていましたが、第二次世界大戦後、島津家歴代の墓やその他一部の墓石を残して一般市民の墓は移転改葬され、跡地に鹿児島玉龍高校が建設されたとの由です。福昌寺の神社としての後身・長谷場神社(はせばじんじゃ)がその後どうなったかについては存じ上げません。訪問した時には神社は無かった模様です。 『鹿児島県の歴史散歩 歴史散歩 (46)』pp.20-21によれば福昌寺跡に現存する墓石は、島津氏第6代当主・島津師久(鎌倉時代〜南北朝時代)から、島津氏第28代当主&薩摩藩第11代藩主の島津斉彬までの島津家歴代の墓石の他、墓地の背後の山には福昌寺開山石屋真梁から71世白洲(はくしゅう)までの歴代住職の墓があるとの由です。2006年9月現在中に入れるので、島津家歴代の墓石にお参りすることが可能です。これらの墓石のさらにその上方には、キリシタン墓があります。このキリシタン墓は、浦上四番崩れで1869(明治2)年に長崎県の浦上で捕らえられたキリシタンが各藩に分かれて預けられた際、375人が福昌寺(跡地?)に収容されたことが契機になっています。『鹿児島県の歴史散歩 歴史散歩 (46)』pp.20-21によれば、鹿児島滞在中に病死した58人の墓がキリシタン墓と呼ばれているとの由であり、隠れキリシタンの悲話を伝える墓石であり、福昌寺跡はキリシタン史跡スポットでもあります。 鹿児島観光・文化検定 公式テキストブック『かごしま検定』p.33によれば、火山県・鹿児島県では墓石のほとんどが溶結凝灰岩でできており、この玉龍山福昌寺(跡)では墓石に加えて石垣、石塀、敷石も含めて主に吉野火砕流が固まってできた溶結凝灰岩でできているとの由です。吉野火砕流とは、上述の本・『かごしま検定』p.30によれば、約50万年前の火砕流堆積物と考えられているもので、鹿児島市吉野台地を形づくっているとの由です。ただし、島津斉彬をはじめとする藩主の墓石は山川町で切り出された山川石(山川火砕流)が使われているとの由です。 なお、島津家歴代の内、島津氏第6代当主・島津師久以降の墓石は島津家墓地として福昌寺跡にありますが、鎌倉時代初期から南北朝時代にかけての初代島津忠久から第5代島津貞久までの5代の墓石は、北薩・出水市野田町にある臨済宗相国寺派の寺・鎮国山感応寺(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では感応寺 (出水市))にあります。福昌寺は廃寺になってしまいましたが、感応寺の方は廃仏毀釈で一旦は廃寺になった後で再興され、寺も残っています。また、『鹿児島県の歴史散歩 歴史散歩 (46)』pp.20-21によれば隣接スポットとして、福昌寺跡地に建つ鹿児島玉龍高校の近くには鹿児島出身の洋画家・藤島武二宅跡の記念碑もあるとの由です。拙訪問時にはこの記念碑には気づきませんでしたが、藤島武二の絵画作品は鹿児島市立美術館や岩崎美術館等の鹿児島県内の美術館で見ることができます。なお、この鹿児島玉龍高校(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校)は、進学実績も高く、ラグビーでの花園出場等を果たす等ラグビー部,野球部,バレー部に全国大会出場の実績があるという文武両道の高校であり、近年では中高一貫教育を始めるなど、なかなか良い高校の模様です。 福昌寺跡に眠っているのは島津氏宗家の方々です。県内各地に島津氏庶流の人びとの墓所が残っており、例えば、加治木島津家の墓所は、加治木の長年寺跡の島津墓地にあります。 福昌寺跡は、せっかくの名刹・玉龍山福昌寺は残念ながら廃寺になってしまい姿が残っていませんが、島津家歴代の墓石が残っている貴重な歴史遺産スポットですので、歴史ファンの方々には観光スポットとしてお勧めです。 |
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| 鹿児島県内の寺社仏閣観光スポット訪問記 |
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| 鹿児島県内の幕末・明治維新〜西南戦争にかけての歴史観光スポット |
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| 感想 | : |
福昌寺跡(島津家墓地)は、かつては南九州を代表する名刹だったにもかかわらず、廃仏毀釈で廃寺になってしまったのは極めて残念なことです。残存していればその大伽藍は城下町鹿児島にとっては歴史遺産としても観光スポットとしても価値が極めて大きかった筈です。 幕末・明治維新史を俯瞰するに、一見イメージとしては長州藩よりも薩摩藩の方が、例えば島津斉彬公による我が国初の洋式工業団地・集成館事業(現・観光スポットでは尚古集成館)による地道な国力産業振興を行ったように「思想的過激狂信者」度合いが少ないように見え、それが本来の薩摩藩の魅力なので、「実は薩摩藩でも『思想的過激狂信者』による暴挙があった」という史実は残念です。薩摩藩の廃仏毀釈の歴史は無念です。 本来、昔ながらの伝統的な神道の最大の長所は私にとっては、「教義」などという「『思想、信条、哲学、イデオロギー』の類的なウザい代物」が無い珍しい宗教だ、という点にあります(「信じる、信じない」の次元ではなく、「好き、嫌い」の次元で好きです)。であるにもかかわらず、平田篤胤流の復古神道はその神道に「教義」を持ち込んだとも言える訳で、言い換えれば、本来は「思想、信条、哲学、イデオロギー」の類とは真逆の宗教だった筈の神道を「狂信者の母体」化させてしまったと言える訳です。「教義」が無ければ、「思想的過激狂信者」は出て来ようがありませんので。この理由のため、平田篤胤は、私が個人的には毛嫌いする人物であります。平田篤胤流の復古神道は、或る意味では思想的には元々「『思想的過激狂信者』の傾向が強い西洋列強の圧力に対する日本側からの思想的反作用」であるとも言えるのですが、その結果むしろ、「『思想、信条、哲学、イデオロギー』の類が『狂信者の出身母体』になる、という点では西洋や中近東のおぞましい文化を日本に導入してしまったのだ(←思想的内容ではなく行動文化において)」と考えております。繰り返して申しますが、昔ながらの伝統的な神道の最大の長所は私にとっては「教義」などという「『思想、信条、哲学、イデオロギー』の類的なウザい代物」が無い点にあります。狂信者を産み出す母体になりかねないが故に、内容如何に関わらず「思想」などというものはウザいもの、内容如何に関わらず「思想」であるというだけで嫌なもの、これが私の感性であります。否、むしろ、もしも仮に「完璧に内容が正しい思想」などというものがこの世にあったとしたならば、それにかぶれる者が増えて「思想的狂信者」が生じる確率が上がるため、「正しい思想であればある程、むしろ存在自体が罪悪であり諸悪の根元である。どの思想が正しいか否かではない。それが思想であるというだけで、この世に存在しなければ存在しないほど望ましい。」とさえ思います。 余談ながら、私は神道や禅宗が好きなのですが、その理由は、(平田篤胤達に汚染される以前の本来の)「教義」などという代物の無い神道や、極論を言えば無神論にも到達してしまいかねないように私には思える禅哲学では、「思想的過激狂信者」の類は出て来にくいためです(この点ではキリスト教は一神教であったり「教義」が存在するが故に「思想的過激狂信者」の母体になりかねないので、実はかつて自分自身が受洗したことがあるくせに、本音では日本でこれ以上の普及はして欲しくない宗教です)。話を廃仏毀釈に戻せば、「神仏習合でどこが悪い?。昔ながらの素朴な神道での神社が寺院と共存してどこが悪い?。百歩譲って神仏分離が必要だったとしても、何も寺院破壊までやるこたぁねーだろー!。おかげで、寺社巡り観光が大好きな私が、大好きな第2の故郷・鹿児島で巡るお寺が『跡地』になっちゃったじゃねーか!。」とか思う訳です。 まぁ、平田篤胤流の復古神道が幕末・明治維新史の思想的背景だったので、これが無ければ日本が「欧米列強による植民地化から免れて、明治維新後の近代経済成長することも無かった」り、「大好きな薩摩藩が維新回天の原動力になることもなかった」りする旨に鑑みれば、平田篤胤流の復古神道には功罪相半ばする点があり、「歴史の評価は難しいし、歴史に『タラレバ』は無い」などと考えたりもいたします。 日本の歴史・文化遺産が他国と異なる長所は、他国では往々にして歴史・文化遺産が「遺跡」と化してしまうのに対して日本の寺社は「生きている現役」である点にあり、「遺跡としてしか残っていない歴史・文化遺産は少ない」点にあると私は思います。例えば京都の魅力は「街全体が生きている歴史・文化遺産」だからですし、「鎌倉の寺社に魅力があって素敵で、でも関東者の私でも悔しいけれど街全体の魅力では鎌倉は京都に及ばない旨を認めざるを得ない」のも、「鎌倉では寺社は現役だけど、街自体は現代都市になっちゃった」ためです−少なくとも私にとっては。このような見地からは、「福昌寺が福昌寺跡になっちゃった」というのはクソべらぼうに残念なことです。 いずれにせよ、このような観点からは、私が大好きな鹿児島でこのような廃仏毀釈の歴史があり、その結果貴重な文化や文化財や寺が消えてしまったのは、残念無念という他ありません。廃仏毀釈は、アフガニスタンのタリバンによるバーミヤンの大仏破壊にも匹敵する文化的愚挙であり蛮行であると私は思っており、その愚挙や蛮行が、よりによってあろうことか、私が大好きなかけがえのない第2の故郷・鹿児島で激しく行われたということが心から悲しいです。繰り返しになりますが、廃仏毀釈さえ無ければ、福昌寺跡(島津家墓地)は今でも現役の「名刹・福昌寺」として参拝できた筈です。 とは申せ、歴史ファンの私としてはせめて島津家歴代の墓石が福昌寺跡(島津家墓地)に残っているだけでもありがたいことであり、かつての広大な寺域のごく一部でかつ「現役ではない(=遺跡)」とは申せ、過度の廃仏毀釈で寺院が全滅したこの地で、せめて跡地(=遺跡)してだけでも福昌寺跡を見られるというのは貴重なことです。この福昌寺跡(島津家墓地)は、歴史ファンに対してはお薦めの観光スポットです。島津義久公や島津義弘公の墓石があるので戦国時代史ファンの方にはお薦めの観光スポットです。また、島津斉彬公の墓石があるので幕末・明治維新史ファンの方にもお薦めの観光スポットです。 |
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| 当HP「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」を紹介する本 | : |
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