【レポート】本稿は、北朝鮮の歴史を政治経済学の視点から、社会主義計画経済が資源配分を歪める仕組みや送金問題について分析したレポートです。 : KEYWORDS = 北朝鮮,政治,歴史,経済,政治経済学,送金問題
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北朝鮮の政治経済学
はじめに
本稿の研究目的は,長期的には重要な隣国であるべき北朝鮮の経済について、政治経済両面から分析することである.研究の動機は,私事であるが,横田めぐみちゃん事件が起きた時期に事件現場の近くの中学に筆者が登校していたため,北朝鮮の日本人拉致事件を他人事とは思えないことである.北朝鮮の暴発を防ぎつつ正常化を促さない限り同国の経済発展も日本の安全保障上の安心もあり得ないため,同国経済の研究は急務である.
北朝鮮についての過去の研究業績としては,政治分析では神谷不二教授の朝鮮戦争研究以来幾多の先人の業績があるが,経済については情報入手がままならないこともあって研究者は少ない.韓国統一院のほか,国内では小牧輝夫や玉城素,近年では環日本海経済研究所などで研究が行われている.北朝鮮に関しては,単に統計資料が入手し難いことだけではなく,経済現象の発生メカニズムの上でも政治の影響を抜きにしては考えることができないことから,本稿においては政治経済分析のアプローチを用いて過去約50年間の政治経済の概観を分析する.また,筆者の大学院学友である塚谷昭彦氏の承諾を得て,北朝鮮への邦銀ルートでの送金額を推計結果を同氏のレポートから引用紹介する.
なお,本研究は筆者の全くの個人研究であるためその全ての責任は筆者にあり,筆者の勤務先会社や出身大学院,塚谷氏その他全ての関係団体や関係者は,内容に関して免責である旨を予め明記して強調しておく.
1.「7ヶ年計画」(1961)開始前まで
朝鮮半島北部は鉱物資源が豊かで,石炭,鉄,亜鉛,製鉄用レアメタル(モリブデンなど)(1),金,銀が産出され,北部山岳地帯は水力発電に適していた.このため,日本統治時代から鉱山開発と鴨緑江域水力発電用ダム開発が行われ,当時の朝鮮半島の消費電力の80%がこの地域で賄われていた.また,安価な電力を利用して化学工業(肥料)と冶金工業(アルミニウム,鉄鋼)が盛んになった.朝鮮南部に比べて地理上農業には恵まれておらず,国土中の耕作可能面積比は南部の23%に比して北部では17%しかない.日本統治時代から鉄道幹線網整備と港湾設備近代化が行われ,電信電話による通信網も整備された(文献[18]pp.70-72,p.118).このインフラのため,独立当初の北朝鮮には韓国よりも豊かな電力・重化学工業生産力があった.
対日参戦後の1945年8月7日にソ連は朝鮮に軍を進め,38度線を境としての米国との分割占領が開始された.その後4ヶ月の間に土地改革や重要産業国有化などの社会主義的制度改定を進め,独裁的指導政党として北朝鮮労働党を設立した.その後,整備された鉱工業インフラにも関わらず,朝鮮戦争によって経済を金日成は荒廃させてしまい(2),1953年末の1949年対比生産量は,金属で10%,化学工業製品で20%,石炭は11%であった.そのため,1953年に朴憲永ら南朝鮮労働党指導者を粛清して朝鮮戦争失敗の責任を負わせた後,「2ヶ年計画(事実上は3ヶ年計画;1954−56)」(3)を行って国民を厳しく動員し,1955年には1949年水準にまで生産を戻した.続く「5ヶ年計画(1957−61年)」により,重装備のための重化学工業の再建,農業肥料のための化学工業の復興,水力発電所の建設を行い,この時期の3.5倍の伸び率を示したと自称している(文献[18]p.119).この経済計画遂行に際して千里馬(チョンリマ)運動が発動されたが,このようにかけ声で強制的に労働力を動員するという発想は極めて全体主義的なものである.
これら初期の経済計画に際して,1953年のスターリン没後のソ連におけるマレンコフの軽工業重視路線や1956年2月のソ連党第20回共産党大会におけるフルシチョフのスターリン批判を受けて,朝鮮労働党内の崔昌益ら延安派と朴昌玉らソ連派(4)とが,重化学工業路線や金日成の個人崇拝に反対したためこれを金日成派は粛清し,経済計画の強行と対立派閥の粛清とを抱き合わせて一挙に行ってしまった(文献[9]pp.30-36).各国共産党においては民族派とソ連追随の国際派の2大路線があり(国により例外はある),東欧各党では国際派が正統派であって民族派は粛清や失脚の対象であった.北朝鮮では例外的に,この粛清によって国際派を一掃して金日成派が権力を集中した.この経緯は,外交政策としても国内経済政策としても後の鎖国的自主独立路線の嚆矢となるものであり,これが後に体系化されて主体(チュチェ)主義につながっていったと筆者は推測するため,この国の経済成長(停滞)経路の上では極めて重要なジャンクションであったと考える.
2.「7ヶ年計画(1961−67)」から「第2次7ヶ年計画(1978−84)」まで
当節では,5ヶ年計画後,「7ヶ年計画(1961−67年)」から「第2次7ヶ年計画(1978−84年)」までの3回の経済計画を概観する.「7ヶ年計画」は,「全面的な技術的改造と文化革命を遂行し,人民生活を画期的に向上させる」ことを基本課題とし,「軽工業と農業を同時に発展させる」としながらも「重工業の優先的な発展を保障する」ものであった.この経済計画は,途中6年目の1966年の党代表者会議で3年間延長したことからも分かるようにうまく進まず,金一副首相の実績報告によれば,年平均成長率は目標18.0%に対して実績12.8%と下回ってしまった.これは,玉城素によれば,冷戦の最中・1965年の日韓基本条約締結の頃の軍事的危機感を抱いた北朝鮮が,計画途上の1962年に急遽「4大軍事方針〜全人民の武装化,全国土要塞化,全軍幹部化,全軍現代化」を決定して国防力増強を行い,この軍事負担急増が経済に悪影響を及ぼしたものである(文献[1]pp.110−112,文献[9]p.52).
これ以降,過度の国防投資が経済力をむしばんでいったというのが定説である.実際,文献[24]p.165によれば,中国の文化大革命やソ連のフルシチョフ修正主義路線の影響で中ソ両国の援助が減少し始めた1967,1968年頃から,GNPの50%も国防費につぎ込んでおり,また,文献[32]pp.199−200中の姜成山首相の発言によれば北朝鮮には軍への供給を専門とする第2経済があり,国内全工場中の77%が軍需工場であるため,この定説は正しいであろう.しかし,韓国だって楽な国防投資を行ってきた訳ではない旨を考えれば,建国当初は韓国よりも重化学工業が進んでいたにも関わらず経済が破綻たことは,過剰国防投資だけでは説明できない.社会主義という体制そのもの自体の経済における不健全さと鎖国体制によるものが大きいのではないかというのが筆者の仮説である.
文献[24]pp.56−59に,社会主義計画経済での資源分配障害の具体例が載っている.時期は下って1988年のことであるが,新学期にノートや万年筆など学用品の供給不足対策が討議された政務院協議会の場で,中間財入手不可能が原因であることが分かった.ところがその原料工業はさらに原料不足状況にあり,これを追っていくとほとんど全産業が他産業からの原料不足で生産停滞状況になっていることが判明してしまった.また,文献[23]pp.215−216によれば,このような中間財供給のボトルネックのために,日本(恐らく朝鮮総連)から設備輸入して作った150カ所の中小工場の60%が操業停止状態にある旨を1984年に金正日自身が証言していた.文献[32]pp.202−208にも同様の中間財供給のボトルネックの事例が紹介されている.これらの例は,@市場での需給調整によらない計画での生産では財の需給が均衡しないことと,A社会主義経済では商業・流通機能が欠落して需給調整が不可能と化すことを実証するものである.
また,鎖国体制としては,この時期1967年の朝鮮労働党中央委員会第4期第15回総会で朴金撫務委員(副委員長)ら甲山派を粛清しながら(5) 主体思想の唯一思想化を進め,「外交における自主,国防における自衛、経済における自力更正,思想における主体」を4大スローガンにしている(文献[15].28-30,p.76).この主体思想に代表される鎖国封鎖経済政策は,中ソ論争が激化する当時の東側諸国国際関係の中で,先述の延安派やソ連派との国内権力闘争の教訓から,中ソ両大国の影響を北朝鮮国内に及ぼさないための方策であるというのが定説である.ここで,米国や日本など韓国寄りの国にすり寄っていくこともできないから,結局,社会主義を堅持する限り鎖国する以外に道はなくなってしまう.したがって主体思想は,政治外交上も経済上も孤立化した一国鎖国体制を固めていくことを意味する.この孤立化は,軍事・外交面では,この当時,青瓦台(韓国大統領府)襲撃ゲリラなどの軍事冒険的事件が相次いだことと平仄が合う.この鎖国的封鎖経済体制は,工業としては輸入代替工業化となるため,狭隘な国内市場において経済は縮小均衡してしまうことになる.
「6ヶ年計画(1971−76年)」は,「工業化の成果を強化発展させ,技術革命を新たな高い段階に前進させて,社会主義の物質的・技術的土台をいっそう強固にし、人民経済のすべての部門で,勤労者を骨の折れる仕事から解放する」ことを基本課題にし,「重労働と軽労働,工業労働と農業労働の差異をなくし,婦人を家事から解放する『三大技術革命』を遂行する」ことを内容とする.すなわち,機械化と家電製品普及が唱われている.
この時期には既に韓国経済はテイク・オフを開始しており,かつ,70年代デタント化による南北対話によってその事実を北朝鮮も気づいてしまった.そのため,「6ヶ年計画」遂行は「追いつけ,追い越せ」式の「抗日遊撃隊式に」進められ,「速度戦」,「突撃戦」,「電撃戦」などの軍事的動員が行われた(文献[1]p.111,p.114).北朝鮮経済の停滞は先の「7ヶ年計画」の開始当初までは単なる体制選択の誤りの範囲に止まっていたが,「6ヶ年計画」以降は「速度戦」体制を採用し,金正日をリーダーとする「三大革命小組」がノルマの厳しい督促を行うという,全体主義的な異常性を帯びてきた.これ以降の北朝鮮は,極度の異常国家へと不健全な「発展」を続けていく.
計画期間途中の1975年に「1年4ヶ月繰り上げ完遂(1975年8月)」を公表したにも関わらず,その後,1976年を「未達成高地完遂の年」,1977年を「緩衝の年」として2年間に渡る移行措置を取らざるを得なかった.つまり,この計画も1年間延長したことになり,「7ヶ年計画」同様,うまくいかなかったことが分かる(文献[1]p.110).この時の工業総生産額の年平均成長率は16.3%という驚異的数字であるが(文献[1]p.111),この数字は,@厳しい上からのノルマに応じるために下からの報告が生産実績数値に代えて生産能力数値で行われて水増しになっていること,A例えば穀物トン数は籾殻(モミガラ)付の「底上げ」報告が行われているなどの点でも水増し報告であること,B推計の基礎がサンプル調査で行われ,これが最も生産性の高い工場や農場のものを用いているためにやはり水増しになっていること(文
献[1]PP.117−121),Cそもそも物量報告のため,西側諸国のGNPのように市場価格評価された金額数値ではないこと,などの諸問題があるため,我々の経済成長率とは単純比較できない.それよりは,1978年の金日成主席の「新年の辞」で「6ヶ年計画遂行の過程で一部の経済部門に一時的に作り出された緊張を完全に解消し」と述べていることや(文献[1]p.115),「緩衝期間」を設けざるを得なくなったことから,「速度戦」方式の過剰ノルマ計画が経済の歪みを引き起こしたと考えるのが妥当であろう.
北朝鮮の経済計画は,例えば鉄鋼や電力などの個別項目毎に目標生産数量を設けるものである.各項目への需要や他項目との整合性などは考慮せずに,ノルマを厳しくした総動員態勢で個別項目の生産能力向上だけを追求するものであるため,経済に歪みが出易い.また,このように個人の効用を犠牲にすることを前提とした経済ではパレート最適が成立する訳がない.このため,公表値を用いずに名目GNP推測値を見るならば第1図のようになり,韓国との経済格差は,1970年代以降さらに拡大したことが分かる.また,この「6ヶ年計画」の時期から投資で対外門戸を行い,西側諸国から新鋭設備や資材を導入したが代金を払えなくなり,対外債務に苦しむようになってしまった.
文献[32]pp.196−202によれば,この時期には,社会主義国の中でも特に北朝鮮経済が病的なものになる萌芽が現れた.それは金正日が1974年に設立した39号室である.これは金正日が権力闘争のために人心を掴むべく金を必要として設立した機関であり,巨大な独占財閥のようなものである.39号室直属の大聖銀行に資金が集中し,資源も39号室に集中した結果,政務院(政府)の資金は枯渇し,資源の最適な配分が損なわれるようになった.文献[32]p.197によれば,北朝鮮でも1972年まではなんとか物資が豊富だったが,1973年に金正日が登場して以来,経済が悪化の一途をたどった.
「第2次7ヶ年計画(1978−84年)」は,「人民経済の『主体化,現代化,科学化』を促進し,社会主義経済土台をさらに強化し,人民生活を一段と向上させる.」ことを基本課題とした(文献[1]p.111).この経済計画は当初は順調に進むかに見えたが,途中で80年10月の朝鮮労働党第6回大会開催を目指して,金正日書記の命令による「100日戦闘(6月23日〜9月30日)」が強行されたり,「党大会への贈り物」として平壌産院など計画外の記念碑的建造物の突貫工事が行われたりしたため計画が阻害・攪乱され始めた.この80年の第6回党大会で,電力1,000億kW,鉄鋼1,500万tなど,「80年代の10大展望目標」が「第2次7ヶ年計画」の進行とは無関係に掲げられるに至った.10大展望目標に基づいて,南浦閘門建設や30万ヘクタール干拓地造成などの「4大自然改造課題」や,順川ビナロン(6)連合企業所建設などの当初予定外の大規模建設投資が始まった.
また,このような生産投資だけに止まらず,「主体思想塔」や「凱旋門」などの記念碑的大建造物を金正日は平壌に多数建築し,このために全国から労働力や資材が集中的に動員された.これら生産要素の予定外の大量動員によって「第2次7ヶ年計画」は大混乱に陥り,1981年度工業総生産額成長率16.8%を最後に,「新年の辞」や最高人民会議財政報告における前年度成果実績数字は発表されなくなってしまった.つまり,実績が上がらなかったのである(文献[15]pp.175−180).
この停滞に対応するべく,1984年1月には李鐘玉首相が更迭されて姜成山が新首相に就任し,対外解放の討議が最高人民会議で行われて9月8日には「合営法」を公布した.しかし,外貨不足の北朝鮮は支払いが滞りがちであるため,実際に進出したのほ在日朝鮮人が多く,先進国企業を呼び込むという当初目的は今日に至るまで達成できていない.小牧によれば(文献[5]PP.65−66),日本に対しては1975年から3億5千万ドル(約600億円)の未払いが1990年時点で解決しておらず,また,合弁案件は約100件あるとされているが,その内約70%が在日朝鮮人との合弁であり,日本企業は1社もない.
その後,1985年2月16日の金正日書記誕生日に突然「第2次7ヶ年計画」完遂報道が発表された.その達成数字はほぼ目標数字と同じなので明らかに不自然である.工業総生産額の年平均成長率を見ると12.2%であるが,玉城素の試算では(文献[15]p.182),第2次7ヶ年計画当初の1978,79の両年には年平均23.3%という超高度成長でったので,逆に,1980−84の後半は年平均7.7%の成長に減速したことが指摘されている.しかも,1980年17.0%,81年16.8%の数字が発表されているため,1982−84年の成長率はその7.7%さえ下回ったのではないかと指摘している.このような計画不振から,「第2次7ヶ年計画」完遂発表後の2年間(1985−86)に渡って次期新計画が策定されず,2度目の計画空白期間が出現してしまった.
なお,金日成の「ファンタジーもどきの個人崇拝」や親子間権力委譲を目論む「社会主義的君主制」(いずれもゴルバチョフの表現)などの「奇行」は,社会主義国ソ連の指導部においてさえ,もの笑いの種になっていた(文献[25]p.537).
3.「第3次7ヶ年計画」
「第2次7ヶ年計画」後の計画空白期間の後,1986年10月20日の東独ホーネッカー党書記長歓迎の市民大会で,「第3次7ヶ年計画(1987−93年)」を1987年から実施する旨を金日成主席が表明した.この時再び首相が更迭され,姜成山から李根模に代わっている(文献[15]P.185).第3次7ヶ年計画の基本課題は「経済の主体化,現代化,科学化を引き続き力強く促進し,社会主義完全勝利の物質的,技術的土台をうち固めること」であり,重要課題は,@科学技術を速やかに発展させて経済の技術改造を促進する,A生産能力を決定的に高め,社会主義経済建設の10大展望目標を達成する,B食・衣・重問題をいっそう円滑に解決して国民生活水準を1段階高める,の3点であった(文献[11]p.351)。具体的な数値目標としては期間中に工業総生産額を1.9倍(年率10%),社会総生産額を1.8倍に,国民所得を1.7倍に引
<第2図 北朝鮮を巡る外交・通商上の三角形の変遷>
省略
き上げるものである.これは第2次7ヶ年計画よりも控えめだが北朝鮮の経済の実力よりは過大なものであり,特に,10大目標の内,電力1,000億kW時,鉄鋼1,000万t,穀物1,500万tなどは第2次7ヶ年計画実績に比べて過大なものであった(文献[11]p.351).
この計画が87年4月に採択された直後同年7月に,計画を1年半以上繰り上げて92年4月15日の金日成主席80歳誕生日に達成しようとのキャンペーンが実施され,これが経済計画の当初の成長率根拠を狂わせる攪乱要因と化した.88年2月には,同年9月9日の建国40周年に向けて生産・建設を促進するべく「200日戦闘」を展開するように党政治局が呼びかけた.最初の「200日戦闘」では或る程度成果が上がったが,9月の再度の「200日戦闘」では国民は疲弊してしまったらしく,うやむやになって終了した.この過剰ノルマ戦闘方式を強行した上,1988年のソウル・オリンピックに対抗行事の89年の世界青年学生祭典のために首都平壌に物資や労働力を集中投入して47億ドルもの過剰建設投資を行った.この厳しい資源制約下での生産要素減少のため,国内経済の疲弊がさらに進んだ(文献[11].352).
ただでさえ脆弱な経済基盤に加えて,1989年からの北朝鮮経済は外部環境の急変に襲われた.この「第3次7ヶ年計画」がスタートした80年代後半は,ソ連のペレストロイカに始まる社会主義諸国激動崩壊期に当たってしまったのである.88年9月9日の北朝鮮建国40周年のクレムリン発祝電では従来の慣用語句「国際主義」に代えて「利益のバランス」の語が用いられ,同月16日のゴルバチョフのシベリア・クラチノヤルスク演説では,極東地域軍事的対立緩和策「多国間ベースでの討議」が提唱された.これらは韓国を交渉相手として認める旨を示唆するものである.90年6月サンフランシスコので韓ソ首脳会談の後,同年9月初旬の北朝鮮訪問時にシュワルナゼ外相が韓ソ外交関係樹立を北朝鮮に伝え,同月30日に韓ソ国交樹立をニューヨークでの外相会談で決定した.これに反発した北朝鮮は厳しい対ソ批判を行ったが,この批判への回答としてソ連は,90年11月2日モスクワでのソ連・北朝鮮通商代表交渉において,91年以降の朝ソ両国の貿易は国際価格でハード・カレンシーを用いて決済することを決めてしまい,従来の「援助貿易」を維持しないことを伝えたのである.(以上,文献[3]pp.32−34,文献[6]pp.20−24,文献[10]pp.211−217より).
以上の経緯については,第2図に示すごとく,冷戦時代にはソ連・中国・北朝鮮と日・米・韓国の三角形同士が対峙するという政治構造にあったが,北朝鮮と組みすることによる経済負担にソ連が耐えかねた結果,(ソ連から見て)向こう側の三角形に軸足を移したものと推測する.ソ連は北朝鮮との経済関係を見直したばかりか,自身も1991年に崩壊してしまい,以降はその地位をロシアが引き継いだ.ソ連/ロシアの姿勢の変化は,北朝鮮の対外貿易関係に大きな影響を与えた.1986年以来90年までソ連は北朝鮮の貿易額の5割以上のトップ・シェアを占め続けていた.しかし,第3図に示すように,1991年には両国間貿易は前年の32.2億ドルからわずか約1/10の3.6%に激減し,ソ連のシェアも14.4%に急落した(文献[11]p.357).
ソ連との貿易が激減したことによる影響は単に貿易額に止まらず,原油輸入激減によるエネルギー補給上の影響が非常に大きい.ソ連からの原油輸入は1986年の85.5万t以降漸減しながらも1990年には41.0万tの水準にあったが,1991年には前年の約1/10の4.2万tになってしまった.この事態への対処策は消費量節約と国産石炭の活用であるが(文献[11]p.360),質量共に抜本的に石油の代替には程遠く,北朝鮮に与えたエネルギーと原料の危機は大きい.玉城素によれば,91−92年の北朝鮮工業は稼働率約40%に落ち込んだが,軍需工場は稼働率が100%近くなる優先度が与えられたため(文献[15]p.194),逆に言えば民生用工場の稼働率は40%以下であることになる.また,具体的な数字は不明であるが,対ソ(ロ)穀物・工業部品輸入および工業製品輸出急落が与えた影響が大きい(文献[11]pp.359−361).
一方,社会主義側三角形のもう一角の中国は,1989年の天安門事件後の外交関係の孤立化回避への努力の一環として,91年5月に江沢民総書記が訪ソして東部国境協定を成立させて対ソ紛争の芽を摘んだほか,91年春に民間レベルながら領事機能をもつ貿易代表部の相互設置を韓国と実現させ,やはり向こう側の三角形に軸足を移してしまった.中国としては,アジアで台湾と唯一国交がある韓国を台湾と断ち切る必要もあったのである(以上,文献[8]pp.128−131).このように中ソ両国が韓国に接近すると,北朝鮮が朝鮮半島の唯一の正統政府である旨の主張を支援する大国がなくなり,正当性対峙を続けていけなくなったため,1991年9月に南北が同時に国連加盟を果たした.中国も,ソ連と同様に対北朝鮮貿易をハード・カレンシーで行う方式を92年から採用した.中国はソ連よりは北朝鮮を切り捨てる意志がなく,かつ,ソ連/ロシアほど国内が混乱していなかったため中朝貿易は朝ソ貿易ほど激減していない.しかし,中国のごとき社会主義国でも実際に貿易を行うのは個別企業であってこれら企業は独立採算で外貨を獲得していかなければならないから,ハード・カレンシーによる決済能力に不安のある北朝鮮との交易には腰が引けてしまう(文献[8]p.133).それでも第3図や第4図から分かるように,中国はソ連に代わる新たな北朝鮮への「援助貿易国」と化している.中国からの北朝鮮の原油輸入量は漸減傾向にありながらも1986年から1992年まで一貫して100万tを超えている.中国からの北朝鮮への穀物輸出は1991年以降急増しており,中国通関統計によれば,91年22.3万t・2542万$,92年64.9万t・6848万$,93年9768万$(数量は不明)である.一方,中国通関統計によれば,中国からの輸入急増に対する見返りとしての北朝鮮の輸出品は主に鉄鋼である.対中輸入が急増した92年の鉄鋼輸出額は対前年比6.2倍増の6,688万$であり,輸出総額の43%を占めた.93年には対前年比3.1倍の2億771万$に膨張し,輸出総額中の70%を占めるに至った.これは需要としては中国内建設ブームである.北朝鮮にとっては,鉄鋼の大量対中輸出は国内の資本財制約となる可能性があることを小牧輝夫は指摘している(この指摘と対中貿易の統計数字は文献[11]PP. 360−362).
第3次7ヶ年計画繰り上げ達成のための世界青年学生祭典のための計画外投資などの政策誤りに加えて,この対外貿易縮小のために,この経済計画は目標を達成できなかった.90年の新年の辞で国民に「自力更生,刻苦奮闘」を金日成が呼びかけた後,計画の目標年度である1993年になっても,かつて恒例であった「繰り上げ達成」のキャンペーンや報
道は行われず,92年の最高人民会議での国家予算報告でも第3次7ヶ年計画について何の報告も行われなかった.92年12月には政務院総理が延亨黙から姜成山に再び代わり,翌93年12月8日の朝鮮労働党中央委員会第6期21回総会で,姜成山総理は「第3次7ヶ年計画遂行総括と当面の経済建設方向について」報告を行い,計画の未達成を認めた.姜総理の挙げる経済計画失敗理由は,社会主義圏崩壊による輸出市場の消滅と,国防費負担増である.具体的な実績としては,計画初年度の1987年対比では工業生産1.5倍(年平均5.6%増),電力生産が1.3倍,石炭生産が1.4倍,鉄鋼生産が1.3倍,化学肥料生産が1.5倍と発表されたが実数発表は無かった.この倍数を用いての小牧輝夫の試算による1993年の生産実数は,電力676億kWh(目標対比67.6%),石炭1億920万t(目標対比91%),鉄鋼875万t(目標対比87.5%),化学肥料780万t(目標対比108.3%)であり,化学肥料以外は軒並み目標未到達という状況である.しかし,この低い数字でさえ,中間状況や各種断片数字に比べると異常に多いために水増しの疑いが強く,実態はもっと悪いのではないかと小牧は述べている(文献[11]pp.352−354).従来は経済計画の度に「大本営発表」を繰り返してきた北朝鮮が自ら計画失敗を認めたということは,余程経済状況が悪化したものであろうと考える.実際,1994年12月10日に韓国統一院が発表した「北韓の第3次7ヶ年計画総合評価書」では,経済成長率年平均7.9%の目標に対して実績は平均−1.7%だったのではないかとまで厳しい推測を行っている(文献[15]p.196).環日本海経済研究所資料を元にして作った第5図の経済成長率のグラフでも,1990年以降はマイナス成長を続けている.第6図を見れば分かるように,一人当たりGNPでは韓国に大差をつけられてしまった.
4.「第3次7ヶ年計画」以降
前述の経済停滞への反応は,羅津(ラシン)などの経済特区と過剰武装化との硬軟両極端のものになった.その過程で,1991年に人民軍最高司令官に就任した金正日が「軍民一致」,「党の革命武力化」を推進し,93年3月には最高司令官命令で「準戦時状態宣布」と「NPT脱退宣言」とに踏み切り,一気に朝鮮半島の緊張が高まった.これにより北朝鮮は外交的孤立化を深め,金丸訪朝や南北同時国連加盟などで盛り上がっていた平和機運を台無しにしてしまった.
第3次7ヶ年計画の失敗を受けて,1993年12月の朝鮮労働党中央委員会と最高人民会議では,計画遂行後の3年間(1994-96年)を緩衝期とした.これは第3次7ヶ年計画の3年延長を意味する.この期間中の経済の優先課題は,「農業第1主義,軽工業第1主義,貿易第1主義」であり,これは従来の「軍事優先,政治優先」に対してのアンチテーゼであった(以上,文献[15]p.196).玉城素は,この経済課題の転換は,この時期の人事面において金聖愛(金正日の義母),金英柱(金日成の実弟),金炳植(元朝鮮総連副議長)ら金正日から忌避・阻害されていた人々を登用し,金正日側近である金容淳書記や金達玄副総理・国家計画委員長らが解任・降格されたのは経済政策変換と何か関係がある旨の推測をしている(文献[15]).北朝鮮から亡命した黄長 元書記によれば,金正日は「首領様(故・金日成)は生前,私に絶対に経済の仕事に引きずりこまれてはならないと言っていた」と発言しているので,この玉城の推測は当たっていると思う(文献[34]p.22).ところが,1994年7月の金日成急死後は,第3次経済計画完了後いつまでも新経済計画を出せない状態となり,1997年正月の『労働新聞』(党機関紙),『朝鮮人民軍』(軍機関紙),『青年前衛』(青年組織機関紙)の3紙共同社説では,「われわれ式社会主義の総進軍」を威勢良く掲げながらも、「苦難の行軍」をしている旨を認める状況に陥った.さらにこの共同社説では農業,軽工業,貿易,石炭,電力,金属,鉄道輸送の分野での円滑な増産を促し,かつ節約を奨励しているため,逆に言えばこれら基礎的な部門の経済活動が停滞している旨が分かる(文献[33]pp.2-3). 1997年10月に金正日が党総書記に就任したのに続いて1998年9月には約4年半振りに最高人民会議(国会)が開かれ,憲法改正の上で金正日の正式な体制継承が行われた.しかし,国家主席を廃し,金正日のポストと
して国防委員長を事実上の国家元首とし,外交儀礼は新設の最高人民会議常任委員会委員長・金永南に任せ,経済は洪成南新首相に全責任を負わせることにして,経済に関する責任が金正日に及ばないようにした.また,経済計画や国家予算,決算の審議も無かった(文献[35]p.16,[36]p.72).したがって,北朝鮮経済は金正日が責任逃れをするまでに状況が悪化しているものと推測する.
この時期になると,1995,96両年の洪水を契機として食糧危機が表面化した.しかし,第7図を見れば分かるように,食糧危機は1990年代になってから始まった訳ではなく,1980年代半ばから始まっていた.文献[29]pp.85-86によれば,北朝鮮の穀物生産の不振は,@自然災害による耕地の荒廃,A長期に渡る高収量品種の連続的密植による地力低下,B農業労働力不足と高齢化及び女性化,Cエネルギーや資材不足,D協同農場による労働意欲減退によるものである.ただし,Aに関して補足すれば,森林破壊をしながら山の頂上まで段々畑を作っているような状況では山地の保水能力が低下にして洪水の被害は増大するため,@は原因であるよりは結果であるに過ぎない可能性がある.したがって,北朝鮮の食糧危機は,天災というよりは長期的な農業政策失政によるものであろう.また,第7図のように以前から食糧が不足していたにも関わらず以前は食糧不足を否定していたことから,食糧危機を北朝鮮が認めたのは後述する外交上の目的のためである旨の説もあり,食糧不足の正確な実状は不明である.
ここで,核疑惑も食糧危機も,先述の北朝鮮の側の三角形が崩れつつある中で韓国側の三角形の切り崩しを測り,日米を直接交渉の舞台に引き出すための手段であると仮定すれば実は結構合理的な判断であり,北朝鮮は異常な国家ではあっても合理性が欠落した国家ではないということになる.逆に言えば,北朝鮮に対する食糧援助や経済援助を行う際には,直ちに同国の主張どおりに行うのではなく,国民の窮状を本気で救うための要請であるのか,それとも外交交渉のカードであるのかを吟味の上で,援助が外交上の道具にされることなく真の援助となるように交渉を進める必要があると思う.
5.過剰軍事支出の影響
北朝鮮の経済停滞の原因が,社会主義計画経済体制を異常な全体主義的運営で進めたことによるものであることは今まで述べたとおりであるが,主因ではないものの過剰軍事支出が北朝鮮経済力を弱めたことも否定できない.第7図を見れば分かるように,1994年の北朝鮮の軍事支出は,経済力が同程度の他の東アジア,東南アジア諸国よりも群を抜いて大きいことが分かる.また,第8図を見れば,1994年に群を抜いた過剰軍事支出を行っている北朝鮮が,GNP成長率も群を抜いて低いことが分かる.これらの図からは,他の国々ではGNP成長率と軍事支出との間に明示的な相関関係が無いことも分かるが,北朝鮮のように極端に多い軍事支出にはさすがに経済が耐えられないことが分かる.
6.北朝鮮への送金問題について
また,北朝鮮はその経済不振と外貨不足に
対応するために,在日朝鮮人が中心になって日本からの送金を行ってきた.この金額の推測が塚谷氏の研究(文献[31])で試みられているので,塚谷氏の承諾を得て引用紹介する.文献[31]によれば,1994年5月19日夕刊から20日朝刊にかけて,北朝鮮向けの送金を邦銀が停止した旨を新聞各紙が報じた.各紙を通じての要旨は,北朝鮮とコルレス契約のある邦銀約20行の内,ここ10年程事実上唯一利用されてきた足利銀行が,1994年4月からドル建て送金の取り次ぎを停止していた旨を認めたが,円建て送金は引き続き可能である,というものである.その後,6〜7月にかけての各紙続報では,足利銀行がコルレス契約の一括窓口になったのは1989年のことであり,その由来は1974,5年頃当時の藤松会長時代に,在日朝鮮信用組合と組んで在日企業に協調融資を始めたことに遡る旨と,送金額としては定期航路「万景峰92号」での現金携帯の方が多額であり,ピーク時には100億円単位になったものと推測されているが,報道当時(1994年)原爆開発費として推測されていた600億円台には到達していないであろう旨が,在日の会社経営者の証言として載せられている.
これらの話を基にして塚谷氏は足利銀行の送金額の推測を試みている.第1表は,同行と,比較対象として近隣同規模の群馬銀行との外国為替の取扱高を有価証券報告書から拾ったものである.両行共に外国為替取扱高が増加傾向を示すのは1986,7(昭和61,62)年頃からである.両行共に外国為替取扱高の過半を仕向送金,すなわち対外送金が占めている.足利銀行が対北朝鮮コルレス契約の一括窓口となった先述の1989年以降,同行の外国為替取扱高が急増している様子がよく分かる.その後,新聞報道が行われた1993〜94年以降は激減しており,当時の足利銀行の対応に関する新聞報道の裏付けとなるものである.群馬銀行の外国為替取扱高も同時期に減少しているが,足利銀行程ではないため,この激減分が丸ごと対北朝鮮送金額であろうと推測することが可能である.いま,新聞報道の集中した1994年度(有価証券報告書の上では1995年3月期)の途中から送金額が激減したものと仮定すれば,翌1996(平成8)年3月期の32百万ドルを,対北朝鮮分を除いた通常の外国為替取扱高と見なすことができる.したがって,外国為替取扱高が急増し始めた1986年度(1987(昭和62)年3月期)以降各期の外国為替取扱高の,この32百万ドル超過分を合計すれば,足利銀行が取り扱った対北朝鮮送金額の簡便な推測値とすることが可能であるというのが塚谷氏の提唱する推計方法である.これを求めれば累計449.6百万ドル,平均50百万ドルとなる.この期間の消費者物価上昇率はそれ程高くは無かったから物価上昇率を無視した乱暴な推計を行えば,1ドル100円で計算すれば累計449.6億円,単年度平均50億円/年となり,また,1ドル140円で計算すれば累計629.4億円,単年度平均69.9億円/円となる(ただし,円ドルレートの選び方の相違のため,推計値
第1表:足利銀行と群馬銀行の外国為替取扱高
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有価証券報告期
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足利銀行 |
群馬銀行 |
仕向 |
合計 | 取扱高合計における
1996年3月期との差 |
仕向 |
合計 |
1983(昭和58)3月 |
4.2 |
4.9 |
|
3.8 |
5.5 | | 1984(昭和59)3月 | 10.0 | 10.8 | | 5.6 | 6.7 | | 1985(昭和60)3月 | 15.9 | 16.9 | | 5.5 | 6.8 | | 1986(昭和61)3月 | 24.7 | 25.7 | | 23.1 | 29.3 | | 1987(昭和62)3月 | 42.0 | 42.4 | 10.4 | 25.7 | 29.4 | | 1988(昭和63)3月 | 77.1 | 77.8 | 45.8 | 55.8 | 56.2 | | 1989(平成1)3月 | 110.3 | 111.0 | 79.0 | 82.0 | 82.6 | | 1990(平成2)3月 | 109.5 | 110.2 | 78.2 | 79.0 | 79.3 | | 1991(平成3)3月 | 103.7 | 104.3 | 72.3 | 111.9 | 112.9 | | 1992(平成4)3月 | 84.0 | 84.7 | 52.7 | 154.1 | 155.0 | | 1993(平成5)3月 | 82.1 | 82.7 | 50.7 | 166.1 | 167.4 | | 1994(平成6)3月 | 68.3 | 68.9 | 36.9 | 202.6 | 203.5 | | 1995(平成7)3月 | 55.0 | 55.6 | 23.6 | 164.3 | 165.5 | | 1996(平成8)3月 | 31.3 | 32.0 | 0.0 | 147.4 | 148.9 |
合計 |
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449.6 |
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| 平均
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| 50.0
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| |
出所:両行の『有価証券報告書』
足利銀行 設立1895年.(栃木)資金量5.7兆円(96年3月期).
海外店:ニューヨーク,ロンドン.
子会社:足利財務(香港)有限公司
群馬銀行 設立1932年.(群馬)資金量4.5兆円(96年3月期).
海外店:ニューヨーク,香港
子会社:Gunma Finance(HK) Ltd. ほか.
自体の数値は文献[31]とは異なっている).これが,塚谷氏が示した方法で推計した足利銀行からの北朝鮮への送金額である.この金額は,先述の「万景峰92号」での現金携帯額よりは少ない可能性が高いが,分かり得る範囲での推計値はこの値である.
6.まとめと今後の課題
本稿では,断片的に入手可能な情報や先人の研究をまとめて北朝鮮の政治経済史を概観した上で,過剰軍事支出についての筆者の分析と,北朝鮮への送金問題についての塚谷氏の分析を付加してみた.情報量が少ないという北朝鮮経済に関して,現在分かり得る範囲の情報はこのようなものであろうと思う.引用紹介した塚谷氏の研究は極めてオリジナルなものである.また,通常の国の場合には軍事支出とGNP成長率との間に明確な負の相関が観察されなかったことは分析する前の予想を覆す意外な発見であるが,それでもなお,北朝鮮の場合のみ異常な軍事支出と低成長率が観察されたことは,この国の経済情勢の特異性を如実に示すものである.
北朝鮮では客観的で正確な経済統計が充実していないため,計量分析は断念せざるを得なかった.したがって,次の課題は,外部からの推計値でも構わないから利用可能な統計数値を求めて,正確なモデル・ビルディングを行うことである.なぜならば,実証理論モデルを抜きにしては正確なシミュレーションを行うことはできないため,北朝鮮経済再生のための政策評価を行うことができないからである.ただし,一般的にもそうであるが,特に北朝鮮の場合には経済が政治に依存して大きく影響を受ける.そのため,モデルに取り込むことが不可能な要因が多いため,計量モデルでは現しきれない要因も加味しての総合的な分析が必要になる.そのためには,北朝鮮経済指標の推計を進めることが重要であると思う.
その上で,作ったモデルを基にして,北朝鮮が軟着陸した場合やハード・クラッシュした場合のそれぞれのシナリオに応じての経済の動きをシミュレートしたい.今後どのような経緯をたどるにせよ北朝鮮経済が破綻することは時間の問題であり,その場合でも北朝鮮国民の悲劇を最小限に止めた上で,韓国や日本に襲いかかるであろう負の影響を極小化することが必要である.そのための政策選択のツールにするためにも,より正確な計量モデルの構築と,モデルに現されない要因も含めての総合的分析技巧の確立が急務であると思う.
注記
(1) NKK(旧日本鋼管)勤務の友人の話では,鋼材や鋼管などの鋼(ハガネ)鋼は,鉄鉱石を溶解した銑鉄の中の不純物を取り除く製鋼プロセスにて完成する.この製鋼プロセスでは,窒素などの活性ガスとともに酸素を吹き込んで燐や硫黄などを取り除くことが行われる.この製鋼プロセスの際に,溶銑の中に用途に応じて適切なレアメタルなどを投入すると品質の高い鋼に仕上げることができる.
(2) 朝鮮戦争は,神谷不二教授が文献[21]を著して北朝鮮の南進説を唱えた1960 年代には「戦争は南朝鮮の北進である」とする左派系政治学者の批判を受けたが,現在では北側の南進であったことが判明している.これについては,例えば,文献[26]pp.234−235のフルシチョフ証言,文献[23]p.213による金正日自身の証言を参照されたい.
(3) 経済計画は我々市場経済国にもあるが,計画経済は社会主義国にしかなく,経済計画と計画経済とは似て非なるものであることに,念のため注意を要したい.
(4) 延安派とは,日中戦争・太平洋戦争中に,当時延安にあった中国共産党中央の影響下に抗日運動を行ってきた派閥である.当時・現中国領内で抗日活動していた諸派の中でも,旧満州で中国共産党の抗日連軍に加入して抗日ゲリラ活動をしていた金日成派パルチザン・グループとは異なる派である.また,金日成派は終戦直前はソ連軍に組み込まれてシベリアにいたが,極東ソ連軍の配下にあったこの金日成派パルチザン・グループは,コミンテルンの強い影響下にあったソ連派とも異なる派である.この辺の派閥の関係は紛らわしいので注意を要する.
(5) 甲山派とは,金日成の抗日武装闘争時代の業績とされている1937年の「普天堡(ポチョンボ)襲撃事件」を国内で支えて成功させた咸鏡南北道の国内組織「朝鮮民族解放同盟」の幹部やその親族である.この粛清により,北朝鮮建国当初の5大派閥の内,既に粛清済みの南朝鮮労働党,延安派,ソ連派に加えて1967年に甲山派が消滅し,金日成派(満州=シベリア・パルチザン派)だけが残った.
(6) 「ビナロン」が何を指すのかは不明であるが,いわゆるビニロン(vinylon)のことではないかと推測する.これはポリビニルアルコール(ポバール)
[−H2C−CH−]n
|
OH
系の合成繊維である.ポバールは水溶性であり,これを温水に溶かして硫酸塩の飽和水溶液中で紡糸するが,繊維として用いるためには水酸基を減らし,水に不溶性とする.例えばホルマリンを用いて水酸基−OHを減らすと,以下のとおりビニロンを得られる.
−CH2−CH−CH2−CH−CH2−
| |
OH OH ポバール
+ H−C−H
||
O ホルマリン
→ −CH2−CH−CH2−CH−CH2−
| |
O −CH2− O
ポリビニルホルマール(ビニロン)
(文献[19]pp.236−237より)
参考文献
[1] 玉城 素「第5章 北朝鮮経済の現状と問題点」(三谷静夫編『朝鮮半島の政治経済構造』財団法人日本国際問題研究所,1983)pp.110-131
[2] 小牧輝夫「日本における発展途上地域研究1978-85地域編:朝鮮民主主義人民共和国」(アジア経済研究所『アジア経済』,1986)pp.142-145
[3] 町田貢・小此木政夫・小牧輝夫「発展する南,選択を迫られた北」(『現代コリア』,1988年11月)pp.32-43
[4] 小牧輝夫「困難続く北朝鮮経済」(『現代コリア』,1989年9月)pp.30-39
[5] 小牧輝夫「行き詰まる北朝鮮の”冷戦経済”」(『エコノミスト』,1990年9月18日)pp.62-67
[6] 小牧輝夫・小此木政夫・小林一博「北朝鮮の変化の中味は?」(『現代コリア』,1990年11月)pp.20-30
[7] 小牧輝夫「北朝鮮は何のためにどこまで変わる」(『世界週報』,1992年5月19日) pp.22-27
[8] 小牧輝夫「中韓国交正常化と北朝鮮の選択」(『潮』,1992年11月)pp.128-137
[9] 鈴木昌之『北朝鮮 社会主義と伝統の共鳴』(東京大学出版会,1992)
[10]秋野 豊「第7章 モスクワの朝鮮半島政策」(小此木政夫編『ポスト冷戦の朝鮮半島』財団法人日本国際問題研究所,1994)pp.202-223
[11]小牧輝夫「第13章 対外開放を模索する北朝鮮経済」(小此木政夫編『ポスト冷戦の朝鮮半島』財団法人日本国際問題研究所,1994)pp.349-373
[12]小牧輝夫「北朝鮮に大きな変化を期待すべきではない」(『世界週報』,1994年8月9日)pp.10-15
[13]『婦人の友』編集部(小牧輝夫)「世界をみる目日本をみる目 朝鮮半島は動いている−小牧輝夫氏にきく」(『婦人の友』,1996年7月)pp.60-65
[14]小牧輝夫・山本剛士・和田春樹「北朝鮮の現状と日本」(『世界』,1996年7月1日) pp.121-136
[15]玉城 素『北朝鮮 破局への道 チュチェ型社会主義の病理』(読売新聞社,1996)
[16]朴 甲東『北朝鮮 悪魔の祖国』(KKベストセラーズ[ワニの本],1996)
[17]野副伸一「第九章 危機に直面する北朝鮮経済」(関川夏央・惠谷 治・NK会編『北朝鮮軍,動く 米韓日中を恫喝する瀬戸際作戦』ネスコ/文藝春秋,1996)pp.214-234
[18]J・プズー=マサビュオー(菊池一雄・北川光児共訳)『新朝鮮事情』(白水社・文庫クセジュ,1985)
[19]佐々木洋興・辻岡昭・膳昭之助・大矢徹共著『大学課程 一般化学』(オーム社,1968)
[20]環日本海経済研究所編『北東アジア 21世紀のフロンティア 北東アジア経済白書』(毎日新聞社,1996)
[21]神谷不二『朝鮮戦争』(中公文庫,1990,単行本[中央公論社,1966]の文庫化)
[22]崔 銀姫・申 相玉『闇からの谺(コダマ) 北朝鮮の内幕 上』(文春文庫,1989)
[23] 崔 銀姫・申 相玉『闇からの谺 北朝鮮の内幕 下』(文春文庫,1989)
[24]高 英煥著(池田菊敏訳)『平壌25時 −北朝鮮亡命高官の告白−』(徳間文庫,1997)
[25]ミハイル・ゴルバチョフ『ゴルバチョフ回想録 下巻』(新潮社,1996)
[26]ニキータ・フルシチョフ著(ジェロルド・シェクター,ヴィチェスラフ・ルチコフ編,福島正光訳)『フルシチョフ 封印されていた証言』(草思社,1991)
[27]徐 大粛著(古田博司訳)『現代アジアの肖像 金日成と金正日 革命神話と主体思想』(岩波書店,1996)
[28]渡辺利夫編『アジア経済読本』(東洋経済新報社,1994)
[29]玉城 素,渡辺利夫編著『北朝鮮 崩落か,サバイバルか』(サイマル出版,1993)
[30]英国国際戦略研究所編(防衛庁防衛局調査第二課監修,上野英詞訳)『ミリタリー・バランス 1995−1996』(メイナード出版,1996)
[31]塚谷昭彦「北朝鮮への送金問題に関する件」(1996年度東洋英和女学院大学大学院修士課程社会科学研究科社会科学専攻「国際政治研究」科目期末レポート,1997年1月,非公開)
[32]康 明道著(尹 学準訳)『北朝鮮の最高機密』(文春文庫,1998,単行本[文藝春秋社,1995]の文庫化)
[33]ラジオプレス社編『RP北朝鮮ニュース』(平成9年[1997]年1月6日(月),第5295号)
[34]辺真一「「針のムシロ」に座った金正日はミサイルと核で世界を脅し続ける」(『SAPIO』,1998年9月23日号,pp.22−24)
[35]外村和雄「開放による経済再建か,閉鎖体制維持か注目される究極の選択」(『世界週報』,1998年9月29日号)pp.14−17
[36]小川耕一「北朝鮮で最高人民会議 金正日が事実上元首に」(『世界週報』,1998年9月29日号),p.72
KEYWORDS = 北朝鮮,政治,歴史,経済,政治経済学,送金問題