アララギ歌人・金石淳彦氏の歌集『金石淳彦遺歌集』の歌評です。;Keywords = 短歌,歌集,アララギ,金石淳彦,金石,淳彦
『金石淳彦遺歌集』を読む
金石淳彦(かないしあつひこ)は、明治四十四年に呉市で生まれ、長く苦しい結核闘病生活の末、療養先の大分で亡くなったアララギ歌人である。その作品は、金石『金石淳彦歌集』(白玉書房、一九六〇)で公刊されている。結核は、抗生物質の発達で不治の病ではなくなる以前は国民病であり、金石の他多くの有為な人材が悲劇に倒れた。本稿では、この遺歌集から金石の歌をたどってみたい。
荷役終へし舟は港を横ぎりゆく日ぐれし水に筋引きながら 昭和八年
幾隻か舟に夕餉の家族見えて油くさき風海より吹けり 昭和八年
これらは発病する前の歌である。アララギ入会翌年の歌で、実家の貧困により進学の遅れた金石は、この年二十三歳で旧制佐賀高校文化に入学している。穏やかな生活の香りのする、古き日本を懐かしく思い出させてくれる抒景歌であり、良い歌だと思う。広島県出身の金石は中村憲吉の影響があった模様であり、アララギでは土屋文明選を受けていた。
昭和十一年に京大経済学部に入学し、京都歌会にて高安国世らを知り、扇畑忠雄と親交を深めた。しかし七月に喀血し、以後結核が進行してしまう。昭和十四年に二十九歳で京大を卒業し、叔父所有の九州精油所に勤務したが月末喀血し、これ以降死ぬまでの間、別府に移っての養生生活に入る。
兵送る人中にしらじらとわがをりて声あがる時涙ぐみたり 昭和十三年
勝鬨をあぐる映画にたはやすく拍手起るとき我は憎みき 昭和十三年
命つくし戦ふさまを映画にてみれど理解はある閾を越えず 昭和十三年
広州に向ふ船より便りくれきなほゆきていづくに君の戦ふ 昭和十三年
中支那の地図捜し来て安徽省の君が傷つきし村の名調ぶ 昭和十三年
戦ひに苦しまざりしを負目として世代同じき彼らにもうとし 昭和二十三年
金石は病気で出征できなかった。これらの歌から前線の友達を思う気もちが窺える。また、戦争中から平和主義だった旨の嘘をつく某新聞とは異なり、本当に当時から戦争に疑問を持っていた旨が分かることを評価したい。その上で、当時の国際情勢の中でやむを得ず家族や国を守っていたに過ぎない前線の将兵への負い目がトラウマと化していた旨が窺える。先次大戦の傷の深さには重く深い悲しみを覚える。過ちは繰り返してはならない。
恋ひまちて君来ぬ十日すぎゆけば一人なる生のつひにやすきか 昭和二十二年
君の村にかよふ水の辺にけふは来ついづくへかと見む君の家のあたり 昭和二十二年
一生待ち仕合せになる小説を思ひ出し病床を出でゆき探す 昭和二十三年
金石は、昭和二十六年九月に四十一歳で四年来の志・田端郁子と結婚したと年譜にあるから、昭和二十二年は出会った頃であろう。二首目からは、この頃は未だ外出が可能な程度の病状ではあった旨が分かる。
教会に行けといはれてあらがはずゐる妻よ炭火に頬美しく 昭和二十八年
安しともなき日々ながらいつよりか妻は教会に行かなくなりぬ 昭和二十八年
吾がのちの妻を待つ仕事ありといふ今宵の妻のいたく安げなり 昭和二十九年
涙ぐみ入り来し妻の手を握るめとりしこともわが罪にして 昭和二十九年
悲しみのつづかぬ弱さ思へども妻とはかなごといひつつ笑ふ 昭和三十一年
金星にこよひ四日の月寄ると妻居る窓に枕をうつす 昭和三十一年
妻の古きアルバム見をりこの妻の一生を吾は仕合せにせず 昭和三十一年
うたひつつ庭掃く妻よこの妻のためにわがせむ何もなし今は 昭和三十二年
わが蚊帳に馴れて眠りに来る妻をたのしむに似て夜々待つよ 昭和三十二年
これらの歌には妻・郁子に寄せる思いがよく現れている。病床にある金石が持つ、悲しい夫婦愛の歌だと思う。
限られし吾の命を思ふにも支へとならずコミュニズムも神も 昭和三十年
身振りするゆとりがあらば命終に吾も云ひたき一つくらゐはある 昭和三十一年
筒に入れし免状がいつよりか棚にありこの免状も用ひらざりき 昭和三十三年
一般均衡理論は十九世紀に構築されていたから本来マル経は二十世紀には既に論外だったのだが、金石の出た京大経済学部は今だにマル経主体という程遅れた所なので、一首目の感慨はやむを得ない(ただし京大でも経済研究所は研究水準が高い)。しかし、経済学は実証科学であり、思想や宗教とは異なって心の支えになることなど目的にしていないものなので、心の支えの候補にコミュニズムが挙げられるという発想には違和感を覚える。続く二首からは金石の無念さが窺える。この二首の前には何の言葉も出なくなってしまう。
残る生になにを希はむ妻のごと子供欲しとも吾は思はず 昭和二十八年
妻の孤独の老年のため子を欲しと思ふことあれど妻にいはずも 昭和二十八年
はやく死ぬ吾ならば子をひとり欲しといふ願い否まむと今は思はず 昭和二十九年
ラム探し寝にゆく妻よ子を生めぬことも少しづつ諦めむとして 昭和三十年
相寝ねし一夜もあらぬ現ながら生まはす力なき吾となる 昭和三十年
わが妻のもしや生むかとただ一夜いねたることもながく思はむ 昭和三十年
子供を作れないままに終わったことをめぐる、夫婦の間の悲しい心情が窺える。歌集の作中、この題材の一連は特に悲しくせつない。
ひぐらしの今年の声よ今年ありし命かりそめの如く思はず 昭和三十四年
わが歩み二三歩なれど臥床より出でて巣ごもる小鳥を見に来 昭和三十四年
またともに飲むことはなし病む吾と吾を見に来し病癒えし友 昭和三十四年
背に負ひて庭に出むかといふ妻と窓に見てゐる萩照らす月 昭和三十四年
金石晩年の歌。次第に病状が悪化していた金石は、昭和三十四年八月二十三日四時、四十九歳で喀血で死亡した。抗生物質が使われたのはいつからだろうか。アララギ会員でもあった三浦綾子が結核から復活して『氷点』や『塩狩峠』や『道ありき』などの作品を残したことを思えば、金石の死のタイミングがもう少し遅ければ良かったと惜しまれる。
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