『短歌21世紀』所属の長崎のアララギ歌人・小野田勉氏の短歌の歌評です。;Keywords = 短歌,歌人,アララギ,長崎,小野田,勉
小野田勉論「いつか帰るところ」
小野田氏の歌は、当誌やアララギのバックナンバーの他、歌集『風吹く谷』で読むことができる。『風吹く谷』には、昭和四十一年から五十八年までの十七年間、小野田氏の三十歳から四十七歳までの歌が納められている。氏は中学卒業と同時に伯父の家に養子に行き、夜間高校に通いながら働いていたが途中で家を飛び出し、以来、段ボール工場工員や運転手、道路料金所職員など職を変えながら、居住地も変えて過ごしてきた。
帰り住む他国の如きふるさとよ知る人少なく今日も雪降る (昭和四十三年)
菖蒲湯に浸れば菖蒲を亡き父が頭に巻きてくれし思ほゆ (昭和五十一年)
わが子疑ひ吾が叱り居るむなしさよわが父もかく吾を叱りき (昭和五十一年)
かくわれも育ち来しかば疑はず親子の会話今日もせざりき (昭和五十二年)
順調に育ちゐるのか教科書にポルノ写真を挟み持つ子よ (昭和五十三年)
澄む空に煙の淡き那須山よ十二年行かぬ妻のふるさと (平成十二年五月号)
これらの歌からは、若い頃に家を出て以来転々とした氏固有の、故郷や家族への思いが窺えると思う。氏は業務の都合上父の臨終に間に合わなかった。この時の思いは、
新宿が皇居が小さき箱庭の模型に見ゆる時感極まりぬ (昭和五十年)
六時間前まで運転して居し街が雲のまにまに地図の如く見ゆ (昭和五十年)
わが泊りし寺に昔の部屋のあり吾は安らぐ石段降りつつ (昭和五十年)
などの連作になっている。
点滴にかすかに涙出で来れば開きしままの角膜を拭く (昭和五十五年)
亡き兄の臥しゐしマットレスわが焼けば赤々と空に炎あがれり(昭和五十五年)
悲しみの極まるときに稲妻はわが正面に光りて消えつ (昭和五十五年)
これらは、兄の死における思いを詠んだ歌だ。総じて言えば、氏の家族に対する思いには寂しいものが感じられると思う。
氏の仕事に対する思いについては、
仕事終へ段ボール屑掃く箒止めどうにもならぬ現実と思ふ (昭和四十四年)
こめし霧は雨に変りて夕暮れぬ段ボール切るドルと円のこと思ひ(昭和四十六年)
十年前我が働きし仕事場に納品終へたり知る人もなく (昭和五十年)
あからさまに運転手我のミスを言ふかつて我の使ひし言葉よ (昭和五十年)
段ボール積み終へて見るさえし空オリオン正座は西に傾く (昭和五十五年)
配達終へ帰るトラックの窓をそめ今静かなる朝日差し来る (昭和五十五年)
稲の葉に降る霧雨の露むすび運転せぬ日の日暮れは早し (昭和五十五年)
目のあかぬ小犬を藪にわが捨てて一日運転のぎこちなかりき (昭和五十五年)
段ボール積みつつさびしさつのるなりこの夜の思ひ昨日よりの思ひ(昭和五十七年)
しぶき上げ前走る友のトラックの点るランプを侘しみてゆく (昭和五十八年)
わが峡は夜なほ明るし街頭に雪はしきふる暗き空より(アララギ平成七年六月号)
車来ぬ料金所の朝はあはれなり雨の音聞き時を待ちをり(アララギ平成九年十月号)
右手には橋の明りの光増し思ひはめぐる段ボール売りに来し頃(平成十二年一月号)
などに詳しい。職を転々とする中で感じられる、せつないような思いが窺えると思う。「どうにもならぬ現実」というのは実感であろう。昭和四十六年の「ドルと円」というのは同年八月十五日のニクソン・ショックのことであろう。戦後の国際金融は、アメリカの金準備によるドル供給を前提とするブレトン・ウッズ体制に基づいていたが、ドルの供給が金準備を大幅に上回るようになって維持できなくなったのだ。丁度この頃日本は、高度経済成長の結果先進国化して、旧来の固定為替相場が実態の経済力と乖離してしまい、円切り上げをもたらすことになった。これは自然法則としての外国為替相場を考えれば当然のことなのだが、固定為替相場に慣れていた当時の日本人には円高が円の購買力増強になるという発想は無く、衝撃の方が強かった。
運転のため全国を巡った氏には、抒景歌で心を打つものも多い。
湖のひと隅するどく反射して吾が立つ林は雲に入りたり (昭和四十五年)
岩の上に築きし寺より霧なびきこの谷あひに鐘はひびきぬ (昭和四十八年)
朝焼に空気冴えゐてわれの見る家並は影絵の如しと思ひて (昭和五十年)
飛ぶ鴎浮く鴨の群葦中に立つ鷺もあり朝の中川 (昭和五十年)
ぎしぎしの花咲き盛る堤防に暫し安らひ又運転台に乗る (昭和五十一年)
朝焼の映ゆる川面に蒸気立ちて雁の雌雄の水脈引きてゆく (昭和五十二年)
すでにして色づく山に夕日残り吾がゆく峡の風冷えて来つ (昭和五十二年)
さりがたき五浦の海に鳶ひとつすばやく魚くはへて飛びぬ (昭和五十二年)
高速道路走りつつ暁となりゆきて輝くビルあり翳るビルあり (昭和五十八年)
氏の歌は、このような抒景歌が他のジャンルよりも秀れていると私は思う。素直に感動できる歌が多いのではないだろうか。
我等の原爆忌の前夜に核実験を行ふ国ありそれが平和なり (昭和五十七年)
この歌には長崎出身の氏ならではの感慨がある。非戦闘員を大量に殺戮する原爆は戦時国際法違反の残虐行為である(スパイと戦闘中の制服組以外の殺害は国際法違反だ)。この歌には、原爆の悲惨さを知る氏のやりきれなさが込められていると思う。外交実務上人類には、第一次核攻撃をしても敵残存核で報復を受けるという核抑止力に基づくMAD(相互確証破壊制度)以外に、核戦争を防ぐ平和維持手段は無い。当時は冷戦最中のMAD機能時で、核拡散が進む現代よりも平和な時代だったのだが、MADによる平和には、理屈の上では正しくても心情的なやりきれなさが残る。余談だが、MADによれば非核保有国は他国の核の傘の下に入らなければ核抑止力を得られないので、「持たない」のに「持ち込ませない」という非核三原則には論理矛盾があり、平和維持のためには逆効果だ。
雨降りて雪に変りし峡の山わが仕事十年の終わる日近し (平成十二年三月号)
仕事やめ十日たたずに落ち着かず冷たき雨の中出でて歩めり(平成十二年四月号)
岬山は蜜柑と葡萄の畑にて人なき冬山ゆつたりと歩む (平成十二年五月号)
氏の最近の歌。長い職業生活の旅をようやく終えたようだ。現役時代には居住地が度々変わったが、現役時代の最後は故郷長崎に戻っていた。氏の歌を拝読していると、いつか帰るところである長崎に戻り着くための人生が詠まれているような気がする。
Keywords = 短歌,歌人,アララギ,長崎,小野田,勉