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読んで ムカつく
新聞、テレビ等のマスメディアを主な標的 |
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10/02/08
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無党派層の支持率は先行指標? 2月7日、朝日と読売の世論調査の結果が発表され、いずれも内閣不支持率は支持率を上回りました。不支持率が支持率を上回ったことについて読売の解説は「不支持率が女性で50%(前回43%)、支持政党のない無党派層で61%(同55%)に上昇したことが主な要因だ」としています(女心と秋の空ですね)。逆に言うと男性の民主支持層の支持があまり変化していないことを示しています。 一方、今夏の参院比例選での投票先では、読売調査は民主27%・自民22%(朝日は民主34%、自民27%)となっています。しかし無党派層では読売は民主7%に対し自民12%(朝日は民主16%、自民22%)と民主党への支持が大きく減少し、自民党より低くなっています。昨年の総選挙では無党派層が民主党に流れたことが勝敗を決めたといわれているくらいですから、この変化の大きさは注目に値すると思います。 無党派層とは特定の政党に対する思い入れの感情が比較的少ない層と解釈できますから、その判断にはバイアス(偏向)が少ないと思われます。つまり冷静な観察者と見ることができます。少なくとも情緒的な観察者より信頼性が高いと思います。 たいていの人は一度好きになると、その感情はしばらく持続して、その間は欠点が見えにくくなるという傾向があります(逆も真なりですが)。そうであるからこそ結婚に踏み切れるわけで あり、また失敗もするのでしょう。政党に対する好みも例外ではないと思います。 無党派層が短時間の観察で不支持にまわった後も、支持層が支持を続けるのはこのような感情的な理由があるものと思われます。一種の硬直性であり、自由な判断を妨げると共に鈍感さを与えるものと言えるでしょう。とすると無党派層の支持率は敏感な先行指標としての意味を持つ可能性があります。 指標としての価値があるかは過去のデータを調べなければ分かりませんが、バイアスのない評価としてもっと注目されてもよいと思います。 個人が好悪の情により判断が振れるのは仕方ないことですが、メディアがそうであってはいささか問題です。朝日の夕刊には「検証 昭和報道」が連載されていますが、2月5日の中国報道についての記事は、新聞社の「好み」が報道に影響を与えた例として、興味深いものです。 1971年、朝日新聞は「日中復興」キャンペーンの一環として日本メディア初の周恩来首相との単独会見実現のため、林彪事件など微妙な情報の掲載にはブレーキがかけられたようだと記されています。また、当時の朝日社内には、中国に批判的な報道に対し「社論」を楯に露骨に圧力をかけたり、「親中派」「親米派」のレッテルを貼ったりする動きがあった、と書かれています。 当時の朝日の「社論」は親中であり、これは文化大革命期に他紙やNHKが次々と中国から追放される中、朝日新聞ひとり中国に残り得たこととも符合します。他紙は中国の気に障ることも報道したのに対し、朝日だけは中国の指導に忠実であったわけです。日本の読者の購読料によって成り立つ新聞が、読者に事実を知らせるという本来の役割より外国の利益を重視するという奇妙なことが起きたわけです。 会社には長く続いていく社風があります。朝日に限らず、メディアにも思想的な好みを含む社風が継続的に存在します。類は友を呼ぶということもあるでしょうが、古い社員から新しい社員へと受け継がれる部分が大きいと思われます。それは宗教が親から子に受け継がれていくのにも似て、そこに合理的な理由を見出すことは困難です。 メディアも「好み」を持てば、冷静な判断が難しくなります。そして「好み」に沿って恣意的な報道を行えば判断の歪みは読者全体に広がります。メディアが強い「好み」を持つことは民主主義の基盤を崩すといっても過言ではないでしょう。 (テーマから少々外れてしまいました。ご容赦を) |
10/02/04
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科学への不信感 「オーガニックコットン」とは農薬や化学肥料を使わずに栽培された綿花のことですが、グーグルで検索するとなんと163万件もヒットしました。多くは販売サイトだと思われ、それを商売にしている業者が多いことにまず驚きます。また、食べ物ならともかく、衣類にまで不安を感じている人が多いことにも驚きました。無農薬だけでなく無化学肥料をうたっているものがあるのは、化学肥料まで不安の対象になっているのでしょう。 世の中には自然のものは良く、自然でないもの・人工的なものは良くないと考える人たちが結構多くいらっしゃるようです。このような考えが生まれた背景には産業の負の側面である公害や農薬の大量使用による生態系の破壊などがあったのでしょう。 一方、マスメディアは悪いことを好んで取り上げるという困った特性を持っています。科学技術の負の面が大きく報道されたことが一因だと思われますが、科学技術を否定的に捉える一群の人々が生まれました(参考 科学技術は役立たず、環境を壊すという教育)。 科学技術を否定的に捉え、その対立概念として自然を重視する考え方です。科学技術の負の部分を修正するのではなく、科学技術を全体として否定し、対立するものとして自然に価値を求めたわけです。二つしかないので実にわかりやすい話ですが、ここには自然と科学技術が対立概念としてはたして適切かという疑問があります。 例えば、毎年10人前後が食中毒で亡くなりますが、そのほとんどはキノコやフグ、ボツリヌスなどの自然毒であり、農薬などによるものはまずありません。しかし、自然食品、無農薬〇〇、オーガニック〇〇などが大きい市場を形成するようになりました。検査システムだけでなく、科学技術に対する不信がその背景にあるためでしょう。 かつて科学技術は素晴らしい未来を実現すると信じられた時代がありました。実際、科学技術がもたらしたものはまことに大きく、飢餓や多くの病気から解放し、物質的には豊かな時代を築きました。むろん負の面がなかったわけではありませんが、それは功績に比べると小さなものです。 しかしメディアの世界では科学技術の負の部分に起因する事件や事故の報道がその功績の報道を圧倒していました。その結果、一部の無批判な読者は科学の負の側面ばかり印象づけられ、科学に対する無理解と不信感はかなりの広がりを持っているように考えられます。 昨年の事業仕分けでは科学技術予算の削減が話題になりました。素人の仕分け人がばっさり切り捨てたものの、あとで専門家などから強い批判を浴び、一部が復活しました。もとより日本の政府の科学技術予算のGDP比は主要国中で低位を占めています。 鳩山内閣は2020年までに国内の温暖化ガス排出量を1990年比25%減らす目標達成に向け、ロードマップ案を作りましたが、その中にはもっとも必要と思われる原発に関する記述がありません。社民党は原発を否定する立場ですから、これに配慮したのでしょう。 科学の重要性に対する適切な理解があれば教科内容の3割を削減するという「ゆとり教育」は恐らく実施されなかったでしょう。科学への無理解と不信感がマスメディアや教育、政治の場で広がれば影響力を強めれば、国の将来に取り返しのつかない損失を招きかねないと思います。不安を食いものにする怪しげな産業だけは栄えることになりますが・・・。 |
10/02/01
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独裁への「小沢5原則」 以下は1月30日の朝日新聞に載った『新人黙らす「小沢5原則」』の要約です。ご存知の方も多いと思いますが、たいへん興味深いことなのでご紹介します。 『昨年8月の総選挙で初当選した民主党の143人の新人議員が、鳩山由紀夫首相や小沢一郎幹事長をめぐる「政治とカネ」の問題に沈黙している。奔放な発言で注目を集めた自民党の「小泉チルドレン」とは対照的だ。そこには徹底的に新人を教育し、統制する小沢執行部の管理術がある。 衆院本会議や予算委員会の日。民主党の新人議員たちは国会内での「朝礼」を終えると、10班に分かれてミーティングに移る。10人の班長は中堅の国対副委員長らだ。 昨年の臨時国会ではヤジの飛ばし方も教育された。「朝礼」では小沢氏に近い山岡賢次国対委員長が訓示。教育方針には小沢氏の意向が反映されている。いわば「小沢5原則」だ。 その一つが「党内の出来事はすべて班長に報告」。班別行動は班長が新人を把握し、執行部の意向に反する不穏な動きに備え、新人たちの連携を分断する狙いから。 「目立つべからず」は、マスコミ露出や発言は制限するということ。土地取引事件で小沢氏の事務所の強制捜査があった後、新人が集まる会合があった。冒頭、執行部が「今日は質疑応答の時間はない」と発言を封じた。 さらに「政府の要職につくべからず」。今月、首相が小沢氏に「大臣補佐官に専門知識のある1年生を起用したい」と言うと、小沢氏は「それはいけない。専門知識があるかないかでなく、党内秩序の問題だ」と断ったという。 選挙の公認権と年間173億円にのぼる政党交付金の配分を握る小沢氏の権力は絶大だ』 つまり小沢氏はロボットのように自由に操れる議員を大量に作ろうとしているように見えます。組織としての機能が最優先である軍やスポーツチームならばよいのですが、政党がこれでは実に異様です。このような体質の政党が政権を担当するということは過去に例がなかったのではないでしょうか。 一方、小沢氏に詳しいとされる立花隆氏は文芸春秋09/11月号の『小沢一郎「闇将軍」の研究』でナチスを引き合いに出し、次のように述べています。
『小沢グループはすでに十分大きいのに、これに来年(2010年)の参院選のあとで加わることになる新人議員を加えたら、今のところちょっと予測がつかないが、総計200人を超えることは確実で場合によっては300人を超えてしまうかもしれない。 政府と与党の一元化、政治主導、官僚の会見禁止、国会答弁禁止、議員立法の禁止、陳情の一元化などは、与党を支配するものがすべてを支配するという方向を示すものです。また管直人氏は権力の暴走を防ぐための仕組みである三権分立を否定しています。官僚機構はいろいろ問題があるにせよ、政治の不安定さを緩和するスタビライザー(安定化装置)として機能していたわけで、その弱体化は両刃の剣となります。 小沢氏が権力を完全に握り、素晴らしい政治が実現されるかも知れません。しかし小沢氏によって作られた権力集中の仕組みは次の誰かが独裁者になる道を開く可能性があります。独裁者を許すような体制作りに対し、もう少し神経質になるべきでしょう。 小沢氏側近議員の逮捕後、与党から検察やマスメディアに圧力をかけようという動きが見られましたが、独裁が完成した暁にはもっと強力な統制が可能であり、その気になればメディアを黙らせることもできます。 朝日の記事は議員に対して強力な管理体制を敷く小沢体制を取り上げていますが、残念なことにあまり危機感がありません。「小泉チルドレン」とは対照的に、自由にものが言えない体制を指摘するにとどり、それが言論の封殺、さらに民主政治の危機につながるという認識は感じられません。弱小政党ならいざ知らず、政権党が言論を封殺してまで権力集中を進めることに対してなぜ危機感を露わにしないのでしょうか。まあこういう記事が出るようになっただけマシですが。 民主政治が危機に瀕する可能性を含んでいたとすれば、今回の検察の働きは僥倖というべきかもしれません。 |
10/01/28
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反対できない自殺 19日午後3時5分頃、静岡県西伊豆町安良里の黄金崎公園展望台近くで、海に面した斜面の手すりの外側に60〜70歳くらいとみられる男性がしゃがみ込んでいるのを観光客が見つけた。 通報で駆けつけた松崎署員や町役場職員らに対し、男性は「がんの痛みが続いて耐えられない。死にたい」などと自殺をほのめかしたため、同署員ら約30人がかりで説得。 「生きていればいいことがある」などと言葉をかけ続けたが、男性は午後8時10分頃、「ごめんなさい」と言い残して約30メートル下のがけ下に身を投げた。 漁船が出て、約1時間半後に岩場で倒れていた男性を収容したが、全身を強く打ってすでに死亡していた』(10/1/20 読売新聞) なんとも痛ましいことですが、いろいろと考えさせられる事件です。この記事を見る限り、男性の行動には合理性があると私は思います。痛みに耐えてまで余命を生きながらえる理由が思いあたらないからです。投身の恐怖は大変なものだと思いますが、それを超えさせたのは耐え難いほどの激しい痛みであったと考えると、まことに悲惨なことです。 「生きていればいいことがある」と説得したそうですが、この言葉はずいぶん白々しいものに感じます。恐らくこの場で自殺を思いとどませるような説得力のある言葉はないでしょう。このような言葉しかないことは自殺を思いとどまらせる強い根拠がないことを示しています。 逆に、もし親切な人が男性に同情して、何らかの手助けをすればその人は罪に問われることになります。もし飛び降りても不幸にして男性が死に切れなかった場合、病院へ運び救命することが正しいこととされ、男性の意思が考慮されることはありません。 森鴎外は作品「高瀬舟」で、病を苦に自殺を企てた弟が死に切れず、苦しみながら懇願するのを断りきれずに手助けして罪に問われた男を描き、この問題を提起しました。古くからあるテーマですが、法の立場は基本的に変わっていません。 飛び降りという恐怖に満ちた無残な死に方ではなく、もっと穏やかな苦痛のない死に方をこの男性に提供できたら、と思う人は少なくないでしょう。しかしそれはなかなか公言できません。合法的な方法がないこともありますが、命を守ることが何よりも大切だという単純な綺麗事が支配しているからでしょう。 この事件は特殊な事例ではなく、誰でもこのような状況に置かれる可能性があります。しかしたいていは病院のベッドで、自らの意思を実行したくてもかないません。つまり自分の生命は自らが決めるという決定権がないわけです。決定権を強行するには元気なうちに手荒な方法を使わざるを得ませんが、蛮勇が必要です。 医師による安楽死事件が起きると、マスコミはそのときだけ騒ぎますが、すぐ忘れます。この事件は安楽死問題を議論するきっかけになると思うのですが、その気配は全くありません。新聞やテレビの現役記者達にとって死は遠い先の話なので、安楽死など他人事という意識があり、無関心でいられるのでしょう。しかし自分が死にかけたときになってから慌てても手遅れです。 現在、自分の最期を自ら決めたい場合、自殺幇助が認められているスイスへの自殺ツアーに参加する方法がありますが、面倒な上に費用が必要です(ローンはちょっと無理ですね、帰ってこないのですから)。 自分のときは切実な問題になります。もっと安楽死問題、自己決定権の問題が議論されてもよいでしょう。悪用される危険があるなどの反対論もあるようですが、オランダやベルギーは合法化されており、現実的な選択です。また日本が「東洋のスイス」となることもできるでしょう。 |
10/01/25
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高学歴社会の落とし穴 現在、大学進学率は現在55%を超えているそうです。20年ほど前でも40%程度あったので、遠からず国民の半数が学士さんという時代になりつつあります。高等教育が普及することは喜ばしいことですが、テレビ番組の低俗化や書籍販売の長期低落傾向などを見る限り、日本人の知的レベルが上ったという実感はありません。その一方で、教育に対する家計の負担は大きいものがあります。 国の教育ローンを利用している家庭を対象に実施した日本政策金融金庫の09年度の調査では、小学生以上の子どもを持つ家庭における教育費が家計に占める割合は、平均で33.7%、年収600 万円以上800万円未満の家庭では30.2%、400 万円以上600 万円未満の家庭は35.7%、200 万円以上400 万円未満の家庭では実に48.3%と、教育費が家計にたいへん重くのしかかっていることがわかります。 進学する能力と意欲がありながら経済的な理由で断念せざるを得ないという状況は避けるべきです。そこで、公教育の無料化や援助によってこの状況を改善すべきであるといった議論は盛んに行われるのですが、残念なことに、これほどの負担を強いる現在の大学教育にそれだけの意味があるのか、という議論はあまり聞こえてきません。 大学教育が効果的で、教養豊かで専門知識を身につけた人材が大量に輩出されるのなら意味があります。しかし4年間の教育内容をしっかり身につける学生は多くありません。私も含めてですが、多くはまともに勉強しません。親が高額の教育費に苦労して、子供が4年間の大半を遊ぶという状況はどう考えても不合理です(人によっては勉強をするしないにかかわらず4年間が有益となることも否定しませんが)。 大学入試は高い能力をもつ人間を選抜するという機能を果たしてきました。多くの企業は社員採用時、自ら学力試験を行わず、指定校制などを通じて、〇〇大学卒というブランドを選抜の基準にしてきました。 つまり企業は社員の採用を大学入試の選抜機能に大きく依存してきたわけで、大学での成績はあまり問題にされませんでした。このことが本来の目的である大学教育が軽視されてきた大きい理由でしょう。またそれは学歴社会の原因ともなりました。 しかし、進学率が高くなると、一部の難関校を除き、大卒の価値が下がるのは仕方のないことです。日本よりも顕著な学歴社会といわれる韓国では、進学率は8割にもなるそうですが、正社員として就職できるものは半数程度と言われています。家計の教育費負担が極めて大きく、合計特殊出生率が1.19(08年)と最低レベルであることも日本と似ています。教育費負担の重さが出生率低下に関わっていることは容易に推定できます。 現在、学生の約8割は873校ある私立大学に在籍していますが、少子化のため06年度には私立大学の40.4%が定員割れを起こし、学生獲得のため推薦入試・AO入試が増加して、入学試験による入学者は50%以下になっているそうです。試験による公平な選抜機能は既に怪しくなっています。 多くの大学では学生の学力が低下して、授業レベルとの開きが問題になっています。進学率が高くなり、大衆化が進むと避けて通れない問題です。大学は大学生にふさわしいレベルの知識を身につけさせて社会に送り出すという本来の機能を十分はたしているのか、たいへん疑問です。 現実に大学の機能でもっとも重視されてきたのは入学試験による選抜の機能です。ならば多額の費用が必要な後の4年間はまことにもったいない気がします(もろんきちんと勉強する人は別ですが)。 例えば、企業が社員を採用する場合、学歴を一切問わず、自ら学力試験を実施して採否を決めれば状況はずいぶん変わると思います。応募が多すぎれば統一のセンター試験のようなもの成績で絞ればよいでしょう。これは思いつきに過ぎませんが、その気さえあればいろいろとできることはあると思われます。既に形骸化が進んでいるにもかかわらず、根強く残る学歴重視の考え方も徐々に変わるかもしれません。 教育への重い負担が少子化への大きな理由になっているとされています。就職にあたり採用側が選別の基準を学歴から能力などへ移し、大卒などの限定をやめてより広く門戸を開けば、形式だけの大卒資格の無意味さが認識されるでしょう。 少子化への対策に子供手当てなどの金をばら撒くような彌縫策(びぼうさく)を実施する前に、政策課題として教育への重い負担の意味を改めて問うことが必要ではないでしょうか。 |
10/01/21
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朝日新聞の転向? 21日の朝日新聞社会面には「小沢金脈」「支配の手綱 政党交付金」「忠誠心把握 刃向かえば奪う」と、厳しい小沢批判の見出しが並ぶ特集記事が掲載されました。内容は過去の事実が中心で既に雑誌などで明らかになったものも含まれます。つまり新聞社が既に知っていたものを集め解説したもので、朝日の意向を示すものです。 これまで朝日新聞は民主党には優しい報道姿勢を続けてきました。社説では厳しい「正論」を述べても、一面や社会面にインパクトのある記事を載せることは避けてきた印象があります。変わったのは石川議員らの逮捕後くらいからで、この「小沢金脈」記事は小沢批判を鮮明にしたものであり、私には「転向」の証と見えます(もっとも「水に落ちた犬は打て」という伝統的な社風のためであるという見方を全く否定できるわけではありませんが)。 3名の逮捕後、民主党支持率と内閣支持率は急落しましたが、民主党の中ではそれを「不当な検察」とマスコミ報道のせいだとする見方がありました。「闘ってください」という首相の言葉のように、検察に圧力をかけようという動きさえありました。 官僚主導を排し、すべてを政治主導にするという考えには官僚を自分達の思うままに動かせるという思い上がりがあるのでしょうか。選挙で選ばれたものがすべてを支配するという怖い考えです。既に管直人副首相は三権分立を明確に否定していますが、小沢氏の目指すところは党によるより完全な支配であるという気がします。 民主党を応援してきた朝日新聞も17日の社説で「首相も党も一丸の異様」としたように、小沢氏が支配する民主党の危険性に気づいたのかもしれません。 朝日新聞社が1月16、17日に実施した全国世論調査の結果によると、鳩山内閣の支持率は12月の48%から42%に急落したとされています。しかし、無党派層では支持20%、不支持54%となっており、不支持が支持を3倍近くも上回っています。したがって6ポイントの低下は主に無党派層によるものだと考えられます(かなり大雑把ですが)。 無党派層というのはどの政党にも好意や思い入れをもっていない層だと考えられます。そのため判断に感情が入りにくいわけですから、その判断は比較的冷静なものと思われます。従ってその数値は重要です。 逆に、民主党支持層の支持率低下は比較的限られたものと思われます。これは判断に何らかのバイアス(偏り)が存在することを示しています。変化への硬直性とも理解できるでしょう。それは恐らく「好み」によるものが大きいものと思われます。一旦、好きになると「あばたもえくぼ」となるように。 恐らく、メディアも「好み」と無縁ではいられないでしょう。「小沢金脈」記事は朝日新聞がとうとう好きな民主党を嫌い始めたことを示しているような気がします。朝日新聞が冷静な無党派の立場になることを歓迎したいですが、たいていの組織は一枚岩ではなく、楽観はできません。 |
10/01/18
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民主党の非民主的性格 小沢幹事長の側近議員など3名が逮捕されたことを受け、主要メディアの論調にも変化が見られます。17日の朝日の社説でさえ「首相も党も一丸の異様」と題し、首相が一緒になって検察と対決する姿勢を批判しています。ようやく独裁的政権の本性に気づいたのでしょうか。 強制捜査後の様々な反応の中で、共産党の志位和夫委員長の「(民主党議員が)誰一人、この現状に対してものを言わないのは異常だ」という発言はなかなか興味深いものです。他の誰でもなく、共産党の委員長が「ものを言わない」ことに注目したのは、かつて(今も?)共産党も同じ体質を持っていたためではないかと思われます。「ものを言わない」ではなく「ものが言えない」という表現の方がより適切でしょう。 「ものが言えない」ということは小沢幹事長への権力集中が相当進んでいることを示しており、宮本時代の共産党を思わせます。3名の逮捕後は散発的に批判が党内から出ているようですが、多くは匿名を条件とするボヤキのようなものです。これでは自浄能力など期待できそうにありません。 民主主義には自由な言論が不可欠です。政党内部だけは言論の自由がなくてもいいという理由はありません。小沢氏に対する反対意見が言えないようでは、小沢氏の独裁を許すことになります。「もの言えば唇寒し」では自由な議論に基づく民主主義など、絵に描いた餅でしょう。 しかし残念なことに、陳情の一元化など、「ものが言えなくなる」ほどまで、小沢氏が権力を集中するための方策を次々と打ち出していく過程で、主要メディアは権力集中に対してあまり警戒感を示しませんでした。暫定税率廃止などの大問題が小沢氏の一声で決まるといった権力集中に対してもう少し危機感があってもよいと思うのですが。 民主党の内部構造が明らかになることによって、議員あっての政党か、政党あっての議員かという問題も浮上してきました。小沢チルドレンはじめ、小沢グループは指示通り一糸乱れず動いてきたと言われています。彼らは小沢氏の持ち駒という色合いが強く、志を同じくするものが集まるという政党本来の意味から外れています。先に政党ありき、なのです。小沢氏に忠誠を誓うものが公認されるという仕組みから生まれる議員に自由な意見の表明を期待することは無理でしょう。小選挙区制の下では、公認は絶対的な意味を持ちます。 鳩山首相は小沢幹事長に「闘って下さい」と述べたそうですが、これは首相の実質的な立場を表しているようです。首相は政府のトップであり、政府の組織である検察と闘うのはおかしい、また首相自ら検察は信頼できないと言っているようなもの、と指摘されていますが、鳩山首相は日本国首相というより小沢氏に従属する立場という意識の方が強いのではないかと疑われます。まあ正直な方だとは思いますが。 鳩山首相は小沢氏の発言を伝えるとき「おっしゃっていました」などと敬語を使うのが常でした。ところが16日の会見では「幹事長は辞めるつもりはないと、申しておりますから・・・」と一転して謙譲語になりました。首相の心理に微妙な変化が生まれたのでしょうか。もっとも首相は閣僚の発言などには、常々「・・・と申されています」と謙譲語と尊敬語を同時にお使いなので、その宇宙人的用語法は凡人の理解が及ばないものかもしれません。 この逮捕劇によって小沢氏の旧来の金権的な政治手法が明らかになりつつあります。しかし、より重要なことは民主党の権力構造、その名前とは裏腹の非民主的な独裁的性格が明確になってきたことではないでしょうか。 そして独裁的な政権の成立を許す土壌となったのは、議員に対する政党の優越という環境を提供した小選挙区制であったことにも注意が向けられるべきだと思います(十数年前、その小選挙区制を導入したのは当の小沢氏であり、まさに深謀遠慮なのかも知れません)。 もしこの資金疑惑の露見がなければ、民主党が参院選挙で過半数を握る可能性が大きかったと思われます。それは「ものが言えない政党」による独裁体制の完成を意味するものであり、あまり歓迎したいものではありません。 関連拙記事 小沢政治への不安(2) |
10/01/14
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マスコミのダブルスタンダード 東京地検特捜部はついに小沢一郎民主党幹事長の周辺の強制捜査に踏み切りました。政界の大物に対する捜査だけに、きっと容疑に強い自信があるのでしょう。 文芸春秋新年号には「小沢から藤井に渡った15億円の怪」、2月号には「消えた五箱の段ボール」と、小沢氏の怪しさをかなり具体的に指摘した記事が続きました。検察がこれに影響を受けたかどうかは知りませんが、田中角栄氏失脚のきっかけになった立花隆氏らの「田中角栄研究」(文芸春秋1974年10月号)が思い出されます。小沢氏は田中氏の弟子と言われるだけに不思議なめぐり合わせです。 一方、小沢氏の政治資金の疑惑、鳩山首相の政治資金疑惑と税逃れに関するマスコミ報道にはもの足りなさが感じられました。政権のトップとナンバー2が(どちらがトップかは不明)そろって巨額の政治資金疑惑を受けるという前代未聞の出来事に対してずいぶん腰の引けた報道です。 小泉内閣のとき、年金未納問題がありました。数名の閣僚の年金未納が発覚し、民主党代表の菅直人氏「未納三兄弟」と激しく追及し、福田康夫氏が官房長官を引責辞任しました。その後、恥ずかしいことに菅直人氏にも未納が発覚、やむなく民主党代表を辞任しました。なぜかマスコミは政治家に極度の潔癖さを求めていました。 政治資金疑惑や6億円の税逃れに比べると実に些細な問題ですが、辞任にまで至ったのはマスコミの連日の大報道のためだと思われます。事務所費問題で絆創膏を顔に貼ったことまで大騒ぎされて辞任に追い込まれた大臣もありました。 朝日などは小沢・鳩山両氏の疑惑について、社説では説明責任を果たしていないなどと、申し訳程度に取り上げているものの記事での扱いは、問題の重要性に見合ったものとはとても思えません。一面トップで騒ぐのと社説では影響度に於いて雲泥の差があります。 民主党支持率と内閣支持率の低下がそれほど急激でないのはこの報道姿勢のおかげとも言えるでしょう。年金未納程度で辞任に追い込むほどの報道と、民主党幹部に対する寛大な報道、この激しいダブルスタンダードは理解に苦しみます。 田中角栄はその後、闇将軍となって強い影響力を行使しました。今後、小沢氏がどのようなことになるかわかりませんが、小沢氏は既に闇将軍の称号を贈られていますから、そのままでいけるかもしれません。 |
10/01/11
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二大政党制とポピュリズム 二大政党制は政党政治のひとつの理想とされてきました。二大政党制の下では政権交代が可能であり、そのため国民は政権選択の自由を手にすることができます。このこと自体は望ましいことであり、少なくとも一党独裁よりずっとましです。 一方、民主政治はポピュリズム(衆愚政治)の影響を免れることができません。ポピュリズムと隣り合わせと言ってよいでしょう。しかし二大政党制はポピュリズムの影響をさらに強めることになると思われます。 小選挙区制と二大政党制の下では政権獲得競争が激しくなる結果、選挙に勝つことが最大の目標になります。小沢幹事長の方針はそれを裏付けるものに見えます。有権者に訴えるものは目先の利益を実現するものが主になり、増税などの痛みを伴うものは忌避されます。昨年の民主党のマニフェストが好例です。長期的には重大な政府債務問題などは取り上げられません。 外交や防衛など政治には長期的な視点が必要ですが、目先のものに引きずられやすくなります。選挙に勝つことと良い政治を行うことは決してイコールではありません。膨大な政府債務は長期的な政策が争点にならなかった結果であり、この傾向はさらに強くなそうです。マスコミと有権者は朝三暮四の故事に例えられます(帳尻を将来世代に頼るところがより無責任ですが)。 選挙における競争が激しくなるほど有権者の歓心を買う政策が多くなり、長期的な政策は軽視される傾向が生まれるでしょう。これは目先の利益に釣られる有権者の問題でもあります。投票行動は報道の反映ですからマスコミの問題でもあります。二大政党制がうまく機能するためには両者の政治的成熟が条件となるでしょう。 競争が必ずしも良い結果をもたらさなかった例として放送業界が挙げられます。ここでの競争の対象は視聴率です。視聴率を稼ぐには最大公約数の視聴者が面白おかしく見てもらえる番組を作るのが基本です。視聴率が優先されるほど他のものは犠牲になります。 民放が邦楽やクラシックを放送することはまずありません。様々な文化を伝えることは大切なのですが、視聴者が少なければ、つまり「ゼニ」にならなければ彼らは取り上げません。少数の視聴者でも放送できる、また、見るのに少々しんどくても重要なことを報道できるところにNHKの存在理由があります。視聴率競争は迎合と番組の質を落とす方向により強く働くと思われます。海外に長く住んだ人が帰国して、日本のテレビの質の低さに驚いたという話はよく耳にします。 自由競争は一般的に創意工夫を生み、生産性を向上させで社会を豊かにするものとされてきました。しかし政治と放送の世界では、激しい競争はポピュリズムへの傾斜をいっそう強めることになりかねません。 そして政治と放送(マスコミ)は関連しています。マスコミが政治のポピュリズムを助長するという関係です。もしマスコミが読者・視聴者に迎合せず、目先の人気取り政策などを厳しく批判するならば、政治のポピュリズムは後退するでしょう。二大政党制がうまく機能するためにはマスコミの成熟、つまり外交や防衛、経済などに関する十分な見識が必須の条件となるでしょう。 |
10/01/07
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バタフライ効果 バタフライ効果とは「北京で蝶が羽ばたくと、1ヶ月後にニューヨークで嵐が起こる」などと説明されるように小さな変化が予想できない大きな変化を引き起こすことを指します(気象のように複雑さのために予測が不可能な分野での話です。これに対して惑星の運行などは単純で、何年も先の状態を高い精度で計算可能です)。 昨年冬の派遣村騒ぎとその最大級の報道は恐らく政権交代の一要因になったと思われますが、派遣村については後に以下のようなことが明らかになりました。
○派遣村に集まった約500人のうち、派遣切りの人は120人程度(厚労省推計) 集まった人達のうち、実際に派遣切りにあった人は120人ほどであったこと、求職の登録や職員募集への応募が低調であったことに驚きます。就職に対する意欲の低さは意外なものです。世の中がひっくり返らんばかりの大報道とこれらの事実の間には大きな落差が感じられます。 また、今冬の税金による公設派遣村は最終的に833人が集まりましたが、そのうち就労相談をした人は1割にも満たなかったとされています。「希望者全員のホテルを用意しろ」と騒ぐ者もいたという産経の記事がありますが、これは恐らく少数の人達であり、このことで派遣村全体を判断するのはよくないでしょう。 今冬の派遣村に関する報道は昨冬とは打って変わった静かなものでしたが、なぜこれほどの差があるのか不明です。もしかしたら実態にふさわしい報道になったのでしょうか。 昨冬の派遣村騒動によって派遣労働の不安定な側面が明らかになった点は評価すべきですが、実態から離れた洪水のような報道が過大な衝撃を社会に与えました。この衝撃は小泉改革が格差拡大を招いたとする議論に油を注ぎ、自民党政治そのものへの批判につながったと考えられます(派遣村の村長であった湯浅誠氏は民主党に貢献したわけですが、彼はその後、内閣府参与として暖かく迎えられました)。 むろん自民党が敗北した理由は他にいくつもあると思いますが、昨冬の派遣村報道がひとつの理由になったことは十分考えられることです。派遣切りに遭った120人ほどが政権を左右するほどの影響力をもったわけで、報道の力をまざまざと見せつけられた例です。 問題は派遣村報道が実態から大きく外れた感情的なものであったことです。感情的な報道が感情的な反応を生み、投票行動に影響したと考えられるます。北京の蝶の羽ばたきを感情的に拡大する仕組みが存在し、それが予測困難な結果をもたらしたというように考えることができるのではないでしょうか。 政治が感情に支配されることを防ぎ、冷静な判断が可能になるような情報を提供することは報道機関の重要な役割です。報道機関がカッカして、頭に血が上ってはちょっと困るわけです。それでは多面的な報道は恐らくできないでしょう。 |
10/01/04
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「文は人なり」 新しい年を迎えると、またひとつ歳をとる、と気になります。歳を食って良いことはあまりないのですが、なかには経験を重ねて初めて見えてくることもあります。 「文は人なり」と言われますが、これは意外にも18世紀のフランスの博物学者・数学者ビュフォンの言葉だそうです。文章には多くの情報が含まれていて、書いた人の様々なことがわかるという程度の意味でしょう。わざわざ言われなくてもそのように感じている人は少なくないと思います。 短い話し言葉と違って、書かれたものは一般によく考えられたものであり、その人の頭の中をよく反映したもので、情報としての価値が高いというわけです。採点の面倒さや主観の混入という問題がありながらも、論文形式の試験が採用される理由でもあるでしょう。 ○×式の採点なら誰でもできますが、論文の採点はかなりの知識と経験が必要です。同様に文から人を知るにも相当の知識・経験が要ると思われます。歳をとると様々な性格の類型を知る機会が多くあるので、それらを参考に推理することができるわけです。 類型から離れすぎた奇人・変人には通用しませんが、これはけっこう楽しい作業です。司馬遼太郎氏の作品にはしばしば登場人物の人物評が出てきますが、彼も謎解きのように人物の内面を推理していたのではないかと想像します。 政治家にとって言葉は大事な商売道具ですから、演説はむろんのこと、公の場での発言は考えられたものであり「文」に相当する意味があると思われます。「言葉は人なり」とも言えるでしょう。このような観点から政治家を眺めるのもなかなか興味あることです。 例えばオバマ大統領の就任演説の、自らの出自を語った一節、「60年足らず前に地元のレストランで食事をすることも許されなかったかもしれない父親を持つ男が今、ここで最も神聖な宣誓をする・・・」の巧みさには感心させられます。 またノーベル平和賞受賞演説の一節、「これら一見矛盾する二つの真実――戦争は時に必要であり、また戦争はあるレベルにおいて人間の愚かさの発露だという真実――を調和させることだ」には、抽象的なきれい事で誤魔化さない正直さと、リアリズムに基づく歴史認識が感じられます。やはり並々ならぬ人物だという気がします。優れたスピーチライターのせいもあるのかもしれませんが。 それに対し「友愛政治」を掲げ、「トラスト・ミー」と言って信用を落とした日本のトップリーダー鳩山首相の言葉はどうでしょうか。「きれい事」と「曖昧さ」、「非現実性」ではなかなか高いレベルにあるように思いますが。 優れたリーダーを選ぶ場合に問題になるのは人物を評価する能力です。人物リテラシーといってもよいでしょう。麻生前首相や鳩山首相を選んだ方々の人物リテラシーはどうであったのでしょうか。 |
09/12/31
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教員養成課程6年制の失敗予測 朝日新聞には1ページを使ったオピニオン欄があり、けっこう面白い記事が載ります。少なくとも記者が書いたものより面白いものが多いようです。編集者の選択の結果なのでしょう。 昨年の12月26日の同欄には元河合塾理事の丹羽健夫氏の「養成過程6年制?教員の質 下げますよ」というたいへん興味深い記事が載っています。簡単に話の要点を紹介しますと、6年制にすることにより志望者が激減し、教員の質が低下するというわけです。例として先行した薬学部のケースが示されています。
「2006年に薬学部が6年制になったとき、私立の薬学部志願者は前年の14万人から9万人に減りました。その後も減り続け、今春の入試では8万人になった。その結果、河合塾のデータによると、50台だった偏差値は軒並み7ポイント以上、下がりました。10〜20ポイント下がったところもたくさんあります」 刈谷剛彦氏は教員養成系学部の偏差値が近年5ポイント程度低下していると、既に指摘していますが、それに加えての7ポイントはたいへん大きな数値です。 また、民主党が07年に策定した教員養成課程6年制はフィンランドの修士課程を意識したもののようだが、フィンランドでは教員養成系大学の志願倍率が10倍程度なのに対し、日本では平均2.5倍だと書かれています。 丹羽氏の話はたいへん説得力があり、偏差値の低下はまず免れないと思われます。民主党の考える6年制は偏差値の低下を無視したものか、それとも教育期間を2年延ばすことによって偏差値の低下を十分補えると考えたものかの、どちらかでしょう。 教育の重要性から考えれば、教員の資質に直結する偏差値の低下は非常に重大な問題であり、それを低下させるような施策はたいへん危険です。2年間の延長による効果はそれに比べると小さなものでしょう。 民主党は昨年の衆院選のマニフェストで「養成課程は6年制とし、養成と研修の充実を図る」と明記し、1月7日の定例会見で鈴木寛文部科学副大臣は6年間に延長する制度改正を論議するため、有識者会議を近く省内に設置する考えを示しています。 養成課程6年制の背景には学生の資質よりも教育の可能性に期待する素朴な楽観論(参考)があるのでしょうが、「ゆとり教育」と同様、失敗する可能性が高いと私には思われます。 民主党が養成課程6年制というマニフェストを作成するにあたり、どのような専門家の意見を取り入れたのか気になります。政府の当事者に専門家並みの知識を求めることは無理かもしれません。しかし様々な専門家の意見から適切なものを選択する能力、そのための見識が必要なのは言うまでもありません。 フィンランドには優秀な学生が教員になる仕組みがあるようですが、その前にそれを実現した優秀な行政機構があるものと想像できます。優れた政策担当者→優れた教員→優れた教育という順序です。何よりも必要なのは政策担当者に優れた人材を配置することです。 「ゆとり教育」の結果とされる学力低下が大きく注目されるようになった契機のひとつは「分数ができない大学生」という本でした。著者の岡部恒治氏と戸瀬信之は数学者、西村和雄氏は経済学者であって教育学者ではありません。別のきっかけはPISAの調査結果ですが、いずれも日本の教育界の外部からもたらされました。 もしこのような外部からの批判がなければ、ゆとり教育はいまだに続いていたかもしれません。基礎資料を得るための全国学力調査は日教組の反対によって1966年に中止され、全面的に再開されたのは学力低下が社会問題になった2007年です。学力調査を否定してきた日本の教育界には教育の成果を調査・評価し、よりよい方向を目指すという機能があったのか、少し疑問に思います。 日教組は「ゆとり教育」に強い影響を与えてきましたが、民主党政権の有力な支持母体ともなれば、さらに影響力を強める可能性があります。6年制を論議する有識者会議のメンバーの人選が気になるところです。 教育政策の結果は何年も先になって現れます。失敗は取り返しのつかないもので、国家的な規模の損失を招きかねません。養成課程6年制を掲げる民主党政権に正しい判断を果たして期待できるでしょうか。ゆとり教育の失敗を繰り返すようなことにならなければよいのですが。 |
09/12/28
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ばれるまで黙っていよう、贈与税 鳩山首相は12億6千万円を親からの贈与と認め、約6億円という多額の贈与税を払うことになりました。不運であったのはたまたま「故人献金」問題で捜索を受けたことであります。これさえなければ鳩山氏は税金を払わずにまんまと贈与に成功していたことでしょう。たいへんお気の毒な、不幸な出来事です(時効成立分については成功ですが)。 資産家にとって財産を減らさずに子孫に移すことは重大な関心事です。鳩山氏の資産管理会社、六幸商会のことは知りませんが、資産家が相続税や贈与税対策のために資産管理会社を作るのはよく使われる方法です。長期の計画のもとにうまくやれば節税などにかなりのご利益があるとされています。 もうひとつ気になるのは六幸商会→首相の事務所→各政治団体・個人の活動費・私費への流れが現金となっていることです。一般社会ではこのような高額の受け渡しは小切手か銀行振込みが常識です。現金による受け渡しは面倒なので、跡(証拠)を残したくないときなど、特別な事情があるときに利用されます。 したがってこのような仕組みは「不透明化」のために用意周到に作られたものであるという気がします。捜査当局は金の流れをほとんど解明できなかったとされており、「不透明化」は大成功のようです。そして鳩山氏だけが資金のことをまったく知らなかったそうですが、われわれの頭脳ではちょっと理解し難いことです。やはり「宇宙人」なのでしょうか。 鳩山氏は結局、贈与をお認めになったわけですが、もしこの発端が検察の捜査でなく、税務調査であったならば同じことになっていたでしょうか。税務調査の結果、数億円の税逃れが出てくれば普通は立件になると言われています。税務当局と検察庁は「全く知らなかった」という宇宙人のような釈明が理解できるのでしょうか。普通の人が同じことを言ってもまず認めてくれないと思いますが。 それにしても現職首相による多額の「申告漏れ」という事態に対し、マスコミの優しさが気になります。赤城農相の事務所費が不明朗であるとして今回とは比較にならない程の大騒ぎになりました(それほど重大な罪とは思えませんが)。10年間の事務所費の合計でも数千万円であり、金額は2桁違います。絆創膏を貼って出てきただけでもひどく叩かれ、参院選の自民敗退、安部政権の崩壊へとつながりました。選挙まで左右するマスコミの腕力をまざまざと思い知らされた出来事でもありました。 今回の「大漏れ」は課税分だけで約6億円であり(延滞税以外の加算税が課せられるのか興味あるところです)、まったくスケールが違います。なぜマスコミはこれほど優しいのでしょう。マスコミには公平性という概念がないのでしょうか。 税務署長→財務大臣→総理大臣というラインでいえば首相は徴税する側のトップです。納税の範を示すべき立場の人が「激漏れ」とは困ったことです。警察庁長官が刑事事件を起こすようなものです。放置すれば納税のモラルに大きく影響することでしょう。「贈与税はばれるまで黙っていよう、もしばれても払えば済むことだ」、と。 鳩山氏は民主党のスポンサー、オーナーとも呼ばれ、民主党が鳩山氏の資金力に依存してきたとされています。政治資金規制が徐々に厳しくなった結果、金を集めることが困難になり、自ら資金を持つ人が有利になったという側面は否定できないと思います。 麻生氏、鳩山氏と自己資金のある首相が続きました。キングメーカーの森元首相は「お世話になったから」と公式の場で麻生氏を首相に推しました。「お世話」が経済的なものかどうかは知りませんが、首相が資質や能力以外の要素で選ばれるのはたいへん不幸なことです。その結果かどうかはわかりませんが、両氏とも首相としての資質に疑問が残ります。 かつて金権政治が批判されました。それが自己資金によるものに変わっただけであるならば残念なことです。首相の巨額の使途不明金が何に使われたのか、たいへん気になるところです。 |
管理人 岡田克敏
(京都市在住)
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