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                                                                           09/11/05

小沢政治への不安(2)

 政党とは、先ず政治家や政治を志す者があり、彼らが共通の理念に基づいて政党を作る、あるいは既存政党に加入する、というのが私の理解です。これとは逆に、先に政党があって、政党が議員を作り、政党の意に沿うように育てられるとしたら、政党の意味は違ってくるわけで、これにはいささか違和感を覚えます。

 いま民主党で行われていることはまさに後者であり、とくに新人議員は議席の数のために存在するという観があります。政党の支配力の強大化によって、議員は政党の駒になっているようで、政治のあり方の変質を感じます。小沢氏が次の選挙に勝つことを最優先するよう新人議員達に伝えていることもこのことを裏付けています。

 先日の選挙で大量生産された小沢チルドレンと呼ばれる民主党の新人議員達は党によっていま厳しい教育を受けているそうです。文芸春秋11月号の立花隆氏の『小沢一郎「新闇将軍」の研究』には次のように記されています。

 『この選挙ではじめて議員になった一年生議員たちが上京して最初になされたのは、小沢から直接に議員としての生活のイロハを徹底的に叩き込まれることだった。実は新人議員のかなりの部分が「小沢一郎政治塾」の塾生出身で、すでに小沢イズムを叩き込まれた連中だが、そうでない議員も、このようにして、小沢イズムの洗礼を受けるわけだ。
(中略)小沢グループだけは自民党の派閥以上の固い統制を誇り、党内の選挙や決議などに際して小沢の指示通り一糸乱れず動いてきた』

 さらに彼らの多くは民主党の公認のおかげで議員という職にありついたわけで、党に対する反抗は次の選挙後の失職を意味しますから忠実にならざるを得ません。

 中央の意のままに動く議員を大量に抱える政党は強力になる反面、議員の発言力は低下し、権力は党中央に集中することになります。多くの議員を通じて、広く国民の意向を吸い上げるという政党の機能は損なわれることにならないでしょうか。

 小沢氏による人事の掌握、自党の議員立法の原則禁止、官僚の答弁禁止、官僚の記者会見禁止、陳情は幹事長室で一元化、三権分立の否定、これらにはもっともらしい理由がつけられているものの、いずれも権力集中の方向を示しています。

 不思議に思うのは、議員が政党の駒と化す事態を危惧する議論がマスコミにはあまり見られないことです。すぐに危機が訪れるというわけではありませんが、無視して良いこととは思えません。マスコミは政党政治のあり方の変質と権力の集中に関して鈍感なようです。三権分立は権力の集中を避けるための方法であったように、権力の集中は危険な側面を持ちます。

 また、マスコミは実質的最高権力者小沢氏の見解などをあまり報道しないため、小沢氏がどんな方向をめざしているかが明確ではありません。最高権力者の意図がはっきりしないのは異常なことであり、これはすこし不気味です。

                                                                           09/11/02

他人を判断する基準

 「最速のインディアン」という映画があります。ニュージーランドの片田舎に住む初老の男(アンソニー・ホプキンス)がバイクのスピード記録を立てるために年代物のバイクと共にアメリカへの旅をするという、実話を元にしたお話です。貧しい旅の途中で出会う多くの人々に助けられてようやくレース場にたどりつくのですが・・・。

 登場人物が一癖も二癖もある、ややこしい人間ばかりという映画もまた面白いのですが、この映画はまるで逆で、登場人物の誰もがさりげない親切心を持ったごく普通の人達です。ホプキンスの演技も素晴らしいのですが、この映画のよく出来たところは「心暖まる」系でありながら偽善臭や不自然さが感じられないところです。

 おそらく、この映画の登場人物には制作者の心情が投影されているのでしょう。つまり、制作者は自分の心情を基準にして登場人物を作り出しているという推定することが出来ます(もっとも自分の心とは似ても似つかぬ理想を作っているのかもしれませんが、それはまあ措きます)。

 我々はしばしば他人の気持ちや考え方を推測する必要に迫られます。ある条件下で相手がどう行動するかを推測するとき、たいていは自分ならどうするだろうかと考えます。意識的でなくても、自分の考え方を基準にして、相手の思考や行動を推測していると思います。

 例えば、素直で邪心のない人は他人はみんな善人だと考えるでしょう。逆に邪心豊富の人は世には悪人が多いと考えるかもしれません。むろん、騙された経験など、学習によっても悪人が多いと判断することもあるので一概には言えません。

 他人を判断する基準が自分の心であるならば、ある人の人間や社会に対する考え方を知ることは、その人の内面を知る手がかりになることがあると考えてもよいでしょう。たいていの人は腹の中が黒いと考える人は、もしかするとその人の心が反映されているのかも知れません。

                                                                           09/10/29

小沢政治への不安

 行政刷新会議が設置した事業仕分けチームが発足してまもなく、つまづきました。各紙の論評はいろいろありますが、右寄りのメディアのものが面白いのでご紹介します。

○政府が党に断りもなくメンバーを決めたことに小沢幹事長が立腹。
○平野官房長官は小沢氏に「申し訳ない」と謝った。
○小さなつまずきから「党高政低」「政府にも小沢支配」が透けて見える。 (10/27よみうり寸評)

○いまの民主党で人事カードを切っているのは、党代表である鳩山由紀夫首相ではなく、小沢一郎幹事長である。
○小沢氏の人事権は、党と国会ばかりでなく政府にも及んでいる。
   (10/27産経抄)

 また文芸春秋11月号の立花隆氏の『小沢一郎「新闇将軍」の研究』という記事には、小沢グループは150名を超え、来年の参院選後の新人を加えると200人は確実、場合によっては300人を超えるかもしれないとし、気味が悪いことが起こりつつあると思っている、と書かれています。

 「小沢がヒトラーのような人物というわけではない(略)が、あのナチスが国政選挙を通じて、大量の議席を獲得して、合法的に1930年代のドイツを一挙に作りかえようとしはじめ、それを大衆が熱狂的に支持しているところを見たときに一部の人々が感じたであろうような、なんともいえない居心地の悪さ、不快感を感じている」とも記されています。

 一方、民主党は自党の議員立法の原則禁止、官僚の答弁禁止、官僚の記者会見禁止と、次々と政策を打ち出しています。議員立法の禁止は議員の活動を制限するものですが、いずれも政府以外からの情報を遮断するという側面を持っており、情報を一元化して雑音を抑えようとする意図が感じられます。

 与党の代表質問廃止の理由として民主党は政府・与党の一元化を挙げていますが、これは行政府と立法府の一元化を意味するもので、三権分立を弱体化するものではないでしょうか。菅直人氏の「国会は立法機関というが、それより大事なことは、内閣総理大臣を選ぶことだ。三権分立とは、憲法のどこにも書いていない」という発言とも符合します。もともと議院内閣制では行政府と立法府の明確な分離は無理でしょうけど、三権分立をこうも明確に否定されるとちょっと不気味です・・・背後に小沢氏の影が見えるだけに。

 立花氏も指摘されていますが、最大勢力である小沢グループが民主党を支配し、民主党が政府を支配するという構造ができつつあるように思います。しかも小沢グループは新人が多く、その新人達は小沢チルドレンと言われるように小沢氏の元で「育成」され、強力な管理下におかれます。

 与党の代表質問廃止や官僚の答弁禁止には社民党が反対しています。「反対」が板についた社民党ですが、こればかりは大変まともに思えます。もっとも民主党に権力が集中すれば社民党の存在価値が危うくなるという心配があるのかもしれません。

 権力の集中化が水面下で静かに進んでいると思うのは杞憂でしょうか。

 権力の集中は独裁体制へつながり、それは政治の効率化という良い点もあります。しかしナチスを持ち出すまでもなく、日本の過去の暴走を考えると、少々効率は悪くても議論百出の政治の方がより安心できるように思います。

                                                                           09/10/26

国の大借金に返済計画なし

 来年度の国債発行は50兆円になると報道され、ようやく巨額財政赤字の問題に注目が集まるようになりました。民主党政権は増税をせず、無駄を排することで財源を作り出すということを選挙の看板にしてきたのですが、早くも雲行きが怪しくなってきたようです。

 一方、民主党のブレインとも言われる榊原英資氏は次のように述べ、国債増発を熱心に奨励しています。
「日本の国債と地方債は合計で800兆円。日本人の貯蓄残高は総額1500兆円だから、日本全体で見れば借金はない。国債は有力な財源だ。子供手当も、高速道路の無料化も、暫定税率をゼロにするのも、国債を発行すればいい。(略) 1000兆円程度まで行っても、そこで止まれば問題ない」(8月21日産経ニュース、文芸春秋10月号にも同様の記事)

 榊原氏は貯蓄残高が1500兆円あるので、追加発行は問題ないとされていますが、素人にはちょっと理解できません。自国民からの借りでも、外国からの借りでも、返済が危ぶまれたときは国が信用を失って金融市場が混乱する点は同じだと思いますが、あるいは1500兆円を何らかの方法で吸い上げて、国債の償還に当てるという腹づもりなのでしょうか。

 確率でしか答えられない問題に追加発行は大丈夫といった断定的な答を出すのは証券会社のセールとトークと同じで、学者の発言とは思えません。榊原氏が現政権にどの程度の影響力があるかは知りませんが、亀井静香金融・郵政担当相が10年度予算は100兆円以上にする必要があると発言したこととも符合します。

 GDPに対する政府債務の大きさはどこまで可能か、なんてことは誰にもわからないでしょう。確実なことは日本が先進国の中で先頭を切って政府債務を増やし続け、未知の領域へと進んでいることです。臨界点は予測できなくても、その確率は間違いなく大きくなっている筈です。

 臨界点は国内の事情だけでなく、海外の信用不安など不可抗力の原因によってももたらされます。また格付けの変更や他国の財政危機による連想などもきっかけになり、予測不可能な要素が数多く存在します。

 また債務不履行は起こらなくても国債の暴落(金利の急上昇)など不可逆的・破壊的な変化が生じ、制御できなくなる可能性が高いのではないでしょうか。金利動向を見ながら国債発行額をコントロールする方法がいつまでも通用するとは思えません。

 財務省出身者を日本郵政の社長に据えたことは国債引受け先として日本郵政を活用する下心があったのかもしれません。無理やり引き受けさせれば臨界点を少し先延ばしにすることはできるでしょう。それで現在の当事者は逃げ切れるという算段かもしれませんが、破綻時の破壊力はより大きくなります。

 今回の不況を受けて、2011年とされてきた基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化の目標年次が2020年代初めと大きく後退する見込みとなりました。リーマンショック後の財政出動によって目標年次が一挙に9〜14年も後退しましたが、民主党政権の政策では目標年次がさらに大きく先に延びそうです。

 借金をするときは返済計画を示すのがあたりまえです。まず返済計画を作って、可能な借金額を見積もってから予算を決めるのが順序というものです。GDPに対する政府債務が異常な大きさなった以上、信頼性のある返済計画が是非とも必要でしょう。逆に言うと返済計画が作れないようでは信用を失う、ということになりかねません。

 「こんなに借金して返せるのか」と返済問題に光を当てるのはマスメディアの役割ですが、プライマリーバランスの目標年次にすら関心を寄せる気配はありません。政府もメディアも「そのうち何とかなる」ではいささか無責任すぎではないでしょうか。

 OECDは対日審査報告書(2009年版)で、日本の政府債務残高の増加に関連し、金融市場の信認を維持するためには、より詳細でかつ信頼のおける中期的な財政再建計画が必要との認識を示しました。

 「人様」が借金の心配してくれているのに「本人」はお金を使うことにばかり熱心のようです。

                                                                           09/10/22

資源大陸アフリカ−書評

 「資源大陸アフリカ」は毎日新聞の記者白戸圭一氏によって書かれた現地ルポで、多くは生命の安全が保証されない紛争地域での現地取材に基づいています。新聞記者というと記者クラブに詰めている姿や、芸能人のスキャンダルを追いかけている姿を思い浮かべます。またイラク戦争の開戦前、日本の大手メディアは危険だからと外国メディアを尻目に一斉に引き上げました。しかし大手新聞記者の中にはちゃんと職責を果たしている人もいるわけで、十把一絡げの理解はよくない、と改めて思いました。

 この本の舞台は主としてアフリカの紛争地域であります。白戸氏は紛争の主体である武装勢力に接近し、危険な取材によって紛争の構造をおぼろげながらも明らかにします。

 紛争は部族間の対立、宗教の違い、鉱山などの利権、旧宗主国の思惑などが複雑に絡んでおり、単純なものではありません。しかしその根っこには貧困と経済的な利害があると考えられます。紛争の原因を部族間の対立、あるいは宗派間の対立とする報道がよく見られますが、部族や宗教、あるいは政治的な思想などは集団を識別するラベルとしての役割はありますが、それを対立の主原因とする単純な見方は正しいとは言えません。

 紛争地域では数多くの武装勢力が対立していますが、彼らが軍事力を維持するためには兵を食わさねばならず、武器も必要です。金が重要であり、石油や鉱山の支配権は争奪の標的になります。また極度の貧困は僅かな食糧だけで兵を集められることを意味します。

 石油や鉱山のない地域では住民からの収奪や外国からの資金が兵力維持の原資になるわけです。多くの武装勢力が争う状況は日本の戦国時代のようなものでしょう。しかし戦国時代の戦争は軍隊同士の争いですが、不幸なことにアフリカでは住民の大規模な虐殺がしばしば起こります。

 94年のルワンダでは100万人前後が、現在も続くスーダンのダルフールでは03年以降だけで18万人、56年の建国以後では200万人もの死者が出たとされています。また村単位などの小規模な住民虐殺は武装勢力が恐怖で支配するための方法ともされています。

 欧州でも敗れた側の住民は皆殺しか奴隷という時代が長く続いたそうで、都市全体を囲う城壁があるのはそのためだとされています。日本では、戦は兵だけで行われ、住民が巻き込まれることが少なかったため、城はあっても都市を囲う必要はなかったと言われています。日本人は比較的穏健な民族である考える向きもあります。

 著者は貧富の格差や貧困そのものが暴力を生み、それが9.11のように先進国まで及ぶと述べています。しかしアフリカの混迷を改善する具体的な方法は示されていません。本書を読む限り、国連などの国際機関の活動も限界があり、とても楽観的にはなれません。

 格差と貧困が社会を不安定にし、暴力を生み出すことは納得できますが、それとともに人々の意識も重要な要素だと思います。どれも短時間には解決できないことです。

 アフリカの状況は社会の原初的な形態のひとつとも考えられます。本書を読んで、文明国に生まれた幸運を改めて思いました。我々は平和と安全を享受していますが、それは長期間にわたる先人達の膨大な犠牲によって購われたものであり、我々はタダでその恩恵に浴しているということも。

                                                                           09/10/19

聖職者の性犯罪

 「姦淫してはならない」は十戒(出エジプト記)のひとつですが、以下は聖職者自らがその戒律の必要性を証明した出来事と言えるでしょう。

 『茨城県つくば市に本部を置くキリスト教系宗教法人の代表牧師(61)に教団施設内などで、わいせつな行為を繰り返されたとして、20〜30代の元信者の女性4人が牧師と教団などを相手取り、計1620万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしていた。
 元信者側は「(牧師は)指導者の霊的権威は絶対不可侵であるなどと欺瞞的説法を繰り返し、被害女性を抗拒不能にさせた」と主張。被害を受けたという女性は「君には癒やしが必要だ、といってセクハラをエスカレートさせた。衝撃的すぎて声も出なかった。嫌だと感じるのは自分の信仰が足りないせいだと思ってしまっていた」と話している』(10月18日産経ニュースより要約)

 05年、信者の少女7人に対する強姦罪に問われた京都のプロテスタント系宗教法人「聖神中央教会」の元主管牧師(62)のケースでも、「少女らは神に最も近い存在だった被告に逆らえば地獄に落ちると信じており、従順に行動せざるを得なかった」とされています。

 同じく京都のプロテスタント系幼稚園では園長である牧師が児童性的虐待事件を起こしていたことが、被害者の1人がPTSDを発症し自殺未遂を起こしたことで発覚しました。被害者はさらに4人増えましたが、既に刑事事件としての時効が成立していました。被害者側は民事で勝ちましたが、謝罪などを求める元信者らの活動が続いています。

 また2004年に表面化した米国カトリック教会の性的虐待事件では過去52年間で神父4450人に疑いがあり、件数は約11000件に上ると報じられました。疑いは実に神父の4%に及んだそうです。

 神と信者の間に立ち、神の教えを説く聖職者が俗の極みである強姦、それも児童に対してするのはまことに破廉恥なことです。警察官が強盗するよりも強いコントラストがあります。教会という閉ざされた世界での絶対的優位な立場と、相手の信頼を利用するのは卑怯な方法です。

 信者を精神的に強く拘束する宗教は信者を洗脳していると言ってもよいと思います。そのような宗教団体では「逆らえば地獄に落ちる」と信じさせることができたように、性的被害者が生まれやすい環境があります。また被害者が被害届けを出しにくい環境でもあります。したがって表面化するものは氷山の一角であり、被害の実数ははるかに多いという見方は説得力があります。

 聖職者に対し、改めて「姦淫してはならない」と教育する必要がありそうです。とくに「児童に姦淫してはならない」と。かつての中国式の方法(宦官)はちょっと差し障りがありますから。

 多くの人は持ち金を取られるより、強姦される方が、より深い傷を受けるでしょう。ところが刑罰は逆で、強姦は3年以上の懲役であり、強盗の5年より軽くなっています。犯罪者にとっては強盗より強姦の方が敷居が低いということになります。

                                                                           09/10/15

台風で裁判員裁判の日程短縮

10月8日、台風18号が日本列島を通過しました。この影響で2件の裁判員裁判が日程を短縮して実施されました。これらは一部のマスメディアが小さく報じただけであり、重要なこととは認識されなかったようです。

 ひとつは大阪地裁の強盗致傷と覚せい剤取締法違反事件に対する裁判員裁判で、当初予定の3日間が2日間に、もうひとつは名古屋地裁の傷害致死事件に対するもので4日間が3日間に短縮されました。

 判決後の会見で、大阪地裁の裁判員から「(被告の)人生を決めるには短すぎた」「3日間あればもっと議論できた」「せかされたようで、こんなに早く決めていいか不安だった」という意見があったそうです。

 裁判の時間の3分の1、あるいは4分の1をカットするというたいへん大胆なやり方であります。裁判員裁判は裁判員の負担を軽減するため、元々短縮されている上、裁判員に対する説明時間が必要なため、実質的な審理時間はさらに少ないといわれています。その裁判の日程をさらに短縮してよいものでしょうか、しかも台風ごときで。

 日程を大きく短縮して十分な審理ができるのか、大変疑問です。2日間で十分だと言うなら、最初から2日間で日程を組むべきです。台風で1日ダメになれば予定を延ばすのがあたりまえでしょう。どうやら被告に対する十分な審理より、予定を延ばすための関係者の手数の方が重要とされているようです。これは本末転倒ではないでしょうか。

 決められた日程が優先されるということになれば、複雑な事件などで審理が予定通り進まなくても、「はい時間切れでここまで」ということになりはしないでしょうか。裁判は、裁判員など裁く側にとっては多くても数日の問題ですが、裁かれる側、被告にとっては一生の問題です。

 国民の司法への参加を看板にして誕生した裁判員制度ですが、その主目的は被告をより正しく裁くことである筈です。簡単に日程を短縮するようなやり方は裁判本来の目的より国民参加という形式を優先したものでないかと疑われます。もっともらしい理念と美しい言葉で飾られた裁判員制度ですが、早くも形式主義の馬脚を露したのではないでしょうか。

 一方、マスメディアがこの日程短縮を問題視しないことは腑に落ちません。裁判員裁判に関する報道は1回目の派手な報道以降、急速に小さくなっていますが、制度に批判的な報道は影をひそめ、なぜか肯定的な報道が目立ちます。識者のコメントも賛成派ばかりという印象です。

 マスメディアは裁判員制度に対する興味を失ってしまったようです。しかし制度は3年後に見直すことが決まっています。批判的な視点を失なわず報道を続け、問題を提起するのもメディアの重要な役割だと思うのですが。

裁判員制度については拙論 算数のできない人が作った裁判員制度をご参照下さい。

                                                                           09/10/12

ただの見物人

 ハムレットの最終場面の話です。クローディアス王とレアティーズはハムレットの殺害を謀ります。計画に従って、レアティーズとハムレットは剣の試合をすることになるのですが、レアティーズは剣先に毒を塗った実戦用の剣を使い、ハムレットに小さな傷を与えます。

 それに気づいたハムレットは剣を取替え、レアティーズに毒剣で傷を負わせます。レアティーズは毒がまわって死ぬ間際、事の次第をハムレットに告げ、ハムレットは王を殺します。死に瀕したハムレットは惨劇を見ていた人々に対して次のように言います。

「諸君、青ざめて震えているな。だが、ただの見物人だ」

 見物する者にとっては、現実の惨劇も芝居も同じようなもの。シェイクスピアはそんな意味をこの科白に込めたのではないでしょうか。ただの見物人(audience to this act)は無責任な傍観者です。芥川龍之介は短編「鼻」で傍観者の利己主義を主題にしましたが、こちらはやや複雑で、「ただの見物人」はもう少し単純な意味だと思われます。

 これを思い出したのは光市母子殺害事件の被告を実名で扱った本「○○君を殺して何になる」が発売されたからです。光市母子殺害事件は大きく報じられ、世の注目を集めました。しかし事件を注視したほとんどの人間は所詮「ただの見物人」ではなかったでしょうか。そしてこの本は周辺事実を暴露することによって彼らの興味に応えるものなのでしょう。

 この本の著者は実名とした理由について「匿名では人格の理解が妨げられ、モンスターのようなイメージが膨らむ」、「私が会った人間の存在を感じてもらうため、名前は重要な要素」と説明しているそうです。

 しかし「A」がモンスターのイメージなら仮名という手があります。仮名でなく実名でないと人間の存在が感じられないという説明もよくわかりません。まして表紙に実名を大書する必要性はいっそうわかりません(買わなくても実名がわかります)。

 犯行当時少年であった者の実名を発表することは、マスコミに騒がれて販売増につながる、という理由ならば、私には実によくわかるのですが。

 奈良医師宅放火殺害事件を題材にした「僕はパパを殺すことに決めた」では、著者が鑑定医の信頼を裏切る形で供述調書の内容を入手した方法が問題となりました。

 世の注目を集めた事件を利用し、本来秘匿されるべきものを公開した点において、この2つの本は共通しています。そして被告の家族など、不幸な事件の関係者に不利益をもたらしている点も同じで、事件を食いものにする商売と言えるでしょう。

 センセーショナルな題名をつけ「見物人」相手に商売している人間が「表現の自由」を楯にして正当性を主張すれば、「表現の自由」の価値を貶(おとし)めるばかりか、本当に必要な「表現の自由」を制限する道を開きかねません。

 アマゾンやビーケーワンなどが現在販売を止めていることがせめてもの救いです。裁判所の判断が出るまでは販売しないのがまともな見識でしょう。販売中の書店や著者、出版社はそこまでして儲けなければならないのでしょうか。

                                                                           09/10/08

マニフェスト教条主義

 『政府の「地球温暖化問題閣僚委員会」は7日、20年時点の温室効果ガス排出量を90年比25%削減する政府目標の具体化に向けた検討チームを設置した。菅直人副総理兼国家戦略担当相をトップに、目標達成のためのコスト試算などを進める』(毎日JP09年10月7日)

 これは順序が逆でないでしょうか。事前にコストや経済に与える影響をできる限り正確に算定し、見込みがついた上で国際社会に発表するのがまともなやり方です。政府が90年比25%削減を発表する前に、民主党による試算も発表されず、目立った議論もありませんでした。いきあたりばったりの感が拭えません。

 CO2削減を掲げる一方、揮発油税などの暫定税率を廃止し高速道路無料化を進める状況を、遠大な目標を掲げながらいきなり逆方向へ走り出したと評した記事がありましたが、うまい表現です。どれもマニフェストに書かれていることで、マニフェストそのものに矛盾した内容が含まれていたわけです。

 マニフェストにあるというだけでよく検討せずに強行するのは、八ッ場ダム建設中止と同様、拙速かつ強権的な手法です。民主党に票を入れた人もマニフェストすべてに賛成したわけではないのですから、時間をかけて調整するだけの柔軟さが必要でしょう。どうやら民主党は教条主義者が主流を占めているようです。

 一方、マスコミは依然として90年比25%削減と表現し、07年比では31%削減になるという但し書きも見あたりません。数値の重要性をどれだけ理解しているか、大変疑問です。日本は現在、京都議定書の目標値である90年比−6%を守れず、逆に+9%となって「違反値」は15%にも達していますが、何故かこれもあまり報道されません。

 長期にわたって日本を拘束する重要なことが、政府とマスコミの双方でたいした議論もされず、ずいぶんいい加減に決まってしまいそうです。

 裁判員制度はたいへん重要な問題であるにもかかわらず、国会で実質的な論議をされないまま、04年に成立しました。当時はあまり報道されず、大多数の国民が裁判員制度を知ったのは実施の1年余り前になってからでした。

 裁判員制度もCO2削減もなかなか難しい問題で、正確な理解には専門的な知識が必要です。マスコミにそこまで求めるのは無理だと思いますが、せめて重要な問題かそうでないかの判断ができる程度の見識が必要でしょう。重要ならばそれを世に提示すれば議論が始まります。

 重要な問題であってもマスコミがアジェンダ(議題)として国民に提示しなければ議論にもならずに決まってしまいます。そしてとても悲しいことにアジェンダの設定はマスコミの見識に委ねられています。

                                                                           09/10/05

CO2 25%削減は実質31%の削減

 温室効果ガスを2020年までに90年比で25%削減するという鳩山演説は世界の賞賛を浴びました。ところで、マスコミにしばしば登場する25%という数値ですが、温室効果ガスのCO2換算排出量は90年(12億6100万トン)に比べ、07年(13億7400万トン)は約9%増加しているので、07年を基準にすれば約31%削減しなくてはなりません。

 削減の影響をあれこれ言うとき、19年も前の排出量を基準にするのはおかしいわけで、直近の排出量を基準にすべきでしょう。現実に意味があるのは31%の削減です。削減の困難さを考えると、6ポイントの差は大きな意味があります。

 マスコミの論調に31%という表現が見られないのは、その内容、とりわけ数値に対するマスコミの無関心・無理解を示しているように思います。少なくとも削減の影響を真面目に考える意思があれば31%を前提にするのは当然であり、31%に触れずに論評するのは不誠実であり、事態を過小評価させる恐れがあります。また一部のメディアにあっては、削減幅を小さく見せようという配慮が働いたのかもしれません。

 31%の削減がはたして実現可能か、またどんな影響をもたらすかは、はっきりしたことは誰にもわからないと思います。賛成意見も反対意見もありますが、どちらにも明確な根拠があるわけではなく、主観的な判断によるところが大きいと考えてよいでしょう。朝日と毎日は予想通りの民主党方針に賛成ですが、不利益に対する十分な検討がなされたのでしょうか。

 10月5日の読売新聞電子版には、鳩山政権の公約を達成するには、京都議定書以後の13年〜20年の8年間に海外から10億トンもの排出量購入が必要となることがドイツ銀行の報告で明らかになった、とあります。そしてそれに必要な費用は今の相場で1兆7000億円だそうです。

 重要な試算が国内でなくドイツで先に発表されるのも妙な話ですが、彼らはCO2削減の経済的な影響に敏感だとも考えられます。また同報告には、日本の需要増で世界の排出量相場が押し上げられる可能性も示されているそうです。注意すべきは、日本のCO2削減が計画通り実現しないことを想定している点です。おそらくその根拠のひとつは日本の省エネがもっとも進んでおり、削減余地が少ないことにあるのでしょう。

 日本の90年比25%減は05年比では30%減であり、米国の14%減、EUの13%減に比べ、2倍以上です。 各国が大きい削減目標に二の足を踏むのは国益を損なうなど、それなりの理由がある筈です。まあ日本の友愛外交はナイーブという評価を受けそうですが。

 日本の公約が賞賛されたのは日本が損な役割を引き受けたためで、それが他国の利益につながるからでしょう。外交でタダの賞賛はないと考えるべきです。首相のパーフォーマンスの対価としては少々高いものにつくのではないでしょうか。そのために今後10年以上にわたり負担を強いられる可能性があるのは国民です。

 先進国中で最悪の政府債務を抱え、OECDに「財政の持続可能性に深刻な懸念」と指摘される国が、長期にわたって経済の足枷となるような政策をこんな簡単に決めてしまってよいのか、という気もするのですが。

以下は財政破綻に関する参考記事です。
ある財政破綻のシナリオ−−池尾和人

                                                                           09/10/01

モラトリアム法案を深読みすると

 中小企業向け融資と個人向け住宅ローンの返済を3年間猶予させるという「モラトリアム法案」が大きい話題になっています。テレビ出演の機会が多い亀井金融担当相ですが、そのご説明はなかなか難解です。

 「元本返済猶予」は国民新党のマニフェストに明記されていたそうで、引くに引けない事情があり、また鳩山首相も衆院選の応援演説で、元本返済猶予法を制定することを繰り返し公言されていたそうで、いろいろとご事情があるようです。

 しかし、返済猶予は銀行の不良債権を増やし新規融資を控えさせ、逆効果になるという反対論も、またモラルハザードを促進するという意見も十分な説得力があるように感じられます。細部はこれからということなので、いま断定的なことは言えませんが。

 まあそれはともかくとして、気になるのはこのような異論噴出の案が実現の方向に動くという政府の見識です。政権内の一部に慎重論はあるものの、首相などの主流は否定的とは思えません。政府の真意がよくわからないのですが、そこには何らかの深謀遠慮が隠されているのでは、と勘ぐりたくなります。

 銀行は破綻に瀕して政府(税金)による救済を受けました。またJALなど経営危機の大企業に対する税金による支援も実現される気配です。今回の「モラトリアム法案」は中小企業と住宅ローンの借り手に返済の猶予をしようというものです。そしてこれによる銀行の損失には政府による支援が検討されているとも聞きます。

 つまり、銀行→大企業→中小企業・個人と救済措置が広がるわけです。「苦しい人には救いの手を」というと聞こえがよいのですが、この救済は「借りたものは返す」というモラルに対する感覚を鈍磨させる効果を持ちます。

 杞憂だとは思いますが、今回の「モラトリアム法案」は将来の国債の償還猶予に対する布石ではないか、という受け止め方も可能です。いままで君達が苦しい時には助けてやったのだから、次は政府が助けてもらう番であると。

 もうひとつ気になることがあります。民主党のブレーンとされる榊原英資氏は、国民の金融資産が約1500兆円あるから国の800兆円程度(実際は約860兆円)の借金は問題ないし、また10兆円や15兆円の国債の追加発行もまったく問題ない、と発言しています。

 しかし、借金の限度額は政府の返済能力(税収額)によって決まるもので、貸し手(国民や銀行など)の資産によって決まるものではありません。限度を超えれば、利払いが加速度的に増えて借金地獄に落ちるのはあたりまえです。

 国民の金融資産が潤沢であることは国債の国内消化の条件ですが、一旦デフォルト(債務不履行)の懸念が生じれば、それは意味をなしません。デフォルト懸念は残高に対して返済能力が疑われるときに生じます。

 国民の金融資産が潤沢だから政府の借金は大丈夫という説明は1500兆円の金融資産をあてにしているようであり、いずれ踏み倒すか、高率の資産課税を視野に入れているようにも聞こえます。まさかとは思いますが、まあ長期国債(10年)の利回り動向(*1)には少し注意した方がよさそうです。

 国債の突然の暴落に続く金融恐慌を描いた幸田真音さんのベストセラー小説「日本国債」が出たのは00年でした。当時の政府債務残高は510兆円程度であり、現在の約860兆円はさらに深刻な状況です。

 『OECDは9月30日、対日審査報告書(2009年版)をまとめ、日本の政府債務残高の増加に関連し、金融市場の信認を維持するためには、より詳細でかつ信頼のおける中期的な財政再建計画が必要との認識を示した。
 OECDは、2010年に政府の粗債務残高が国内総生産(GDP)比200%、純債務残高はGDP比100%に達すると見込まれるとした上で、「財政の持続可能性に深刻な懸念を惹起している」と指摘』(9月30日 ロイター)

 「深刻な懸念」という厳しい見方もあり、デフォルトは必ずしも杞憂とばかり言えないと思います。しかしこのOECDの見解と国内のマスコミの論調とには大きい隔たりがあります。さてどちらを信ずべきでしょうか。

(*1)信用リスクの影響は長期債の価格に強く反映されます。既発債では発行体の信用が低下すると価格が低下(=利回りが上昇)します。

                                                                           09/09/21

官僚会見禁止が意味するもの

 『鳩山新政権の発足を受け首相官邸は16日、報道機関への対応について、〈1〉各省庁の見解を表明する記者会見は、閣僚など政治家が行い、官僚は行わない〈2〉次官らの定例記者会見は行わない――との内容の指針をまとめ、各省庁に通知した。
 指針は、閣僚が適切と判断した場合には、官僚による記者会見もあり得るとしているが、「国民の知る権利」を制限するものとして論議を呼びそうだ』(2009年9月17日 読売新聞より)

 つまり鳩山新内閣は官僚の会見禁止を決めたわけで、情報はすべて政府というフィルターを通して発表することを意図したものと考えられます。これはどう見ても政府による情報統制であり、不都合なものは隠蔽するという大本営発表を思わせるものです。産経社説は「民主主義社会の根幹である言論報道の自由に反すると指摘せざるを得ない」としています。

 官僚主導から政治主導への転換は本来の方向であり歓迎したいのですが、たとえそれに役立つとしても官僚の口を封じる情報統制という手段は時代の流れに逆行するものであり、民主党の体質に強い疑問を感じます。

 さらに意外であったのはこの官僚の会見禁止という新政権の方針に対するマスコミの反応です。情報統制という重大な危険性を孕む政府の方針に対して、思ったほどの反応はありませんでした。一部を除く新聞は社説で取りあげたものの、記事としての扱いは芸能人の覚せい剤所持事件よりはるかに小さいものでした。

 日経は先行した岡田克也氏の発言を受けて15日の社説に、読売と産経は18日の社説で反対意見を述べ、毎日は19日になってから同様に取りあげました。朝日は社説で取りあげることはありませんでした。NHKの反応も鈍く、ようやく25日になって「おはようコラム」で取りあげました。

 官僚の会見禁止が実現すればマスコミは有力な情報ルートを失います。当然、官僚に質問して情報を引き出す機会もなくなります。その結果、国民が知り得る情報は政府によって管理された情報が中心になります。そうなればマスコミは報道の役割を十分果たせなくなる可能性があります。

 今回、二つの問題が明らかになったと思います。官僚の会見禁止は民主党幹部が十分検討した上の決定だと推定できますから、それは民主党の体質の反映と考えられます。批判を封じ、国民の耳目を塞ぐという不透明な方向への無頓着さ、「知らしむべからず、寄らしむべし(*1)」といった強権的な手法が打ち出されたことに不安を覚えます。

 もうひとつは既に述べたようにマスコミの見識の問題です。情報統制に対する反応の鈍感さ、必要な情報を国民に知らせるという自らの役割に対する職業意識の低さであります。情報統制に対してより強いメッセージを発しなかった事実は今後に影響を与えないかと懸念します。

 余談になりますが、各紙の社説では日経と産経が手厳しい内容で、読売がそれに次ぎ、毎日も穏やかながら批判しています。しかし朝日新聞は批判なしです。民主党に対する批判のレベルは同党に対するスタンスと強い関係があるようです。

 たとえ仲良しの政党でも権力を握る与党となれば、情実を排して厳しく監視するのがマスコミの役割の筈です。こんなところで「友愛」精神を発揮していただくのは大変困ります。これでは不偏不党の看板が泣きはしませぬか。

(*1)論語の「民は之に由らしむべし之を知らしめるべからず」の略で、民に理由を理解させるのは難しいので黙って従わせよ、という意味だそうですが、為政者は信頼を得るようにせよ、という解釈もあるようです。

                                                                           09/09/17

脱官僚依存は実現可能か

 このところ、官僚は諸悪の根源のようにみなされている感があります。もっとも、官僚が主導権を握ることによってさまざまな弊害が生じていたのも多分事実だと思います。

 民主党は、政治の下に官僚を置くことによって、官僚依存からの脱却を掲げています。そのために100人の国会議員を政府に送り込むなどの対策を進めているようです。現在は70人だそうですから、約5割増しということになります。

 官僚支配が続いてきたのにはいろいろな理由があると思いますが、最大の理由は政治家が官僚を支配・指導できるだけの知識と能力を持たなかったことではないでしょうか。国交省や厚労省などで長年仕事を続け、十分な知識をもった官僚に、それまで部外者であった政治家が対等に立ち向かうことはもとより大変困難です。

 さらにここ数年、大臣の平均寿命は1年程度ですから、その間に担当する省庁の仕事を理解し、問題点を把握するのは余程の人物でない限り、無理でしょう。1年程度でころころと変わり、それが問題ともされないのは初めから大臣としての役割をさほど期待されていないのでしょう。それは官僚主導体制を認めていることになりますが。

 1年程度で首が飛ぶ役職のために懸命に勉強をする意欲が起きるかも疑問です。また中途半端な知識で政策を強行して失敗をするより、無難に任期を終える方がよいという気持ちにもなるでしょう。むろん、思うところの政策を実行するため、懸命な努力が感じられる大臣もいますが、決して多数ではありません。

 大臣が官僚の作成した答弁書を国会で読み上げる姿は官僚依存の象徴です。それは半ば慣習化されているようでニュースにもなりません。誰にでも大臣が務まるように配慮された親切な仕組みなのでしょう。

 脱官僚依存を実現するためには官僚を従わせるだけの知識と能力をもつ政治家が必要であって、人数だけで解決できる問題ではないと思います。

 今回の選挙では民主党のうら若い議員が大量に生まれましたが、投票した有権者は彼・彼女らが官僚を凌駕するだけの識見と能力をいずれ持つことを期待したのでしょうか。

 脱官僚依存の第一歩は官僚の記者会見を禁止して、官僚の口を塞ぐという情報統制から始まったようです。しかしこの強権的とも言える手法は的を射たものとは思えません。官僚の口を塞いでも、大臣が十分な識見を持たずして政策を強行すれば混乱を招くだけでしょう。

                                                                           09/09/14

反原発報道の教育効果

 原子力発電ほど、その重要性に見合った評価がされて来なかったものはないと思います。日本の電力供給の約3割占め、CO2排出がほとんどないため温暖化の防止にも有効であることが再評価されていますが、原発に対する国内世論は必ずしも好意的とは言えません。

 このたび与党となった社民党は今も「脱原発」を掲げています。同時に2020年にCO2排出を90年比で30%減を主張していますが、はたして両立できるのでしょうか。長い野党時代に染みついた「非現実性」が通用するかが試されることになりそうです。

 過去の原発に関する報道は事故や危険性に関するネガティブなものがほとんどであり、その多くが過大であったと思われます。柏崎刈羽原発の中越沖地震での報道は、変圧器から煙の出る映像が執拗に流され、ラドン温泉の約30立方cmに相当する微弱な放射能漏れが大きく報道されました。そのため風評被害が生じ、イタリアのサッカーチームが来日を中止するというおまけまでつきました。

 一方、原発の意義や有用性が報道されることはあまり記憶がありません。原発は電力の安定供給と価格の安定に大きく寄与していますが、われわれはそれに感謝することはほとんどないと言えるでしょう。

 そのような報道の結果、原発は重要な役割を担うものというより、危険で迷惑なものとみなされる傾向が強くなりました。原発の新規設置は困難になり、原子力学科を志望する学生数は大きく減少しました。僅かな放射能漏れで日本中が大騒ぎするようなところで働きたくないのは当然です。

 経産省の調査によると、1994年度に1739人と最多を数えた国立大学の原子力関係学科の学生数は、2006年度に137人と、10分の1以下にまで落ち込みました。学科再編で学科名から「原子力」が消えて統計から抜け落ちた影響もあるものの、人材供給の先細り傾向は既に「危機的な状況」とされています。

 すべての原因がマスコミにあるとまでは言えませんが、マスコミが作り出したイメージは若者に原子力の夢ではなく、悪夢の方を与えてしまったようです。志望者の減少は理系全体でも起きていて理系離れと呼ばれ、また学力の低下も明らかになりました。

 ある高校のクラスの半数が「科学技術は役に立っていない」と認識し、全員が「科学技術が環境を壊している」と考えていると、新聞に紹介されていました(拙文参照)。このような、科学技術に対するネガティブな認識はマスコミとマスコミに影響された教育の産物と考えられます。また日教組と社民党は親密であり、その影響も否定できないでしょう。

 マスコミはほぼ文系出身者で占められます。履修している筈の高校レベルの理科をほぼ理解している人はどれだけいるでしょうか。紙面を見る限り、彼らが科学技術に対して十分な認識をもっているという印象は残念ながらありません。

 原発だけでなく科学技術全体にとっても優れた人材が不足する事態は長期的には大変深刻な問題です。マスコミや教育がその遠因になっていることは十分考えられることであり、それらが徐々に日本の基盤を蝕んでいくことを憂慮します。将来、科学技術の優位性なしに日本が食っていく方法があれば別ですが。

 

 

管理人 岡田克敏
(京都市在住)

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