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殺人事件大好きの朝日新聞

フル電動自転車の公道使用を認めよ

ガソリン代月22万円の一家、税率復活で大変と朝日が紹介

合理主義のオランダと建前・形式の日本・・・自殺における違い

光市事件死刑判決、藪蛇の日経社説・・・裁判員制度の逆宣伝に

1面トップ「米産牛肉に危険部位」裏で「冷静に対応を」と朝日新聞

テレビ批判の朝日社説、身内を他人事のように言うとは・・・

毎日新聞の記者同士で論争・・・果たしてそのレベルは?

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                                                                           08/05/15

殺人事件大好きの朝日新聞・・・いくらなんでもやり過ぎでは?

 京都府立東舞鶴高校生殺害事件は5月8日(木)の夕刊に第一報が載りました。朝日新聞は11日(日)朝刊までの6回すべてにこの事件を大きく報道しました。1面に載らなかったのは1回だけで、1面トップ2回を含め、6回のうち5回までが一面と三面の両方に掲載されました。

 このような殺人事件の集中報道は近年あたりまえになっているので、この報道に違和感を感じない方もいらっしゃると思います。しかしこのような現象は近年のことです。朝日新聞東京版朝刊の凶悪・殺人に関する記事件数は85年を100とすると00年には約500、02年に約300、03年に約470となっています。この間、殺人の認知件数は横ばいですから、記事の数だけが3〜5倍に増加していると見てよいと思います(浜井浩一、芹沢一也 共著「犯罪不安社会」による)。

 この傾向はおそらく朝日だけのものではないでしょう。購読紙は朝日と日経だけなので他紙はわかりませんが、NHKにも同様の傾向を強く感じます。とりわけ最近の印象として続報の執拗さが目立ちます。新たに判明した事実、声を聞いたとか、防犯カメラに写っていたなど、些細なことを連日大きく取り上げていく手口です。そのためこの事件は日本を揺るがす大事件かのようです。そのおかげでその分、他のニュースが報道されなくなります。

 このような集中報道は読者の探偵趣味を満足させることができる反面、社会に不安をもたらします。06年の調査によると「2年前と比較して犯罪が増えたと思うか」という質問に対して「とても増えた」と「やや増えた」とした回答が90.6%にも上っています(前掲書より)。

 しかし07年度の集計では、刑法犯は5年連続で減少、殺人などの重要犯罪も4年連続で減少しています。過大な殺人事件報道のために、多くの人が犯罪が増加していると思いこみ、不安を抱いています。探偵趣味への迎合と社会不安、どちらが大事でしょうか。

 殺人事件報道の増加の背景には何があるのでしょうか。テレビでは1分毎の世帯視聴率を見て、視聴者が何を見たがっているかを判断し、それに合わせたネタを流すということをやっているそうです。それは視聴者を煽動し、それがまたテレビに反映されることで拡大への循環(正のフィードバック)を生じる危険があります。テレビと視聴者が互いに影響しあって感情的な動きを強めるメカニズムです。戦 時中の新聞と国民の間にもこのような関係があったと考えることができます。

 少し話がそれましたが、視聴率優先は視聴者への迎合につながります。新聞はテレビを手本にしているのではないでしょうか。しかし、読者の読みたい記事を優先しすぎると、報道機関としての役割を放棄することになります。子供の要求通りに食べ物を与えていたら、お菓子ばかりになって健康を害するように。

 文字を大きくした上、警察発表を取り次ぐだけの、手間のかからない殺人事件記事が連日大きなスペースを占めれば、新聞社はずいぶん楽になるかもしれません。しかし、元々少ない調査報道やメディアとして本来報道すべきものはさらに少なくなるでしょう。読者としては低品質の商品を買わされている気がします。

 メディアの果たすべき役割はたいてい迎合とは一致せず、むしろ相反することが多いと考えられます。迎合記事を大量にたれ流す裏には、新聞社の見識の変化があると思わざるを得ません。メディアとしての矜持 や役割より、とにかく発行部数・・・と。

                                                                           08/05/12

フル電動自転車の公道使用を認めよ・・・電動アシスト自転車の補助動力アップを検討するのなら

 警察庁は電動アシスト自転車の人力に対する補助動力の割合を現行の1:1から1:2に変更することを検討しています(改正案の内容は文末に記載)。実現するとより軽く走れるようになります。

 これは動力補助率の上限が50%から66.7%になることを意味します。5月4日付朝日新聞別冊には「補助力を2倍にしたタイプを認める法改正・・・」と書かれていますが、これは誤った表現です。同一負荷時なら補助力は1.334倍にしかなりません。いつもながらの低学力紙面です。

 おっと話がそれました。一方、人力を必要としないフル電動自転車(スクーターなどを含む)というものが市販されています。道路交通法では電動アシスト自転車が自転車として扱われるのに対して、こちらは原動機付自転車として扱われ、保安部品、運転免許、ヘルメットの着用、強制賠償保険などがないと公道を走ることはできません。これらが面倒なため、違法使用以外では普及していませんが、もし自転車扱いが認められれば便利なもので、かなりの普及が見込まれます。

 このフル電動自転車は多くの利点を持っています。ガソリンエンジンはエネルギーの20〜30%だけを動力として利用し、70〜80%は熱として無駄になりますが、電動自転車は90%程度の効率が期待でき、ランニングコストはおそらく1/5〜1/10となります。また排気ガスを出しません。

 ペダルを必要としなければ車体形状の自由度が高く、シート位置を低くして子供2人の3人乗りにも安全性の高い低重心設計が可能です。一回の充電で走れる距離も40km程度は可能でしょうから実用性は十分です。

 米国フロリダ州にディズニーが作った町「セレブレーション・フロリダ」があります。この実験的な都市は過度のモータリゼーション、エネルギー大量消費への反省から、広い道路をなくし、歩行者を重視した設計がされています。ここでは電動スクーター、カートがごく普通に使われ、充電設備を備えた駐車場が多くあるそうです。

 電動アシスト自転車とフル電動自転車の違いは足で漕ぐ必要があるかどうかだけです。改正案で補助動力が2/3になれば、両者を実質的に峻別する根拠はさらに希薄になります。

 また、フル電動自転車が電動アシスト自転車に比べ安全性の点で劣っているという理由は見あたりません。速度に関しては、自転車扱いの条件を最高速度を20km/hとでもすれば、漕ぐと30km/h以上も出せる電動アシスト自転車よりも安全にすることができます。

 近距離の手軽な移動手段としてフル電動自転車が普及すれば車の使用が減って、都市の交通渋滞が緩和されるだけでなく、全体のエネルギー消費も減るという効果も期待できます。

 このように利点の多いフル電動自転車ですが、0.6kw以下の電動機をつけていれば現行法では原動機付自転車に分類されます。フル電動自転車を自転車と認めることが無理ならば、法を変えて時代の要請に応えることを検討してはどうでしょうか。社会のために法があるわけで、その逆ではないのですから。

(改正案の内容)
現行の補助動力の最大値は速度が0〜15km/hで50%、15km/h以上では徐々に減少し(直線比例)、24km/hで0%になるよう決められています。改正案は0〜10km/hでは66.7%、10km/hから減少し24km/hで0%になります。低速域での補助率の拡大を認めるもので10km/h以下では人が1、補助動力が2という割合になります。

                                                                           08/05/08

ガソリン代月22万円の一家、税率復活で大変と朝日が大真面目に紹介

 5月2日の朝日新聞17面に「ガソリン税 地方の嘆息」と題する記事が大きく掲載されています。小見出しには「一家に6台 月4万円の乱高下」「燃料費、月22万円」とあります。記事は、はじめに月22万円のガソリンを消費する富山の一家族を取り上げます。

 この家族は5月からは6万円の出費増になりそうと言います。地方は車への依存度が高く、ガソリン税の影響を強く受けるということをこの記事は訴えたいようです。

 記事の左の隅に1所帯あたりのガソリン支出金額の最小都市と最多都市の小さな表があります。それによると08年2月の最小は東京都の1515円、最多は山口市の9505円となっています。従ってここに例として取り上げられた所帯は最多消費の山口市の平均の約23倍のガソリンを大量消費しているわけです。

 なぜ平均の23倍ものガソリンを使う一家を例にとるのでしょうか。記事には何故このような特殊な例を取り上げたかという理由の説明はありません。運転者が5人ということを考慮しても過多消費です。

 また詳細に読むと、この一家のガソリン消費の内容に疑問が生じます。一家は5人が通勤などで毎日往復20キロ以上走るとあります。220000円ではガソリンを145円/Lとして1517L買うことができます。平均燃費を10km/Lとすると約15000km走ることができますから、5人で割ると1人3000km/月となります。

 1日にすると100kmですから、毎日20km以上という記事の説明との差が大きすぎます。5人が毎日100km走るというのも普通ではありません。5人の使う車が燃費5km/L程度の大型高級車ならば1日50kmであり、少しは現実的ですが、それなら別の意味での特殊ケースです。どちらにせよこの一家は極めて特殊なケースです。

 平均の23倍のガソリンを消費し、その内容も極めて理解し難いこの一家を取り上げて、あたかも一般例のように紹介する記事は納得できません。

 地方のガソリン依存度の高さを説明するなら、標準的な例を示すべきです。特殊な例を取り上げるのであれば特殊な例だと明示し、その理由を説明するのが当然です。またこの一家のガソリン消費と走行距離の内容は少し注意すればその異常がわかるのに、無視しています。よほど算数のできない記者なのか、あるいは、気づかれることはまずないだろうと読者をバカにしているか、どちらかでしょう。

 この記事の問題点をまとめます。
@特殊な例を一般例のように取り上げ、誇張表現している。
Aガソリン消費量の異常さに対する説明がない。
B一家のエネルギー大量消費生活に対する言及がない。

 Bのエネルギー多消費の問題については記事の主題から外れますが、これほど極端なエネルギー多消費を紹介することは、それを是認していると理解される可能性があります。常に温暖化問題で騒いでいるのが空しく聞こえます。その意味でも取り上げるべき例ではありません。

 暫定税率の復活による地方の痛みをできる限りセンセーショナルに報道しようという意図なのでしょうが、この記事には誠実さを著しく欠いた、目的のためには手段を選ばない姿勢を感じます。サンゴ事件の伝統、いまだ死なず、というところでしょうか。

 以上はこの記事を書いた記者だけの問題ではありません。記事を通した朝日新聞の体質に関わる問題でもあります(記者のレベルを表す他の例)。現実はこのような記事を作る人たちが世論をリードし、政治に影響を与えているわけです。ま、暫定税率復活に反対した民主党や社民党だけはこの記事に深く感謝することでしょう。

                                                                           08/05/05

合理主義のオランダと建前・形式の日本・・・自殺における違い

 オランダでは4月30日がベアトリクス女王の誕生を祝う日です。現ベアトリクス女王の誕生日は1月31日ですが、国民が祝うのに1月31日では寒いので、前女王であるユリアナ女王の誕生日である4月30日を使っているそうなのです。その合理性、柔軟さに驚きます。日本の、とりわけ頭の硬い連中なら筋違い、とんでもない話と一蹴することでしょう。日本は「筋」を通して12月23日という寒くて年末の忙しい時に決まっています。

 またオランダはスイス、ベルギーと共に安楽死が合法化されている国でもあります。同国では精神的な理由だけでもいくつかの要件を満たせば、安楽死が認められているそうです。これはほとんど自殺容認です。認められない場合も社会は様々なサポートを提供することが可能です。またこれは自分の命を自分で決定する権利が尊重された結果ともいうことができます。

 既にオランダでは安楽死を選ぶ人は2〜3%にもなっています。またスイスには自殺幇助罪がないので、外国からの自殺ツアーが来るそうです。

 キリスト教では「命は神から授かったもの」ですから、自殺は重大な罪とされてきました。中世のヨーロッパでは自殺者は財産を没収され、埋葬もされなかったと言われています。その影響を強く受けたオランダなどが安楽死の合法化を実現したことは注目に値します。

 それに対して、日本では宗教上の制約がほとんどないのに安楽死の合法化は実現していません。いかなる手助けも殺人罪、自殺幇助罪に問われるリスクがあります(横浜地裁が示した安楽死を許容する4つの要件は適用範囲がごく限られています)。年間約30000人の自殺者のほとんどは孤独な決断をしなければなりません。

 精神科医の和田秀樹氏は「がん患者の8割は激痛に苦しみながら死んでいく」と述べていますが、苦痛の除去は完全ではなく、少なからぬ人々が人生の最後に地獄を味わいます。建前重視の日本社会では現状を変えることがなかなか困難です。

 たいていの人は、自分が不治の病で激しい苦痛が続くときには、早く死なせて欲しいと言います。ところが他人がそのような状態のときには、当人から依頼があっても早く死なせることはできません。

 刑罰だけでなく、命の尊さは何ものにも替え難い、命は地球より重い、といった考え方に背くからでしょう。建前と本音、原則と現実が乖離している例です。

 山上の垂訓はイエスが弟子と群集に語った教えです。有名な黄金律「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」もこのときばかりは実行がためらわれます。実行には逮捕される覚悟が必要です。

 筋を通す、理念を通す、原則を貫く、これらはふつう肯定的な、よい意味で使われます。しかし、命をかたくなに最優先する理念からは死を前にした患者の苦しみより延命を優先する考え方が生まれます。こういった傾向は頑固・頑迷の人にはとくに顕著です。

 理念や原則はたいてい不完全であり、それを適用する範囲も限られます。それを頑なに守れば現実との不適合が多くなるということは一般化してよいのではないでしょうか。原理原則も必要に応じて自在に曲げることが必要です。反対に徹底的に理念や原則に忠実な態度は原理主義と呼ばれ、妥協のできない困りものになります。

 理念や原則に忠実であることの利点はあまり頭を使わなくてもよいことです。石のような頭の人には向いているかもしれません。しかしそれでは変化への最適な対応が難しくなり、社会が停滞します。合理性、柔軟性をオランダから学びたいところです。

                                                                         08/05/01

光市事件死刑判決、藪蛇の日経社説・・・裁判員制度の逆宣伝に

 4月23日の日経社説は「国民の感覚を映した死刑判決」というテーマで、光市母子殺害事件を例に引き、死刑判決についての見解を述べています。

 その中に、失礼ながら社説の主題よりも興味深い調査結果が引用されています。それは司法研修所による「量刑に関する国民と裁判官の意識についての研究」のアンケート結果で、再引用します。

 『被告人が未成年者だったら刑を重くすべきか軽くすべきか、を尋ねたところ、一般国民の回答者はほぼ半数が「どちらでもない」を選び、裁判官の常識とは逆の「重くする」「やや重くする」が合わせて25%あった。裁判官で重くする方向の回答はゼロ。「軽くする」「やや軽くする」が計91%である』

 更生の可能性が大きい未成年者の刑を重くすべき、という意見が25%もあったのには驚きます。それ以上に驚いたのは社説がこれを肯定し、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべきだと述べている点です。以下に引用します。

 『死刑は憲法が禁止する「残虐な刑罰」にはあたらない、との判断を初めて下した48年の最高裁大法廷判決には「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見がついている。
 これを敷衍(ふえん)すれば、死刑適用を判断するには、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき、といえよう。さらに刑罰全般についても専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要がある。裁判員制度を始める理由の1つがそこにある』

 残虐性の判断は国民感情によって定まる、というのは妥当です。問題はその次の敷衍の仕方です。残虐性の判断を国民感情が定めるべきならば、量刑の判断も一般国民の感覚をくむべきである、ということですが、残虐性の判断と量刑の判断は別個の ものであり、安易に敷衍してよいのでしょうか。ここは敷衍より飛躍がふさわしい言葉です。


 裁判官は専門家の適正感でなく国民の適正感に拠るべきだということを言いたいのでしょうが、それにしては少年法の趣旨を理解しない者が25%という調査結果を示したのでは薮蛇です。この調査結果からはむしろ一般国民の判断は信頼に値しないことを強く示唆していると理解できるからです。

 更正の可能性、未熟な判断力、知識・経験の不足、どれも少年に対する刑を軽くする理由になっても、重くする理由にはなりません。25%とはいえ、少年に重い刑を主張するという一般国民の感覚を尊重すべきだという社説の主張は説得力がありません。

 裁判員制度ではこの25%の人が6人の中に含まれます。平均では6人中1.5人ですが、場合によっては6人中4人や5人もあり得ます。その場合の少年被告は成人より重い刑を受けるという不合理なことになるかもしれません。少年法の精神など理解しない人々によって。

 米国は陪審員制ですが、被告は職業裁判官による裁判をも選択可能です。陪審員制は素人判断による「偶然司法」になっているという批判が根強く、連邦地裁における陪審利用率は刑事で5.2%(97年〜98年)、民事では1.7%(同)という低率で、大多数は職業裁判官を選びます(参考)。

 新聞各社は概ね裁判員制度に肯定的ですが、よく理解した上のことなのでしょうか。裁判員制度のもつ偶然性によって判決がばらつき、被告の公平性が犠牲になることに彼らは極めて鈍感のようです。この鈍感さゆえ、社説は皮肉にも本来の意図とは逆に裁判員制度の危うさを示すことになったようです。

                                                                         08/04/28

1面トップに大きく「米産牛肉に危険部位」、裏で「冷静に対応を」と朝日新聞

 4月24日の朝日新聞朝刊は1面でBSE問題を大きく煽る一方、35面では食の安全への不安を訴える声やスーパーの販売中止などと共に、冷静な対応を求める識者の意見を小さく載せています。BSEの危険を大きく報じながら冷静を求めるのは矛盾しています。本音で冷静を求めるのなら大きく報道しなければよいのです。

 朝日、毎日、読売、日経の各社は一斉にこのBSE問題を社説で取り上げています。読売は比較的冷静で、朝日・毎日は検査体制への非難が目立ちますが、そろって社説に取り上げるのは各社ともBSEを危険で重大な問題と認識しているからでしょう。

 今回紛れ込んだ背骨付きの高級ステーキ用肉は米国では普通に売られているが、日本の基準は世界一厳しく、リスクをとことん減らそうという考えに立っているのだから、それは理由にならないというわけです(朝日)。

 その朝日には田辺功編集委員によるBSE問題についての優れた記事(2月4日)があります。以前にも紹介しましたが一部を要約します。

 『BSEのために日本人が変異型クロイツフェルトヤコブ病(vCJD)を発病する確率は無視できる程度(*1)であるにもかかわらず実施された世界に類のない全頭検査は「消費者の不安解消」を掲げる議員らの声に押されて始まった。
 国際獣疫事務局が定めるBSE対策の基準は危険部位の除去とピッシングの禁止などで、検査はふくんでいない。日米間の輸入再開議論がかみ合わなったのは日本が世界の標準とは異なる考え方をしていたからである。(ピッシングとは死ぬ時の痙攣を防ぐためロッドを頭から脊椎に通すこと。病原体が他の部位に拡散する危険性が指摘されている。日本ではまだ多く行われている)』

(*1 発病の確率については安井至氏のBSEを巡ってメディアとの対話も参考になります)

 つまりメディアによって作られた「消費者の不安」を解消するために、必要性の不明な全頭検査を多額の税金を使って実施していながら、必要性の高いピッシング禁止を放置しているというわけです。

 朝日新聞は、日本人がvCJDを発病する確率は無視できることを田辺編集委員の記事で知り得たはずですが、今回なぜか煽動的なトップ記事にしているのは理解に苦しむところです。

 合理性から離れ、完璧なほどの安全性を求める日本の消費者の特殊事情を、読売を除く3社は無批判に受入れ、当然の条件としていることが残念です。消費者が過度の不安をもつという特殊事情はメディアが作り上げたものにもかかわらずです。

 脊柱の入った問題の1箱は米ナショナルビーフ社加州工場が昨年8月に出荷し、日本国内の倉庫に保管されていた700箱の中から見つかりました。残りの699箱には問題はなかったが、廃棄処分となったそうです。同社の加州工場製の他の国内在庫はどうなるか、気になるところです。

 世界的に深刻な食糧不足の地域がある中で、不安解消という「気分」のための大量廃棄をやっていればそのうちにバチが当たるような気がします。

 新聞社様に消費者の不安を解消してやろうという親切心がおありなら、vCJD発病のリスクは無視できるレベルであるということを是非とも消費者にお伝えしていただきたいと思います。おっと、その前に、十分な見識を身につけていただく必要がありますけれど。

                                                                         08/04/24

テレビ批判の朝日社説、ご立派な主張だが身内を他人事のように言うとは・・・

 4月20日の朝日社説は「裁判番組―放送局は知識と冷静さを」と題する、大変まともな主張です。紹介したい意味もあるので、初めの部分を引用します。

 『法廷のイラストが映し出される。殺意を否認し、遺体をドラえもんが何とかしてくれると思った、などとする被告の元少年の主張が伝えられる。被害者の遺族が憤りを語る。そして、司会者らが「笑わせんじゃないよ」「世も末」と被告と弁護団を非難する。
 山口県光市で起きた母子殺害事件の裁判をこんな風に取り上げたテレビ番組を見た人は少なくあるまい。
 こうした番組作りは、公正性、正確性、公平性の原則からはずれ、視聴者の不利益になる。そう批判した意見書が、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会から出た。(中略)
 今回検証したのは、昨年5〜9月に放送された情報番組などで、NHKと民放計8局の33本。一部のニュースを除くほぼすべてが「〈奇異な被告・弁護団〉対〈遺族〉という図式を作り、その映像を見たコメンテーターらが感情的な言葉を口にする」とされた』

 同社説は、このような報道は裁判員制度の裁判員に予断を与えかねないので、報道規制を招く恐れがあるとし、現在のテレビ番組のあり方に懸念を示しています。

 BPOの指摘はもっともなものであり、それを受けたこの社説は、このようなテレビの姿勢によってやがて報道の自由が制限されるかもしれないという危機感を訴えるものです。社説の主張は大変重要であり、かつ納得できるものであります。

 しかしながら不思議なことに、この社説はなぜか他人事のように書かれています。朝日新聞はテレビ朝日の株の3分の1以上を保有する筆頭株主であり支配権を持つ立場ですから、他人事で済ませるのは不可解です。テレビ朝日だけBPOの指摘を受けなかったなのなら別ですが、そうでなければこの社説は当事者の自覚が足りないと思わざるを得ません。

 傘下のテレビ局の作った番組の問題点が指摘されたのなら、それを認めてきた親会社としての意思表示があってもよいのではないでしょうか。

 一方、翌日(4月21日)の天声人語には次の言葉が載っています。

「前橋では今月上旬、目抜き通りのチューリップ約千本が切られた」「他人を信じにくい世の中になりつつあるのか」「かくて、おおらかさの灯(ひ)は一つ、二つと消え、人を見たら泥棒と思えとばかりに、世は息苦しさを増していく」「疑心暗鬼の影さす中に、皮肉な金言だけがてらてら光っている」

 これらの言葉のように「治安が悪い方向に向かっている」と考える人は増えているようです。事実、朝日新聞の殺人記事数は増加し、85年に比べ03年には5倍近くになっています。ところがこの間、実際の殺人事件数は増えるどころか、減少しています(参照)。

 朝日新聞をはじめとするメディアが殺人事件や凶悪事件を大きく、多く報道するという努力の結果、「他人を信じにくい」「疑心暗鬼」の世の中が出来上がり、天声人語でそれを嘆いているのです。かつてこういうやり方をマッチポンプと呼びました。もし意識的でなければ、これも自らが世相を作り上げたという当事者の自覚が足りないと思わざるを得ません。

                                                                         08/04/21

毎日新聞の記者同士で論争・・・果たしてその見識レベルは?

 毎日新聞に「記者の目」というコラムがあります。むろん納得のいくものも多いのですが、今回取り上げる記事は記者の見識を示すものとして興味深いので紹介します。食品の安全に関する中村記者のコラムに対して2名の記者が反論を書いています。3番目の行友弥記者の記事(2月18日)の初めの部分を引用します。

  『中国製冷凍ギョーザによる中毒事件など食の安全をめぐる問題について、本欄で中村秀明記者は「消費者の自覚を促すべきだ」(2月14日付)と主張し、井上英介記者は「消費者に『もっと学べ』は酷だ」(4月4日付)と反論した。「節操がない」と言われそうだが、いずれの主張にも一理あると思った。この問題は「白か黒か」の二者択一ではない。自分なりの視点を付け加えてみたい』

 と続くのですが、以下を簡単に要約します。中村記者は、消費者は王様とされて増長し、買うだけの無知な存在になったとし、消費者の自覚を求めました。それに対して井上記者は、夫婦共働き、片親の家庭、将来の保証もないワーキングプアを持ち出して冷凍食品の必要性を述べ、余裕のない彼らに「もっと学べ」と求めるのは無理であり、行政に安全性を求めるべきだとしました。

 行友弥記者は、「海外を含む長い生産・流通・加工過程のすべてを監視し、偽装表示や異物混入を防ぐことができるのか。完ぺきを求めれば膨大な費用がかかり・・・」として、消費者行政の限界を指摘します。彼はいずれの主張にも一理あると思ったといいながら中村記者に近い立場です(この後、行友記者は安全性への言及を止め、食糧に関する教育へと話を持っていくのですが、これは納得できます)。

 以上の議論は食品の安全性をめぐってのことですから、安全が重要な問題であれば十分意味を持ちます。偽装表示や中国製ギョーザ事件のために食品の安全性は大きな話題になりましたが、それは本当に重要なものでしょうか。次のデータをご覧下さい。

 2007年の食中毒による死者は、フグなどの動物性自然毒が2人、キノコなど植物性自然毒が3人の計5人であり、97年〜06年の10年間で死者が10人を超えたのは02年の1回だけです。これがどれくらい危険なのか、他のリスクと比較します。

 06年の家庭内事故は転倒・転落死2260人、浴槽での溺死3316人、食物の誤えん死2492人、火災による死者1319人、など合計12152人となっています。また交通事故死は約6000人です。年間1万人を超す死者を出す家庭内事故をろくに報道せず、年間数人の死者の、それも自然毒によるものが多い食品の安全に大騒ぎする報道、おかしくないですか。

 食中毒死の大部分は自然毒によるもので、販売されている食品によるものは僅かですから、過大に考えるのは不合理です。人間の注意力は無限ではないので、どこかに注意を多く向ければ他に向ける注意は減ります。心配するならもっと高いリスクのものを心配するのが合理的です。

 食品によるリスクは全体から見てどの程度のものかきちんと認識した上で、報道の大きさを適切に決めることが、メディアと記者に求められる役割です。他のリスクの程度を知らず、つまり、木を見て森を見ず、では社会をミスリードしてしまいます。

 この3名の記者、とりわけ初めの2人の記者は食品の安全性問題をひどく過大評価しているのではないでしょうか。普通の人がどう考えようが勝手ですが、オピニオンリーダたる記者がそれでは困ります。記者の誤った見識はそのまま読者に伝わり、場合によってはパニックを起こすこともあります。また世論を煽り、それが政府を動かして、要らぬ規制を招いたりすることもあります。

 食品の安全を騒ぎ立てた他のメディアにも言えることですが、まともなリスク評価のできない記者が目立ちます。オピニオンリーダーの見識が低ければ、国民の見識はそれに引きずられ、政治もまた選挙を通じて影響を受けます。言うなれば社会が被害を受けるわけで、どうにも始末の悪いことであります。
(参考 これでも新聞記者? 記者の資質を疑う朝日記事)←朝日も負けていません。

                                                                         08/03/17

教え子を脅迫した校長逮捕事件の報道・・・ひとりの人間を葬った報道に予断はなかったか

 教え子だった女性に交際を強要する脅迫のメールを送った疑いで、公立高校の校長が逮捕された事件がありました。

 逮捕直後の3月9日のアサヒコムには「女性が在学中だった02年1月にみだらな行為をして以降、女性が嫌がっているにもかかわらず、計5年間にわたり関係を迫ったとされる」「校長室のパソコンからメールを出した」「メールの数は数十回に及んだ」などと、悪質な脅迫者像を伝えている印象があります。

 勤務中に私用メールを出すことはわざわざ非難するほどのことでもないと思うのですが、これを書いた記者はきっと聖人のような清廉潔白な人物なので許せないのでしょう。

 容疑者が脅迫の容疑を否定している状況では、警察発表は女性側の言い分が中心になっていると考えられます。報道は警察発表の中から取捨選択し、まとめられたものでしょう。警察以外の取材からは教育熱心な評判のよい先生という矛盾する事実だけが報道されています。

 容疑者側の言い分は犯意を否定したということしか載っていません。容疑者は悪質な犯罪者であるという予断に基づいて記事が書かれたということはないでしょうか。事実は起訴、裁判を経て明らかになるでしょうが、裁判で有罪が決まるまでは 犯罪者でなく、容疑をかけられただけの状態です。

 この種の事件では、有罪となって刑事罰を受ける前に、社会的な制裁を受けるケースが多く見られ、被疑者にとってはその方がより大きい痛手になりがちです。逮捕段階での報道によって被疑者は回復不能な罰を受けてしまいます。メディアがろくに調べもせず、裁判より先に容疑者を裁いてしまうのです

 この2月の沖縄の米兵による暴行事件では米兵が強姦を一貫して否定しているにもかかわらず、強姦を前提とした記事が全国を駆け巡りましたが、結局、告訴取り下げになり、真偽は不明のままということになりました。しかし、容疑者の主張どおり「体にさわっただけ」であれば彼は理不尽な扱いを受けたことになります。

 そして昭和50年5月、ある銀行の支店長が2歳になる知恵遅れの幼女を餓死させた、として逮捕され、9ヵ月後、有罪判決を受けたあと彼は自宅へ戻ることなく電車に飛び込んで自殺した事件を思い出します。後に、誤認による朝日の悪意ある報道が彼を死に追いやったとする朝日内部の調査報告が作られました(「新聞記者 疋田桂一郎とその仕事」参照)。この報告を知らない人にとって、彼は死後も鬼のような父親のままです。

 「新聞記者 疋田桂一郎とその仕事」には次のように記述があります。
「情報の味付けによって記事の扱いが大きくなれば、それが広報担当者ないしは警察幹部の点数になるのである。東京の各警察署は警察記事の切り抜きにはげみ、扱い件数の多さと扱い段数の大きさを競っている」

 警察の発表に、既に事件のストーリーが作られていることが多く、またメディアは記事を短くまとめるときにわかりやすいストーリーが必要になります。したがってストーリに矛盾する事実は省略されがちになります。わかりやすいストーリーで世間を驚かしたいという動機は警察とメディアの双方が持っているわけです。

 問いたいのは、逮捕直後、双方の言い分が食い違っている段階で、警察発表に基づく一方の言い分によりかかっただけの安易な報道を大々的にしてよいのかということです。もし間違っていれば、容疑者に取り返しのつかない被害を与える危険を冒してまで報道することに果たして意義があるのでしょうか。 せめて確証が得られるまでは抑制した報道にすべきではないでしょうか。

                                                                  07/12/27

 もうひとつの報道被害・・・医療崩壊を推進するマスコミ報道

 医療裁判に巻き込まれたことを主な理由として外科部長が病院を辞めた。彼は肝臓手術の専門家で、肝臓に転移したがんの新しい治療法に取り組んでいた。ガンが転移して他の治療法がない患者に、死亡率は20%くらいと説明し、本人とその妻に同意を得た上で新しい治療法を実施したが、不眠不休の治療の甲斐なく患者は亡くなった。同意を知らなかった患者の娘が納得せず、訴訟になった。医師は訴訟には勝ったが、多大の心労を負い、「もう、いやになった」と漏らした。
 以上は産経のコラム【断 久坂部羊】07/12/23付を要約したものです。

 コラムの著者は最後に「何とか患者と医療者の敵対する状況は避けられないものか」と結んでいます。

 小松秀樹氏は著書「医療の限界」の中で「産科医は訴訟をきっかけにしばしば参加医療から離れます。私の直接知っている医師にも、訴訟を機に産科をやめた医師が複数います」と述べています。

 ある大病院の勤務医は週80〜90時間働いていますが、例外的なケースではないそうです。プライベートの時間はほとんどありません。これに訴訟が加われば心身ともに耐えられず、仕事への意欲を失いかねません。

 一方、救急患者の受け入れ拒否の増加が問題なっています。
 「救急搬送された患者が医療機関から受け入れを拒否されるケースが、この数年間で都市部を中心に激増していることがわかった。堺市周辺や兵庫県の尼崎、西宮両市などで数倍にのぼっている。堺市高石市消防組合の場合、5回以上の拒否件数は04年に65件だったが、06年は476件と7倍以上、川崎市でも04年に5回以上の拒否が679件だったが、06年は1269件に増えた」(9/21朝日大阪夕刊から1部を抜粋)

 医師不足が背景にあると説明されますが、この2年間の急増ぶりは十分な説明になりません。大きい理由は病院が訴訟リスクの高い救急患者を敬遠しているためだと言われています。

 医療訴訟が増加した第一の原因は医療に対する不信感の増大でしょう。NPO法人「ささえあい医療人権センター・コムル」によると、年ごとの医療事故に関する関する新聞記事の件数と医療不信の相談件数が強い相関関係にあったされています。

 やや図式的になりますが、医療事故の報道が医療不信を招き、それが訴訟を増加させます。その結果、医療側が、救急患者の受け入れに消極的になる、またリスクのある積極的な治療を避ける、医師がリスクの高い診療科を避けるという「自衛策」をとったもの、と見てよいでしょう。

 医療事故の報道自体は必要です。中には訴訟されて当然というケースもあるでしょう。しかし、報道が過大であったり、医療を理解する能力もないまま医療側の責任を過度に問うような報道の結果、信頼関係で結ばれるべき医師と患者が敵対意識をもってしまうことはとても不幸なことです(弁護士は喜びますが)。ごく一部の事故が過大に報道されれば、不信は全体に広がるでしょう。

 医療はそもそも不完全なものであり、当然リスクが伴います。マスメディアは事故があるたびに責任者を指弾しますが、そのとき完全無欠があたりまえという立場をとりがちです。その方が激しく責められるし、それが被害者への同情を集め、メディア自身の正義(本当は偽善?)を印象づけるからです。コントラストが強く、サプライズのある記事が見世物としては重宝されます。

 記事にコントラストを作るための便宜的な厳しい正義は読者・視聴者を徐々に不寛容にし、不信感の強い人間を生み出します。安全であっても、消費期限を延ばす行為はこの1年でひどい悪事とみなされるようになりました。

 医療側は正当な理由なく診療を拒否できません。不特定多数の患者の中に少しでも敵対しそうな者がいれば、対策をとらざるを得ません。訴訟を避けるために事前の説明に多くの時間を割かざるを得なくなりましたが、それが医師不足をさらに激化させていると言われています。

 過大な報道は医療に大きな負担を強いるだけでなく、受け入れ拒否や、防衛的な治療しかやらないなど、患者にも大きな不利益をもたらします。既に産科と小児科の医師が減少していますが、将来は内科や外科など生命にかかわる医師の減少の可能性もあります。

 患者に比して強い立場の医療者を強く指弾する記事は、記者や読者にカタルシスをもたらす反面、大きい代償を払っているという事実にメディアはもっと気づくべきです。

 記者やマスコミ幹部が救急患者となって、受け入れ拒否に遭えば、記事の書き方が少しは改まるかもしれません。それを期待することにしますか。

 

管理人 岡田克敏
(京都市在住)

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