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                                                                           09/07/02

政党の軽量化

 東国原英夫宮崎県知事が次期衆院選への出馬要請に対し、自らを自民党総裁候補とすることを条件にした話は大きく報道されました。

 その後、東国原知事は、28日午前のテレビ討論番組で、自民党にこだわらず、民主党など他の政党であっても、「どちらでも良い」と述べ、自らの政策を評価してくれる政党で、次期衆院選への出馬意欲を示唆したと報道されました(6月28日ブルームバーグ)。

 また、昨年の熊本県の知事選挙では蒲島郁夫氏が当選しましたが、その選挙を蒲島氏自らが分析した論文が中央公論(08-06月号)に掲載されました。そこで蒲島氏は支援してくれる政党が自民の場合、民主の場合のどちらが選挙に有利かを分析した上で決めたという話が載っており、少し違和感を覚えました。

 これらの例からは、政党は選挙に利用するものという考えが感じられます。いささか青臭いと言われそうですが、政治的な志を同じくするものが集まったもの、これが本来の政党である筈です。政党に加わるとき、あるいはその支持を受けるとき、その思想・信条はたいして重要な要素ではなくなっているのでしょうか。

 一方、7月1日の朝日新聞(大阪版)の一面トップは民主党「鳩山代表 虚偽献金2177万円」で、社会面にもトップで関連記事を載せています。これに対し、民主党がガソリン税など道路特定財源の暫定税率の2010年4月からの廃止を政権公約に盛り込む方針を決めたことは7面の目立たない記事となりました。

 この日の朝日新聞は政党の政策よりも不祥事を格段に重視してきた従来の一貫した姿勢を象徴しています。このような傾向は他のメディアも似たものであろうと思われます。このようなメディアの姿勢によって、政党を政策で評価するという観点が失われてきたのではないでしょうか。

 では何をもって政党が評価されるかというと、大きいポイントは不祥事の多寡でしょう。前回の参院選における自民の敗北は閣僚の政治資金問題が相次いだことが大きい原因とされています。最近でも野党幹部の政治資金問題が政党支持率を大きく左右しています。

 政党が掲げる将来の展望や方向性、それを実現する政策に比べ、政治資金問題などの不祥事はいかにも卑小な問題です。その卑小な問題が政局の行方を決めるとすればなんとも残念なことです。また政局が不祥事によって決められる現状に批判や反省が見られないことはさらに深刻な問題です。

 政党の政権公約が大きく報道されなければ、政党もそれに大きい努力を払おうとしなくなるでしょう。どのような社会を目指すのかということはとても重要なことですが、政党は明確に提示してきたでしょうか。逆にそれがしっかり根づいていれば不祥事ごときで支持率が大きく左右されることもないと思うのですが。

 メディアの関心が低ければ、予算の裏付けが不明など、実現性が怪しいマニフェストが出されても、徹底した議論があまり行われなくなります。例えば昨年、民主党は高速道路の無料化など、多くの歳出の増加を必要とする政策を掲げましたが、その財源の裏付けは曖昧なままにされました。

 政党の掲げる政策の実現性と共に、そのよい部分だけでなく影の部分をもわかりやすく説明し、有権者が判断するための情報を提供することがメディアの本来の役割でしょう。不祥事の多寡が投票を大きく左右するという、政党政治の理想とはほど遠い現状を裏で支えているのはメディアの報道姿勢、というわけであります。

                                                                           09/06/29

科学技術は役立たず、環境を壊すという教育

毎日新聞6月27日の発信箱に興味深い話がありました。筆者は科学環境部の記者で、初めの部分を紹介します。
『高校に出前授業に出かけた研究者がため息まじりに話してくれた。
 「科学技術が役に立っていると思う人?」と生徒に聞いたら、しばらくして半分ぐらい手が挙がった。「科学技術が環境を壊していると思う人?」と聞いたら、間髪入れず全員の手が挙がったという。「若者は科学技術より環境を大切に思っているんですね」

 事実、公害は科学技術を支える企業活動が生んだ。しかし科学技術は環境問題の解決にも貢献するはずだ。それをすんなり受け入れられないのは、大人たちの言動にどこかウソっぽさを感じ取っているのではないか。

 高校生でない私でも納得いかないことは多い。省エネを叫びながら、消費電力の多い大型テレビほどエコポイントがつくのはなぜか。ためたポイントでガソリンが買えるのは変だ。化石燃料使用を減らせと言いつつ、高速道路料金を1000円にしてドライブを奨励するのはどうなの?』

 後段は、経済発展に偏る政府批判で結ばれるという、お決まりのコースであります。しかし高校生の答えは別のもっと重要な問題を投げかけているのではないでしょうか。

 高校生の半数が「科学技術は役に立っていない」と認識し、全員が「科学技術が環境を壊している」と考えている事実に驚きました。それは現在の教育とマスコミの成果であると言えるでしょう。科学技術と環境とを対比させる見識もどうかと思いますが、少なくともこの記者はその「成果」をかなり肯定的に受けとっているようです。

 我々が日常的に享受している便利さだけでなく、飢餓と隣り合わせの生活から解放してくれたのも科学技術であることに異論はないでしょう。しかし高校生達は現在の文明は先人達の努力によって築かれたものという認識が希薄で、それは「あってあたりまえのもの」と思っているかのようです。「科学技術は役に立たず、環境を壊している」という否定的な認識の背景には教育現場とマスコミの同様の認識があるのではないでしょうか。

 中でもマスコミの影響を重視すべきだと思うのは、マスコミの認識が教師に伝染し、それが高校生に及ぶという迂回ルートの存在が考えられるからです。つまり高校生は直接と、教師を中継者とする二つのルートからマスコミの影響を受けます。当然のことながら、教科書や指導要項が科学に否定的であるようなことはないと思います。

 彼らは科学技術と公害を結びつけ、科学技術の負の側面ばかりを強調してきたのではないでしょうか。例えば、我々が薬から受ける恩恵は計り知れないものがありますが、薬害を完全になくすことはできません。恩恵を伝えず、薬害ばかり強調すると誤った認識を与えてしまいます。医療や原発に関しても同様のことが言えるでしょう。

 このような認識をもつ高校生が多数を占めているならば、若者の理系離れは当然の帰結と考えられます。それは憂慮されているように、国の将来に大きく影響していく問題です。

 科学技術に対する高校生の認識の偏りに何の問題も感じないというこの記者の見識が私にはとても気になります。高校生の認識に影響を与えているのはおそらくマスコミ自身の認識だと思います。マスコミは文系出身者で占められ、科学に対する理解が十分とはとても言えません。批判力のない高校生の認識はマスコミの反映に過ぎない、とも言えるのではないでしょうか。

(この科学環境部の記者の名誉のために付け加えますが、科学技術に対するネガティブな認識はマスコミ全体に広がるもので、この記者固有の問題ではないと思います。もっともそれで余計に困るのですが)

                                                                           09/06/25

伝統の重さ、軽さ

 国民には職業選択の自由が憲法で保証されています。しかし、天皇と皇太子は別扱いのようで、事実上、職をやめる自由もないようです。高齢の両陛下が終生仕事から解放されないことはお気の毒に感じます。それでは引退できるような仕組みに変えればいいではないかと、素人には思われますが、そう簡単にいかないのは伝統という重さがあるためでしょう。

 一般に伝統は守るべきもの、守る価値のあるものだと、肯定的に受けとられることが多いと思います。価値があるからこそ長く続いてきたという考えですが、長く続いてきたから価値があるとは限りません。逆は必ずしも真ならず、です。

 時代や社会の変化によって、数多くの伝統の中にはその意味を失っているものが少なくありません。価値を失った伝統を伝統だからという理由だけで頑なに守るのは不合理なことです。例えば、仏教は8万もの寺を擁しますが、その多くは宗教としての役割を果たしているとは言えません。伝統が大事にされるおかげで建物や組織としての寺は存在していますが、宗教としての意味は希薄です。一部は葬式業や観光業に変身しているのは周知の通りです。もっとも8万もの寺が、かつての創価学会のように強力な活動をすると余計に困りますが。

 現在、日本では西暦と元号という二つの年号が使われていますが、換算の手間、間違いの発生、年号が急に変わった時の混乱など、このために発生する損失は無視できるものではありません。現在、中国の文化的影響の下で伝統的な元号を用いているのは日本だけだそうですが、形骸化した伝統が有害となってもなかなか消えない例でしょう。

 歴史的な長い伝統に支えられて存在し続けてきたものは、簡単にはなくなりませんが、そこには一種の慣性力が働いているかのようです。惰性といってもよいでしょう。それは、「あってあたりまえ」というものには批判の目が向きにくいためではないかと思います。

 一方、社会や組織には変化に対する抵抗性といったものが存在します。役所でよく見られる前例踏襲主義は変化への抵抗性の存在を示す好例です。前例踏襲は目先のリスクを避けるのに有効で、また頭を使わなくてもよい方法であるため、とくに役所では人気が高いのですが、反面、変化への適応を放棄するものです。

 無批判に伝統を守ることと、変化への抵抗性は役所を役所らしくするだけでなく、広く社会の硬直性にかかわっているように思います。社会のシステムに数多く存在する形骸化したもの、存在の価値を失ったものに「スポットライトをあてる」仕事は重要であり、マスコミに期待されるもののひとつでしょう。

                                                                           09/06/22

社会ダーウィニズム

 社会ダーウィニズムとはダーウィンの進化論から導かれた適者生存という概念を社会にも適用することで、白人は優秀という人種差別論や優生学の論拠とされきた歴史があります。経済学者の佐和隆光氏は6月10日の日経夕刊に同名の題の コラムを書いています。以下、要約します。

『70年代前半、米国経済学会を震撼させたラディカル経済学派の泰斗サムエル・ボールズは「高いIQは経済的成功をもたらし」「IQは遺伝的に決まる」とする社会ダーウィニズムの仮説を統計的に反証してみせた。「貧乏な家庭の子弟は十分な教育を受けられないから貧乏に、裕福な家庭の子弟は十分な教育を受けられるから高収入を得やすい。だから、貧困撲滅を最優先すべきだ」とボールズは言う。
 日本を人材立国にしようとするのなら、親の貧富と子供の受ける教育との因果の連鎖を断ち切るべきだ。大学院まで授業料をタダにする、出身地域、国公私立の高校別に入学枠を設けるのもいい。「学歴と所得の相関」の背後にある、親の貧富の格差を看過する論者には過去の遺物と化した社会ダーウィニズムの片棒を担いでいる愚かさを自覚してほしい』

 所得の世代間移転を憂慮した話ですが、この背景にあるのは、有名大学に進学し高所得を得るのは能力よりも教育によるという考え方です。親が豊かだと十分な教育を受けられ、将来の高収入につながるということはうな ずけます。しかしことはそれほど単純ではないと思います。

 橘木俊詔・松浦司 共著「学歴社会の経済学」はこの問題を取上げています。教育を通じた格差の世代間移転というテーマで、@親の豊かさが子供の教育・学歴を通じて子供の収入に影響する場合、A子供の能力が直接収入に影響する場合、に分けて調べています。

 親の豊かさは子供が15歳のときの主観的豊かさを5段階にわけています。難しいのは子供の能力を測ることですが、ここでは小学校5〜6年頃の算数の好き嫌いを5段階で用いています。

 結果、豊かな環境で育った子供ほど将来高収入を得る傾向と共に、算数が好きな子供ほど将来の高収入を得る傾向も見られたとされています。サンプル数約4000のアンケートによる調査であり、能力を算数の好感度とするなど異論もあるでしょうが、結果は常識と符合します。

 これに対して佐和氏が引用するボールズの反証は遺伝と経済的成功の関係を否定するものであり、親の豊かさ(よい教育環境)と子供の能力の双方が影響するという上記の調査結果と一致しません。ボールズの説は遺伝の影響を否定しているようであり、ちょっと納得しかねます。またボールズという一般にはあまり知られていない人物の権威を強調し、その30数年前の説を無条件に信じることを読者に求めるという方法にも抵抗を感じます。

 人は遺伝的な影響を強く受けるのか、あるいは環境の影響を強く受けるのかという問題は古くから存在します。遺伝の影響が重視された時代もあり、逆に環境が重視された時代もありました。しかしどちらか一方に偏るのは誤りで、「人間の性質には、遺伝という内的要因が大きく作用しているが、環境という外的要因がその具体化の仕方を左右する」という日高敏隆氏の見解が妥当ではないか、思います。

 話を戻しますが、佐和氏の主張は遺伝の影響に否定的で、環境への偏りが感じられます。教育問題に遺伝の要素(能力差)を重視すると教育の可能性が小さくなるので、排除したい気持ちはわかりますが、実態を正確に認識しないと、対策を誤る危険があります。

 「親の貧富と子供の受ける教育との因果の連鎖を断ち切る」ことには賛同しますが、授業料をタダにするなどでそれが実現できたとしても、階層の世代間移転の原因となるひとつの要素を解消するだけです。子供の能力、親の資産、社会的地位、人脈などが子供の所得に影響するのであって、格差の世代間移転は決して単純な問題ではないと思われます。

                                                                           09/06/18

処刑の方法

 「中国の国営英字紙チャイナ・デーリーは16日、北京市が年内に死刑執行方法を銃殺から薬物注射に切り替えると伝えた」
 「最高人民法院(最高裁)調査局のHu Yunteng局長は、チャイナ・デーリーに対し、薬物注射が銃殺よりも清潔で安全、便利だと語った。死刑執行方法としての薬物注射は、1997年に中国で合法化された」(6月16日 AFP)

 また産経WEB版には、司法専門家は「(銃殺から注射への移行は)社会の進歩だ」と指摘した、とあります。中国の銃殺は映画などでよく出てくるような前からの一斉射撃ではなく、後ろから頭部を撃つものだそうです。

 薬殺の長所が「清潔で安全、便利」という説明には少し驚きますが、まあお国柄の違いなのでしょう。米国では絞首刑が残虐であるとして廃止され、死刑制度のあるほとんどの州では薬殺または薬殺が選択可能となっているそうです。まず鎮静剤で意識を失わせ、次に筋弛緩剤で体をマヒさせ、最後に心臓を停止させる、という3段階の方法が正常に行われるならば苦痛なく死に至るとされています。

 日本では憲法第三十六条に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」とありますから、絞首刑は残虐な刑罰ではないという解釈です。かつてギロチンは苦痛をできるだけ与えない人道的な装置とされていましたが、現在それを残虐ではないと考える人は少ないでしょう。何が残虐かは相対的なものです。たしかに絞首刑は、古来の火あぶりや釜ゆで、イランの石打刑、サウジの斬首刑よりは残虐でないといえるでしょう。しかし薬殺が米国だけでなく、死刑大国の中国まで採用され主流となると、はたして絞首刑は残虐でないと言えるでしょうか。

 日本では死刑を廃止するか存置するかの議論が盛んですが、死刑の方法についてはあまり議論されることはありません。抽象的な存廃論議だけでなく、死刑に関する現実的・具体的な議論がなされてもよいと思います。薬殺の導入、死刑方法を選択可能にすること、などが議論されてもよいのではないでしょうか。

 残虐な犯罪が大々的に報道されるたびに死刑存置論の強まる傾向が見られますが、死刑を廃止する国が多数を占めるに至った現在、この傾向は特異なものです。わが国のメディアの被害者よりの報道姿勢と死刑存置論が無関係とはいえないと、私には思えます。

 グーグルの検索では、上記の記事を掲載しているのはAFPと産経だけで、他に取上げているメディアはなく、メディアの関心の低さを表しているようです。メディア は存廃の抽象論だけでなく、より現実的な議論にも関心を持ってもよいのではないでしょうか。並みの殺人事件や事故よりも重要であり、少なくとも無視すべきものではないように思います。

                                                                           09/06/15

宗教は妄想である

 全国の宗教法人数は18万2,935、内訳は神道系が46.8%、仏教系が42.5%、キリスト教系が2.2%、諸教が8.5%、また信者数の合計は約2億人、内訳は神道系49.6%、仏教系44.8%、キリスト教系0.8%、諸教4.8%となっています(文化庁 第141回宗教法人審議会より)。

 宗教法人数18万2,935も驚きますが、無宗教国といわれる国の信者数が2億人とはあきれるばかりの数字です。読売新聞の調査によると宗教を信じる人は79年の34%から大きく減って05年には23%(Wikipedia)となっていますから約3000万人です。本来の意味での信仰は2つも3つもかけ持ちするものではないですから、この2億人という数は本来の信者という意味からかけ離れたものと思われます。

 宗教と言っても教義すら持たないといわれる神道系、葬式仏教と揶揄される仏教系など、形骸化が十分に進んだ宗教と、信者を洗脳し人格の改造まで行う新興宗教まで様々です。宗教と言うひとつの言葉で括るのは不適切であり、死火山と火を噴いている活火山を同じ火山として扱うようなものです。

 前者は宗教本来の機能の多くを失い、後者は信者から巧妙で強引な方法で資金を集めたり、信者をその家族から拉致同然に引き離したりと、しばしば問題を起こしています。「宗教団体、霊感商法による被害リンク集まとめ」は約50の宗教団体についての被害者サイドの数多くのリンクが載せられています。

 両者の中間には本来の意味の、まともな宗教が存在するのでしょうが、宗教法人数18万2,935と信者数約2億人からはかけ離れた数であることが推定できます。

 洗脳して財産を寄付させたり、身柄を拘束したりすることは通常の社会では許されることではありませんが、宗教となると許されます。オウム真理教は信者を強引に取り込み、信者の家族からの苦情に対して、警察はなかなか手が出せなかったと言われています。法の及ばない領域、治外法権のような領域が存在するわけです。

 信教の自由は憲法で保証され、寄付は無税など宗教は税制面などでも優遇されています。それは数十年前の社会の要請を反映したものであったのでしょう。過去の社会では宗教が大きい役割を占める時代がありましたが、現在、その役割はずいぶん小さくなっていると考えられます。

 宗教問題に手を出しにくいのはマスコミも警察と同じのようです。5月31日付朝日新聞には宗教に対する今までの報道姿勢について次のような記述があります。
『「宗教を全面に出さない。特定の宗教団体は取り上げない」のが編集方針。
信教の自由があり、教理を批判するつもりはなかった。あくまで社会との接点で起きている問題を書いた』・・・(まあ本当は不買運動や訴訟が恐いのでしょうけど)

 宗教は警察やマスコミが簡単に手出しできない聖域です。オウム事件は別格としても、半ば強制的な「集金」、霊感商法、信者に対する性的な虐待など、事件として表面化するのは氷山の一角であると思われます。2004年に表面化した米国カトリック教会の性的虐待事件では過去52年間で神父4450人に疑いがあり、件数は約11000件に上ると報じられました。疑いは実に神父の4%に及んだそうです。この種の事件の発覚がいかに困難かを示しています。

 宗教は妄想の産物ですが、一部の人とっては必要なものでしょう。ただ、形骸化したものから過激なものまでを等しく宗教として優遇するのは問題が多いと思います。信教の自由は認められなければなりませんが、宗教法人に対する優遇措置はもはや時代に合わなくなっているのではないでしょうか。

(リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」という本がひところ話題になりました。表題はこれを拝借したものですが、日本では神を使用しない宗教もあるので「宗教は妄想である」としました)

                                                                           09/06/11

足利事件の一側面(2)

 新たなDNA鑑定の結果によって菅家氏が釈放されたことについて、佐藤勉国家公安委員長は「当時としては精いっぱいの捜査をした結果」と述べています。捜査に誤りがあったのではない、という弁解とも受けとれます。

 司法の無謬性ということが指摘されますが、佐藤勉国家公安委員長の発言はそれに沿ったものでしょう。失敗を認めるまでに十数年もの時間を費やしたわけですが、それには誤りを認めようとしない司法の無謬性ということが関係しているように思います。裁判という仕組みは誤りを避けることができない宿命を背負っています。一定の確率で間違いを犯す司法という仕組みにそもそも無謬性が期待できるでしょうか。

 発電プラントや航空機など、多くの装置ではフェイルセーフという考えで設計されています。失敗が起きたときは自動的に安全な処理を行う仕組みが組み込まれているわけで、失敗が起こることを前提にした設計があたりまえです。

 たしかに裁判は制度の上では三審制に再審制度を設け、失敗を前提としているように見えます。しかし再審が稀にしか認められなかったことが示すように、実際は硬直的であり、無謬性の呪縛が働いているように感じます。再審の敷居が極めて高いのは確定判決を誤判とすることをなんとか避けようとするためではないかと勘ぐりたくなります。無謬性は失敗が許されないことであり、失敗と失敗の表面化を避けることが重要な目的になりやすく、本来の目的を歪める可能性があります。

 また無罪判決は検察にとっては不名誉なことですが、ごく僅かしかありません。有罪率99.8%は検察にも無謬性の圧力が働いていることを示唆します。失敗が許されないということは、有罪がほぼ確実な者だけを起訴するという傾向と共に、一旦起訴すれば無理やりにでも有罪にしようという力が働き、冤罪の一因ともなりかねません。

 最高検の伊藤鉄男次長検事は記者会見で「真犯人と思われない人を起訴し、服役させたことについて大変申し訳ないと思っている」と謝罪しました。しかしNHKはじめマスメディアの扱いはごく小さく、食品偽装事件などで会社の幹部らが首をそろえて頭を下げる光景の華々しい報道と比べると雲泥の差であり、たいへん寂しいものでした。

 今まで最高検幹部が謝罪した例はないらしく、冤罪事件に対する検察の姿勢の変化を感じさせる重要ニュースだと思うのですが、多くのメディアは食品偽装などの方が何十倍も重要と思っているようです。NHKの場合はイチロー選手の連続ヒットの方が重要と考えているかのようです。

 参考までに菅家氏の約17年間の拘束に対する補償額は1日あたり1000円から12500円だそうです(最低が1000円とはバカにした金額です)。たとえ最高額をもらったとしても家族までも破壊された代償としては十分といえない額だと思います。因みに冤罪で死刑を執行された場合は最高で3000万円(本人死亡による財産上の損失額が証明された場合はさらに3000万円の加算)となります。これらの金額には国の謝罪の気持ちが含まれているようには見えません。

                                                                           09/06/08

足利事件の一側面(1)

 この事件では、冤罪は本人だけでなく、家族ともども地獄に突き落とすということを改めて思い知されました。さて、誤判に至った理由については自白偏重など、様々のことが言われていますが、誤判の直接の理由は警察庁科学警察研究所(科警研)のDNA鑑定を警察や検察、裁判所が疑わなかったこと(疑っていながら知らん顔していた可能性もゼロとは言えませんが)であり、それについて考えたいと思います。

 弁護側が行った押田鑑定とよばれる鑑定では科警研と異なる結果が出て、科警研の信頼性を疑わせるものでしたが、97年以後、最高裁や宇都宮地裁は弁護側が提出したその鑑定を取り上げなかったということです。疑う機会が何度もありながら裁判所や警察や検察などの関係者が、なぜ科警研のDNA鑑定を疑わなかったのかということは非常に重大な問題です。

 当時の科警研によるDNA鑑定の精度は、別人で一致する可能性が1000人に1.2人(注1)とされています(その後、データが集まるにつれこの公称精度は低くなり最後には1000人に6.23人となったそうてす)。これは理論値であり、鑑定操作が理想的に行われた場合であることに注意する必要があります。信頼性は理論値とサンプリングや操作の技術的な安定性に左右されるので、両方を評価する必要があります。

 検察や裁判所などは生化学の詳細な知識を持っているわけでなく、専門家の意見を取り入れていたものと推定できます。ただ専門家には信頼できる人とそうでない人がいることも事実ですから、最低限、どの専門家が信頼できるかの判断能力が必要であることは当然です。

 重要な鍵を握る鑑定なので、調べようとしなかったとは思えませんから、専門家の選択を誤ったという可能性が残ります。どの専門家が信頼できるかを判断するためにはある程度の自然科学の基礎知識が必要ですから、関係者にはその判断能力がなかったと考えてもよいでしょう。

 東京女子医大事件の高裁判決では検察側は「物理学の初歩も弁えない」と批判されました。もし検察側に物理学の初歩のわかる人がいたならば、医師は一審の有罪判決を受けることも、いや起訴すらされていなかったかもしれません(参考 検察の理系音痴を暴露した高裁判決)。

 二つの事件に共通することは警察や検察、裁判官(東京女子医大事件の東京高裁の裁判官などを除く)の自然科学に対する理解能力の不足です。一部の事件にはこのような理解能力が必要とされるのは明らかで、科学技術が社会の重要な要素になった現在、それを十分理解しない人たちばかりで裁くという現状が時代に合わなくなっているのではないでしょうか。

 一方、足利事件を報じてきたマスコミもDNA鑑定については、検察や裁判所などと同様、正確な認識を持っていたとは思えません。持っていればもっと早い段階で騒ぐこともできたでしょう。

(注1)2009年6月5日の毎日新聞web版には「1000人に1・2人」と記載していますが、これは1〜2人と理解される恐れがあり、実際にその例が見られます。重要な点ですからもう少し注意を払って欲しいところです。

                                                                           09/06/04

銃刀法違反容疑でびわ湖放送を捜索

『番組で手に取っただけで銃刀法違反容疑、びわ湖放送を捜索』
 「タレントの原田伸郎さん(57)が、びわ湖放送のテレビ番組で許可なく猟銃を手に取ったとして、滋賀県警が、同放送本社を銃刀法違反容疑で捜索していたことがわかった。
 (中略)捜査関係者によると、番組は、1月17日に同県余呉町から生放送された「ときめき滋賀’S」。このなかで、原田さんは地元の猟友会員(49)から猟銃を渡され、手にしたという。原田さんは県公安委員会から猟銃所持の許可は受けていなかった。
 びわ湖放送の伊藤彰彦・編成部長は「猟銃を手に取っただけで、所持には当たらないと認識している。捜査には協力していきたい」と話している(2009年6月1日22時48分 読売新聞)。

 6秒間、猟銃を手にしただけであり、警察の行動はちょっと常識では考えられません。銃刀法の所持の解釈が問題になっているようですが、私は捜査の妥当性の方が気になります。銃刀法の趣旨が銃刀を使った犯罪の防止ということであれば、このケースは犯罪に結びつく可能性があるとは考えられず、捜査は趣旨から外れたものと言わざるを得ません。

 法を杓子定規に運用したのであればちょっと子供じみています。また捜索を許した裁判所の判断にも疑問を感じます。家宅捜索してどんな証拠を探し出そうというのでしょうか。また4ヶ月も経ってからの捜索にも釈然としないものが感じられ、裏側に別の事情があるのではないかと勘ぐりたくなります。警察とマスメディアの馴れ合いがよく言われますが、仲違いでもあったのではないかと。

 今回のようなケースは、仮に警察が放置していても、誰も困らず、銃犯罪が増える懸念もないわけで、捜査の必要性があるとは思えません。捜査するか否かは警察の裁量に任される領域で、言い換えれば警察の恣意性が働きやすい領域です。それだけに常識に沿った判断が求められます。市民の常識から外れた判断しかできなければ、裁判員制度にならって、警察にも警察員という市民を入れる必要があるでしょう。

 警察は税金で運営される有限のリソースですから、手掛ける事件には優先順位がある筈です。法の趣旨から外れた形式的な運用までするのであれば、優先順位を間違えているのではないかという疑問が生じます。もし優先順位が正しければ、他に仕事がないのかと思われるでしょう。いずれにせよ、メディアはなぜ捜査したのか、理由を警察に問うべきでしょう。

 気になるのは、直接の関係者であるマスメディアの反応が少し及び腰に感じられることです。恣意的な捜査であればもちろんのこと、非常識なものだとしても、もっと大きく取り上げて「再発防止」に努めるべきだと思いますが、いつも情報をもらっている弱みがあるのでしょうか。

                                                                           09/06/01

 権威に弱い朝日新聞

 朝日新聞は裁判員制度が実施される直前の5月20日、特集を組み6名の意見を載せています。トップは裁判員制度を支持する立場から、しばしば朝日新聞やテレ朝に登場される渡辺修甲南法科大学院教授です(大阪版夕刊)。

『なぜこうした(裁判員という)重責を国民が担わなければならないのか。大小の企業による違法行為が次々と明るみに出ている現在、国民のモラルは危機に瀕している。国民誰もが、社会正義の実現に参加する責任を負うことが、自由と民主主義の社会を守り、再生させることにつながる』

 短い文ですが、ここから興味あることがいくつか浮かんできます。まず「国民のモラルは危機に瀕している」から裁判員制度が必要であるという意味が私には理解できません。裁判員制度がはたしてモラルを向上させるのでしょうか。関係があったとしても、風が吹けば桶屋が儲かる、程度のことではないでしょうか。

 そして「国民のモラルは危機に瀕している」という認識には驚かされます。「大小の企業による違法行為」という前文があるので、食品企業の消費期限や産地の偽装などを意識しての発言だと思うのですが、教授という指導的立場にある方の認識とは思えません。

 この数年、マスコミはよってたかって多くの食品企業をバッシングしました。それを見て「モラル危機に瀕している」と捉えるのは、単純かつナイーブすぎる見方です。食の不安が広がっていると報道されていますが、統計上、中毒事故などが増加している事実はありません。モラルが低下したというより、業界の古い慣習にマスコミが厳格なモラルを振りかざして殺到したというのが実情に近いでしょう。

 また犯罪件数も低下がつづいており、モラルはむしろ向上しているのではないでしょうか。モラルの危機が裁判員制度導入の前提というのなら、その根拠を示すことが最低限必要です。

 「国民のモラルは危機に瀕している」という認識はマスコミ報道から得たものだと思いますが、それを検証もせず、裁判員制度導入の主な理由にするような主張はとても理解できません。また「国民誰もが、社会正義の実現に参加する責任を負うこと」とありますが、裁判員として参加するのは年間6000人に1人で、一生で1回経験するのは120人に1人です。決して「誰も」ではありません。120人に1人では「自由と民主主義の社会を守り、再生させる」のはちょっと無理でしょう。

 朝日新聞の担当者はこの文章の意味を理解したのでしょうか。例えば「国民のモラルは危機に瀕している」というユニークな認識に説明を求めなかったのでしょうか。権威者の言うことだからと、無条件に載せられては読者は迷惑です。不特定多数に読まれる新聞は多くの読者が理解できるものである必要があります。

 裁判員制度賛成論ならより一般的で、説得力のあるものが多くあると思います。同じ載せるなら、このような特殊な賛成論ではなく、一般的で説得力のあるものにすべきでしょう。渡辺氏は現実軽視の抽象論という点で裁判員制度を推進した人々と共通するように思いますが、人選にちょっと問題があるようです。

                                                                           09/05/28

 厳罰化とマスコミ報道 

「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」。かつてよく耳にした言葉です。行うのは簡単ではありませんが、憎悪と報復の連鎖によって二つの民族が果てしない悲惨な状況に陥る例などを見るとこの言葉が思い出されます。このように極端でなくとも、赦すという寛容さは民族間だけでなく諸々の集団の間、あるいは個人間でも重要な意味を持ちます。

 「赦すこと」と「報復すること」が同時に満たされることは通常ありませんから、トレードオフの関係と言ってよいでしょう。そして両者には一定のバランスが保たれていたと考えられます。ところが近年の報復を重視する風潮はこのバランスを変化させ、赦すという寛容さが失われていく心配があります。

 マスコミは常に被害者の側に立って報道します。そして裁判の前には「極刑を望みます」といった、被害者の報復感情を露わにした発言を好んで取り上げます。これは慣例化しているようであり、マスコミが報復感情を後押しているという印象があります。

 ある事件の一連の報道は勧善懲悪劇に似ています。加害者という悪人が厳罰を受けることによって被害者は報復を果たすという筋書きは読者・視聴者に一種のカタルシスをもたらします。劇を面白くするためには加害者の悪事は大きく、被害は深刻に見せることが効果的です。ここにニュースキャスターなどが正義の代弁者として登場すると、面白い上に読者・視聴者の支持を得られるというわけです。感情移入した読者・視聴者の報復感情を満たすことは劇の重要な要素なのです。

 福岡の飲酒運転事故の二審判決は危険運転致死傷罪と道路交通法違反とを併合して懲役20年となり、一審の業務上過失致死傷罪による懲役7年6月に比べて格段の重罰です。一審判決直後の各紙(日経を除く)の報道と論調は悲惨さを強調し、厳罰を求めるものが主であり、二審判決はそれに沿った形となりました(死亡事故へと拡大した一因は道路にガードレールのような車両用の転落防止策がなかったことですが、考慮されませんでした。確かにこの方がわかりやすく、マスコミの論調とも整合します)。

 最近の刑事裁判では重罰化の傾向が指摘されていますが、これにはマスコミの報道が影響しているように思えてなりません。検察は「被害者とともに泣く検察」として被害者のためにやってきたのだが、サリン事件における検察への批判を境に主権者である国民の理解と支持を得る方向に大転換したという意味のことを、但木前検事総長は述べています(4/26NHK日曜討論)。

 「国民の理解と支持を得るため」とは聞こえのよい言葉ですが、具体的にはどうするのでしょうか。検察の行動や裁判の結果にいちいちアンケート調査をするわけではなく、現実にはマスコミが世論のように見せているもの、つまりはマスコミに従うことに過ぎないのではないでしょうか。

 東京女子医大で心臓手術を受けた女児が死亡した事故で、業務上過失致死罪に問われた医師は警察で次のように言われたと記しています(参考記事)。

 『これだけ社会問題になると、誰かが悪者にならなきゃいけない。賠償金も遺族の言い値で払われているのに、なぜこんな難しい事件を俺たちが担当しなきゃいけないんだ』

 この発言は、マスコミ報道が警察に(恐らく検察にも)対して、いかに大きい影響を与えるかを示しています。「国民の理解と支持を得るため」とはこのようなことを指すのでしょうか。被害者よりの誇張された報道が警察・検察を動かし、裁判にも影響を与えるというわけです。マスコミの下部機関のようになる恐れはないでしょうか。

 刑罰の基準は社会により様々であり、絶対的な基準などありません。それぞれの社会が任意に決めるべきことです。しかし視聴率優先といったマスコミの営業政策から生まれた興味本位の報道によって、報復が正当化されて厳罰化が起き、その結果、社会から寛容さが失われるのならば、ちょっと気になる問題です。

                                                                           09/05/18

NHKクロ現の不可解な論理

 「なぜ私たちが法廷に〜裁判員制度の意義を問う〜」
 これは5月14日のNHKクローズアップ現代のテーマです。クロ現は優れた番組が多いのですが、残念ながら今回の番組は内容に問題があるように思いました。

 番組はまず裁判員として参加したくない人が58%もある現状を示し(制度が必要ないと思う人も6割)、裁判員候補に選ばれた人の不安や悩みを具体的に取り上げます。「求められる市民感覚とは何なのか」「残酷な証拠に耐えられるか」「恨まれる恐れはないか」「カレー事件のように状況証拠だけで死刑の判断を迫られる難しさ」などか紹介されます。

 次に、これらの不安や疑問に答える形で、米国の陪審員制度の事情が紹介されます。ここでは陪審員は地域社会への奉仕であるということが強調されます。ある重要事件の4ヶ月間にわたる裁判で100人を超える証言、900件の証拠をノートに記していた陪審員のリーダーは地域社会への貢献を誇らしげに語ります。

 陪審員制度の意義を地域社会への貢献とする米国の事情が日本に適用できるかも疑問ですが、番組は米国の重要な事実を伝えていません。以下は第30回司法制度改革審議会配布資料よりの引用で、興味深い事実が書かれています(米国では被告は陪審員制の裁判と職業裁判官による裁判を選択する権利が与えられています)。

「アメリカ,イギリスにおいても,陪審裁判が行われている事件は極めて限定されている。アメリカにおいては,民事について,連邦地方裁判所において陪審裁判により終局した事件の全終局事件に占める割合は1.7%,刑事について,陪審裁判により終局した事件の全終局事件に占める割合は5.2%である。また,イギリスにおいては,民事について陪審裁判に付されている事件は,高等法院において1%未満,県裁判所において0.1%未満であり,刑事について陪審裁判により処理されている事件は全刑事事件の1%にも満たない」
「イギリス・フランス・ドイツの各国はいずれも,絶対主義の下での権力者の統治に対する対抗手段として,また,アメリカはイギリスの植民地支配に対する対抗手段として,それぞれ陪審制度を導入したものである」

 つまり米国の陪審員制度は広く支持されているとはとても言い難く、刑事事件で陪審員裁判が行われるのは20件中の1件に過ぎません。意図的かどうかはわかりませんが、この重要な事実を伝えずに、見習うべき手本のように意義を語るのは適切ではないでしょう。また英国や米国の陪審員制度導入の理由は日本とは根本的に異なっているとされており、意義が同じではないことを示唆しています。

 ゲスト解説者は裁判員制度を題材にしたミステリーを書いたという夏樹静子氏でしたが、この人選にも疑問を感じます。裁判員の意義は裁判に市民感覚を持ち込むことだと主張する一方で、裁判を難しく考える必要はなく検察側の立証ができているかを見きわめるだけでいいと発言されています。立証の見きわめは論理の問題であり、そこに市民感覚を持ち込むというのは凡人にはちょっと難しい話です。

 また一生に1回あるかないかのことだが、裁判員に参加することによって社会をよくしようとする気持ちが出てきて社会が変わってくることに意義があるとしています。この意義があるとすれば裁判員になる回数は大きい意味を持ちますが、回数は一生に1回どころではありません。年間6000人に1人ですから一生に一回だとすると6000年も生きなければなりません。一生に1回あるかないかを50%の確率と考えれば3000年となります。裁判員になれる期間は50年ほどですから夏樹氏の話には60倍ほどの誤差があります。つまりその意義は60分の1程度になるわけです。

 番組を概観すると、前半の裁判員になることの不安に対して、後半は不安に答えるというより、適切とは思えない米国の例をとって裁判員は社会の義務であり、 やらなければならないことだと強調する構成になっています。「裁判員制度の意義を問う」という表題から予想される意義に対する問いかけはほとんどなく、逆に制度を肯定する内容となっています。羊頭狗肉と言ってよいでしょう。

 今回はたまたま情報の欠落に気づいたわけですが、一般に情報が伏せられた場合、視聴者・読者がそれに気づくことは大変難しく、情報の受け手側の立場の弱さというものを改めて感じた次第です。
(参考記事 算数のできない人が作った裁判員制度)

                                                                           09/05/14

日本のマスコミは世界一、新型インフルで「実力」判明

「カナダではマスク姿なし・報道控えめ」 (見出し)
「機内検疫にどよめき」           ( 〃 )
「研修から帰国の高校生」         ( 〃 )
(以下本文より)
「カナダでは新型のインフルエンザはあまり話題になっておらず、生徒らは機内検疫のものものしさに驚いた」、「現地の新聞ではほとんど報じておらず、街中にもマスクをしている人はいなかった」

 これは研修旅行で感染者が出た高校生達の様子を報じた朝日新聞の記事であります(5月12日、28面)。カナダのマスコミと日本のマスコミの違いに驚かされます。それにしても自分達が騒ぎを引き起こした当事者でありながら、カナダの事情を他人事のように書く、この「客観性」にはあきれます。それとも、この朝日の記者は「カナダのマスコミはなんて無能なんだろう」と思いながら書いたのでしょうか。

 高校生だけでなく、海外から帰ってくる人たちの多くは日本のものものしさを見て、新型インフルエンザへの対応の差におどろいているようです。私の周囲にも慌てて1週間分の食糧を買い込んだ人がいます。「日本のマスコミは世界一」としたタイトルの意味は新聞の発行部数のことではなく、たいして重要でないことを国中に「大変だ」と信じ込ませる能力を指しています。つまり優れた煽動能力です。

 新型インフルエンザに対する海外の反応は断片的なものしかわかりませんが、カナダや米など患者が自国で発生している国でさえ、日本よりずっと静かな印象です。日本の対応が世界の中で突出したものであるというのはほぼ間違いないだろうと思われます。

 誰が指令したわけでもないのに、同じ方向へ群れをなして突き進む、私にとってはこの日本のマスコミの方がインフルエンザよりも恐ろしいものに映ります。マスコミが一斉に同じ方向に流れるとき、合理性が軽視されるのは食品関連の事件などにも見られます。

 もっとも顕著に現われ、最悪の結果を招いたのが太平洋戦争(立場によって大東亜戦争と呼ぶこともありますが、どうでもよいことです)に於けるマスコミでありましょう。戦争に向けて国民を鼓舞したマスコミの積極的な協力がなければ、あのような戦争はできなかったと思われます。

 新聞が戦争協力へと転換したのは満州事変直後であると言われています。軍の圧力に対し、若い社員の「社がつぶされても反抗すべきではないか」という問いに対して「私もそうしたいと思うが、万余の従業員やその家族があすから路頭に迷うことを考えると私にはできない」と言った毎日新聞の高田編集主幹・総長・代表取締役の言葉はこの辺りの事情を物語っています。

 新聞がウソを書いて売るということは、食品会社が有害なものを混ぜた食品を売るに等しい行為です。つぶされるかもしれないという選択が困難であることも理解できますが結局、新聞各社は反抗ではなく、有害物の販売を選んで販売部数の大幅拡大を得て繁栄し、国民は辛酸を嘗めることになりました (参考 新聞の戦争責任)。

 軍の圧力を受け、やむなく消極的に従うのならば、理解できます。しかしその後に起こったことは新聞各社の軍に対する積極的・自発的な協力であり、これは軍の圧力だけでは説明できず、別の説明が必要であると思われます。付和雷同する群集のように自ら判断することを放棄した結果なのでしょうか。少なくとも戦前の新聞の不合理・不可解な一斉行動は今回の新型インフルエンザへの一斉対応と通低するように思います。

 戦前、日本のマスコミは制御不能となった実績をもっていますが、今もなお条件次第ではモンスターになる素質を温存しているように感じます。

                                                                           09/05/11

 NHKニュースの変身

 10年以上前に月刊誌に載っていたものですが、新聞のトップ記事の見出し文字の大きさと新聞の信頼度の関係を調べた小論がありました。それによると主要紙のなかで見出しにもっとも大きな文字を使っているのはスポーツ紙で、もっとも小さい文字は日経新聞でした。朝日新聞は意外にもスポーツ紙に次ぐ大きさであったと記憶しています。これは参考に示した資料とも符合します。(参考 朝日新聞の読者信頼度、3位転落)

 その小論の結論は文字が大きい新聞ほど信頼度が低い傾向が見られるというものでした。ル・モンドなど海外のクォリティペーパーと呼ばれる新聞の文字も小さく、この傾向を裏付けるものとされていました。大きい文字を使う新聞ほどセンセーショナルな傾向をもつことは十分考えられることであり、信頼度と逆の関係になることは納得がいきます。

 新聞の方法と対称的なのがグーグルニュース日本版です。見出し文字の大きさに差をつけず、数本の注目ニュースをトップニュースとして上部に載せているだけで、主観的な要素はごく限られています。他のポータルサイトも似たような傾向ですが、新聞社の電子版はトップニュースに大きい文字を使っている例が多いようです。長年のクセが抜けないのでしょうか。

 一般の関心を惹く殺人事件などが重視されるように、ニュースメディアは視聴者・読者の注目を集めたいために、平板なニュースを面白おかしく脚色することに努力します。しかしこの傾向はメディアの信頼性としばしば相反します。必要な情報を適切なウエイトをつけて報道することはメディアの役割であり、信頼される条件のひとつです。センセーショナリズムは情報の適切な配分を歪め、信頼性を損ないます。

 NHKニュースにセンセーショナリズムへの傾斜が目につくようになったのはここ数年来のことです。夜7時のNHKニュースはひとつの注目ニュースに集中する傾向を強く感じます。7時の定時ニュースでありながらワイドショーと変わらない一点集中の報道が中心になっています。

 4月25日以来、軽症の新型インフルエンザはずっとトップニュースであったようです。それも30分のうち20分を充てたりする集中ぶりは常軌を逸しており、これでは「冷静な対応」を呼びかけてもあまり意味がありません。過熱ぶりはグーグルニュースと好対照です。

 ひとつの事件に強く傾斜すると、例えば感染者を収容した成田の病院前から中継をしたり、大阪府の教育委員会のコメントを報じたり、停留者の朝食メニューを映したりと、どうでもよいことばかり多くなる反面、報道されずに消えてしまうニュースが多く生じることになります。

 補正予算に関する報道は大きく削られたと思われますが、軽症インフルエンザの方が重要なのでしょうか。また裁判員制度はその重要性にもかかわらず、ほとんど報道されず、国民が知らないうちに決まってしまいました。これは公共放送の役割放棄と言えるでしょう(新聞も同罪ですが)。報道されない場合、報道されなかったという事実すらわからないことが多く、深刻な問題です。

 民放や新聞社が上記のような営業上の理由からセンセーショナリズムを目指すのはある程度は止むを得ないことですが、非営利のNHKにその必要はない筈です。視聴料で運営されるNHKまでが市場主義に染まることはないわけで、公共放送の役割である信頼性を重視する姿勢を示すべきでしょう。

 海外で高級紙と呼ばれる新聞の発行部数は日本の大新聞に比べ圧倒的に少ないながらも、影響力があるのは信頼度が高いためだと言われています。いやそれとも私が知らないだけで、世界1位の読売新聞、同2位の朝日新聞、同3位の毎日新聞は「こう主張をしている」と、海外のメディアに常に紹介され、世界のオピニオンリーダーの地位を築いているのでしょうか。

 もっとも信頼できるのはグーグルニュースである、なんてことにならなければよいのですが。
(グーグルニュースは他からの寄せ集めですが、並置されているため主観性が弱く、また同一ニュースを複数の媒体で見られるため客観的な評価がしやすい利点があります)

 

 

 

管理人 岡田克敏
(京都市在住)

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