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                                                                           09/11/19

砂上の楼閣

 先日、京都の知恩寺で恒例の古本祭りが開催されました。広い境内には多くのテントが設置され、幅広い年齢層の客で賑っていました。興味を惹かれたのは古ぼけた仏教関係書が置かれた一角です。分厚い本が多く、数千点はあろうかと思われるその量の多さに驚 かされました。

 むろん、ここに展示されている仏教関係書は一部であり、他にも多数ある筈です。多くはこの100年くらいに書かれたものでしょうが、著作のために使われたエネルギーはまことに膨大なものです。それを経済的に支えたものは多くの信者であったことでしょう。私のような門外漢にとって、それは同時に膨大な無駄の集積と思われます。

 いかに精緻な論理で構築されたものであっても、それが妄想の上に築かれたのであれば砂上の楼閣に過ぎません。妄想を持たない者、 異なる妄想を持つ者にとってはほどんど意味がありません。一般に仏教書が無心論者やキリスト教徒にとって意味を持つことがないように。つまりそれらはその宗教内でだけ意味があるローカルなものにならざるを得ません。

 中世のキリスト教神学者トマス・アクィナスは神学大全を著し、キリスト教世界に大きな影響を与えた人物とされていますが、彼は死ぬ前年、自分が生涯、命を懸けて書いたものはすべて藁くずにすぎない、と述べたと言われています。

 世界には数多くの宗教があり、さらに多くの宗派があります。それぞれが正統を主張している姿は外部の目からは滑稽なものに映ります。正統がいくつも存在することは矛盾であり、ひとつだけ正統があるとすれば他はすべて嘘を言っていることになります。

 なぜこのようなものに夥しい努力が払われてきたか、というところに私は興味を惹かれます。仏教といっても多くの宗派があり、それぞれに教義があって、さらにそれらに対して複数の解釈がなされる、といった具合に対象が分散してきたことがひとつの理由でしょう。

 宗派が多くあるということは中核にあるものが曖昧で、いろんな解釈が可能ということを示しています。さらに言葉の定義の不完全性が考え方の違いを生むこともあったかもしれません。結局、数多くのローカルな袋小路が作られ、空しい努力が続けられたのでしょう。科学が高い普遍性を持ち、有効に機能していることと対照的です。

 出発点を十分吟味せず、論理の展開にばかり心を奪われるという傾向は宗教に限りません。どうやら我々にはそのような性質が備わっているようです。世に不毛な論争が絶えないのはそんなところにもあるのかもしれません。

 これは以下の蓮実重彦元東大総長の入学式式辞(1999)とも通じるように思います。
「そうした混乱のほとんどは、ごく単純な二項対立をとりあえず想定し、それが対立概念として成立するか否かの検証を放棄し、その一方に優位を認めずにはおかない性急な姿勢がもたらすものです」

 難解なものは深遠で価値あるものだ、とわれわれは考える傾向があります。わざと難しく書かれた文章、聞いてもさっぱりわからないお経など、その傾向につけ込んだものと言えるでしょう。また空疎な内容を隠すために難解にしているということもあります。難解なものには空っぽなものが少なくないと疑ってみることも必要でしょう。

 難解なものを理解していると人に思わせることは知的な装飾品を身につけることでもあります。難解な数学用語を多用した理解困難な文章が特徴であるフランス現代思想、ポストモダニズムはまさに知的な装飾品といった趣があります(リチャード・ドーキンスは高級なフランス風エセ学問と呼びました)。その「装飾性」が普及に一役買っていることは間違いないでしょう。

 ふつう物は高いほど売れにくくなりますが、宝飾品などは高いほど売れる場合があります。これは顕示的消費、ヴェブレン効果などと言われていますが、難解なものが普及する現象と少し似ています。

 (参考) ソーカル事件 (Wikipedia)
     アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著『「知」の欺瞞』

 このように砂上の楼閣が築かれる理由はいろいろあり、それに向けた努力はなかなか絶えそうにありません。

                                                                           09/11/16

新聞の科学リテラシー

 電気自動車は環境負荷が小さいということで、脚光を浴び、新聞にもその解説記事は数多く見られます。11月2日の日経には「転換点の自動車産業」という編集委員によって書かれた記事が載りました。そこにガソリンとリチウムイオン電池のエネルギー密度を比較する記述があります。

「ガソリン1リットルが持つエネルギー量は電力換算で9300ワット時。これに対し、電気自動車に搭載されるリチウムイオン電池は同体積で200ワット時しかないエネルギー密度の差は航続距離などクルマの性能を規定する」→(エネルギー密度の比は46.5倍と計算されます)

 ガソリンエンジンと電池のエネルギー効率を無視しているので、この説明は誤りと言ってよいでしょう。ガソリンを燃やしてできるエネルギーは9300ワット時で正しいのですが、ガソリンエンジンは20%程度の効率しかなく、残りは熱となって無駄になります。それに対し、電池でモーターを駆動する場合は90%以上の効率が期待できます。

 従って両者の比較は9300と200ではなく、それぞれに効率をかけた1860と180とで行わなければなりません。実用的なエネルギー密度の比は約10.3倍となり、46.5倍とは大きな違いが生じます。

 私はここで日経新聞や記事を書いた編集委員(=優秀な人?)の揚げ足を取りたいわけではありません。この程度の科学の基礎知識のなさはどこの新聞社でもほぼ共通しているからです(私の印象では日経は他紙よりマシです)。これは新聞の理解力を象徴する事例として挙げただけです。

 理科の時間が約半分に減らされた「ゆとり教育」世代が社会に多くを占めるとき、この懸念はさらに強くなると思います。先日のNHKのクロ現では、ゆとり教育を受け理科を十分理解できなかった教員が生徒にうまく理科を教えられないという問題を扱っていました。科学的理解力の低い人間の再生産が起こっているわけです。

 理科を軽視したゆとり教育を主導したのはきっと科学的理解力の低い連中であったのでしょう。またゆとり教育に対して有効な批判をし得なかったメディアにも同じことが言えると思います。教育という極めて重要なものが無知によって曲げられることはたいへん残念なことです。それにしてもこの時代に、理科の時間を半減するという無茶なことがどうして生まれたのか非常に不思議です。

 東京女子医大事件では「物理学の初歩もわきまえてない」と検察が強く批判されましたが、検察の低学力が重大な結果を招いた例です。

 50年前なら政治やマスコミは中学生レベルの科学的理解力でも十分であったでしょうが、現在はエネルギー、環境、教育、産業など科学的な理解力が必要な分野は数多く、支配的・指導的な部分を文系の人間がほぼ独占する旧態依然の体制では十分な対応ができるか疑問です。

関連記事:電動アシスト自転車の補助動力への誤解

(09/11/17 お詫びと訂正) 訂正前の記事ではエネルギーの単位を「ワット」とすべきであるとしたのですが、それは私の間違いで、「ワット時」が正しい単位です。ご指摘をいただいた方に感謝します。

                                                                           09/11/12

「申告漏れ」という軽さ

 「申告漏れ」という言葉はうっかりして漏らしたという響きがあり、意図的・積極的に税を逃れるという意味は感じられません。軽い響きの言葉に呼応するように、大勢の方々が「漏らして」いらっしゃるようです。

 今年6月までの1年間に税務調査を受けた法人の申告漏れ総額は1兆3255億円。業種別で不正発見割合が多かったのは7年連続1位のバー・クラブ(56.1%)、2位パチンコ(46.4%)、3位は廃棄物処理(37.0%)の順です。大阪国税局では12年連続でパチンコ業が1位を守っているそうです。はたしてこれらは「うっかり漏れ」なのでしょうか。

 かつては金融業も上位の常連であったのですが、グレーゾーン金利が否定されてから元気がなさそうです。申告漏れ法人とは別ですが、代わって目立ったのが一部の弁護士・司法書士です。調査対象804人の内、697人(86.7%)に申告漏れがあったとされています。不正発見割合は上記の上位3業種に比べても全く遜色ない「成績」です。

 その背景には消費者金融への過払い金返還請求がおいしいビジネスとなった事情があります。債務者への返還・取消し額は大手4社だけで5200億円(07年度)といいますからたいした金額です。金融屋が取っていた金の一部が弁護士と司法書士のポケットに移ったわけですが、元々この金は借りた人達が否応なく出したものです。

 調査対象を選ぶ基準が同じでないかもしれませんが、法曹の一角がこのように最上位を占めることにはいささかの「感慨」を覚えます。調査対象だけで言えば「漏れまくり」状態です。「法」を商売のタネにしている方々ですが、税法には少し弱いようです。

 私が子供の頃、「弁護士って、どんな仕事をするの」と父に尋ねたことがあります。父は「弁護士とは曲がったものを真っ直ぐに見せる仕事をする人たちだ」と答えました。

 ということもあって、弁護士に対し高いモラルを期待しているわけではありませんが、この「成績」は想像以上です。これでは業界のイメージが損なわれ、真面目に仕事をしている人達がやりにくくなるのではないかと、他人事ながら心配になります。

 今をときめく脳科学者の茂木健一郎氏は約4億円の無申告が発覚しました。こちらは申告漏れではなく、もともと茂木氏の脳から「納税」という機能が漏れていたようです。

 深夜の公園で裸になった草薙剛氏は逮捕されただけでなく、社会的制裁を受けました。その片棒を担いだのはマスコミの大報道です。それに比べると茂木氏の件の報道は遥かに小さく、社会的制裁も僅かです。さて、どちらが悪質だと思われますか。

 他人の不正行為には苛酷なまでの厳しさを見せるマスコミですが、申告漏れ、つまり所得隠しに関しては何故か不思議なほど寛大であります。この疑問を解く鍵は以下の事実に・・・。

  朝日新聞09年2月 所得隠し約5億1800万円
  毎日新聞08年5月 所得隠し約4億円
  読売新聞07年4月 所得隠し約4億7900万円
     ・・・・・・
     ・・・・・・
     (以下略)

 「罪なきものは石もてこの女を打て」は聖書の一節ですが、さすがのマスコミも砂粒を投げるのが精一杯、というところでしょうか。

                                                                           09/11/09

マスコミが財政破綻を招く

 11月4日の衆議院予算委員会で、斉藤鉄夫氏の質問に対し、管副総理は財政健全化の道筋を示す中期財政フレームを来年4月以降にまとめる、時期は来年の5、6月あたりを念頭においている、という意味の答弁をしました。

 現在の財政の深刻な状況を考えると、この中期計画の発表時期を明らかにしたことは極めて重要なことだと思います。信頼のおける中期的な財政再建計画の必要性はOECDの対日審査報告書(2009年版)でも指摘されているとおりです。

 しかし、この答弁は日経が小さく報道しただけで、他はほとんど取りあげていません。報道をしないということはマスコミが財政の継続性に対して危機感を持っていないことを示しています。それに対し国民の多くはある程度の不安感を持っているようですが、増税を受け入れるまでの認識があるかというと、ちょっと疑わしいと思います。

 大きく報道すれば政府に強い言質をとることができ、これ以上の先延ばしを避ける効果が期待できると思うのですが、マスコミの無関心ぶりをみるとあまり期待できそうにありません。また斉藤鉄夫氏の質問も意味もなくなります。

 財政破綻が避けられるかどうかは、櫻川昌哉慶大教授がアゴラの『財政の「破綻確率」』に書かれているように、増税という不人気政策が実施できるかどうかによって決まると言ってよいでしょう。増税が選挙の敗北をもたらすほどのインパクトがあることは数度の経験によって明らかになっており、それを避けたいがために財政規律が失われてきたという経緯があります。選挙対策のための、たび重なる先送りが現在の巨大借金を生んだと言えるでしょう。

 大平内閣が一般消費税を導入しようとしたときの、マスコミの激しい反対はいまだに忘れられません(結局、一般消費税は断念されました)。当時のマスコミがなぜ間接税にあれほど反対したのか、理解困難です。間接税の是非よりも、政権批判と読者への迎合による感情的な反対論が大多数であったと思います。

 増税が可能となるためには国民が増税の必要性を理解することが条件になります。国民の理解が得られるかどうかはマスコミの報道次第だと思います。マスコミが増税の必要性を説き、地ならしをすることが必須条件です。それは同時に危機感の薄い政府の認識をも変えるという効果を持ちます。

 民主主義の国では短期の人気取り政策に傾きがちで、長期を見据えた痛みを伴う政策は先送りになりやすい傾向があると言われます。必要であるけれど痛みを伴う政策が実施できるかどうかはその国のマスコミの見識に左右される問題でもあります。

 日本が先進国中、突出した額の政府債務を作り上げたのは、バブル崩壊という個別事情があるものの、マスコミの見識の低さ、長期的視点の欠如が関係しているのではないかと考えられます(バブル崩壊に見舞われたのは日本だけではありません。ついでながらバブルが巨大化したのには「財テクしない者は無能」と言わんばかりにバブルを煽ったマスコミの関与があります。バブルの成長は集団心理に深く関わるものですから)。

 中期的な財政再建計画の必要性を認識しないマスコミが財政再建に対して自主的に動くことはあまり期待できません。したがって、誰かがマスコミの尻に火を点けてまわることが必要でしょう。一旦火がつくと簡単に類焼し、一斉に火を噴いて大火になるのも日本マスコミの特徴です。

 もし日本が財政破綻をするようなことがあったならば、その責任の半分程度はマスコミにあると思います。マスコミが第4権力といわれる以上、それは当然のことかもしれません。ただし責任を一切とらない、都合のよい権力ですが。

                                                                           09/11/05

小沢政治への不安(2)

 政党とは、先ず政治家や政治を志す者があり、彼らが共通の理念に基づいて政党を作る、あるいは既存政党に加入する、というのが私の理解です。これとは逆に、先に政党があって、政党が議員を作り、政党の意に沿うように育てられるとしたら、政党の意味は違ってくるわけで、これにはいささか違和感を覚えます。

 いま民主党で行われていることはまさに後者であり、とくに新人議員は議席の数のために存在するという観があります。政党の支配力の強大化によって、議員は政党の駒になっているようで、政治のあり方の変質を感じます。小沢氏が次の選挙に勝つことを最優先するよう新人議員達に伝えていることもこのことを裏付けています。

 先日の選挙で大量生産された小沢チルドレンと呼ばれる民主党の新人議員達は党によっていま厳しい教育を受けているそうです。文芸春秋11月号の立花隆氏の『小沢一郎「新闇将軍」の研究』には次のように記されています。

 『この選挙ではじめて議員になった一年生議員たちが上京して最初になされたのは、小沢から直接に議員としての生活のイロハを徹底的に叩き込まれることだった。実は新人議員のかなりの部分が「小沢一郎政治塾」の塾生出身で、すでに小沢イズムを叩き込まれた連中だが、そうでない議員も、このようにして、小沢イズムの洗礼を受けるわけだ。
(中略)小沢グループだけは自民党の派閥以上の固い統制を誇り、党内の選挙や決議などに際して小沢の指示通り一糸乱れず動いてきた』

 さらに彼らの多くは民主党の公認のおかげで議員という職にありついたわけで、党に対する反抗は次の選挙後の失職を意味しますから忠実にならざるを得ません。

 中央の意のままに動く議員を大量に抱える政党は強力になる反面、議員の発言力は低下し、権力は党中央に集中することになります。多くの議員を通じて、広く国民の意向を吸い上げるという政党の機能は損なわれることにならないでしょうか。

 小沢氏による人事の掌握、自党の議員立法の原則禁止、官僚の答弁禁止、官僚の記者会見禁止、陳情は幹事長室で一元化、三権分立の否定、これらにはもっともらしい理由がつけられているものの、いずれも権力集中の方向を示しています。

 不思議に思うのは、議員が政党の駒と化す事態を危惧する議論がマスコミにはあまり見られないことです。すぐに危機が訪れるというわけではありませんが、無視して良いこととは思えません。マスコミは政党政治のあり方の変質と権力の集中に関して鈍感なようです。三権分立は権力の集中を避けるための方法であったように、権力の集中は危険な側面を持ちます。

 また、マスコミは実質的最高権力者小沢氏の見解などをあまり報道しないため、小沢氏がどんな方向をめざしているかが明確ではありません。最高権力者の意図がはっきりしないのは異常なことであり、これはすこし不気味です。

                                                                           09/11/02

他人を判断する基準

 「最速のインディアン」という映画があります。ニュージーランドの片田舎に住む初老の男(アンソニー・ホプキンス)がバイクのスピード記録を立てるために年代物のバイクと共にアメリカへの旅をするという、実話を元にしたお話です。貧しい旅の途中で出会う多くの人々に助けられてようやくレース場にたどりつくのですが・・・。

 登場人物が一癖も二癖もある、ややこしい人間ばかりという映画もまた面白いのですが、この映画はまるで逆で、登場人物の誰もがさりげない親切心を持ったごく普通の人達です。ホプキンスの演技も素晴らしいのですが、この映画のよく出来たところは「心暖まる」系でありながら偽善臭や不自然さが感じられないところです。

 おそらく、この映画の登場人物には制作者の心情が投影されているのでしょう。つまり、制作者は自分の心情を基準にして登場人物を作り出しているという推定することが出来ます(もっとも自分の心とは似ても似つかぬ理想を作っているのかもしれませんが、それはまあ措きます)。

 我々はしばしば他人の気持ちや考え方を推測する必要に迫られます。ある条件下で相手がどう行動するかを推測するとき、たいていは自分ならどうするだろうかと考えます。意識的でなくても、自分の考え方を基準にして、相手の思考や行動を推測していると思います。

 例えば、素直で邪心のない人は他人はみんな善人だと考えるでしょう。逆に邪心豊富の人は世には悪人が多いと考えるかもしれません。むろん、騙された経験など、学習によっても悪人が多いと判断することもあるので一概には言えません。

 他人を判断する基準が自分の心であるならば、ある人の人間や社会に対する考え方を知ることは、その人の内面を知る手がかりになることがあると考えてもよいでしょう。たいていの人は腹の中が黒いと考える人は、もしかするとその人の心が反映されているのかも知れません。

                                                                           09/10/29

小沢政治への不安

 行政刷新会議が設置した事業仕分けチームが発足してまもなく、つまづきました。各紙の論評はいろいろありますが、右寄りのメディアのものが面白いのでご紹介します。

○政府が党に断りもなくメンバーを決めたことに小沢幹事長が立腹。
○平野官房長官は小沢氏に「申し訳ない」と謝った。
○小さなつまずきから「党高政低」「政府にも小沢支配」が透けて見える。 (10/27よみうり寸評)

○いまの民主党で人事カードを切っているのは、党代表である鳩山由紀夫首相ではなく、小沢一郎幹事長である。
○小沢氏の人事権は、党と国会ばかりでなく政府にも及んでいる。
   (10/27産経抄)

 また文芸春秋11月号の立花隆氏の『小沢一郎「新闇将軍」の研究』という記事には、小沢グループは150名を超え、来年の参院選後の新人を加えると200人は確実、場合によっては300人を超えるかもしれないとし、気味が悪いことが起こりつつあると思っている、と書かれています。

 「小沢がヒトラーのような人物というわけではない(略)が、あのナチスが国政選挙を通じて、大量の議席を獲得して、合法的に1930年代のドイツを一挙に作りかえようとしはじめ、それを大衆が熱狂的に支持しているところを見たときに一部の人々が感じたであろうような、なんともいえない居心地の悪さ、不快感を感じている」とも記されています。

 一方、民主党は自党の議員立法の原則禁止、官僚の答弁禁止、官僚の記者会見禁止と、次々と政策を打ち出しています。議員立法の禁止は議員の活動を制限するものですが、いずれも政府以外からの情報を遮断するという側面を持っており、情報を一元化して雑音を抑えようとする意図が感じられます。

 与党の代表質問廃止の理由として民主党は政府・与党の一元化を挙げていますが、これは行政府と立法府の一元化を意味するもので、三権分立を弱体化するものではないでしょうか。菅直人氏の「国会は立法機関というが、それより大事なことは、内閣総理大臣を選ぶことだ。三権分立とは、憲法のどこにも書いていない」という発言とも符合します。もともと議院内閣制では行政府と立法府の明確な分離は無理でしょうけど、三権分立をこうも明確に否定されるとちょっと不気味です・・・背後に小沢氏の影が見えるだけに。

 立花氏も指摘されていますが、最大勢力である小沢グループが民主党を支配し、民主党が政府を支配するという構造ができつつあるように思います。しかも小沢グループは新人が多く、その新人達は小沢チルドレンと言われるように小沢氏の元で「育成」され、強力な管理下におかれます。

 与党の代表質問廃止や官僚の答弁禁止には社民党が反対しています。「反対」が板についた社民党ですが、こればかりは大変まともに思えます。もっとも民主党に権力が集中すれば社民党の存在価値が危うくなるという心配があるのかもしれません。

 権力の集中化が水面下で静かに進んでいると思うのは杞憂でしょうか。

 権力の集中は独裁体制へつながり、それは政治の効率化という良い点もあります。しかしナチスを持ち出すまでもなく、日本の過去の暴走を考えると、少々効率は悪くても議論百出の政治の方がより安心できるように思います。

                                                                           09/10/26

国の大借金に返済計画なし

 来年度の国債発行は50兆円になると報道され、ようやく巨額財政赤字の問題に注目が集まるようになりました。民主党政権は増税をせず、無駄を排することで財源を作り出すということを選挙の看板にしてきたのですが、早くも雲行きが怪しくなってきたようです。

 一方、民主党のブレインとも言われる榊原英資氏は次のように述べ、国債増発を熱心に奨励しています。
「日本の国債と地方債は合計で800兆円。日本人の貯蓄残高は総額1500兆円だから、日本全体で見れば借金はない。国債は有力な財源だ。子供手当も、高速道路の無料化も、暫定税率をゼロにするのも、国債を発行すればいい。(略) 1000兆円程度まで行っても、そこで止まれば問題ない」(8月21日産経ニュース、文芸春秋10月号にも同様の記事)

 榊原氏は貯蓄残高が1500兆円あるので、追加発行は問題ないとされていますが、素人にはちょっと理解できません。自国民からの借りでも、外国からの借りでも、返済が危ぶまれたときは国が信用を失って金融市場が混乱する点は同じだと思いますが、あるいは1500兆円を何らかの方法で吸い上げて、国債の償還に当てるという腹づもりなのでしょうか。

 確率でしか答えられない問題に追加発行は大丈夫といった断定的な答を出すのは証券会社のセールとトークと同じで、学者の発言とは思えません。榊原氏が現政権にどの程度の影響力があるかは知りませんが、亀井静香金融・郵政担当相が10年度予算は100兆円以上にする必要があると発言したこととも符合します。

 GDPに対する政府債務の大きさはどこまで可能か、なんてことは誰にもわからないでしょう。確実なことは日本が先進国の中で先頭を切って政府債務を増やし続け、未知の領域へと進んでいることです。臨界点は予測できなくても、その確率は間違いなく大きくなっている筈です。

 臨界点は国内の事情だけでなく、海外の信用不安など不可抗力の原因によってももたらされます。また格付けの変更や他国の財政危機による連想などもきっかけになり、予測不可能な要素が数多く存在します。

 また債務不履行は起こらなくても国債の暴落(金利の急上昇)など不可逆的・破壊的な変化が生じ、制御できなくなる可能性が高いのではないでしょうか。金利動向を見ながら国債発行額をコントロールする方法がいつまでも通用するとは思えません。

 財務省出身者を日本郵政の社長に据えたことは国債引受け先として日本郵政を活用する下心があったのかもしれません。無理やり引き受けさせれば臨界点を少し先延ばしにすることはできるでしょう。それで現在の当事者は逃げ切れるという算段かもしれませんが、破綻時の破壊力はより大きくなります。

 今回の不況を受けて、2011年とされてきた基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化の目標年次が2020年代初めと大きく後退する見込みとなりました。リーマンショック後の財政出動によって目標年次が一挙に9〜14年も後退しましたが、民主党政権の政策では目標年次がさらに大きく先に延びそうです。

 借金をするときは返済計画を示すのがあたりまえです。まず返済計画を作って、可能な借金額を見積もってから予算を決めるのが順序というものです。GDPに対する政府債務が異常な大きさなった以上、信頼性のある返済計画が是非とも必要でしょう。逆に言うと返済計画が作れないようでは信用を失う、ということになりかねません。

 「こんなに借金して返せるのか」と返済問題に光を当てるのはマスメディアの役割ですが、プライマリーバランスの目標年次にすら関心を寄せる気配はありません。政府もメディアも「そのうち何とかなる」ではいささか無責任すぎではないでしょうか。

 OECDは対日審査報告書(2009年版)で、日本の政府債務残高の増加に関連し、金融市場の信認を維持するためには、より詳細でかつ信頼のおける中期的な財政再建計画が必要との認識を示しました。

 「人様」が借金の心配してくれているのに「本人」はお金を使うことにばかり熱心のようです。

                                                                           09/10/22

資源大陸アフリカ−書評

 「資源大陸アフリカ」は毎日新聞の記者白戸圭一氏によって書かれた現地ルポで、多くは生命の安全が保証されない紛争地域での現地取材に基づいています。新聞記者というと記者クラブに詰めている姿や、芸能人のスキャンダルを追いかけている姿を思い浮かべます。またイラク戦争の開戦前、日本の大手メディアは危険だからと外国メディアを尻目に一斉に引き上げた事実を思いだします。しかし大手新聞記者の中にもちゃんと職責を果たしている人もいるわけで、十把一絡げの理解はよくない、と改めて思いました。

 この本の舞台は主としてアフリカの紛争地域であります。白戸氏は紛争の主体である武装勢力に接近し、危険な取材によって紛争の構造をおぼろげながらも明らかにします。

 紛争は部族間の対立、宗教の違い、鉱山などの利権、旧宗主国の思惑などが複雑に絡んでおり、単純なものではありません。しかしその根っこには貧困と経済的な利害があると考えられます。紛争の原因を部族間の対立、あるいは宗教間・宗派間の対立とする報道がよく見られます。部族や宗教、あるいは政治的な思想などは集団を識別するラベルとしての役割はありますが、それを対立の主原因とする見方は皮相な理解であり、多くの場合、問題の本質を捉えているとは言えないようです。

 紛争地域では数多くの武装勢力が対立していますが、彼らが軍事力を維持するためには兵を食わさねばならず、武器も必要です。金が極めて重要であり、石油や鉱山の支配権は争奪の標的になります。また極度の貧困は僅かな食糧だけで兵を集められることを意味します。貧困状態では食糧や金、つまり経済が極めて重要な意味を持つわけです。その欠乏はたちまち生存を脅かします。

 石油や鉱山のない地域では住民からの収奪や外国からの資金が兵力維持の原資になるわけです。領土をめぐって多くの武装勢力が争う状況は日本の戦国時代のようなものでしょう。しかし戦国時代の戦争は軍隊同士の争いですが、不幸なことにアフリカでは住民の大規模な虐殺がしばしば起こります。

 94年のルワンダでは100万人前後が、現在も続くスーダンのダルフールでは03年以降だけで18万人、56年の建国以後では200万人もの死者が出たとされています。また村単位などの小規模な住民虐殺は武装勢力が恐怖で支配するための方法ともされています。

 欧州でも敗れた側の住民は皆殺しか奴隷という時代が長く続いたそうで、都市全体を囲う城壁があるのはそのためだとされています。日本では、戦は兵だけで行われ、住民が巻き込まれることが少なかったため、城はあっても都市を囲う必要はなかったと言われています。このことから日本人は比較的穏健な民族であると考える人もあります。

 著者は貧富の格差や貧困そのものが暴力を生み、それが9.11のように先進国まで及ぶと述べています。しかしアフリカの混迷を改善する具体的な方法は示されていません。本書を読む限り、国連などの国際機関の活動も限界があり、とても楽観的にはなれません。

 格差と貧困が社会を不安定にし、暴力を生み出すことは納得できますが、それとともに人々の意識も重要な要素だと思います。どれも短時間には解決できないことです。

 アフリカの状況は社会の原初的な形態のひとつとも考えられます。本書を読んで、文明国に生まれた幸運を改めて思いました。我々は平和と安全を享受していますが、それは長期間にわたる先人達の膨大な犠牲によって購われたものであり、我々はタダでその恩恵に浴しているということも。

                                                                           09/10/19

聖職者の性犯罪

 「姦淫してはならない」は十戒(出エジプト記)のひとつですが、以下は聖職者自らがその戒律の必要性を証明した出来事と言えるでしょう。

 『茨城県つくば市に本部を置くキリスト教系宗教法人の代表牧師(61)に教団施設内などで、わいせつな行為を繰り返されたとして、20〜30代の元信者の女性4人が牧師と教団などを相手取り、計1620万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしていた。
 元信者側は「(牧師は)指導者の霊的権威は絶対不可侵であるなどと欺瞞的説法を繰り返し、被害女性を抗拒不能にさせた」と主張。被害を受けたという女性は「君には癒やしが必要だ、といってセクハラをエスカレートさせた。衝撃的すぎて声も出なかった。嫌だと感じるのは自分の信仰が足りないせいだと思ってしまっていた」と話している』(10月18日産経ニュースより要約)

 05年、信者の少女7人に対する強姦罪に問われた京都のプロテスタント系宗教法人「聖神中央教会」の元主管牧師(62)のケースでも、「少女らは神に最も近い存在だった被告に逆らえば地獄に落ちると信じており、従順に行動せざるを得なかった」とされています。

 同じく京都のプロテスタント系幼稚園では園長である牧師が児童性的虐待事件を起こしていたことが、被害者の1人がPTSDを発症し自殺未遂を起こしたことで発覚しました。被害者はさらに4人増えましたが、既に刑事事件としての時効が成立していました。被害者側は民事で勝ちましたが、謝罪などを求める元信者らの活動が続いています。

 また2004年に表面化した米国カトリック教会の性的虐待事件では過去52年間で神父4450人に疑いがあり、件数は約11000件に上ると報じられました。疑いは実に神父の4%に及んだそうです。

 神と信者の間に立ち、神の教えを説く聖職者が俗の極みである強姦、それも児童に対してするのはまことに破廉恥なことです。警察官が強盗するよりも強いコントラストがあります。教会という閉ざされた世界での絶対的優位な立場と、相手の信頼を利用するのは卑怯な方法です。

 信者を精神的に強く拘束する宗教は信者を洗脳していると言ってもよいと思います。そのような宗教団体では「逆らえば地獄に落ちる」と信じさせることができたように、性的被害者が生まれやすい環境があります。また被害者が被害届けを出しにくい環境でもあります。したがって表面化するものは氷山の一角であり、被害の実数ははるかに多いという見方は説得力があります。

 聖職者に対し、改めて「姦淫してはならない」と教育する必要がありそうです。とくに「児童に姦淫してはならない」と。かつての中国式の方法(宦官)はちょっと差し障りがありますから。

 多くの人は持ち金を取られるより、強姦される方が、より深い傷を受けるでしょう。ところが刑罰は逆で、強姦は3年以上の懲役であり、強盗の5年より軽くなっています。犯罪者にとっては強盗より強姦の方が敷居が低いということになります。

                                                                           09/10/12

ただの見物人

 ハムレットの最終場面の話です。クローディアス王とレアティーズはハムレットの殺害を謀ります。計画に従って、レアティーズとハムレットは剣の試合をすることになるのですが、レアティーズは剣先に毒を塗った実戦用の剣を使い、ハムレットに小さな傷を与えます。

 それに気づいたハムレットは剣を取替え、レアティーズに毒剣で傷を負わせます。レアティーズは毒がまわって死ぬ間際、事の次第をハムレットに告げ、ハムレットは王を殺します。死に瀕したハムレットは惨劇を見ていた人々に対して次のように言います。

「諸君、青ざめて震えているな。だが、ただの見物人だ」

 見物する者にとっては、現実の惨劇も芝居も同じようなもの。シェイクスピアはそんな意味をこの科白に込めたのではないでしょうか。ただの見物人(audience to this act)は無責任な傍観者です。芥川龍之介は短編「鼻」で傍観者の利己主義を主題にしましたが、こちらはやや複雑で、「ただの見物人」はもう少し単純な意味だと思われます。

 これを思い出したのは光市母子殺害事件の被告を実名で扱った本「○○君を殺して何になる」が発売されたからです。光市母子殺害事件は大きく報じられ、世の注目を集めました。しかし事件を注視したほとんどの人間は所詮「ただの見物人」ではなかったでしょうか。そしてこの本は周辺事実を暴露することによって彼らの興味に応えるものなのでしょう。

 この本の著者は実名とした理由について「匿名では人格の理解が妨げられ、モンスターのようなイメージが膨らむ」、「私が会った人間の存在を感じてもらうため、名前は重要な要素」と説明しているそうです。

 しかし「A」がモンスターのイメージなら仮名という手があります。仮名でなく実名でないと人間の存在が感じられないという説明もよくわかりません。まして表紙に実名を大書する必要性はいっそうわかりません(買わなくても実名がわかります)。

 犯行当時少年であった者の実名を発表することは、マスコミに騒がれて販売増につながる、という理由ならば、私には実によくわかるのですが。

 奈良医師宅放火殺害事件を題材にした「僕はパパを殺すことに決めた」では、著者が鑑定医の信頼を裏切る形で供述調書の内容を入手した方法が問題となりました。

 世の注目を集めた事件を利用し、本来秘匿されるべきものを公開した点において、この2つの本は共通しています。そして被告の家族など、不幸な事件の関係者に不利益をもたらしている点も同じで、事件を食いものにする商売と言えるでしょう。

 センセーショナルな題名をつけ「見物人」相手に商売している人間が「表現の自由」を楯にして正当性を主張すれば、「表現の自由」の価値を貶(おとし)めるばかりか、本当に必要な「表現の自由」を制限する道を開きかねません。

 アマゾンやビーケーワンなどが現在販売を止めていることがせめてもの救いです。裁判所の判断が出るまでは販売しないのがまともな見識でしょう。販売中の書店や著者、出版社はそこまでして儲けなければならないのでしょうか。

 

 

管理人 岡田克敏
(京都市在住)

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