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読んで ムカつく 新聞、テレビ等のマスメディアを主な標的 |
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リンクはご自由に、歓迎します |
08/05/15
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殺人事件大好きの朝日新聞・・・いくらなんでもやり過ぎでは? |
08/05/12
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フル電動自転車の公道使用を認めよ・・・電動アシスト自転車の補助動力アップを検討するのなら |
08/05/08
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ガソリン代月22万円の一家、税率復活で大変と朝日が大真面目に紹介 |
08/05/05
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合理主義のオランダと建前・形式の日本・・・自殺における違い |
08/05/01
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光市事件死刑判決、藪蛇の日経社説・・・裁判員制度の逆宣伝に 4月23日の日経社説は「国民の感覚を映した死刑判決」というテーマで、光市母子殺害事件を例に引き、死刑判決についての見解を述べています。 その中に、失礼ながら社説の主題よりも興味深い調査結果が引用されています。それは司法研修所による「量刑に関する国民と裁判官の意識についての研究」のアンケート結果で、再引用します。 『被告人が未成年者だったら刑を重くすべきか軽くすべきか、を尋ねたところ、一般国民の回答者はほぼ半数が「どちらでもない」を選び、裁判官の常識とは逆の「重くする」「やや重くする」が合わせて25%あった。裁判官で重くする方向の回答はゼロ。「軽くする」「やや軽くする」が計91%である』 更生の可能性が大きい未成年者の刑を重くすべき、という意見が25%もあったのには驚きます。それ以上に驚いたのは社説がこれを肯定し、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべきだと述べている点です。以下に引用します。 『死刑は憲法が禁止する「残虐な刑罰」にはあたらない、との判断を初めて下した48年の最高裁大法廷判決には「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見がついている。 これを敷衍(ふえん)すれば、死刑適用を判断するには、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき、といえよう。さらに刑罰全般についても専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要がある。裁判員制度を始める理由の1つがそこにある』 残虐性の判断は国民感情によって定まる、というのは妥当です。問題はその次の敷衍の仕方です。残虐性の判断を国民感情が定めるべきならば、量刑の判断も一般国民の感覚をくむべきである、ということですが、残虐性の判断と量刑の判断は別個の ものであり、安易に敷衍してよいのでしょうか。ここは敷衍より飛躍がふさわしい言葉です。 裁判官は専門家の適正感でなく国民の適正感に拠るべきだということを言いたいのでしょうが、それにしては少年法の趣旨を理解しない者が25%という調査結果を示したのでは薮蛇です。この調査結果からはむしろ一般国民の判断は信頼に値しないことを強く示唆していると理解できるからです。 更正の可能性、未熟な判断力、知識・経験の不足、どれも少年に対する刑を軽くする理由になっても、重くする理由にはなりません。25%とはいえ、少年に重い刑を主張するという一般国民の感覚を尊重すべきだという社説の主張は説得力がありません。 裁判員制度ではこの25%の人が6人の中に含まれます。平均では6人中1.5人ですが、場合によっては6人中4人や5人もあり得ます。その場合の少年被告は成人より重い刑を受けるという不合理なことになるかもしれません。少年法の精神など理解しない人々によって。 米国は陪審員制ですが、被告は職業裁判官による裁判をも選択可能です。陪審員制は素人判断による「偶然司法」になっているという批判が根強く、連邦地裁における陪審利用率は刑事で5.2%(97年〜98年)、民事では1.7%(同)という低率で、大多数は職業裁判官を選びます(参考)。 新聞各社は概ね裁判員制度に肯定的ですが、よく理解した上のことなのでしょうか。裁判員制度のもつ偶然性によって判決がばらつき、被告の公平性が犠牲になることに彼らは極めて鈍感のようです。この鈍感さゆえ、社説は皮肉にも本来の意図とは逆に裁判員制度の危うさを示すことになったようです。 |
08/04/28
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1面トップに大きく「米産牛肉に危険部位」、裏で「冷静に対応を」と朝日新聞 4月24日の朝日新聞朝刊は1面でBSE問題を大きく煽る一方、35面では食の安全への不安を訴える声やスーパーの販売中止などと共に、冷静な対応を求める識者の意見を小さく載せています。BSEの危険を大きく報じながら冷静を求めるのは矛盾しています。本音で冷静を求めるのなら大きく報道しなければよいのです。 朝日、毎日、読売、日経の各社は一斉にこのBSE問題を社説で取り上げています。読売は比較的冷静で、朝日・毎日は検査体制への非難が目立ちますが、そろって社説に取り上げるのは各社ともBSEを危険で重大な問題と認識しているからでしょう。 今回紛れ込んだ背骨付きの高級ステーキ用肉は米国では普通に売られているが、日本の基準は世界一厳しく、リスクをとことん減らそうという考えに立っているのだから、それは理由にならないというわけです(朝日)。 その朝日には田辺功編集委員によるBSE問題についての優れた記事(2月4日)があります。以前にも紹介しましたが一部を要約します。 『BSEのために日本人が変異型クロイツフェルトヤコブ病(vCJD)を発病する確率は無視できる程度(*1)であるにもかかわらず実施された世界に類のない全頭検査は「消費者の不安解消」を掲げる議員らの声に押されて始まった。 国際獣疫事務局が定めるBSE対策の基準は危険部位の除去とピッシングの禁止などで、検査はふくんでいない。日米間の輸入再開議論がかみ合わなったのは日本が世界の標準とは異なる考え方をしていたからである。(ピッシングとは死ぬ時の痙攣を防ぐためロッドを頭から脊椎に通すこと。病原体が他の部位に拡散する危険性が指摘されている。日本ではまだ多く行われている)』 (*1 発病の確率については安井至氏のBSEを巡ってメディアとの対話も参考になります) つまりメディアによって作られた「消費者の不安」を解消するために、必要性の不明な全頭検査を多額の税金を使って実施していながら、必要性の高いピッシング禁止を放置しているというわけです。 朝日新聞は、日本人がvCJDを発病する確率は無視できることを田辺編集委員の記事で知り得たはずですが、今回なぜか煽動的なトップ記事にしているのは理解に苦しむところです。 合理性から離れ、完璧なほどの安全性を求める日本の消費者の特殊事情を、読売を除く3社は無批判に受入れ、当然の条件としていることが残念です。消費者が過度の不安をもつという特殊事情はメディアが作り上げたものにもかかわらずです。 脊柱の入った問題の1箱は米ナショナルビーフ社加州工場が昨年8月に出荷し、日本国内の倉庫に保管されていた700箱の中から見つかりました。残りの699箱には問題はなかったが、廃棄処分となったそうです。同社の加州工場製の他の国内在庫はどうなるか、気になるところです。 世界的に深刻な食糧不足の地域がある中で、不安解消という「気分」のための大量廃棄をやっていればそのうちにバチが当たるような気がします。 新聞社様に消費者の不安を解消してやろうという親切心がおありなら、vCJD発病のリスクは無視できるレベルであるということを是非とも消費者にお伝えしていただきたいと思います。おっと、その前に、十分な見識を身につけていただく必要がありますけれど。 |
08/04/24
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テレビ批判の朝日社説、ご立派な主張だが身内を他人事のように言うとは・・・ 4月20日の朝日社説は「裁判番組―放送局は知識と冷静さを」と題する、大変まともな主張です。紹介したい意味もあるので、初めの部分を引用します。 『法廷のイラストが映し出される。殺意を否認し、遺体をドラえもんが何とかしてくれると思った、などとする被告の元少年の主張が伝えられる。被害者の遺族が憤りを語る。そして、司会者らが「笑わせんじゃないよ」「世も末」と被告と弁護団を非難する。 山口県光市で起きた母子殺害事件の裁判をこんな風に取り上げたテレビ番組を見た人は少なくあるまい。 こうした番組作りは、公正性、正確性、公平性の原則からはずれ、視聴者の不利益になる。そう批判した意見書が、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会から出た。(中略) 今回検証したのは、昨年5〜9月に放送された情報番組などで、NHKと民放計8局の33本。一部のニュースを除くほぼすべてが「〈奇異な被告・弁護団〉対〈遺族〉という図式を作り、その映像を見たコメンテーターらが感情的な言葉を口にする」とされた』 同社説は、このような報道は裁判員制度の裁判員に予断を与えかねないので、報道規制を招く恐れがあるとし、現在のテレビ番組のあり方に懸念を示しています。 BPOの指摘はもっともなものであり、それを受けたこの社説は、このようなテレビの姿勢によってやがて報道の自由が制限されるかもしれないという危機感を訴えるものです。社説の主張は大変重要であり、かつ納得できるものであります。 しかしながら不思議なことに、この社説はなぜか他人事のように書かれています。朝日新聞はテレビ朝日の株の3分の1以上を保有する筆頭株主であり支配権を持つ立場ですから、他人事で済ませるのは不可解です。テレビ朝日だけBPOの指摘を受けなかったなのなら別ですが、そうでなければこの社説は当事者の自覚が足りないと思わざるを得ません。 傘下のテレビ局の作った番組の問題点が指摘されたのなら、それを認めてきた親会社としての意思表示があってもよいのではないでしょうか。 一方、翌日(4月21日)の天声人語には次の言葉が載っています。 「前橋では今月上旬、目抜き通りのチューリップ約千本が切られた」「他人を信じにくい世の中になりつつあるのか」「かくて、おおらかさの灯(ひ)は一つ、二つと消え、人を見たら泥棒と思えとばかりに、世は息苦しさを増していく」「疑心暗鬼の影さす中に、皮肉な金言だけがてらてら光っている」 これらの言葉のように「治安が悪い方向に向かっている」と考える人は増えているようです。事実、朝日新聞の殺人記事数は増加し、85年に比べ03年には5倍近くになっています。ところがこの間、実際の殺人事件数は増えるどころか、減少しています(参照)。 朝日新聞をはじめとするメディアが殺人事件や凶悪事件を大きく、多く報道するという努力の結果、「他人を信じにくい」「疑心暗鬼」の世の中が出来上がり、天声人語でそれを嘆いているのです。かつてこういうやり方をマッチポンプと呼びました。もし意識的でなければ、これも自らが世相を作り上げたという当事者の自覚が足りないと思わざるを得ません。 |
08/04/21
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毎日新聞の記者同士で論争・・・果たしてその見識レベルは? 毎日新聞に「記者の目」というコラムがあります。むろん納得のいくものも多いのですが、今回取り上げる記事は記者の見識を示すものとして興味深いので紹介します。食品の安全に関する中村記者のコラムに対して2名の記者が反論を書いています。3番目の行友弥記者の記事(2月18日)の初めの部分を引用します。 『中国製冷凍ギョーザによる中毒事件など食の安全をめぐる問題について、本欄で中村秀明記者は「消費者の自覚を促すべきだ」(2月14日付)と主張し、井上英介記者は「消費者に『もっと学べ』は酷だ」(4月4日付)と反論した。「節操がない」と言われそうだが、いずれの主張にも一理あると思った。この問題は「白か黒か」の二者択一ではない。自分なりの視点を付け加えてみたい』 と続くのですが、以下を簡単に要約します。中村記者は、消費者は王様とされて増長し、買うだけの無知な存在になったとし、消費者の自覚を求めました。それに対して井上記者は、夫婦共働き、片親の家庭、将来の保証もないワーキングプアを持ち出して冷凍食品の必要性を述べ、余裕のない彼らに「もっと学べ」と求めるのは無理であり、行政に安全性を求めるべきだとしました。 行友弥記者は、「海外を含む長い生産・流通・加工過程のすべてを監視し、偽装表示や異物混入を防ぐことができるのか。完ぺきを求めれば膨大な費用がかかり・・・」として、消費者行政の限界を指摘します。彼はいずれの主張にも一理あると思ったといいながら中村記者に近い立場です(この後、行友記者は安全性への言及を止め、食糧に関する教育へと話を持っていくのですが、これは納得できます)。 以上の議論は食品の安全性をめぐってのことですから、安全が重要な問題であれば十分意味を持ちます。偽装表示や中国製ギョーザ事件のために食品の安全性は大きな話題になりましたが、それは本当に重要なものでしょうか。次のデータをご覧下さい。 2007年の食中毒による死者は、フグなどの動物性自然毒が2人、キノコなど植物性自然毒が3人の計5人であり、97年〜06年の10年間で死者が10人を超えたのは02年の1回だけです。これがどれくらい危険なのか、他のリスクと比較します。 06年の家庭内事故は転倒・転落死2260人、浴槽での溺死3316人、食物の誤えん死2492人、火災による死者1319人、など合計12152人となっています。また交通事故死は約6000人です。年間1万人を超す死者を出す家庭内事故をろくに報道せず、年間数人の死者の、それも自然毒によるものが多い食品の安全に大騒ぎする報道、おかしくないですか。 食中毒死の大部分は自然毒によるもので、販売されている食品によるものは僅かですから、過大に考えるのは不合理です。人間の注意力は無限ではないので、どこかに注意を多く向ければ他に向ける注意は減ります。心配するならもっと高いリスクのものを心配するのが合理的です。 食品によるリスクは全体から見てどの程度のものかきちんと認識した上で、報道の大きさを適切に決めることが、メディアと記者に求められる役割です。他のリスクの程度を知らず、つまり、木を見て森を見ず、では社会をミスリードしてしまいます。 この3名の記者、とりわけ初めの2人の記者は食品の安全性問題をひどく過大評価しているのではないでしょうか。普通の人がどう考えようが勝手ですが、オピニオンリーダたる記者がそれでは困ります。記者の誤った見識はそのまま読者に伝わり、場合によってはパニックを起こすこともあります。また世論を煽り、それが政府を動かして、要らぬ規制を招いたりすることもあります。 食品の安全を騒ぎ立てた他のメディアにも言えることですが、まともなリスク評価のできない記者が目立ちます。オピニオンリーダーの見識が低ければ、国民の見識はそれに引きずられ、政治もまた選挙を通じて影響を受けます。言うなれば社会が被害を受けるわけで、どうにも始末の悪いことであります。 (参考 これでも新聞記者? 記者の資質を疑う朝日記事)←朝日も負けていません。 |
08/03/17
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教え子を脅迫した校長逮捕事件の報道・・・ひとりの人間を葬った報道に予断はなかったか 教え子だった女性に交際を強要する脅迫のメールを送った疑いで、公立高校の校長が逮捕された事件がありました。 逮捕直後の3月9日のアサヒコムには「女性が在学中だった02年1月にみだらな行為をして以降、女性が嫌がっているにもかかわらず、計5年間にわたり関係を迫ったとされる」「校長室のパソコンからメールを出した」「メールの数は数十回に及んだ」などと、悪質な脅迫者像を伝えている印象があります。 勤務中に私用メールを出すことはわざわざ非難するほどのことでもないと思うのですが、これを書いた記者はきっと聖人のような清廉潔白な人物なので許せないのでしょう。 容疑者が脅迫の容疑を否定している状況では、警察発表は女性側の言い分が中心になっていると考えられます。報道は警察発表の中から取捨選択し、まとめられたものでしょう。警察以外の取材からは教育熱心な評判のよい先生という矛盾する事実だけが報道されています。 容疑者側の言い分は犯意を否定したということしか載っていません。容疑者は悪質な犯罪者であるという予断に基づいて記事が書かれたということはないでしょうか。事実は起訴、裁判を経て明らかになるでしょうが、裁判で有罪が決まるまでは 犯罪者でなく、容疑をかけられただけの状態です。 この種の事件では、有罪となって刑事罰を受ける前に、社会的な制裁を受けるケースが多く見られ、被疑者にとってはその方がより大きい痛手になりがちです。逮捕段階での報道によって被疑者は回復不能な罰を受けてしまいます。メディアがろくに調べもせず、裁判より先に容疑者を裁いてしまうのです この2月の沖縄の米兵による暴行事件では米兵が強姦を一貫して否定しているにもかかわらず、強姦を前提とした記事が全国を駆け巡りましたが、結局、告訴取り下げになり、真偽は不明のままということになりました。しかし、容疑者の主張どおり「体にさわっただけ」であれば彼は理不尽な扱いを受けたことになります。 そして昭和50年5月、ある銀行の支店長が2歳になる知恵遅れの幼女を餓死させた、として逮捕され、9ヵ月後、有罪判決を受けたあと彼は自宅へ戻ることなく電車に飛び込んで自殺した事件を思い出します。後に、誤認による朝日の悪意ある報道が彼を死に追いやったとする朝日内部の調査報告が作られました(「新聞記者 疋田桂一郎とその仕事」参照)。この報告を知らない人にとって、彼は死後も鬼のような父親のままです。 「新聞記者 疋田桂一郎とその仕事」には次のように記述があります。 「情報の味付けによって記事の扱いが大きくなれば、それが広報担当者ないしは警察幹部の点数になるのである。東京の各警察署は警察記事の切り抜きにはげみ、扱い件数の多さと扱い段数の大きさを競っている」 警察の発表に、既に事件のストーリーが作られていることが多く、またメディアは記事を短くまとめるときにわかりやすいストーリーが必要になります。したがってストーリに矛盾する事実は省略されがちになります。わかりやすいストーリーで世間を驚かしたいという動機は警察とメディアの双方が持っているわけです。 問いたいのは、逮捕直後、双方の言い分が食い違っている段階で、警察発表に基づく一方の言い分によりかかっただけの安易な報道を大々的にしてよいのかということです。もし間違っていれば、容疑者に取り返しのつかない被害を与える危険を冒してまで報道することに果たして意義があるのでしょうか。 せめて確証が得られるまでは抑制した報道にすべきではないでしょうか。 |
07/12/27
| もうひとつの報道被害・・・医療崩壊を推進するマスコミ報道 医療裁判に巻き込まれたことを主な理由として外科部長が病院を辞めた。彼は肝臓手術の専門家で、肝臓に転移したがんの新しい治療法に取り組んでいた。ガンが転移して他の治療法がない患者に、死亡率は20%くらいと説明し、本人とその妻に同意を得た上で新しい治療法を実施したが、不眠不休の治療の甲斐なく患者は亡くなった。同意を知らなかった患者の娘が納得せず、訴訟になった。医師は訴訟には勝ったが、多大の心労を負い、「もう、いやになった」と漏らした。 以上は産経のコラム【断 久坂部羊】07/12/23付を要約したものです。 コラムの著者は最後に「何とか患者と医療者の敵対する状況は避けられないものか」と結んでいます。 小松秀樹氏は著書「医療の限界」の中で「産科医は訴訟をきっかけにしばしば参加医療から離れます。私の直接知っている医師にも、訴訟を機に産科をやめた医師が複数います」と述べています。 ある大病院の勤務医は週80〜90時間働いていますが、例外的なケースではないそうです。プライベートの時間はほとんどありません。これに訴訟が加われば心身ともに耐えられず、仕事への意欲を失いかねません。 一方、救急患者の受け入れ拒否の増加が問題なっています。 「救急搬送された患者が医療機関から受け入れを拒否されるケースが、この数年間で都市部を中心に激増していることがわかった。堺市周辺や兵庫県の尼崎、西宮両市などで数倍にのぼっている。堺市高石市消防組合の場合、5回以上の拒否件数は04年に65件だったが、06年は476件と7倍以上、川崎市でも04年に5回以上の拒否が679件だったが、06年は1269件に増えた」(9/21朝日大阪夕刊から1部を抜粋) 医師不足が背景にあると説明されますが、この2年間の急増ぶりは十分な説明になりません。大きい理由は病院が訴訟リスクの高い救急患者を敬遠しているためだと言われています。 医療訴訟が増加した第一の原因は医療に対する不信感の増大でしょう。NPO法人「ささえあい医療人権センター・コムル」によると、年ごとの医療事故に関する関する新聞記事の件数と医療不信の相談件数が強い相関関係にあったされています。 やや図式的になりますが、医療事故の報道が医療不信を招き、それが訴訟を増加させます。その結果、医療側が、救急患者の受け入れに消極的になる、またリスクのある積極的な治療を避ける、医師がリスクの高い診療科を避けるという「自衛策」をとったもの、と見てよいでしょう。 医療事故の報道自体は必要です。中には訴訟されて当然というケースもあるでしょう。しかし、報道が過大であったり、医療を理解する能力もないまま医療側の責任を過度に問うような報道の結果、信頼関係で結ばれるべき医師と患者が敵対意識をもってしまうことはとても不幸なことです(弁護士は喜びますが)。ごく一部の事故が過大に報道されれば、不信は全体に広がるでしょう。 医療はそもそも不完全なものであり、当然リスクが伴います。マスメディアは事故があるたびに責任者を指弾しますが、そのとき完全無欠があたりまえという立場をとりがちです。その方が激しく責められるし、それが被害者への同情を集め、メディア自身の正義(本当は偽善?)を印象づけるからです。コントラストが強く、サプライズのある記事が見世物としては重宝されます。 記事にコントラストを作るための便宜的な厳しい正義は読者・視聴者を徐々に不寛容にし、不信感の強い人間を生み出します。安全であっても、消費期限を延ばす行為はこの1年でひどい悪事とみなされるようになりました。 医療側は正当な理由なく診療を拒否できません。不特定多数の患者の中に少しでも敵対しそうな者がいれば、対策をとらざるを得ません。訴訟を避けるために事前の説明に多くの時間を割かざるを得なくなりましたが、それが医師不足をさらに激化させていると言われています。 過大な報道は医療に大きな負担を強いるだけでなく、受け入れ拒否や、防衛的な治療しかやらないなど、患者にも大きな不利益をもたらします。既に産科と小児科の医師が減少していますが、将来は内科や外科など生命にかかわる医師の減少の可能性もあります。 患者に比して強い立場の医療者を強く指弾する記事は、記者や読者にカタルシスをもたらす反面、大きい代償を払っているという事実にメディアはもっと気づくべきです。 記者やマスコミ幹部が救急患者となって、受け入れ拒否に遭えば、記事の書き方が少しは改まるかもしれません。それを期待することにしますか。 |
管理人 岡田克敏
(京都市在住)
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