猫族の呟き 


雲雀

青空はヒバリの声で澄み渡り −虚心−

今日は八王子方面に出向きました。駅を降りるとすぐに、苗が植えられたばかりの水田があったりして、そこには懐かしい田舎の光景がありました。 喧騒な幹線道路を横切って静かな農道を進むと、道路沿いの堀には高尾山が近いせいなのか、水が勢いよく音をたてて流れています。 藻が透けてみえるくらいこの辺は水も澄んで綺麗なんですね。 思わずメダカが居るのじゃないかと佇み、暫くじっと覗き込んでしまいました。 道端の草花や土の匂いを愉しみながら、うねうねとした道をのんびり進むと三叉路に、すっかり葉桜になった大きな形の良い桜の木が伸びていて、その木蔭になった木の根元には小さな道祖神が祀られており、近所の心ある人が供えたらしい花が一輪・・・とても絵になる光景でした。 大きな納屋がある農家や不動尊の厄除けうちわが玄関先に飾られた家を珍しく眺めたりしながら、昭和を感じるその懐かしい光景に心がすっかり和んでいきました。 そんな何ともいえない幸福感に満たされていると、頭上高く雲雀の囀りが聴こえてきました。 垂直に舞い上がって大空で歌う雲雀。 その声は初夏をおおいに愉しんでいるようでした。額の汗をぬぐいながら首をかえしその姿を求めましたが、真っ青な空には白い雲がただ浮かんでいるだけでした。 

露草

六月の花といえば紫陽花。 雨に濡れた花房は見事だけれど、白や淡い青、または濃い紫などの額紫陽花が、よりいっそう趣きが深いような気がします。 紫陽花は日本が原産でオランダの医師シーボルトがこの花に魅せられてヨーロッパに紹介した話は有名ですよね。 この時期、水辺では花菖蒲やかきつばた、水芭蕉といった眼にも涼しげな草花が沢山みられますが、私がいちばん心惹かれるのは道端に咲く露草です。 夕立の後、まだ黒く重たい雲の残る隙間から太陽が顔を出し、露草の葉の雨の雫がきらきら輝いて見える風情などは、なんとも可憐で美しく思われます。

春の淡雪

淡雪のこの頃続ぎてかく降れば梅の初花散りか過ぎなむ -大伴坂上女- 
(このごろ淡雪が降り続くのでようやく咲いた梅の花が散ってしまうのではないだろうか)

万葉集にはこうした梅と雪を詠み込んだ歌が結構おおいんですよね。 春の訪れを真っ先に伝えてくれた梅の花が、風雪に曝されて吹き散らされるのは何とも痛ましく感じられるものですよね。 名残りの雪に愛惜の情をそそられつつも、命の芽吹く春を待ち侘びる心とが綯い交ぜになって季節の変わり目っていうのは、本当に詩情豊かな光景が広がりますよね。 「雪月花」とはよく言いますが、今日、梅の花に降り注いだ淡雪はみるまに消え、澄んだ空には丸い月が顔を出していましたね。

鬼は外 福は内

あらかじめ炒った豆を桝にいれ供えてあったものを神棚からおろし、父が大きな声で開け放った窓から豆をまく光景は今でも脳裏に焼きついています。 「鬼は外! 福は内!」普段から厳しくて怖い存在だった父の、その凛と張った声が寒夜の空に響き渡ると、なんだか身の引き締まる思いとともに父の後ろ姿が大きく堂々としているのを幼心にも頼もしく思ったものでした。 蒔き終ると邪気が入り込まないように、ピシャっと大きな音で雨戸を閉めて、それから家族みんな一緒になって部屋に蒔かれた豆を年の数だけ拾って食べると、あちらこちらの家からも「鬼は外 福は内」の声が遠く聞こえてきて、行事というものの厳かさを味わったものでした。 「お父さんったら、なにもこんなにムキになって蒔かなくたって・・ねぇ」 翌朝、外に蒔かれた豆をそういって苦笑する母と共に片したのも今は楽しい思い出です。

埋み火

今日は朝からの雨。冬の雨ってどこかしら物哀しいですよね。心まで凍てついていきそうで、気持ちがどうにも塞ぎがちです。

うづみ火にすこし春あるここちして夜ふかき冬なぐさむるかな
 - 藤原俊成 -

灰に埋めた炭火の暖かさ、そこにわずかな春のぬくもりを感じる繊細さがいいですね。世の人に知られることなく、ひとり孤独のうちに悶々とした日を送る者にとって、赤く燃える炭火は人のぬくもりを想起させるものだったに違いありません。 やはり人は人のぬくもりを感じないではいられないものです。人の優しい気持ちに触れた時、長く心の奥底につかえていた鉛のような塊りは自然に溶けていきますよね。溶けた想いは泪となって溢れます。そして、頬を伝う泪はとても温かい。 
また一方で、仄かに燃える埋み炭は消し去ろうとしても消せない心の想いにもたとえられますね。それは、残り火という、いつかは消え去るものでなく、そう、永遠になくなることの無い想い。それが愛情というものなのでしょうね。けれども、この愛情というものは時に厄介なもの。人は単純にして複雑だから、いたずらに届かぬ想いが空を彷徨っている間に大事な人の姿を眩ませてしまったりするんですね。だから、この世には、はぐれてしまった片羽の翼が幾つも舞っています。

去年今年(こぞことし)

去年今年貫く棒の如きもの  − 高浜虚子 −

昨日が今日に変わる。 時が1秒すすむだけ。 そう、 ただそれだけのこと。 1年365日、そのなかに特別な1日は無いはず。 でも、除夜の鐘が寒風をつき深閑とした夜のしじまに響くなか旧い年は去り新しい年が始まりを告げると、やはり 自然に心は改まっていくものですね。 

年暮れて我が世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな −紫式部−

年が改まると誰もが1つ年を重ねます。 時をひとつ見送りながら心の奥に去来する思い。 風の声は、その心に何を囁いているのでしょうか。

年末の風物詩

12月も半ばに差し掛かかると気忙しいものですよね。大掃除のなかでも大変なのは障子の張替えです。 昔は障子が多かったので、それは本当に大変な作業でした。いまも年末になると子供時代の懐かしい光景が浮かんできます。 この時期、大家族だった我が家では家族総出で大掃除をしました。 祖父も祖母も、父と母、叔父さん叔母さん、そして私達子供たち・・。男性陣は手ぬぐいで頭も鼻口も被って、部屋中の畳をあげては庭へ運んでバンバン叩きながら虫干し、女性陣は縁側でわいわいお喋りしながらの障子張りです。「さぁ〜おまえ達おいで〜、今日は思いっきり破っていいぞ!」なんて、父が号令をかけると、1年の汚れを吸って黒ずみ、薄くなった障子を私達子供達が競うようにビリビリ剥がしたものです。
あの時、あの青空とぴりっとする空気のしたで、みんなが生き生きと笑っていました。ひとつの年を越し、また新しい年を迎える華やいだ気分のなかで皆の顔は輝いていました。 今は父も母も居なくなってしまったけれど、この懐かしい光景は何時までも褪せない、確かな生きた証なんですね。 

優しい雨

今日は空気が和らいでとっても暖かい1日でした。夜半から降り出した雨垂れの音が何時やむともなく静かに響いて。窓を伝う雫の先には街灯の淡い瞬きが、微かに滲んで見えるだけ。この季節、街で暮らす猫たちを思うと冬の雨は厭わしいけれど、今夜のこの温かい雨は優しい慈雨となって大地に沁み入り、何処か軒下で丸くなっている猫たちの子守唄になっているかもしれません。 何時だったかコンビニの前で雨宿りをしていた人懐っこい猫ちゃん、缶詰めを買ってあげたら夢中で食べてたっけ。あの子はどうしているかな? あの日連れて帰ってあげれなかった心の疼きがちょっぴり甦ってきます・・・。こんな夜は静かな曲でも聴いていたい。

木枯し

道端の固まった落ち葉を一息に吹き散らすような、強い木枯らしの日でした。 最後まで枝にしがみ付いていた葉っぱ達も、この吹き渡る風に容赦なくもぎ取られ吹きさらわれていったことでしょう。 木枯らしの後には、耳が痛くなるほどの冷たい北風が吹いて、もうすぐ本格的な冬がやってきます。 風の音を朝からずっと聞い
ていたせい? こんな日はやっぱり鍋ですよね?! 買い物の帰りに通りかかったコンビニで、ついつい、おでんを買ってしまいました。 私がコンビニのおでんを初めて食べたのは今年の夏のこと。入院していた母の食事制限が解禁になった日でした。「何でも良いからスープ系のものを口にしたい」と母が言うので、コンビニのおで
んを買ってみたら、これが意外に良い味で、とっても悦んでくれましたっけ。「美味しいねぇ」と言って満足そうに私をみつめてくれた、あの輝くような笑顔はもう二度と見られません。 昆布、つみれ、牛蒡巻、しらたき、はんぺん、たまご・・・あの時と同じものを今日は独りで食べました。 泪が滲むほど辛子の効いたスープを最後の一滴まで飲み干して。 ふぅ〜 美味しいねぇ・・。

聖夜にともる灯り

西の空に薄っすらとした茜雲が広がる夕間暮れ。遠くに見える山の稜線も次第に闇と融けあい、ひとつ、またひとつと、家々に門灯が点り始めてゆきます。 その柔らかな灯りは私たちを優しく包み、くたびれた心を和ませてくれます。 この時間きまって誘われるように、私はお買い物にでかけます。 両手に余る重い買い物袋を下げながら家までのほんの短い時間、とっぷりと暮れゆく空を仰ぎながらその日の空気を胸にいっぱい吸い込みます。 家々の窓から洩れる灯りを見上げれば、そこには灯りと同じ数だけの安らぎと幸福が閉ざされているようです。 それは誰も受け付けない、その家族の為だけの空間なんですよね。 手が届きそうなほど近いのに遠くかけはなれた空間。 その隔たりがなんだかとっても心地よくて・・・。 今宵は灯りがもっとも似合う聖夜。 夜の海に銀河の如く広がる華やかな光の祭典もいいけれど、野良猫が徘徊するような、うら寂びれた路地裏の小さな灯りの帯も妙に心をそそるものです。 いづこの街にも人が溢れ、それぞれが温かな灯りの待つ家路を辿っているんですね。

雪模様

東京にしては珍しく12月初旬での積雪になりました。 屋根も道路もすべてが徐々に雪で覆われると、自分を取り巻く日常的な場所が違った空間に見えてきたりしますよね。ふわりふわりと漂うように天から降り注ぐ雪は、自分の中の荒ぶる気持ちをも優しく包み込んでくれるようで安らぎを感じさせてくれます。「冬」と「雪」とくると、連想するのは篭るということば。 「冬ごもり」という言葉が季語にもありますよね。かまくらを作って篭るのは遊びの域を出ませんが、ぬくぬくとした安らかさがあって、なかなか楽しいものですよね。でも西行の詠んだ句には切々とした思いが込められています。

さびしさにたへたる人の又もあれな庵ならべむ冬の山里 − 西行 −
(淋しさに耐えている人が他にもいたのなら共に庵をならべて慰めあえるものを)

雪に覆われた山里に世俗を離れて隠棲し、孤独と引き換えに自由な精神を求めてはみても、耐えがたい淋しさのつのる厳冬ともなれば、同じ思いの友を求めてしまうというのは矛盾ではあるけれども、やはり人は人のぬくもりを感じないではいられないからですよね。

小春日和

小春・・・・なんて愛らしい言葉なんでしょうか。深まる冬を前に、澄んだ空は青く晴れ渡り、風も絶えた長閑な一日。嵩張るコートを脱いでぶらりお散歩には最適の好日ですよね。 近くの神社の境内には大きな銀杏の木があって、見事な黄金色に色づいています。地面にも沢山舞い散って、天も地も、それはそれは輝くばかりです。細い路地を抜けると野良猫ちゃんがいる空き地。隣家には山茶花の垣根があって、真っ白い花が可憐に咲き誇っています。♪さざんか さざんか咲いた道 焚火だ 焚火だ 落ち葉焚き♪焚火といえば焼芋ですよね。子供の頃は枯れ葉拾いを手伝った後に、こういう美味しいご褒美が待っていて皆でわいわい言いながら食べるのが嬉しかったんですよね。 それにしても最近は道端で遊ぶ子供達の姿を目にする事がなくなったような気がします。子供は風の子なんて死語になってしまったのでしょうか。 

落ち葉

秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し 鐘のおとに 胸ふたぎ 色かえて 涙ぐむ 過ぎし日の おもいでや げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らう 落葉かな−ヴェルレーヌ「落ち葉」−

散る桜、玉と落ちる露などと同じように人の世の儚さ切なさなに喩えられもする落ち葉。移ろう季節のあわれさを強く感じさせるのは、この紅葉の色彩の豊かさ故でしょうか。舗道に散り敷かれた赤や黄色の葉が冷たい時雨に濡れているさまや、川に舞い散ってながれてゆく様子などはとても風情がありますよね。でも、冬枯れの木々に輝く陽の光りは来る春の息吹を静かに呼んでいるんですよね。


あやとり

今日は週末とあって電車の中は満員。入り口から中ほどに押し込まれ、漸く吊り革を掴んでホッとした時、珍しい光景が眼に飛び込んできました。目の前の座席で小学校の高学年らしい女の子が2人して熱心に綾取りをして遊んで居るんです。「今時の子供もこんな古風な遊びをするのかしら?案外、子供達の間でいま流行ってるのかしら?でも、こういう遊びが今でも子供達に受け継がれているなんて嬉しいなぁ〜」なんて事を思いながら、綾取りの「綾」という語感が何だかとっても懐かしい響きで、暫らく頭の中は「あやどる」「あやなし」「あやふや」「あやぶむ」といった言葉の連想で一杯になってしまいました。その間も、子供達の手が器用に動いて交互に様々な紋様を形作っていきます。まさに縦横斜めに打ち違って綺麗な糸は「綾なす」状態。工夫次第で何通りの形が出来るものか判らないけれど、一本の糸でこんなにも夢中になって楽しく遊べるのは、きっと創造力を掻き立てて呉れるからでしょうね。そして、それが昔も今も遊びの基本なんですよね。 板切れ1枚、空き缶1個あれば充分!飽きることなく、とっぷりと陽が暮れるまで外で遊んでいた子供時代の自分が、一瞬、車窓に映りよぎっていきました。

あじさい

こころをばなににたとえん こころはあぢさゐの花 ももいろに咲く日はあれど うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて ― 萩原朔太郎「こころ」 ―

ようやく梅雨入りしました。やはり、あじさいの咲く6月には、しとしとと糸のように降る優しい雨が相応しいように思われます。こんもりと鞠のようにたわわに咲いたあじさいの色うつろう様には誰もが心惹かれるのではないでしょうか?芍薬や牡丹といったあでやかさが目立つ華麗な花にはない安らぎを感じさせてくれるあじさい。その微妙な色合いをみせる花弁に滴り落ちる雨の雫は、人間の心の繊細さや翳りを表しているようでしっとり心に沁みてくる光景ですよね。

知らぬ同志が

この数日は強風が吹き荒れましたね。華奢な私など「オズの魔法使い」の竜巻にさらわれるドロシーのように怖い思いをしましたぁ(あっ皆さん、座布団飛ばさないでぇ〜^^;) 先日の夕方、最寄の駅前に買い物に行こうとバスに乗り込んだときの事です。私の後から小走りに掛けて来たお婆さんのスカーフが風に煽られて飛ばされてしまったんですが、咄嗟に若い運転手さんが素早くバスを降りて数m先に落ちたスカーフを拾ってくれたんですね。いつもぶっきらぼうな運転手さんが多いのに、こういう人も居るんだなって、ちょっと感心しました!乗り合わせたオジサンの「息子と運転手さんは同じ位だなぁ〜」の一言を皮切りに、自然とお婆さん、私、運転手さんも交えての夫婦談義といった四方山話に花が咲き、西陽を背に走るバスの車中には、いっときほのぼのとした笑いが溢れました。私はこの時、ふっと独身の頃に乗った田舎の乗合バスに居る錯覚を覚えたんです。それだけ今の都会生活では見知らぬ人達と言葉を交し合うことなんて滅多にないんですよね。♪知らぬ同志が小皿叩いてチャンチキおけさ〜♪なんて歌があったけど、このバスでの十数分間はとても心和むひと時でした。(うわぁ三波春夫、古すぎ!私ってまだ若いのに何故こんなのまで知ってるんだろ^^;)

風とともに

むかし、よく線路を歩いて帰ったものです。枕木を1つおきに飛び越えたり、地面に耳をつけて何かが迫ってくるような音にワクワクしたり・・・道草はとても愉しいものでした。遠く連なる山並みは緑ゆたかに笑い背を包む陽は暖かかった。土手のように盛り土された線路の両側にはシロツメ草や菜の花が風に揺れていて、それを見ている私も一緒に揺れて・・・。ふっと花を摘む手を休めると、見えない風が甘い香りを放ちながら頬をひと撫でして囁いて行く「ここに居るよ」って。風は自由の代名詞。どんな垣根を作っても至るところ随意に風は立ち、野面をわたる。それにひきかえ何て自分はつまらないんだろう。心に幾つも柵をめぐらし小さく囲ってしまおうとする。この胸につかえた小さなわだかまりも早く消え去ってくれないか・・。今 ゆきすぎる風とともに。

 はらはらと

さくら花ちりぬる風のなごりには水なきそらに波ぞたちける ―紀貫之―

東京はすっかり葉桜になってきました。桜が咲く時期というのは天候も不安定なものだから「この風雨で花弁が散りはしないか」と何時も心にかかるものですよね。だからこそ桜は殊更に日本人に愛されてきたのでしょうね。はらはらと風に舞い散る桜花。風は波のように桜を大空に散らせているという感覚で捉えたこの歌。空と海と風と花と・・・波打ち際で泡だって消えていく波とはらはらと散りしきる桜の花・・。イメージが重なって美しいなって思うと同時に、風の名残り、花の名残りといった「名残り」のもつ儚さに憐れを感じます。この世には、何時までも姿を留め得るものは何もないけれど、姿を変えても眼には見えずとも尚、そこに残るものは何かしら在るんですよね。だから人は躓いたり転んだりしながらも生きていけるのでしょうね・・。

 いつまでも

家に居るとよく電話がかかってくる。大抵は何かの勧誘だったりセールス。今日はもう3回も!! だから「お母さんは今いません!」って言ったら「ふふふっ」って軽くいなされちゃった、ぐやじい〜 ><  うぅ〜ん、可愛い声だってよく言われるんだけどなぁ〜通用しなかったか! でも、良いのさ!心はいつまでも乙女なんだもぉ〜ん ^^ゝ

 心の傷

むかし誰かがテレビで言ってた言葉が記憶に残ってる。「人の言動に傷つくのは勝手に自分で傷ついてるだけだ」って。ネット世界のネガティブな部分ではこういう被害妄想的な感情が災いしてトラブルを引き起こす事も少なくないようだけど、たとえ一瞬へこみそうになっても「傷ついてる場合じゃぁ〜無いよ」って立ち直れる心の強さを持ってないといけないよねぇ ♪さぁ、泪をふいて〜ルルル・・あなたに愛をあげましょう 星のひびきのような 風の光るような きらめく愛を♪(作詞:阿古 健)

見上げてごらん

冬空にらんらんと蒼白い光を投げかけて一際冴えるシリウス。まだ浅い春の宵、北の空に煌くのは北斗七星。四季折々に夜空を仰ぎ見る時誰もが心に甘い郷愁を感じるのは何故だろう?太古の人々も感じたであろう宇宙の深淵に触れて抱く夢や浪漫のせいなのか・・・悠久の時のなかでは、瑣末な事に一喜一憂する自分のなんとちっぽけな事か!そう想い至るとき、人は涯のない空間に包み込まれているという安堵感に充たされるのだ!なぁ〜んて気取ちゃって^^; この時期一番判り易い星座はオリオン座。オリオン座の下には猟師に睨まれてうずくまるうさぎ座が・・。星を眺めていると涙が乾いてきますね。 




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