たかが猫 されど猫 


猫と居ること

「猫を飼ってる」というのには抵抗を感じます。猫は飼いならすような生き物ではないので余計にそういう気持ちが強いのかもしれませんが、「猫と共に居る」そういう表現の方がより相応しく感じます。古来より多くの人を魅了しつづけ、そして愛されてきた猫は詩や小説にも数多く登場します。このコーナーでは猫に関わる人間の姿を幾つかの作品を通して紹介していきたいと思います。
【画像は在りし日の健太郎君。NYの自宅窓よりワールドトレードセンターを眺めている所を撮影/無断転載はご遠慮くださいね】

「共生論」 松田幸雄

ソファーを頒かち合いながら
ヘーリオスとぼくは眠る
彼は寝返りを打ち
足をぼくの脇腹に突っ張る
ぼくは寝返りを打ち
腕を彼の上に乗せる

が いつとはなしにどちらかが譲って
ふたたび平和に眠っている ルールとして
彼はけっしてぼくの眼に爪を立てないし
ぼくは彼の髭をへし折ることはしない
つまらない矜りがそれぞれの魂を守っている
それを知るぼくらは等人格で等猫格だ

やがて 彼は起き上がって扉を引っ掻く
ぼくが開けてやると
何事もなかったように じつに自然に
闇の中へ消えて行く
ぼくは帰りながら(どこへ?) 思う
すべての人間もこのように生きられたらいいのにと

特別な猫

【ノラの三月二十七日が迫りて昼も夜も目の中が熱い。庭の彼岸桜の枝に薄色の花が二三輪咲きかけているのを見ようとしても、その下でノラが遊んでいた姿を思い出し、花びらがうるんでよく見えない。】

内田百聞が「ノラや」で書き記している一節です。
66歳で作者が野良猫だったノラに出会うまで、作者は特別猫が好きだったわけではないと語っていますが「もとの低い物置小屋から降りてきた野良猫の子のあんなに小さかったノラがうちで育ってこんなになっている。それが可愛くてたまらない。『ノラや、ノラやノラや』といって又さすってやる」というほど家族の一員になったノラに愛情を注いでいきます。その可愛がりようは並みの猫っ可愛がりぶりではなく、「家が少人数だから食べ物のやり繰りは利かない。猫が食べなければその始末は私共がしなければならない。小あじを買いすぎて残ったとなると、ノラにそう沢山押し付けても食べないものだから、結局私共(夫婦)が酢の物にしたり、天麩羅にしたりして頂戴することになる」というほどで風邪を引いたとなれば湯たんぽをこしらえ、手製のプリン、すし屋の卵焼きまで供する溺愛ぶりです。寝ているノラにちょっかいを出したりしてからかってみたり、こうなると老作家の方がすっかりノラに構ってもらってるようなものです。
ところが、こうまでして可愛がっていたノラがある日、家を出たっきり戻ってこなくなりました。「一日じゅう紙一重の気持ちで、下手をすれば堰を切った様になって何も出来ない。ノラやと思っただけで後は涙が止まらなくなり、紙をぬらして机の下を屑篭一ぱいにしてしまう」」というほど老作家は案ずるあまり日も夜もなく泪にくれて嘆きの底に沈んでしまいます。今でいえばペットロス症候群だと言えるかもしれませんね。老作家自身、これは病気だと思って医者にもかかっている位なのですが、どうにもまた執着してしまうという有様です。そして遂にはノラを求めて警察に届けたり、新聞広告や雑誌にも尋ね猫の記事を掲載したり、ビラを2万枚も地域に配ったり、その探し方も尋常でないスケールで展開されました。ここまで一匹の猫の為にエネルギーを注げるものでしょうか?私には老作家のノラに寄せる気持ちがわかるような気がします。それまで、さして猫好きでもなかった老作家がノラと過す日々で、たまらなくノラが好きになり気持ちが通うものを感じ、愛おしんでいった過程が人事でなく身につまされるように判るのです。ノラは老作家にとって猫以上のスペシャルな存在だったのですね。老作家は自身こう語っています。「一体私は猫好きというのではないだろう。そういう仲間に入れて貰う資格はなさそうえある。ただ、いなくなったノラ、病死したクル、この2匹が、いてもいなくても、可愛くて堪らないというだけの事である」 それにしても、こうまでして愛されたノラ君! 彼ほど幸せな猫っているでしょうか?人間のそんな気持ちには頓着しないのが猫らしいといえばそれまでなのですが・・・。あぁ〜それにしても、ほんとうに老作家をこんなにも嘆かせてノラは一体何処にいっちゃったのでしょうね?

猫に寄す

【僕は持ちたい 家のなかに  理解のある細君と  本のあいだを歩きまわる猫と それなしにはどの季節にも 生きて行けない友だちと】 アポリネール「動物詩集」(堀口大学訳)より

細君まではどうにもならないと言われる方でも、猫は持てますよね。持つというのも憚られますけど便宜上飼うといいましょう。猫は犬のように散歩に連れて行ったりする必要もなく誰でも簡単に飼えます。鎖につなぐ必要もなく猫は自由に家並みの路地から路地を渡り歩き、また蝶や小鳥を追いかけては樹々の間をすり抜け、飽きたら家に戻って本を枕に好きなだけ眠って過します。この厳しい自然の中で誰にへつらうことなく、自由さと不自由さの挟間でたった一人(一匹?)で生きている猫の姿に私達は自分自身への姿を重ね合わせてみたりするのではないでしょうか? 夕暮れ時、窓辺に立つ猫の後ろ姿って妙に哲学者的な風情が漂ってるんですよね。 訳知りな表情でジッと身じろぎもせずに虚空を見つめてる時なんか思わず「にゃんこ先生!」って声をかけたくなったりしませんか?

お猫さま

【はっと気がつくと窓ガラスに顔を押し付けてネコが鳴いていて、声は聞こえないから無声映画でも見ているような気になる。あけてやると、長い間待ってたんだよほんとに待ってたんだよと言いたげなようすで入ってきて、そのへんを歩きまわり、ひとしきりからだをこすりつけて、またすうっと、トイレの窓から外に出ていって、はっと気がつくと・・・というくりかえしを1日に何回やってるのだろう。わたしは家の中にいるかぎり、いつもいつも窓を、ネコに開けさせられているという被害妄想におちいりそうになるが、しかし、冷静に考えてみれば、そういえばもう半日もネコの姿を見ていないじゃないかということにもしょっちゅう気がつくのだ。そうなると、轢かれて死骸になってるんじゃないかしら、その死骸を発見した時はどんなきもちかしらと、したくもない想像をむりやりさせられているというべつの被害妄想におちいりそうになる】

伊藤比呂美さんの「ネコの家人」という散文詩の一節です。
この様子には猫を飼ってる人なら誰しもが大きく首を上下に振って納得させられ、次の瞬間には大笑いさせられる事でしょう!本当にどっちが主で従なんだかと考えさせられてしまいますよね。犬のように人間との関係は主従じゃないんだと、つくづく思います。気になって気になってしかたがないようにさせられちゃって人間の方が奉仕してるような錯覚に陥ってしまうのが「猫の居る家の人の姿」なんですよね。ご飯をあげるまで鳴き続けるのがうるさいから、自分のご飯より先に食べさせてあげる。ドアの前でじっと開けてもらうのを待っていれば、普段、夫にお茶と言われてもなかなか腰をあげない奥さんでも、いそいそと立ち上がり「ほら、行っておいで」なんて猫撫で声で見送ってあげる始末。そんな人間の心配りを、さも当然というように何事もなかったように、すっとドアの外にゆったり出て行く後ろ姿を見送って人間は満足してるんですからね・・。これを猫の側からみた言い分になるとこういうことになるようです。もう猫の気持ちを言い得てるようで爆笑間違いなしです!

【ネコは窓の向こうにいて口をあけて鳴いている。家人はいないよりいた方が絶対いい、とネコは確信している、とわたしは思う。とくに家人がいないときにそう思う、と思う。しかし、家人が家に帰ってきさえすれば、もうそんなことはどうでもよくなる。こんなところにいたってしょうがない。あああ、息がつまるじゃないか、この家庭というやつは、とネコは思う、とわたしは思う。それより、一人っきりの時間がほしい。自由もほしい。で、外に出ていく。雨が降ってようが、陽が照ってようが、かまうことじゃない。しかし外に出るとたちまち、家人が家にいるかいないか気になりだして、確認しないうちはおちおちテリトリーのみまわりもできやしない。で、それを確認しに帰ってくる。家人が家にいたからって、たいしたことをしてくれるわけでもないけれども、どういうわけか、いた方がこころよい。いや、いるかいないかよりも、自分のために窓をあけてくれるかくれないかだけでも、確認したい。ついでに、自分のために、缶づめをあけてくれるかくれないかも、確認できたらもっと嬉しい。缶づめの肉が食べたくて帰ってくるわけじゃない。まちがってもらっちゃこまる。自分はそんなにいやしくはない。たしかにあれはおいしいが、そんなことはどうだっていいのだ。問題は家人がそれを、自分のためにあけてくれるかどうかだ。自分の存在に気付いてくれる。窓をあけてくれる。缶づめをあけてくれる。それさえ確認できれば、何もかも捨てて外に出ていける。】




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