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判決・決定・裁判所 (2001年1月発行第22号掲載)

福田 護

 この1年の間にも、いくつかの判決や決定を受けた。快勝したものもあれば、完敗したものもある。そして中間的な勝ち敗けというのは意外と少ない。
 民事事件は判決にまで至らずに裁判上の和解で終了するケースの方が圧倒的に多く、その場合は多かれ少なかれ中間的な解決に落ち着くのであるが、判決となると勝ちと敗けとでは実際、天と地との違いである。勝敗はその人の一生をも左右しかねないし、少なくともその人の一定期間の生活を有意義にも無価値にもする。それは、関わった弁護士にとっても、費やした時間と注ぎ込んだ心情の価値を問われる事態でもある。
 高裁で勝訴が確定したある競業に関する事件は、その競業事件の最中に、懇意にしていただいていた依頼会社の社長が急死した、因縁めいたものであった。勝訴して、その死を汚すことなく済んだという思いがある。
 敗訴の仮処分決定を受けた事件は、相手方の余りの乱暴さにひきかえ、こちら側の正当性をほとんど確信していた事件であった。それが決定書では、こちら側が徹頭徹尾悪者に描かれた。
 きわめつけは、13年半にわたって私自身の時間の相当部分を費やしてきて、労働委員会では勝利を重ねてきた事件の高裁敗訴判決であった。裁判所は全くの形式論理で、当方の言い分をことごとく排斥した。法的正義、社会的正義はどこにあるのかと思う。なま身の人間の織りなす事実と生活史を斬って捨てる形式的法律論の無慈悲さを、つくづく思い知らされた。
 一方で、労働基準監督署の労災給付不支給処分が法的正義、信義則に反するとして、処分取消しの勝訴判決を受けたのは、裁判所というものにある種絶望しかけていた私自身にとっての救いであった。

 それにしても、と思う。判決や決定の内容、理由づけは、あまりにも極端に偏りすぎていないか。
 勝つときは、こちら側に一点の非もないかのように完勝し、敗けるときは立つ瀬がないほど悪玉に描き出され、三分の理すら認められない。いまの裁判所には、そういう傾向が強すぎるのではないだろうかと思う。その方が判決が書きやすいのであろう。忙しくて時間もないのであろう。しかし、裁判官にはもっと迷ってほしい、悩んでほしい、そしてそれを判決書の中に書き表してほしいのである。
 裁判所は、紛争を解決するための機関である。判決や決定は、紛争の最終的解決への一里塚である。そこで完膚なきまでに敗かされた当事者には、絶望か諦めか恨みしか残らず、その判決や決定は、前向きの適正な紛争解決にとって阻害要因にこそなれ、プラスには働かない。
 結論は敗かされても、「ここは自分の言い分を裁判所が認めてくれた」という部分があることが、本当は、判決や決定にとって大切なことなのではないだろうか。当事者の納得性は、それでずいぶん違うのである。それは、紛争の適正な解決へ向けての、次の確かな足がかりとなるであろう。もともと紛争で、一方が100%正しいなどということは、めったにあることではない。判決や決定の内容は、両当事者の正しさの度合いを映し出すものであってほしいのである。