| 先生は幼くして両親を失い、伯父に育てられました。少年のときから秀才で、江戸への遊学を志しましたが、学資を得るために蔵書を売らなければなりませんでした。江戸でも貴顕の家で家庭教師をしながらの苦学でしたが、次第に名声があらわれました。その後まもなくして、山田方谷の紹介で、備中松山藩(現岡山県高梁市)の儒臣となりました。藩主板倉公は先生を信頼し重用しました。
鳥羽伏見の戦いのとき、藩主板倉公は老中としてはただ一人京都にいました。先生は藩主の消息を得るために、変装して東奔西走し、ついに函館に隠れていた藩主の奪還に成功しました。また、明治維新に際して藩の存続のためにもっとも尽力したのは先生でした。
維新後上京し、安井息軒、芳野金陵ら老大家の知遇を得たことから、文名が高まります。明治8年、修史局に出仕し、一等編修官として重要な役割を果たします。しかし、同僚であった重野成斎博士との間に確執があったと伝えられ、明治14年に宮内省に移りました。同年、明治大帝が東北を巡回せられたとき、扈従を命ぜられ、『随鑾紀程』を著しています。その後、貴族院議員等を歴任し、晩年には東宮侍読、宮中顧問官を務めました。
文章を善くし、明治漢学界では重野成斎博士と並び称せられる大家です。死の直前には贈位、叙爵の話もあったということですが、先生の出身藩である松山藩が朝敵であるからとの理由で山縣有朋が反対したため、その話は立ち消えになったということです。(三浦叶『明治の碩学』、汲古書院、はしがき)
明治29年(1896年)、67歳で没。歌人の川田順は先生の子息です。
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