森田 節齋(もりた せっさい)

生没年(享年) 文化8年(1811)-慶応4年(1868) (58歳)
諱(いみな) 益(すすむ)
字(あざな) 謙蔵(けんぞう)
通称  
雅号 節斎(せっさい)
謚(おくりな)  
出身地 大和(奈良県)五条。
師の名 頼山陽
官職等  
肖像  
伝記  先生は、京都に遊学し、頼山陽に学んだ後、昌平黌に入りました。ここで、安井息軒、塩谷宕陰、野田笛浦らと交友しました。数年後、京都へ帰って、私塾を開き、頼三樹三郎、梅田雲濱らの志士を教育しました。しかし、幕府からにらまれるようになったため、備中倉敷に移りました。そこにも志士たちが多く集ったのですが、ふたたび幕府の偵察がきびしくなるにおよんで、紀伊、淡路、ふたたび紀伊と転転と逃れざるを得なくなりました。最後は剃髪して愚庵と名乗り、紀伊の荒見村で亡くなりました。

 先生は史記をもっとも好み、その名文の多くを暗誦していました。弟子には漢文は白文で読むように指導しました。注釈をたよりに読むと、注釈のとおりにしか解釈できなくなり、ほんとうの妙味は分からなくなるからというのです。また、「自分はなにより文章をつくることが好きで、文章に命をかけている。しかし、後世に伝えるに足る文章が20篇もできれば本望だ」と言われていたそうです。(四屋穂峰『節斎遺稿序』)

 四屋穂峰は、依田学海と川田甕江の一周忌で会った際に、節斎先生について次のような話をしたことが、学海の日記に見えています。(『学海日録』第10巻、岩波書店、296ページ。明治30年2月1日の日記。)

「余は四屋と物語の次に文章の事に及びしに、四屋いふ、某が師・森田節斎はよく文章に心を用ふる人なり。その塾に寓せしとき、師のいひけるは、和ぬし、清朝の文章家は何人をかよしと思へるといひしに、四屋答て、いづれをよしともあしとも分つべきほどの身ならねど、ただ己が好むとならば、侯朝宗の壮海堂文集などをこそと答しかば、さらに、何の文を好むぞといふ。節斎は人の言をききても、唯一つらには聞き過ぐさず、必ずその説のきはみまできき尽くす風なれば、この時もしかいひしなり。四屋は、例の事よと思ひしかど、某は集中馬伶の伝を好みて候、壮海堂の文は史記に似て候から、ことにおもしろく覚えて候とありしかば、さらば史記といひても大部の書なり、いづれをもてこの文に比すべきといひしにぞ、されば候、淮陰侯の伝にもや似て候はんかと答えふ。韓信の伝にも数箇処の名文あり、いづれの段にか似たるとせまりて問ふ。四屋答て、背水の陣を叙したる所に似たりと覚えて候が、あやまりにやといひしかば、節斎、膝をはたとうちて、げによくこそ申たりけれ、我もしか思へり、書はかくぞよむべかりける、おもしろしおもしろし、と賞美せられけるとなん。」

代表的著作 節斎文稿(1巻)

節斎遺稿(2巻)

公開日 2001年8月5日、2002年3月17日一部追加。2003年4月29日一部修正。
 


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