| 先生は、嘉永元年、昌平黌に入り、羽倉簡堂、塩谷宕陰、安井息軒ら諸先生の知遇を得ました。羽倉簡堂のところでは佐久間象山に合い、それまでの尊王攘夷を捨てて開国論者になりました。しかし、藩の門閥家らに陥れられ、切腹させられるところを、藩主・島津斉彬公は先生の才を惜しんで、鬼界ヶ島に流罪となりました。先生は流罪中、島の蔵書家・鼎氏の膨大な蔵書をすべて読み込んで学問を磨きました。また、あとで流されてきた西郷隆盛とも交流しています。
その後「生麦事件」でイギリス軍艦が鹿児島港を包囲したとき、先生は藩命で英国行使パークスと談判し、藩と国を窮地から救いました。
明治4年(1871年)上京し、修史館長などを歴任しました。明治14年(1881年)、東京帝国大学文学部教授となり、後進をよく指導しました。先生は徹底した史料蒐集による実証的史学を創始し、近代史学の基礎を築いた近代史学界の大功労者です。しかし、実証主義が行き過ぎていわゆる「抹殺史観」となり、囂囂たる非難が巻き起こりました。そのため、先生は「抹殺博士」なる渾名を奉られています。
明治15年(1882年)、修史局において、漢文体の編年史『大日本編年史』の編纂が開始されると、先生はその中心者となり、鋭意編纂に取り組まれました。これは、実証史学による漢文の編年体通史となるはずでした。その一端は明治23年(1890年)に出版された略史『稿本国史眼』に伺われます。ところが、明治24年(1891年)に、編纂委員の一人である久米邦武が『神道は祭天の古俗』という論文を発表したところ、各方面から非難が巻き起こって筆禍事件に発展し、久米は学会を隠退せざるを得なくなりました。この事件とともに『大日本編年史』の編纂も中止されてしまったのは、かえすがえすも残念なことでした。
先生の業績は多岐にわたりますが、三菱創始者である岩崎男爵家が創設した「静嘉堂文庫」の漢籍蒐集に当たられたことでも知られています。同文庫の創設の当初の目的は、先生の修史事業を助けることにありました。同文庫は、清国の蔵書家・陸心源の旧蔵書を一括購入するなどして、現在でも世界有数の漢籍コレクションを誇っています。
先生は漢学に造詣が深く、とくに作文にすぐれていました。早くから名声が高かったため、序文や碑文などが多いのも特徴です。先生は若いころは斎藤竹堂を慕い、欧陽脩・蘇東坡の文を学びましたが、晩年には清朝の桐城派の文を喜び、ことに姚姫伝の文を好みました。麗沢社(りたくしゃ)・廻瀾社などの文社に関係し、後進を熱心に指導しました。文章では川田甕江と名声を二分しましたが、二人の仲は悪かったと伝えられています。
明治40年(1907年)にオーストリアのウィーンで万国学士会院聯合総会が開催されたとき、先生は81歳の最高齢で参加されました。その後、シベリア鉄道を経て満州へ入り、弟子の西村天囚の案内で中国各地に遊び、張之洞ら中国の学者らと唱和しています。
明治43年(1910年)、84歳で没。
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