「江戸火消文化」
講師:片口 勝
江戸消防記念会員 神田明神宮頭
目次
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今日は半纏を着てきたので、この装束を見ればどういう人間であるかはおよその検討はつくと思う。
江戸火消しというのは、徳川吉宗の時代に整備された町火消しの組織である。
よく「いろは48組」といわれるが、いろは48文字の中で、火消しには具合の悪い「ひ組」、語呂の悪い
「へ組」「ん組」をぬいて、代わりに「百の組」「千の組」「万の組」というのを入れた。
江戸は京都や大阪に比べると歴史が浅く、江戸から発信し現在まで残っているものは少ないが、
江戸火消しは、江戸の文化として象徴的なものの一つである。
私の着ているこの半纏だが、これはユニホームであるから、これを見ればいろんなことがわかる
ようになっている。前についている線は所属の場所を表し、この4本線は第4方面、今でいうと
千代田区、文京区、豊島区を示す。後ろの五番という数字は第4方面の5番ということで、神田を
さしている。
さらに、襟を見れば階級がわかる。階級というのは仕事の分担である。いちばん上が「組頭」、
次が組頭を補佐する「副組頭」、さらに「小頭」という序列になっている。この三者が幹部であり、
これらの人の半纏には赤い筋が入っていて一目でわかる。
その次が「筒先」、今でいう消防ポンプの係りである。そこからまた一段さがって「道具持ち」という
のがある。
序列の順から「纏持ち」「はしご持ち」「刺股」の3種類である。
この下に「若い衆」とよばれる人たちがいて、「手鳶」といって鳶口を持つ者、「竜吐水(りゅうどすい)」
という手押しポンプの係り、さらに竜吐水に手桶で水を補給する係りなどである。
この「若い衆」が各組に100人前後いた。これらの「若い衆」の上に花形の「道具持ち」がいて、それらを
幹部が指揮するという組織だった。当時は破壊消防であるから、大勢の人手が必要だったのである。
江戸には多くの大名屋敷があったが、そこには大名火消しという組織があり、
また、旗本などの武家は約10軒ごとに旗本の自警団があり、それぞれ火事などに対応していたが、
町人のための組織として作られたのが町火消しである。この町火消しが明治以降の近代消防のもとになった。
普通、着物を着たときは帯は後ろで結ぶのが常だが、我々は前で結ぶ。この帯はロープの役目をし、
火事場では大事な道具の一つであるから、すぐにほどけるように前で結び、結び方も、片方の端を
引っぱればするすると解けるようにしてある。
この帯を水で濡らして家の梁に引っかけると、人間一人の重さには充分耐えられ、屋根にのぼったり、
逃げ遅れた人の救出にとても役に立つ。したがって帯の長さや巾もそのために都合のよい寸法になっている。
このように合理的にできているのだが、ただすべてが合理的に割り切ってしまうと面白くない。
いわゆる「粋」ということにはならない。無駄なところがあるからこそ「粋」なのである。
そこで我々江戸火消しの「粋」な部分とはどこに現れているか。この半纏で気がつかれた方もいるだろうが、
普通、大工や魚屋、お店の使用人が着ていた半纏と違って、火消しの半纏は丈が長い。
1反の反物で普通の半纏は2枚できる。ところが、火消しの半纏は七分丈なので一枚しかできない。
残りの三分の一、「なあに、そんなケチなこといいなさんな。おれたちは捨てちゃうんだよ」という
心意気である。いいか、悪いかということではなく、それが火消しの男気だよ、という部分がある。
江戸のいい男の代表として「与力・力士に火消しの頭」、この三人衆が要するに「粋だねえ」ということに
なっていたが、江戸時代、火消しは女性の憧れの的だったのではないか。
粋で男気があって体格もいい、この3つが揃っていた。
江戸の火消しは各組で100人、200人という組織が約50あったわけだから、総数2000人ほどの
火消しがいたわけである。どうやって食べていけたか。
町火消しは江戸町奉行の管轄下にあったのだが、幕府からは「足留め金」として、わずかの金額が
支給されるだけだった。「足留め」というのは、火事はいつ起きるかわからないので、いつも火消しは
その場所にいるように遠出は禁止されていたのである。
しかしながら、このわずかの「足留め金」では生活できない。どうしたか。
今なら損害保険があるが、昔は保険などというものはなく、火事は当時いちばんの災害であった。
そこで、大店の主人は保険のつもりで火消しの頭にお金をはらう。といってもあからさまではなく、
煙草銭とか、おいしい物でも食べなさいよ、といった形でさりげなく、しかしほとんど日常的に面倒をみた。
いざ火事になれば、日ごろ面倒をみてもらっている家は気軽には壊せない、出来ればその家の前で
火をとめよう、荷物もなるべくたくさん運び出そうと、それが人情というものである。
また、火事のないときは屈強な若者が暇でごろごろしているのであるから、建築現場で高い
ところに上がる仕事とか、やくざのいやがらせに対抗するためとか、普通の人ができないようなありと
あらゆる仕事が持ち込まれた。今でも、高いところに上がる仕事は鳶の仕事なのだが、
「鳶職」の前身は火消しである。
時代劇などに出てくる火の見櫓がさほど高くないのにお気づきだろうか。江戸の町家は木造で、
ほとんどが平屋か二階建てであるから、それより高ければ、かなり遠くまで全方向を見通すことができた。
火事場に向かって駆けつける途中、路地などに入って方向がわからなくなったときは、梯子を立て、
そのてっぺんに上って火事の方角を確かめる。正月の消防出初式などでは、梯子乗りがショーのように
なっているが、当時は、梯子乗りは現実に必要な技であった。鳶口で梯子を押さえその上にのぼることは、
実際に必要な技として、日ごろから練習したのである。
梯子の長さは4間半(約8メートル)である。二階家の軒先までがだいたい6メートルだが、
道路に面しているほうから屋根の一番高いところに梯子を固定するとしても、これだけの長さで十分である。
昔の家屋はすじかいが入っていないことが多く、建物をねじると簡単につぶれてしまう。当時は
破壊消防であるから、手早く家を倒さなければならないが、このとき役に立つのが刺股である。
刺股をあてて片側を押し、もう一方を引いて家を倒すのである。
火消しは町ごとに区割りがしてあるが、火事はどこで起こるかわからず、ちょうど区割りの境界だったりする。
したがって、区割りに関係なく、早く現場に駆けつけたものから消火にあたる。江戸八百八町の火消しは、
可能なかぎり全部集まるのである。
当然、地元の組がいちばんに現場に到着することが多いのだが、現場に着くと纏持ちが屋根に上がる。
続いて次の組が到着すると、地元の纏はひとつ下がり、二番手に到着した組に場所を譲る。
三番手が着くと、また一つ下がり、次々に後ろに下がって、最後には地元の纏は最後尾になる。
よそから応援にきてもらったのだから、華々しい場所は譲り、地元の組はへり下るのである。
会合などでも、座る場所はほぼ決まっていて、地元や主催者は末席である。今の人は席順など気に
せずに適当に座ることがあるが、我々の社会では、口は悪いが「お前がこんなところに座るのは10年
早いよ」ということになる。出席者の顔ぶれを見て、自分の座る位置が自ずとわかるようでなければならない。
現代では職場ごとに慰安旅行というのがあるが、前述のように江戸時代、火消しは足留めされていた
ので旅行にも出られない。出かけている間に火事が起こらないとは限らない。
しかし、遊びの旅行は禁止されていたが、神社仏閣へのお詣りなら許された。そこで一応お詣りはするが、
実はその後の楽しみが目的で出かけたのである。立て前としてはお詣りに出かけるのであるから、
旅行といわず参会、あるいは参詣会とよんでいた。
もちろん組の全員が留守にするわけにはいかず、半数くらいは留守部隊として残ったのである。
全員が留守にしている間に火事が起これば、町の人たちの信頼をなくし、生活の基盤を失って
しまうであろう。
火消しには屈強な若者がそろっていた。肉体労働であるから、まず体が丈夫で機敏でなければならない。
昔でいう5尺6寸以上でないと、採用されなかった。
旗本の三男など、養子にいくあてもないような侍の子弟が火消しになることもあった。
同じ家の兄弟でも、長男は跡継ぎ、長男が死んでも次男がいる、三男以降は養子の口でもなければ
行き場がなく、長男に気兼ねしながら暮らさなければならない。それがいやで家を飛び出し、
すねている者などもいた。剣術の稽古などで体は鍛えてあるので、火消しになるには好都合である。
彼らは学問の素養もあり、町人よりは遊びもよくしっていたので、火消しの中に武家の文化も取り込まれていった。
火消しの頭は気っ風がよく、「義理と人情とやせ我慢」の言葉通り、義理と人情に厚い人が多かったと思う。
そういう人物でないと、頭としてまわりから認めてもらえなかった。
江戸末期の火消しの頭に、新門の辰五郎という人がいるが、慶喜の警護をして京都まで随行したりと、
人望が厚く、映画やテレビでも頻出するほど有名である。
「江戸っ子の生まれ損ない銭をため」という言葉があるが、現在の我々の社会でも、付き合いなどでの
出費は多いが、今では「宵越しの銭はもたねえ」などとは言っていられない。
−おわり−
文責(大井直子)
HTML製作:和田節子
会場写真撮影:橋本 曜
掲載写真の選定、ディジタル変換、
画像データの加工、編集、掲載:
田口和男
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