鎌倉時代後半を迎えると、この地は、いよいよ、歴史の表舞台に登場する事となります。
金剛寺境内のはずれには、数奇な運命をたどった光厳上皇(1313〜1364)@ の分骨が納められてA おります。光厳上皇は正和2年(1313)に持明院統の後伏見天皇の第一皇子として生まれ、後醍醐天皇の皇太子となり、鎌倉幕府に擁立され即位しますが、幕府が倒れると後醍醐天皇B に廃され、建武の新政となります。
ところが、足利尊氏C が後醍醐天皇方B に破れ九州に落ちますが、そのとき、廃位されていた光厳天皇にはたらきかけ院宣をもらっています。そして、弟の光明天皇が即位し、光厳天皇は上皇となって院政をはじめます。ここに南北両朝の並立が始まりました。 しかし、正平一統により北朝は廃止され、光厳・光明・崇光の三上皇は南朝によって幽閉されます。そして、光厳上皇は出家して法名を勝光智とし、さらに、金剛寺D に移されてからは、、法名を光智と変えました。 その後、貞治(北朝)3年(1364)に崩御し、上皇が尊信されていた孤峯覚明のいた金剛寺D にも分骨されたのです。
ここで、話を、南北朝の動乱から、少しはなれて、平安時代後半から、京の上皇や公家たちの間で、盛んに、行われた高野山詣での街道、「旧高野街道」Eが、当市の中心部を通っています。「旧高野街道」Eは、南北朝の時代においても、軍事拠点、道路としても大変重要なルートとなっていました。
特に、「烏帽子形城」Fのある烏帽子形山Gの山裾が、高野街道を取り込むようになっており、城主の館も山の山裾にあり、多くの情報や通行税なるもの得ていたと考えられます。この城は、楠正成が築いた城だといわれていますが、詳細は不明な点が多くありますが、文献に城の名前が出るようになったのは、大永4年(1524)の河内守護職畠山氏の内紛の頃からで、その後は、戦国時代にはたびたび登場しておりました。また、天正12年(1594)には豊臣秀吉の命により城が修復されています。そして、元和のころには廃城となったようです。
高野街道は、その街道筋でいろいろな街道と交わったり、枝分かれする街道があります。奈良県の五條に向かう大沢街道もその一つです。この街道筋には、真言宗の「河合寺」Hがあります。寺伝によれば、皇極天皇2年(643年)に大化改新で中大兄皇子に殺された蘇我入鹿が、天皇の命により創建したと言われています。それが事実なら、市内で最古に建立された寺院ということになります。
この大沢街道を進むと、観心寺Iがあります。南北朝時代、観心寺は金剛寺とともに南朝方の河内の拠点となりました。吉野方面から進出した南朝方は、東高野街道を北上して京都をめざしました。そのとき、この観心寺は戦略的に重要な位置にありました。南北朝時代が終わりますと、河内長野を含む河内国は、畠山氏の支配を受けます。観心寺は、守護畠山氏にはたらきかけ、寺領の回復をはかります。他国の寺領や南朝が寄進したものはなくなりましたが、残った7郷をはじめとする近辺の寺領の特権を回復していきました。
このような観心寺周辺の寺元の景観Jは僧坊群が建ち並び寺の南側や西側の周囲に民家が散在していたと想像されます。永享3年(1431)の「観心寺僧衆山地寄進状」によれば、32の院・坊と呼ばれる僧坊があったようです。
河内長野市内には、旧府規則史跡「伝大江時親邸跡」Kがあります。この大江時親Lは、鎌倉時代末に幼少の楠木正成に兵法を教えたとされています。 話は少しさかのぼりますが、鎌倉幕府の有力な御家人大江広元Mの四男季光が本拠の相模国毛利荘(神奈川県厚木市)の地名から毛利氏を名のります。その孫にあたる毛利時親Nは、文永7年(1270)越後国佐橋荘南条(新潟県柏崎市)と安芸国吉田荘(広島県吉田町)の地頭職を譲られます。この毛利時親が、楠正成の兵法師匠と伝えられる大江時親ではないかという説があります。その子孫が、毛利元就Oとなります。
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