大阪府南河内郡千早赤坂村周辺の豪族「悪党」として、有名な人物 「楠正成」@ が生まれ活躍した時代が鎌倉末期から南北朝時代です。
大楠公楠正成@ は、1294年に河内の国赤坂の里(大阪府南河内郡千早赤阪村水分付近)A で、生まれ幼名は、多聞丸(たもんまる)。幼少の頃より、学問を観心寺B で、滝覚坊(りゅうかくぼう)C に習い、兵学全般を、大江時親(おおえときちか)D に習い、文武両道に優れた忠義の青年として育ちました。
後醍醐天皇E が、鎌倉幕府に、1313年に笠置山Fに移された際に、馳せ参じ、忠節を誓い、河内に帰還するなり、赤坂城G を築き、勤王の兵を挙げましたが、大軍の鎌倉幕府北条勢前に落城しましたが、大楠公は、敵の油断を謀るためにも、山奥に身を隠しました。
翌年に、金剛山H 千早城I に、再び、菊水の旗印が挙がり、北条の大軍は、幾度となく攻めましたが、大楠公の作戦の前に、いたずらに時と兵を失うばかりでした。その間に、各地で打倒北条の勤王軍、関東の新田義貞J、中国の赤松則村K 九州の菊池武時L などが、相次いで挙兵しました。
1333年、新田義貞軍により鎌倉は攻め滅ぼされ、鎌倉幕府の滅亡となりました。
その後、後醍醐天皇E の建武の新政となりますが、公家の政治と武士の間にわだかまりが生じ始めた頃、1336年、九州に落ち延びていた、足利尊氏Mが、九州を制圧して、大軍を率いて、攻め上って来ました。
大楠公は、公家の意見に従い京都を打って出ました。その途中の、小楠公楠正行(しょうなんこう くすのきまさつら)N との別れ、「桜井O の別れ」、は、唱歌としても有名です。
少数の軍勢ながら、大楠公楠正成@ 軍は、敵将足利直義P にまでも迫りましたが、奮闘むなしく、次々と討ち死に、正成・正季(まさすえ)Q 兄弟も、現在の湊川神社R の裏手で刺し違えました。その後、敵将足利尊氏M が、大楠公の首を、縁の地の観心寺B に送り、現在まで、楠公首塚S として祭られています。
この戦いが、湊川の戦いです。
現在、毎年5月には、河内長野市の行事として、「楠公武者行列」が、行われています。
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