長く続いた氷河期も終わった今から約1万年ほど前から始まる縄文時代のうち早期縄文時代(約8000年前)には、すでに、河内長野周辺には、人々の暮らしがありました。河内長野市の南部、南海三日市町駅東側の「三日市遺跡」@、同じく西側の「小塩遺跡」A、から、早期縄文時代の土器の破片が発見されました。早期縄文時代の遺跡は、大阪府下でも大変珍しい物です。
平成2年に、市内に、大阪府の文化施設の「花の文化園」B が、オープンして市内・府下を問わずたくさんの方々が、訪れておりますが、その文化園の駐車場を作る際に、縄文中期と思われる土器、4〜5棟の住居跡が発見され、「宮山遺跡」C と命名されました。この付近には、石川D が流れ、古代縄文人は、石川の流れで、魚を採り、周辺の山々で、狩猟生活をしていたと考えられます。その他、縄文後期・晩期の遺跡として、「向野遺跡」E また、早期縄文期の遺跡として前出の「三日市遺跡」などがあります。この頃には大阪平野の各地では、稲作がすでに行われておりましたが、市内の遺跡では、そのような形跡は無く、周辺の環境などから、市内の縄文人は、稲作・農耕の必要が無く、川・山々で狩猟生活を送っていたと考えられます。
北九州から広がった稲作が、近畿一円にも広がった、縄文後期から弥生時代は、前期(約2300年前)、中期(約2000年前)、そして、卑弥呼、邪馬台国など古代史のロマンに満ちた後期(約1800年前)とに分けられています。市内では、中期に、「塩谷F、三日市、高向G、遺跡」、後期に、「大師山遺跡」H、また時代が不明なものとして、「菱子尻遺跡」I の5つのみが確認されております。この中で、「大師山遺跡」については、時代背景から、「倭国大乱」の頃に当り、国内が乱れた時期で、避難用のムラとして、作られた、「高地性集落」と呼ばれるものです。
時代が移り変わり、古墳時代に入ると、前期古墳時代の遺跡として、「大師山古墳」J があります。昭和初期に発見された際は、この古墳は、円墳と判断されましたが、その後の、調査で、全長52m前方後円墳であることが確認され、多数の鏡、石製品、鉄剣が発掘されました。これらの発掘物から、大師山古墳は、古墳時代前期4世紀後半に作られたもので、大和朝廷と関わりのある人物が葬られていたと考えられます。市内には、その他の前期の古墳は発見されておりませんが、「伝仲哀天皇陵」K がその一つとして上げられています。古墳時代後期を向えると、近隣の「近つ飛鳥博物館」L 周辺の200基以上の古墳が集中してある、一須賀古墳群に代表されるように、生産性などの劇的な社会情勢の変化から、多くの古墳が作られました。当市でも、多くの古墳が作られたと考えられますが、中世・近世の開墾等で多くが破壊され、現在まで残っているのは、「穴塚古墳」M と「烏帽子形古墳」N の2基だけです。中世・近世の開墾等を代表するような逸話として、豊臣秀吉O の大阪城 築城の際に、穴塚古墳の石室の石を使おうとして運び出したところ、数々の怪奇現象が起き、慌てて、元に戻したことがあったそうです。その名残として、石室の石にクサビの後が残り、石室も再構築されたように、不安定なつくりとなっています。
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