「観心寺について」

<<観心寺創生期>> →(役小角の雲心寺)

国宝「如意輪観音坐像」@で、また、国宝の平安時代の唐様式の「金堂」Aで有名なこの寺は、文武天皇Bの大宝年間(701〜704年)に役小角(えんのおづぬ)Cによって創建されたと言われています。この時の寺号は、観心寺に伝わる『観心寺縁起實録帳』に「改雲心寺号観心寺」と記録されているので、雲心寺と呼ばれていたようです。 この雲心寺を創建したと伝えられている役小角は7世紀後半から葛城山(現在の金剛山系の山々)にいた呪術師で、役行者ともいわれ修験道の祖ともされています。『続日本記』には文武天皇3年(699)に妖惑の罪を犯したとして伊豆に流されたと記録されています。観心寺には7世紀後半の重要文化財に指定されている観音菩薩立像が2躯、弥勒菩薩半跏像が1躯、釈迦如来半跏像が1躯の計4躯が伝えられています。この仏像が全て雲心寺時代から伝わったものとは言えませんが、役小角によって大宝年間に創建されたという寺伝を裏付けています。仏像以外では奈良時代以前に創建されたという確かな証拠はありません。しかし、現在のところ、仏像という手掛かりをもつ、市内で一番早く創建された寺の一つであることは確かです。

 

<<観心寺成長期>> 

奈良時代に役小角(えんのおづぬ)Cによって創建された雲心寺が荒廃した後、高野山に真言密教の総本山を開山した、弘法大師空海が当寺を訪ねられた際に、境内に北斗七星を勧請され、国宝「如意輪観音坐像」@を刻まれ、寺号を「観心寺」と改称されたといわれております。そして、弘法大師空海の弟子道興大師実恵、その弟子の真紹によって再興されたと言われています。実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、天長4年(827)より造営工事に着手されました。この時から観心寺という名前が付けられたと記録に残されています。この時期は平安時代の中ごろで、この9世紀代には伽藍が整備され、国家安康と厄除の祈願寺として、また、高野山と奈良・京、大坂の中宿として発展して、最盛期には境内に六十坊もの塔頭があり、各地に荘園なども持ち、真言密教の寺院として興隆しました。

<<観心寺と楠正成の係り期>> 

 

如意輪観音坐像@ 金堂A 文武天皇B 役小角C
 


観心寺国宝「金堂」


観心寺「金堂」から、山門を臨む

   
       
       
       
       
       
       
       
       

観心寺の境内の案内と各個所の写真を掲載いたしております。ご覧下さい。m(_ _)m

<<観心寺境内案内図>>
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楠正成銅像 山門 後村上天皇御旧跡
(旧惣持院跡)
中院門

後村上天皇行在所跡、約10ケ月間、日本の政治の中心

本坊門 勅使門 重要文化財 本坊
(旧槙本院)
中院

楠家の菩提寺であり、正成が8歳から15歳までの学問所。
地蔵尊 拝殿 重要文化財 鎮守堂
(訶梨帝母天堂)
星塚

一間春日造、桧皮葺、後村上天皇により、再興。楠正行が監督。

弘法大師が歓請された北斗七星の塚。日本では観心寺のみ。
鐘堂 弘法大師
拝礼石
牛滝堂 霊宝館
恩賜講堂 閼伽井戸 弁天堂 国宝 金堂

大阪府最古(建武の新政後の室町初期)の国宝建造物。七間四方、単層入母屋造、和様、禅宗様、大仏様、の折衷様式。
重要文化財 建掛塔 阿弥陀堂 御影堂 行者堂

楠正成が湊川の戦いで敗れたために、三間四方、茅葺、三重塔の予定が未完のまま現在に至る。
後村上天皇桧陵 道興大師御廟 開山堂
(本願堂)
新待賢門院墓

観心寺を再興された道興大師実恵のお墓

後村上天皇の母、阿野廉子の墓
楠正成首塚 滝覚坊墓
 
湊川の戦いで討ち死に後、敵将足利尊氏により送り届けられ、首塚として祀られている。

正成の師匠和田氏の子孫。

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