今昔このから物語集 巻第一

今は昔と説話、語りはじむるは、はるか昔のこと。
今からすればそんなに昔のことでもないといひて、語り始める。
話の種は尽きざるが、三十一巻千五十九話には遠く及ばざる。
一話一話、語るに尽きざるものを。
からすれば、そんなにのことじゃぁ無い。何せこの書付け、
蔵にも入っておらぬものじゃ
から。ゆるりと写して、のちに伝えんとす。

関東 山歩き 案内

巻 第一 蝦夷地の悲劇を待たず山旅の危うきをさける語(こと)第十四

 更ながら山旅巡るに、無事帰ることはより一位の大事というとにかわりない
ことじゃ
から、あない書などよくよみて備えを万全にしたいものじゃ。

 己丑の年、文月の半ば、夏至を送って一つ月あまり、梅雨ぞ明けたるか否やと世間に
問う声のここかしこに聞こゆる日々のこと。日の本の国、北のはて蝦夷の地より風雨に
負けて難に殉じたる人有りと聞こゆる。江戸の店が諸国に声を掛けて客を募り、蝦夷
地の山丘を巡らんとせしものなり。まろうどを十五人に、あない人をみったりつけて山
中を導くといふ。七千尺の山並みを歩くにつけ、夏はよき季節なり。されど風雨強いが
ため、よったりあやふし、いや九人倒れしや。聞き至れば一人にて来し者を含めて十人
もの人の倒れしとか。あな、いたわし。
 北の大地、蝦夷の地は同じ日の本のあっても寒冷なること、信州駿州の一万尺の地と
蝦夷の七千尺が同じといいける。夏の好天時の昼日中にても涼し、その夜間は京江戸の
冬場と同じほどに寒冷なり。増して風吹けば更なり。雨にうたれ、衣服を濡らせば更に
寒冷を重ねる。蝦夷地の高山、いただき近ければ樹木無く、風あめ避くるにものなし。
いたずらに衣服を濡らし、からだの温もりを失い、果てはみたまもうしないぬ。
 寒冷風雨に備えたる衣服に不足ありや。山中の宿泊を謀れども連日の歩みは長き時を
重ね、衆人の疲れはいかほどや。風雨、日を連ぬるとあらば、からだやすめの日をこれ
に充て、衣服の乾きをも計るのがよき考えなり。ましてあない人みったりもいてもこれ
をはからざりしか。
 悲しきことの起きたるのちに、これを論じるはやすし。これをあすの吾らの行いの鑑
にすべく朋輩ともども論ずるは賢きなり。されど、憂いのことの起きたるを待たず、山
丘巡る旅の危うしことをさくる論議はすでに書になりてその数甚だ多し。書の庫、店に
さえ多し。写し絵の美しき読み本にて山旅を計るも、あやうしを避ける論の書にも目を
通し必ずやこれに従いて、ことなく住みやに戻るを良しとしたい。

 みなの衆にあらため伝えんと、ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

関東 山歩き 案内

巻 第一 よき山のこと、三国のあない書にもうたわれる語(こと)第十三

に思うによきものは、創建されしより、幾百年を経るともよきことの変ることな
し。東西の隔たりなく、いと高く評価されり。これ然りとぞおもふ。
この霊山に大洞を
穿って速かけみちを普請とするも、緑の山損なうことの少なし技をもちいると聞く。遊
山によき山と広く知れ渡れば、世間の目は辛きこと更なるものじゃ
から

 武蔵の国江戸より甲州街道を西へ進みて、小仏の関の近くに大伽藍あり。その名を薬王
院といえり。いずなごんけん堂をはじめ各所に天狗像を置き、千年余のながきにわたり
修験の行者これを護れり。内藤新宿より長蛇の連れ車を乗り合いて、参詣遊山に多聚の
訪れること、晴雨寒暑を問わず。食道楽のあない書たる味酒覧なる書き物は物見遊山ど
ころの吟味にも口を出し、これを三星の良と評したり。これをあゆめば、径の改め、休み
どころの置きところ、厠の清らか。正に洋の東西をおしても、これより勝るもの少なし。
干支半廻りも前に見知るころより、更に整えは充ちたり。
 速かけみちを普請せんとして、この山の中ほどに大洞を穿たんとするはかりごと有り。
これに異を唱え筵幡立てる者有れども、今様の技はこの霊山を損なうこと極めて少なし。
大枚を投じてこれを推し進め、広く関東の荷駄の動きをよきせしめん。筵幡うちふるは、
いたずらに大平の世に渦を生むものであろう。
 世に悪しきものよきもの、並び立つこと間近に見らるるは面白。
ここに綴りて、のちに
伝えんとす。end

関東 山歩き 案内

巻 第一 価値あるものの値、かち無き物のねの語(こと)第十二

に思うに尊きものは、造り出されしより、幾百年を経るとも尊きことの変ることな
し。東西の隔たりなく、いと高く評価されり。これ然りとぞおもふ。されど、
この怪し
きよみほん、作り出されし端、半歳も経ずして、たなの値さえ斬られ削られるのじゃ

 ふるきみ仏、てらすたればいつしかその寺を追われ、商人の手に渡らん。うわさは走
りて名工の手になる大日と明かされれば、大枚の値をつけ、これを求めるひとのあまた
あり。御像は美術工芸にいかにや優れるといえども、信仰のもの。価値有るといえど
も、邪教の徒が美術工芸のものとして、いかに高く持ち上げようとも、しかるべきか
ちをそこない、おとしめるもの。堂に納め、篤信の人の前にあってこそ、尊し。真言
の新派がこれを幾十百千萬両にて求むは当然なり。西の国、毛唐洋の向こうにわたらざ
りしこと、喜びおおき。いずれのひか、上野の森にてお会いせん。
 上総安房の国々に新しき山間の道をあないするよみほんの出だされし、ひのとのい、
霜月。明けて、つちえのね、水無月。わずか半歳もたたざりしとき、これを求めて定め
の値より、いち割もにわりも削って求めるやからありと聞く。価値無きものたれば値を
斬り、値を捨てるもよし。価値無きものたれば求めざることなきがよし。刷りところ、
商いのたなを廻れば定めの値にていつなんときも、いくつでも求められようが。これを
避けるは、このあない書き、かち無き半端なる物とこそふみしものや。
 よに、物の価値を見てまさしく判ずるひとの、高く値をつけるとも、かち無きものた
れば値を斬り削ることなどせず、もとめざるがよきこと、
ここに綴りて、のちに伝えんと
す。end

関東 山歩き 案内

巻 第一 由緒ある神社の名前の怪しき語(こと)第十一

からすればいたしかたない。そのこの前をつけたことに無理はなかったのじゃから

 安房の国かも川のおお市の東村に、古くより神社有り。その裏山を金毘羅山といふらしく、近
年に遊山のあない書、かずかず出されリ。下総流山のたなより出されたる書は上総大原の人ぞ
書けり。これをモウキ神社という。ヤソ邪教の会堂ならばいざ知らず、カタカナかきとはいとあ
やし。さらにはその読みさえも過てリ。くはえて、おもふに、この書き物の中には過てり箇所、甚
だ多し。山の手前にてこれをあないせず、手前の家並み川原にて遊ぶがよいとしたり、寺子屋
の跡をほめるはいいが、その周囲をめぐる遊山のみちの一つもをもあないせず。その荒を記
せば気色あし。限りなしとはいえずとも。増間の馬鹿話とは、そのわけをことにす。
 その下総のたなより出されたる「同じ名の山を考える書」は下総稲毛の人ぞ書けり。文字も読
みも正し。江戸、大門のおおたな、日の本諸国別山あないかき、今は廃版になりしが、四拾六
巻組みの第十一にてかたりし上総安房の山のあない書はやはり正し。
 乙酉十七年、先の下総のたなより長月に出せリ書は下総谷津の人、あらためリ。この神社の
名前、正しき文字を書きけるが、よみ仮名のなきはなぜなるか。同じ人、年を改め丙戌十八年
弥生、江戸は滝野川のたなより出せる書、これに痔の文字を当てリ。いたし、かゆし、かなし。
されど、よみは正しくふれリ。
 この文字、からくりを用いても、書き出せず、ここに現わせざりしは悲し。痔の文字より、二水
をとられたし。广の文字はもちいること稀なリ。ましてこれに寺の字を重ねる文字とは。伊勢神
宮の御厨たればの名、なり。されど、この名も、もうけの宮と呼ぶにもその言葉、文字も今用い
ること稀になれば「もうけ」と読むも難し。名を選びてつけるにも、その言葉歳月を経て廃れよう
とは、思いもつかざろうよ。名をつけることの難しきこと、ここに綴りて、のちに伝えんとす。
 嗚呼、恥ずかし、写し違いあり。「江戸、大門」と読めし文字の、なんと「江戸、赤坂」の判じ違
えとは。end

 もうけ神社=痔−冫=广+寺  IMEでは表示される。

関東 山歩き 案内

巻 第一 美味き水に人の安らぐ語(こと)第十

も、もかわらぬものじゃ。何せこの水に、人の安らぐことにかわりはないのじゃから

 武蔵の国、秩父の里にりょうかみという山あり。広き盆地の西の端に岩を重ねる尾根を見せ
たり。その山、日の本の国に百の名山ありとうたわれし中に数えられれば、諸国より足を運ぶ
もの多し。東西、南北より、頂を目指す径あり。遠き径、近き径。易き径、難き径。その内に、
東より頂を目指して進むる日向大谷からの径は、やや遠かれども、易き径なれは人気(ひと
け)多し。登り口に、乗り合いもあれば、厠もあり。春にはニリンソウの咲きて、山肌が斜面を白
く染めん。ヤシオツツジは桃色を見せて、重ねて目を奪う。
 去れど如何に楽しきみちなれども、径を進めば飢え渇きの覚えること、たちどころなり。
薄川の岩沢を二度三度渡り返して、水音絶えたるのち、弘法の井戸と名付けたる湧き水の、
径が脇にあり。四分(13ミリ)程の筒(ビニルパイプ)先から湧きいずる水は誠に甘く喉を潤す。
ここを往く人は、皆立ち止まりて、これを賞味せし。また段取りよきものは、火をおこし、この水
を煮立てて茶を点てる。芳しく香るに集いて、安らぐ人の多し。かようなる山中に、美味き水の
あること。ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

関東 山歩き 案内

巻 第一 怪しきあない図の語(こと)第九

からすればもうのことじゃ。何せこのあない図、いずこの店も商うておらぬのじゃから

 下総の国佐倉に住みたもうし伊能という人、江戸に移りて天文・測量を修めん。日の
本の国の波の浜を踏み、磯の岩を攀じりて地図を作る。あまりの精巧さ、後世において
も、これを褒め称える人の数、限りなし。
 山歩かんとすれば地図必ずや手元に欲し。院のほかに二つたなあり。その一つは今も
よき地図を目指して奮闘せり。又、別のひとつはその姿みず、いずこに消え去りしか。
西神田にその形なし。その今はあらざるたなの売り出せるあない図には巻の十二に三浦
半島鎌倉あり、巻の二十一に房総半島あり。六十巻の中では珍しき場所なり。いずこの
店も商うてはおらぬが持ち人を探しさがして、ようやく巻の二十一のみぞ、遂ひに
拝覧をかなへたり。
 このあない図はその縮尺を十万分の壱として広く地域を含めたり。辛丑の年に初の
ものを刷り、辛未の年にはなんと四拾版という。九ヶ月に一回の割りでの重版じゃ。
さぞかしよきものかと一度は思う。全体薄き緑に彩られ、赤字にて物見遊山の名所を
記す。されど、山歩き用の地図のはず。赤き線の一つ一つを見るには甚だ怪しき。
 西より見れば、鋸山に南北三本道あり、大きく広げし図あれば、内一本怪し。富山は
合戸より観音峰に至りて金比羅峰へ。井野から観音峰へ。冨浦より大房岬を巡る。
洲崎を一廻り。野島崎を往復。鹿野山神野寺付近は大きく広げし図あれども赤線なし。
高宕山怒田沢から二本、環を作る。奥畑から一本これに付く。されど黒い二本線は
車の通る広き道の筈、狭き人の径なりしが、過ちあり。野営場森林館の径。松丘から
大岩までの国つ道まで赤線は何ゆえか。太海、仁右衛門島にも赤線あり。亀山、
三石山、清澄寺のみちはよし。しかれども、朝生原、葛原、粟又から麻綿原に掛けて
のみぞ、やけにつばらに印せるはなにゆえか。
 果てもあやし。よき山の数々を訪ぬる道を標すに少なく、朝生原、麻綿原に限りて
のみ、山歩きたる道標すに多き。吊り合いあしきこと、はなはだし。いかなる故なるか
推して知るに、そのすべなし。
ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

関東 山歩き 案内

巻 第一 怪しきあないかきの語(こと)第八★

からすればもうのことじゃ。何せこのあないかき、いずこの店も商うておらぬのじゃから

 江戸、芝大門に三国の深山幽谷をあないするかきつけを刷りだすおおたなあり。日の本の
百余の諸国は蝦夷地を含め、琉球を除きたる四拾六巻にて書物を出せり。関東は常陸、
下野、上野、武蔵、武蔵の多摩川べり、相模。下総はなく、安房と上総は合本されて第十一巻
じゃ。安房と上総の国境を主にして。絵解き、写しえも多く、目にも楽しき読み本なり。
 初版から十年ほどのこと、癸未十五年霜月の月末のことじゃ。この地はあたたこうて、
紅葉かりに行かんとすれど、この日まだ、早いかもしれぬほどの陽気じゃった。石尊なる山を
巡りて南に延びる尾根筋を歩けば、千尺余の高さの山並みなれど、木々は太くその背は高く、
誠、山高きをもって、、、という先人のことのは、おもいいだされる。参拾人の大組の後に付き、
みち譲られてこれを越すは八つのころ。きよすみの寺の近きところより海におつる日を
眺むるに、暮れ六つにはまだ一っときも早い。秋の陽のおつるのは、はやきもの。吊瓶おとし
とはこのことか。天津の郷に着くころは、夜中と同じほどに、あたりは暗くご酒をいただくには、
よき宵よ。
 明くる昼の転令飛写を見やれば、先をあるき、後を歩きし参拾人は彼の森にて御こもり
なさっとか。みちを違えたとはいえ、続いているところ、一人はしい進み。かのひとら、江戸の
王子村か滝野川にあるおおたなの募りし面々なりという。
 さて明くる甲申十六年正月半ばに芝大門のおおたなの読み本は、如月の号として「難を
避けるの術」の話をまとめて、出せり。この中に石尊山より麻綿原の径を歩きて、あらたむる
項あり。これは、同じみちを編輯子が幾人か、今様のからくりものを用いて辿った書き物で、
やじきた道中よろしく、みち迷いを繰り返しながら、かろうじてもとの計りとおりにすすむ。
紙面六枚をつかいて、つばらに述べたもう。まこと、このみちは迷いやすしとうたいて、迷いの
種処を甲、乙、丙と三つも上げる。去れどこのみちを、あないせんとするかきものは、彼の店の
出せる四拾六巻の第十一巻によるほかはなし。
 この歳の弥生半ばに新たなる日の本諸国別山あないかきがその芝大門のおおたなより、
いだされん。今度は琉球国を含めて、全巻四拾七巻となる大書じゃ。第十一巻は同じく安房と
上総のあないじゃ。新たなる書き物紐解けば、石尊麻綿原参拾人御難儀のみちは、書かれて
おらぬ。替えて別の径ばかり。はて、面妖な。簡略にして、迷い人呼びやすき径の怪しき
あないかきは、板を改めて、これを削るかや。此処に限らず、絵解き、写し絵、目に楽しくは
有るけれども、迷いの種処指し示す、確かなるあないすることは、半ば。まこと怪しきあない
かきよ。
 新らたなる四拾七巻の十一巻を見やれば、音便のふり違えはご愛嬌なりしが、又、迷い人を
生む種を撒かん。
 其のひとつ 一節 観音橋の案内地図はこの橋を渡るが如く赤線を引いておるが、あない
かきには、これを横目で見るようにかかれておる。はて、地図の方が違うわい。
 其のふたつ 七節 神納橋と文字を入れ、じんのうとよみを書いておる。かんのうとしたい
ものよのう。
 其のみっつ 八節 案内地図では青山旅館前の位置が大きく北にずれておる。図示より
三町ほども南じゃ。
 其のよつ 十二節 いしくれ道など、ないわい。瀝青にて奇麗に清められておるぞ。七とせも
八とせも昔のことじゃない。
 其のいつつ 二八節 波羅法螺など、どこにあるというんじゃい。
 其のむつ 三十節 蜜柑や水仙の畑はある。しかしのう、民家の前を通らんでも、瀝青の
道に出られるわい。僅かなところで径を違えて、そのまま径をあないすれば、その家の犬に
吠えられようものぞ。
 其のななつ 三十三節 山頂の石碑は確かに三柱ある。しかし未だ消えずに、深く刻まれて
おる。読み違えではなく出鱈目をかいてはいかん。日の本の神々は寛大なれども、毛唐の
邪神どもたれば打たれるぞぃ。
 其のやつ 三十七節 大畑の乗合い車の乗り場の場所が、二町も三町も東にずれた地図を
かいておる。湯ノ沢口には乗合い車の乗り場はないわい。寺子屋に通いたるわらしべの
乗合い車の乗り場を書いてどうするのじゃ。
 各節ごとじゃないのじゃからにぃ、よき出来映えよ、このあないかきは。ここに綴りて、のちに
伝えんとす。
 嗚呼、恥ずかし、写し違いあり。「江戸、芝大門」と読めた文字の、なんと「江戸、赤坂」の判じ
違えとは。
 ★はて、手元違いか、書付けもどさんとして手より落ちたる切れ端あり、見れば、其の
ここのつと読めり。写し違いに重ねて、見落としか。粗忽も極めり、ここのつをここにまた
写さん。
 其のここのつ 四十六節 権現森の西寄りのみちがかなり西にずれた地図をかいておる。
たけがみね神社より西に進みたおねみちは右へ曲がりてたに筋をはう。左に折れてのぼりし
処は瀝青仕立てのみちがまがるところよ。まっすぐのみち向かい丁の字の如くとりつくのでは
ないわい。end

関東 山歩き 案内

巻 第一 甲斐の国八ヶ岳にてなまづを調べる語(こと)第七

にすればのことじゃ無い。何せこの話、きょうあすきのうおとといのことじゃから

 相模のうみになまづ暴れて、武蔵・相模・甲斐・伊豆に死せるもの、およそ十万とも十四万
とも、のちに伝う。これよりのちは長月はじめを災い防ぎの日として、江戸はじめ関の東にて
備えること久し。
 甲斐の国八ヶ岳のふもと大泉の里に星を眺めるを楽しみにして、天文の館を建てるもの
あり。流れの星を観ればその名は、三国を越えて伝わる。星を見るうちに、なまづの前触れを
知るところとなれば、まことの理はあとにしても、世に伝う。癸未十五年長月十六・十七日、南
関東にて七つ尾びれの大なまづありという。狼少年か翁か。あと一両日を待って事実を
みんや。備えは、憂いなきようにせん。
 外れたりとも、ここ五行の一巡を待つ内の廿の日、昼餉の休みときに、なまづついに
暴れたり。安房の国、上総の国さかいの外海に。しかしなまづまだ五つ尾びれで小さければ、
なおあやし。備えは解かざるがよい。同じ日の夕刻には黄門殿のお膝元にて、又なまづ
暴れたれば、これは三つ尾びれ。やや小さけれども、これで一つながりのなまづは収まる
かや。
 世になまづの災い激しく、怖きものの第一に挙げたるは尋常なり。されど数多の学者、これを
知らしめんと研鑚すれど、いまだ決め手なし。江戸を離れたる八ヶ岳の麓にてこれを言わし
めんとは何の技なるや、不思議なる術の話、これにとどめてのちに伝えんとす。
 十日遅れて、蝦夷地にてなまづが暴れたが、これは江戸の周りのものではない。
江戸に近きところでは霜月辺りに、またなまづが暴れるというそうだ。ここに綴りて、のちに
伝えんとす。end

関東 山歩き 案内

巻 第一 下伊那まぼろしの小屋の語(こと)第六 

からすれば、そんなにのことじゃ無い。何せこの小屋をしるした絵図はいまもある
のじゃから

 しなのの国の下伊那の郡に、遠山川という川あり。この川、遠く山にその源を発す。その
右岸の径を進みて、右側に吊り橋を見送る。この山中に島と名付ける場所あり。たよりが島
という。この地にいつ頃か、小屋が立ったものの、わずかいつとせも経たずに姿を消した。
遠く伝え聞くところ、屋宅建てるを、禁じられたる場所に、おかみのゆるしをまたずに立てた
とか。改めゆるしを求むるに、ねがいかなわず、打ちこわしを命じられたものだという。また
べつに聞く。僅か数年後に襲った嵐のために小屋が傷み、これを繕うこと賄えず、商いの
再開をあきらめたとも。いずれにしてもこの小屋を記した絵図の手元にあるは、今は
めずらし。蔵に納めん。ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

関東 山歩き 案内

巻 第一 くもとりの避難小屋の語(こと)第五 

からすればもうのことになったのかなぁ。何せこの小屋は建て替えられたのだから

 江戸は東の都。三国に聞こえるどころか、百余の国に照らしても数少ない大きな街になれり。
多摩の郡部を合わせて仕切るようになってからのことじゃ。多摩の山々に冬なら雪が積もる。
なんといたまし、ここくもとりで難に殉じた者が出た。とのさまいたくご立腹。「わが町は七つ海の
向うにも知られる大きなる街。西のはてとはいえ、雪にてなくなるものがあろうとは何たる
ことか、小屋の一つもあればよかろうものが」
 ご命令によりて殉難の地に小屋が建てられた。水場も無い尾根の吹きさらし。北に四半時と
かからぬ場所には商い小屋もある。ご命令は堅き意地かと陰口言うものあり。このとの善政
失政伝え聞くところおおく、これは奇政なるか。
 みどりの色に染められた小屋は小さく暗けれど、雨風吹雪けものなど、身を護るによし。
その後、木の香かぐわし明るき大きなる小屋に建て替わる。。雲を手に取るほど高き山なれど
南に東にみはらしよければ口伝えよし、足をはこぶもの増えん。難をのがれんがための小屋も
今はよし。同好のものにぞ。ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

関東 山歩き 案内

巻 第一 境内の厠の語(こと)第四 

 今から思えばからのことじゃったのかなぁ。何せこのことは、一寺一社にかぎらぬことじゃ

その一 上総の国、君津の町の浜遠く、宿原と名つく里あり。街道近く大きなる鳥居は、三島
神社
のものなり。くぐりて進めば、やがて道は喬き木々にかこわれ、右手に分かれの道あれ
ば、これに入らん。囲む木々の背いと高く、旧くから人びと畏敬の念、深うあればこそ。進めば
あらてめて大鳥居をくぐる。ひらけし庭は向かいて石段在り。これを登って至るは本殿。
向かって右手に、小さき小屋あり。遠目にもこれ厠たると、たちまちに判じる。小屋の造りは
ふるく今の世のものとは、断じがたし。されど、清め洗いのほどまことにつくせしもの。汚濁の
かけらもみつけえず。汚辱の輩、入るに恥ずかし、手を合わせて踵を返さん。思うにいずれの
祭神やも知らざるがまことの神ぞ祀りたればこそ、広く境内は休むに清く、集うに楽し。憩うに
やすく。憚りさえも浄からん。

三島神社  小さき小屋 本堂を左手より裏手に

その二 武蔵の国、多摩川の左岸にこりなる山里あり。街道に沿いた山すそに家宅こやなど
ならぶ。川井八雲神社はこのならびより石段を登る。神門もこの石段を登ればこの先もまだ
石段が続く。拝殿に向かひて右側、木立の中に薄暗き小屋あり。これ厠たると、たちまちに
判じる。小屋の造りはふるく今の世のものとは、断じがたし。されど、清め洗いのほどまことに
つくせしもの。汚濁のかけらもみつけえず。汚辱の輩、入るに恥ずかし、手を合わせて踵を
返さん。思うにいずれの祭神やも知らざるがまことの神ぞ祀りたればこそ、広く境内は休むに
清く、集うに楽し。憩うにやすく。憚りさえも浄からん。

その三 尾張の国、一の宮の町に真清田の文字にてますみだとよばせる神社あり。社殿は
大きく、境内なお広し。その境内の南の端は市中に面し、囲いなし。参詣街びと、ひと通り
はなはだ多し。境内のまち道に近きところに、ふるくから厠あり。用多ければ、いたみも
はげし。町の年貢から金子を用立て、これを改め、参詣者に限らず、広く街びとの用に、
供せんとはかる。普請、作事終わりてみなの衆喜ばん時、これに異議を唱えるものあり。
きけばやその宗徒。いう、年貢の金子を一教一派に用立てるは、おきてやぶりなりと。まさに
厳しく狭ければ、おきてに触れるかや。されど境内広くかこいなく、みなの衆、宗派に拠らず
憩えるに厠をも使わん。みなの衆が使える厠に限りて金子を使うは訳あり。土地を賄いて、
四平遠慮なく使える厠を造作するに、町の金子ではいたらざる。されど裁きに町は敗れたり。
石頭愚民の教。この厠広く諸人なんびとも遠慮なく使わんと供せしものを、やそ教のものどの
は除くべしぞ。おもうにやそに限らず、世紀以来新参、新生の雑教邪教の数多けれど、その聖
域を広く四平四民の休めに放つところ、いまだ知らず。まして穢れ多き厠に限るなど猶のこと。
真教、邪教の節目ここにもありしか。われしらず。

その四 武蔵の国、多摩川の左岸にいくさばたなる山里あり。街道を北に進めば、平溝、
白岩、成木など里つづく。この里の西へ山道を始めは沢に沿い、中ごろより尾根に転じて、頂
近くに至るところに小さき門あり。たかみずさん常福院というてらなり。右手に庫裏あれば、
のどの渇き腹の足しにとあきないてのぼりきたる人々を、休めん。氷菓子などさえも置くという。
正面の本堂を左手より裏手に廻りさらにたかみをめざせば、薄暗き木立の中に小屋あり。
これ厠たると、たちまちに判じる。小屋の造りはふるく今の世のものとは、断じがたし。されど、
清め洗いのほどまことにつくせしもの。汚濁のかけらもみつけえず。汚辱の輩、入るに
恥ずかし、手を合わせて踵を返さん。思うにいずれの本尊やも知らざるが、まことのみ仏ぞ
あがめたればこそ、広く境内は休むに清く、集うに楽し。憩うにやすく。憚りさえも浄からん。
連なるいただき賑わいて、幾多のあないしょ、此処を薦めん。

 人、集めんとするに、よき餌を配るも策なり。然れども、はばかりて、口に出しにくき所にきを
配りて、集いやすくするが、誠のじょう策というものよ、のう。ここに綴りて、のちに伝えんと
す。
end

関東 山歩き 案内

巻 第一 植木の碑の語(こと)第三

しがたのことじゃ、のことじゃない。何せ三つ辻にはこの石碑がまだたっとるはずじゃから

 相模の国は山深くして、けもののかずのおおいのも、永く森の木々を大切にしてきたからじゃ。
けものたちが多すぎて新たに木の苗を植えた時は、これをくわれんようにせんことなしには、
木が育たんところばかりじゃ。あおい息を吸おうと山に入ると、崩れてうもれて、ままならん
ところもあるわい。はだのとうげといふはずの山なかから急なみちを足をひきひき下ること、
平らになりしところにおりつく。見れば広い道が出来ておる。瀝青で固めて広いこと、四つ輪の
車を二台並べて牽くにも辺りをかまわぬほどじゃ。三又のつじなど、童を集めて鞠蹴る遊びも
かまわぬほどにひろい。その角には腰掛けなどあって休むにもちょうどよい。見れば大きなる
石の碑がそばにある。大きく掘り込まれた文字ははくがくせんさいもんもうとかわらぬわしにも
読み取れた。
 りんだうかいつうきねんと読めばよいのじゃ。続く文字はしょくじゅじゃ。ということは林道を
造った記念に木を植えたってことか。なるほど、この林道つくるに山の中、何里もあったの
じゃろうが、たくさんの木を切り倒してつくったんじゃろうのう、その記念に木を植えたのか。
なるほどなぁ。木を切って林道を作り、記念の植樹か。なるほど、木を切って記念の植木か。
はだのとうげか。なにかちがうか?なぬかとうか。なにがいいたいか?うぅん?ばかげた
はなしとおもわず。ここに綴りて、のちに伝えんとす。end

関東 山歩き 案内

巻 第一 おやひき姫のうみの語(こと)第二

からすればそんなにのことじゃない。何せあの山奥にはこのうみが今もあるのじゃから

 江戸づとめが永かった殿様が田舎に帰って藩主になった。参勤交代のない時代じゃから、
国元で政ごとに励んでいたはずじゃった。されど姫君が、国中から怪しき金品をかき集めて
おったのじゃ。ひょんな事から、これが明らかになってしまった。殿様といえども、改め役人の
手が届くじだいじゃったがために、たちまち江戸から役人が押しかけた。車をつらねて、証左の
書付け、羽皿、算器を運び去った。この殿様、おのれの娘なる姫を「たたきのめしてやりたい」と
言ったあくる月には、この姫に縄がうたれた。そして自ら御やくごめんをいいだした。
 この姫の周りには愚者が多いのか、ひろくまいないをかくして集め差し出すにまだたらず、
国の山奥に堰を建てて、うみを造れば、これに姫の名をかぶせた。にしちちぶももこといい、
このみずうみはよしだの郷とおがのの郷に水を集めておる。この名前、各所に刻まれて永く
ながく残されよう。藩主選びの札入れがため、又多くの年貢が使われる。いずれ御しらすで
このとのとこの姫の罪状つばらに明らかになろうものぞ。市中引き回しもさらし首も今は
遠絵伝え(転令飛写)、速刷瓦ですむものを、深き獄舎に打ち込むがよい。との喜寿の祝いも
僅か二つ月めのことじゃった。親御の殿を藩主の地位から引き摺り下ろしたおやひき姫のこと
じゃ。このとの、潔癖無比やとも、今田沼やとも、わからぬものになってしもうた。領民には
膨大な借金が藩財政の破たんとして降りかかろうぞ、おそろしきとのがおったもじゃ。ここに
綴りて
、のちに伝えんとす。end
(羽皿floppy desk 算器computer)

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巻 第一 暴れ竜の語(こと)第一

からすればそんなにのことじゃない。何せこの山々の御とめが解かれた後のことだから
 御とめの山といって、相模の国の西方に連なる山山には、なん人もはいっちゃぁなんねぇっ
て、おきてがあったんじゃ。それで、今でも山は高く谷は深く、草はふかく木々は高く。獣たちの
極楽じゃったんじゃが。まさか暴れ竜が今も住もうているとは誰も信じまい。

 武蔵の国のおおたなの若い衆が仲間をかたってのぅ。盆の休みの、真夏の暑い盛りじゃ。
大勢して河原に幕を張って水遊びをしておった。大雨が降るかもしれんから河原から上がる
ようにと、川役人どもが諭してまわったのだが、おみきの入ったものもいて聞き入れん。
仲間うちには、話を聞いて易く道々まであがったものもいたということじゃったが。近くに
じんどったよその組は河原から上がったそうな。果たしてその夜、雨は降ることは降ったが、
小ぶりですんだんじゃ。見回った川役人は、みなの衆の無事を見て安堵したというんじゃが。
 しかし、それも束の間、夜が明けて日が上がるより、雨足が強うなった。いや、本当に雨が
降ったのはそこより何里も北の川上じゃった。足元の水嵩がゆるりと上がっていく。その仲間
達が幕張の宿としたのは河の中洲じゃった。右岸はきつい山肌に深い流れが速い。左岸は
石の並びに足をとられながらも、河原を歩き、登れば道にでる。その石の形はおろか、にごり
の水にかげも見えず。道具を片付けるひまもなく、水嵩が上がる。上手の堰を止めてくれといっ
たところで、とてもかなわない。堰は川の流れを止めるほど大きくはない。流れが緩やかでも川
の流れはひざより上では歩けまい。早ければ猶のこと。連れの幼子も、祝言間近の若衆も
流されてしもうた。右岸の岩肌に逃れた親子の姿が哀れ。転令飛写、速や刷り瓦で日ノ本
あまねく伝えられもうした。なんといたましや。 日変わりて下手の溜まりに舟を浮かべて
探ること幾日か。みずくかばねを求めて幾千両もの大まいを年貢から使こうたということじゃ。
 くろくらの谷には竜が住む。暴れ竜が住む。わしはそう信じておるんじゃ。河原で遊ばんと
する時はその大口に呑まれんように、逃げ場を考えて幕を張ることじゃ。川役人は土地の者
じゃろうぞ。その言うことには、すなおに従うことじゃ。 寄り合いのおきてより、じねんのおきて
は一倍以上にきびしいものじゃなぁ。いのちはたいせつじゃが、はかないものよ。あやうきの
避けよう、幾多もあろうが悲しき話。ここに綴りて、のちに伝えんとす。end 

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