梅雨入り前の
源博雅は、いつものように安倍晴明の屋敷を訪れていた。
この頃になると、随分と日が延びてきて、夕方と言える時刻になってもまだまだ明るい。夜は夜で、仄かに灯された明かりと、月や星の小さな光で相手の顔がほんのり見える程度で、
博雅はそんな風情がとても好きであったが、こうして晴明の髪の一筋まではっきりと見えるのも、全く嫌いではなかった。博雅が持って来た酒をふたりで飲んでいる。
このところ、晴明は、こうしてふたりで会っているとき、ぼんやりとすることが多くなった。いや、博雅から見るとぼんやりとしているのだが、その実、何かを真剣に考えているようにもまた、見えた。
今もそうである。式神をふたりのあいだに置き、どちらかの盃が空になると酒をつがせる。
そして晴明は手のひらを頬の辺りにつけ、肘を立てた膝に乗せ、庭の方に目をやっている。おれと居るとつまらんのかな、と博雅は思ったことがある。
気になって、でもそんなことは面と向かって訊けなくて、困ったと思い内裏であったことなどを何気なくすると、面白そうに顔を向けて来る。
その瞬間、つまらない訳ではないのだなと安心するが、そうすると何をぼんやり考えているのか分からなくなる。話しかければ面白そうに聴く。
触れれば嬉しそうに笑う。だが――
気になった。「晴明、何をぼんやりしておるのだ?」
博雅は秘密ごとが嫌いだ。もちろん、人から「誰にも言わないでくれ」と頼まれた場合は決して口を割らぬが、自分の感情には嘘をつけない。
だからたまらずに、そう訊いていた。晴明は夢から覚めたような顔で、こちらを向いた。珍しい顔だった。
「何だ?」「何だ、ではない。どうしたのだと訊いている」
「だから何が?」「おまえだよ、晴明」
自分がぼんやりしていることに気づかないのか。晴明にしてはまた珍しい。「近頃どこか上の空ではないか?」
博雅がそう言うと、晴明は苦笑した。「いやすまぬ。そう見えていたのなら謝る」
「別に謝らなくてもよい…何か考えごとでもあるのではないかと思ったのだ」「まあ、それなりにな」
「あるのか?」「あるな」
「悩み事か?」「――」
晴明が目を逸らした。やはりおかしい。目を逸らすなんて分かり易いこと、滅多に晴明はしない。「辛いのか?」
博雅は心配そうに訊く。晴明は儚げに笑った。
「辛くなどない。大した事ではないのだ。妙な心配をかけてすまん」「だから謝らなくても…」
博雅も困ってしまう。「それで、おまえこそ今日は何の用だ?また頼まれ事か?」
晴明に言われて、博雅は驚いたように顔を上げた。よくよく人の心を読むのが上手い。
ここを訪ねて今まで、博雅はそんなことをひと言も告げていないからだ。しかし悪い気はしない。晴明なのだから。
「そうなのだ。よく分かったな」「顔に書いてある」
博雅は笑った。「うん、今日の昼な、出仕の後だ。小用あって少納言さまのお屋敷へ行った」
「ふむ」「そちらでな、どうも困った事が起こるらしい」
「少納言さまがか」「いや、それが違う。少納言さまの娘御、通り名をかをりの君に、怪異が起こっているそうな」
「ふむ。それでどんな?」
「かをりの君が夜、寝んでおられると、足許にぼうっと立っている者がおるのだ。
夜中であるから当然、顔も何も見えない。ただ月の影となって、姿かたちから男であることは分かる。烏帽子をかぶっていたからだ」
「まあ、女人が烏帽子をかぶって化けていたのかもしれんな」晴明が言うと、博雅も頷いた。
「それは少納言さまも仰っていたよ」「うん」
「で、その影が何か悪さをするのかと思えば、何もしない。褥に入って来る訳でもない。ただぼうっと立っているのだ。
それでも怖いのに変わりはない。かをりの君は女房たちを呼ぼうと口を開くのだが、声が出ない――」博雅はちらと晴明の表情を窺った。
晴明は酒を口に運んでいた。「そこに立っているのは誰かと、訊こうとしても声は出ない。体も動かない。
これはたぶらかされるかと思えば、やはり影は何もしない…そんなことが三日、続いたんだそうだ。かをりの君は当然怖くなって、坊主か陰陽師を呼んでほしいと、お父上に申し上げた。
それでおれから呼ばれたのだ」「呼ばれた?小用あって行ったのではなかったのか」
「ああ、うん。おれは少納言さまに楽器をお借りしていてな。これが美しい音を出す笙なのだ…」博雅がうっとりとし出すから、晴明は、
「それで」「ああ、それで今日お返しすると約束だったから、お屋敷へ伺おうと用意をしていたらな、
少納言さまの童がやって来て、主が相談したいことがありますと、こう言ったのだ」「それで呼ばれたと言うたのだな」
「うん。伺うのだからわざわざそんな連絡を寄越さなくてもいいのだが、なかなか几帳面な方だからな」「ふうん。かをりの君には会ったのか?」
「会っていない。おれは少納言さまとお話をしたのだ。だがこのかをりの君、内裏ではけっこう評判なのだよ。香にとても凝っていらして、暇なときは自分で色んな香を作っているそうだ。
だから通り名がかをりの君だとか……」「詳しいな、博雅」
「だから内裏では噂になっているのだよ。知り合いにもえらく興味を持った男が居るな。だが少納言さまが頑として許さないらしい」
「堅物だな」晴明がふふんと笑った。
「少納言さまが認めた男でないと、通わせないとか…今日話をしているときも何度かそのことが出たなあ」 「あまり堅すぎると、逆に貰い手がなくなってしまうぞ」晴明はますます笑う。博雅は真剣な顔で、
「とまあそういう事だ。少納言さまは是非おまえに来てほしいと仰っている」「いつ」
「明日の晩がよいと」「ふうん。まあ構わぬが。おまえも来るのであろう?」
「それがなあ――」と、博雅はつくづく溜め息をついた。
いつの間には、辺りには闇が差し迫っていた。空に浮かぶ月もはっきりと見えてくる。
「なんだ、ゆけぬのか?」「宿直なのだ」
博雅は言った。晴明は目を細める。
「それなのに、少納言さまは明日来いと?」「来てほしいのはおれではない。おまえだ晴明」
「それはそうだが……」晴明は釈然としない顔で言った。
ふつう、紹介人も共にゆくものであろうが。「おれもおまえについてゆきたいのだが、宿直ではなあ…」
と申し訳なく言う。「いいさ。ひとりでゆこう」
晴明は頷いて、それから色っぽい目で博雅を見た。博雅はどきりとする。この目に、博雅はとても弱い。
「おれひとりに仕事を任せるのだから、それそうの礼は用意しているのだろうなあ?」と言って、にじり寄る。
冗談で言っているのは、博雅にも分かる。だが心はどきどきとして落ち着かない。「だから――酒を持って来たではないか」
「おまえが話している内に、飲んでしまった」「え」
博雅は思わず瓶子の中に見た。空っぽだ。 「――飲んだのだからいいだろう」博雅が言うと、晴明は笑って、
「つまらんなあ」と白い手を博雅の手に添えた。
「仕事は引き受けた。ひとりでは寂しいがこれで許してやろう」すっと撫でるように口付けた。柔らかい唇が触れる。
博雅は晴明を見つめた。その熱い視線に晴明は苦笑し、その場でゆっくりと博雅の体を倒した。「あれ」
と博雅が声をあげる。押し倒されることなんて、めったにない。ふふんと晴明は上機嫌に笑って、胸の上に頭を乗せた。
「晴明」「なんだ」
「芍薬の季節だな」ふたりが寝転ぶ濡れ縁から庭が見える。庭には数々の花が咲き、草が生い茂っている。
その中に、博雅の言う芍薬もまた、蕾をつけ花びらを広げていた。大きな頭を、茎は軽々と支えている。まるで重みが無いように、優しく。
「そうだな」「きれいだなあ」
「うん…」晴明は目を閉じて頬を胸に摺り寄せている。既に花のことなど見ていない。
「大好きだ」「そんなに、芍薬が好きか博雅」
「違う。おれが好きなのは晴明だ」晴明は目を開けて、博雅を見つめた。
「本当だぞ」博雅が微笑むと、晴明も照れ臭そうに笑った。
月がゆっくりと、雲の陰に隠れる。やがて、芍薬の姿も、折り重なるふたりの姿も、穏やかな闇に隠れて行った。
かをりの君が住む少納言の家は、高位の人間らしく、内裏にほど近い左京三条大路の脇にある。
晴明は、あと半刻で日も沈み暗くなるだろうという頃に、その屋敷を訪れた。 博雅はおらず、ひとりである。博雅が持って来た仕事には、たいてい、というかたぶん今まで全部、ふたり一緒に行動をしたから、どことなく寂しい。
自分でも呆れるような感傷に、晴明は牛車の中で苦笑した。以前は、博雅など居なかったのに。
たった独りで。そう、独りで――
「到着しました」牛を引いていた式神が、そう告げた。
少納言・藤原成之は、人当たりの良さそうな、柔和な顔立ちを持った男であった。
晴明は直接、少納言と向き合い話を聴いた。もちろん、ふたりの間には位の差を示すように、あからさまとも言える程の距離が置かれている。
成之は、まじまじと晴明を見ている。顔、表情、座った姿勢、目線……何をそんなに見ているのか。
見られることに慣れている晴明にも、気持ちのよいものでは決してなかった。珍しいのではないだろう。
内裏で顔を合わせるときだって、たまにある。成之の目は、品定めをしているような、鋭いものであった。
「それで――」と、黙ったまま見つめてくる成之に半ば呆れ、晴明は自ら話を促した。
成之ははっとした様子になり、それから頷いて、「そうなのだ。わが娘に何やら怪しげな事が起こっているのだ」
「おおまかなお話は伺いまいした。昨夜も、同じ事が起こりましたか?」「そのようだ」
「少納言さまは、その影とやらをご覧になりましたか」「いや」
と、短く答え、「かをりは怯えきっておる。早々に手を打ってもらいたい。今夜はここに居てくれ」
「そのつもりでした」「うむ」
また短く言う。「かをりの君は、どちらに?」
「自室だ。寝床もそこだ。そなたは隣の間に控えていてくれ」「分かりました」
晴明はそっと、成之の顔を探った。自分の娘が妖に誑かされているかもしれないと、心配する親の表情ではないのだ。
妖を追っ払ってくれと、必死に乞い願う男の表情でもない。それは何故か。
晴明は、既にその答えを持っていた。夜になれば明らかになるだろう。家人の案内で、早速部屋を移動させられた。
庭に面した広い部屋である。そこを御簾で区切り、晴明は狭い方で待たされた。
家人は下がり、晴明はひとりになった。いや、ひとりではなかった。
晴明ひとりではない。じっと、時がたつのを待った。
もうすぐだろう。暗くなる。灯りを点しに来る者も居ない。
もうすぐ梅雨入りの季節だ。V雨が連日続けば、博雅も通いにくくなるであろうな。彼は雨の中、牛車を使い家人たちを濡らすのを嫌うのだ。
だがまた、いつものようにひとりで来るかもしれない。
ぶらりと、傘をさして。ひとりで……「晴明さま」
甘い、ささやくような女の声。晴明は、顔だけを御簾の向こうにやった。
「いつお声がかかるかと思っておりました」微笑する。
「お待たせを致しました。暗くなってからの方が良いと思いまして」「何がですか?」
「お声をおかけするのが」「なぜ私にお声をおかけになったのですか」
「暗くなり、辺りが闇になったからですわ」「ほう」
なかなか面白い姫だと思った。「暗くなると、妖が参ります」
「それはどうでしょう」晴明は言った。
「どうしてそうお思いに?」「これは、あなた方が仕組んだ狂言だからでしょう」
「まあ…」かをりの声が、悔しいような楽しいような色を帯びて、発せられた。
「お分かりですの?」「分かりますよ」
「なぜ?」「妖のお話は面白かった。理由なく立ちすくむ影とは」
「ええ」「ですが、この家にはそんな妖の気が感じられません」
「あら」「それから、父君のご様子がふつうではありませんでした」
「どういうこと?」「そうですね、妖が今夜もこの屋敷に来るかもしれないと、
そして自分の娘を脅かすかもしれないと不安になっていなかったのですよ。そういう意味では、様子がふつう過ぎた、と申し上げるべきでしょうが」
「父上は嘘が苦手なの。博雅さまに作り話をするのだって、大変だったのよ」かをりがくすくすと笑った。
「相手が博雅さまでしたから、通った嘘だったでしょう」晴明も苦笑して言う。
「晴明さまには通用しなかったけれど…」かをりは自ら御簾を少し押し上げた。
「こちらへ、来て下さりませんの?」「さて、どう致しましょうか」
澄ました声で晴明は言った。「では私が行きましょう」
楽しそうにかをりは御簾の隙間から体を通してやって来た。大胆な娘だ。晴明はまだ動かない。
じっとかをりの顔を眺めているだけである。「あやかしの話は、あなたが考えたものなのですか?」
晴明が訊いた。「私は晴明さまと会いたいって言っただけなの。考えたのは家人のひとり。面白かったでしょう?」
「父君はなんと?」「晴明さまのことはご存知だったけど、本当のところはどうだか分からないから、
今日こうしてお呼びしたのよ」「ははあ」
「父上が晴明さまをこちらにお通ししたということは、どういう事かお分かりかしら?」「なるほど、私は少納言さまに認められたという訳ですね」
「そうそう」いつの間にか、かをりは晴明の隣に座していた。
「だから、今夜はぜひ泊まって行ってほしいの」「分かりませんね」
晴明はさらりと言った。「何がです?」
「どうして私なのですか?」単純な疑問であった。
「どうして晴明さまを好きになったかっていう意味?」かをりは人懐こそうに言った。
晴明はふっと笑って、「そうですね」
と言う。「人を好きになるのに、理由なんて要らないんですのよ。晴明さま、ご存知ないの?」
「稀にそういう事はありますが、あなたさまと私では釣り合いが取れないでしょう。あなたさまのお家のためになれません」
「まあ」かをりは目を丸くした。
「晴明さまも、そんな事を言うの?父上もね最初はそう言っていたのよ。身分が違う陰陽師とは良くないって」
はっきりという女である。「お父上の仰る通りですよ」
「そんなの、つまらないわ」「つまらない、面白いという話ではありませんよ」
「好きなだけじゃ駄目だのですか?」「私があなたさまのお屋敷で夜を過ごしたと噂が立てば、立派なお名前に傷がつきますよ」
「もうっ…」かをりは、ちょっと頬を膨らませた。幼い仕草だった。
「晴明さまは、先程から身分の話ばかり」「そうですね」
「名前なんてどうでもいいんですの。それより――泊まって行って下さらないのなら、傷つくのは晴明さまのお名前ですわ」
「ほほう。それは何故です?」「私に何もせずに帰ってしまったら、皆に言いふらしてしまうわ。
怪異を解決出来なかったとか、ひどい言葉を私に投げつけた、とか。何でもいいわ」「ははあ。嘘の次は脅しですね」
晴明は笑って言ったが、睨むような目であった。さすがにかをりも、その目には気落ちされたようで、視線を外し肩をすくめた。
「どうなんですの、晴明さま」「まさかこちらでその様な恐ろしい事を言われるとは思っておりませんでした」
「強気なんですのよ」「なるほど」
もう折れただろうと思い、かをりは体を寄せて晴明の唇に触れようとした。晴明はそれをあっさりとよけて、立ち上がった。
かをりはむっとした顔で晴明を見上げる。「私に恥をかかせるつもりなの」
「そんなことはありませんよ」「――騙されたことを、怒っているの?」
「私が、いくら騙されようと構いはしませんよ。ただ――」と、一瞬、表情というものを初めから持っていなかったかのように、すうっと消した。
「博雅さまはあなたを大層心配しておられた。そんな博雅さまを騙した事が少々気になりましてな」
「――」かをりは歯噛みする。
悔し紛れに言った。「そのまま帰ったら、本当に噂を流しますよ!都に居られなくなるくらいの!」
「愛情と憎悪は背中合わせと申しますが――あなたを見ていると本当にその事が分かりますよ」立ち去ってしまうかに見えたが、晴明は御簾を上げてかをりの部屋にまでずかずかと入り込んだ。
「何をしているの」かをりが怒った声で言った。
「あなたや、この家の方が呪を振り撒いたお陰で、それが嘘に収まらなくなってしまった」「え?」
苛立って口調がかなりつっけんどんなものになっている。可憐な姫の言い方ではない。 かをりは立ち上がって、御簾ごしに晴明が顔を向けている方を見た。そして、高い声で叫んだ。
「誰!?」かをりがいつも寝床にしている畳の傍に、影があった。
姿形からして、狩衣を着た男である。顔は見えない。「あなたさまの言葉が実体を持ったのですよ。言霊というやつですね」
かをりに話しかけているが、目線はぴたりと影を射ている。「消えなさい」
晴明は言った。影が、こちらに顔を向けた。やはり表情は見えない。
「その方が、私を呼んだ…だから私はここに居る」口は動いているとは思えないのに、影がそう言った。
「呼んだのは間違いだ。消えなさい」「ひどい」
「消えなさい」あくまで穏やかに、晴明は呟く。
「呼んだのはそっちだ!私はただここに立っているだけだ!」「消えなさい」
「――」影の目はもちろん見えないが、晴明を睨みつけているのがよく分かった。
「そこの女が」影がかをりを見た。かをりは蛇に見つめられたかのように声も出ず、足がすくんだ。
晴明はすぐにそれを察して、庇うようにかをりの目の前に立った。御簾は挟んであるが、背に庇われれば印象も違う。怖れも和らぐだろう。
「そこの女が私を呼んだのだ。だから私はここに居る」「おまえの居場所はここにはない」
「なんだと――」周りの空気がぴりぴりと緊張した。晴明は一度吐息をついた。
どうも、自分も気が立っているらしい。「すまん」
と謝ってから、「確かにこちらがそなたを呼んだ。だがそれは間違いであった。
どうか、この場から去ってはくれないか。そなたがこの家の人間に被害を加えないという事は分かっている。だがそれでも、人はそなたを怖がってしまう。怖れられるのは、そなたの好むところではあるまい…」
「私は、どうすればよいのだ…」影は首を垂れた。
「月が出ている」晴明は不意に、庭を見た。
つられて影もかをりもそちらに目を向ける。「月、か…」
ほろりと影が言った。「昨夜は途中で月が雲に隠れてしまった」
晴明が独り事のように言う。「ああ――」
と、影が呟く。その時であった。
月の光と共に、笛の音が届いたのだ。なめらかな、優しい音色であった。
聴く者全てを心安らかにするような、そんな笛の音――光の音。月の調べ。
晴明は目を細めた。計ったような丁度よさだった。かをりがなんとも言えない、言葉にならない声を漏らした。
清らかな心。晴明が部屋の中に目を移すと、そこにな何者の姿も残ってはいなかった。
「昨夜はすまなかったな、晴明」
一緒にゆけなかった事を、博雅は謝った。晴明は涼しい顔で、構わんよと言った。
かをりの屋敷から戻った、次の日の夜。博雅が手土産を持ってやって来た。酒と唐菓子である。
「それで、どうだった」博雅はことの顛末が聴きたくて、来たらしい。
「妖は一体何の為にかをりの君の寝所へ?」「騙されたのさ」
「妖が、何を騙したのだ」「違う。おれがだ」
「あやかしに、騙されたのか?晴明が」博雅が驚いた顔をした。それを見て晴明がふふっと笑う。
「違うよ。かをりの君がおれを騙したんだよ」「は?」
「妖の話はな、おれに会う為の口実だったらしい」「会うって?」
「だから、おれをひとりで来させたのだな。初めから、火急に来てくれと言われない事に可笑しいとは思っていた。わざと明日の夜、などと言うておまえの宿直の日に合わせたのさ」
「ちょっと待て、晴明。さっぱり分からん」博雅は両手を上げて、話を制した。
「かをりの君が?おまえに会いたかった?」「そう。部屋に入って、泊まって行って欲しかったらしいよ」
「は…」さすがの博雅も、その意味は分かった。すうっと頬に赤をさし、
「そ、それは…かをりの君が、おまえを好いているという事か」「まあ、そうだ」
「――」じいっと、博雅が見つめる。そして、
「泊まったのか、晴明」思い切って、そう問うた。
その博雅に対し、晴明はくすりと笑う。「どう思う?」
「からかうな!泊まったのか!?」「泊まったと言うたら?」
「お――おれは…」手が震えている。晴明が女を抱いたというのか――
ぐっと唇を噛み締めた博雅に、晴明は微笑んだ。「冗談だよ。泊まる訳がないだろう」
「本当か?」「本当さ。おまえが居るのだからさ」
「うん…」「しかし、内裏でおれの名は上がらなかったか?」
「え?何の事だ?」「あの女、おれが泊まってゆかぬなら、おれの悪い噂を流してやるとぬかしおったのさ」
晴明の口調が変わった。少々怒っているらしい。博雅はぽかんと口を開ける。
「なんということだ…姫君がか」「なかなか強気だろう」
「うん…いや、そういう事か。何も悪い噂など聴かなかったよ」「そうか。まあ、実際に妖が出たのだしな」
「え?」また博雅が声を上げる。
晴明は、細かく昨夜の話をしてやった。
「ははあ、皆が居る居ると言うんで本当に妖が出てしまったのだな」
「そうう事だ」「だが――」
「ん?」「おまえ、良かったのか?泊まって来なくて…」
博雅が遠慮がちに、上目遣いで訊いて来た。「何を言っている」
「おまえだって――女に好かれて悪い気はしないのではないか?」「――」
「嬉しくはなかったのか?泊まって行こうと、思わなかったのか?」触れるのが怖いと、腰を浮かせ乍らも近づけない博雅に、晴明は自ら体を寄せた。
「おれが、信じられぬのか?」「そんな事では…でも……」
「博雅が居る。それ以上に何を望むと言うのだ」「――」
「要らぬよ、おまえの他には何も」「本当だな」
「本当だ」「絶対に――本当だな」
「信じろ。おまえこそ、おれに飽いて他の女に心移りなんぞするなよ」「するものか!おれだって、おまえだけを…」
「ああ…」晴明は微笑して、頷いた。
今は、月が皓々と輝いて出ている。雲など、ひとつも見えない。
「今日はずっと、月に隠されずにすむな――」晴明が言って、色っぽい目線を博雅に送った。
博雅はそれを敏感に察して、どきりとしてから、きゅっと体を抱きしめた。「おまえの傍に居たい、晴明」
「ん?」「仕事にも一緒にゆきたい。一緒に行って、おまえと同じものを見たい。おまえを守りたい」
「そうか…」「一緒に居たいな」
「居てくれ、博雅」「晴明」
「居てくれよ、博雅――」晴明は博雅の両頬を包み、深々と唇を吸った。苦しいくらいの口付けだった。
博雅も、晴明の背を両腕で抱え込み、これ以上ないというくらいに体を寄せ合った。いつしかふたりは床に寝転がり、どちらが上とも言わず性急に互いを求め合った。
月は隠れることを知らず、ただぽっかりと明るい光を濡れ縁に注いでいた。足は妖しく絡み合い、腕はただただ重なり合う。
やがて月が辺りの空の明るさに、その姿を薄くさせても、ふたりは共に居た。一緒に居たいと乞い願う、心は同じであった。
終わり
ゴゴゴ…なんだかダレていてすみまへん…(へこみ)
「騙される晴明」というリクでした。難しかったです(笑)
騙される博雅、というのはよく有りますが(あるのか)晴明が騙されるってあまりないですよね。
だから、考えるのが面白かったです。でも…その「騙される」って事が主旨になっていなかった…
「晴博風味」を出すのが…出すのが…出せていなかった…気がします。
すみません。。
桃川クレア様【芍薬の笙】から頂きました。わ〜い♪博雅がお婿に来てくれた?!
何気なく?お願いしたら、快く承諾して下さったのです、うるるん。言ってみるもんだなあ…(T▽T)
はあ、なんと美しいお話でしょうか…。二人の麗しい愛の世界に吸い込まれるようですよ。
晴博風味などと無体な注文にも応えて頂き、もう嬉しくて舞い上がっております。
「居てくれ、博雅」…、くううううっ、か、可愛い〜、素直な晴明に萌え萌え!!
本当にありがとうございます、クレア様、一生ついて行きます〜!
…イラスト博晴風にしました。因に、
晴博風だとこうでした。