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  歴史  
 

 源流部の狭山丘陵と清瀬の野塩付近には古代人の遺跡があります。このあたりは生活に必要な水を得られたものと思われます。しかし古代人の生活のあとは縄文中期で消えています。

 ふだんは水が地中にしみ込んでしまうため、江戸時代以前は川としての存在が知られていなかったようです。

 江戸時代には付近の開墾がおこなわれました。元禄のころ狭山丘陵の木を大量に切り出したため、水量が減ったという記述があります。

 
  多摩湖の堤防から見た夕暮れの狭山丘陵の写真  
  現在の狭山丘陵には多摩湖・狭山湖という人工の湖や西武所沢球場などがあります。  
     
   戦後、流域開発にともない空堀川は生活排水を流す川になりました。水は常に流れるようになりましたが、一年中臭くヘドロが堆積し、東京都で最も汚い川のレッテルを張られてしまいました。しかも森林が減って保水力がなくなったため氾濫が増えました。

 現在、流域下水道の整備と河川の改修工事により空堀川は改善されつつあります。

昭和39年7月10日  一級河川認定  昭和40年4月1日 一級河川施行

 
     

 

  空堀川の名称の変遷
 
 

 昔の空堀川は地域ごとにいろいろな名前で呼ばれていました。上流の武蔵村山、東大和市内では「悪水掘り」、東村山の廻田村では単に「溝流」と呼ばれていたようです。野口村では「砂川」と川らしい名前で呼ばれました。清瀬市内・野塩村からは「村山川」といっていたようです。

 ちなみに、「悪水掘り」とは汚れた水が流れていたのではなく、「田んぼ」の排水が流れている川であったため、そう呼ばれていたようです。(武蔵村山・歴史民族資料館・山田義高氏による)

 「砂ノ川」と呼ばれるようになったのは、明治になってからのことです。明治9年の「皇国地誌」によれば、武蔵村山市内では不明ですが、東大和、東村山、清瀬では「砂ノ川」と呼んでいました。

 昭和29年、準用河川に認定されて柳瀬川合流点から現在の新空堀川橋までの下流域を空堀川(からぼりがわ)と呼ぶようになりました。一級河川に指定されてから、全川が空堀川と呼ばれることになりました。

 

西暦

和暦
川の呼称 資料
1792
寛政4
砂ノ窪悪水堀 回田絵図
1828
文政11
砂川

新編武蔵風土記稿

1869
明治2
村山川 桜井家文書
1876
明治9
砂の川 狭山の栞(しおり)
 
 
隍(からほり)  
1880
明治13
砂ノ川 東村山史資料編・皇国地誌
 
同9月
村山川 東村山史資料編・久米川村誌
 
 
からっぽ川 江藤又次氏・祖父口伝
1902
明治35
村山川 東村山農事調査
1936
昭和11
砂ノ川 東村山縮図(1/24,000)
1953

昭和28年

砂川 地理調査所(1/10,000)

1954

昭和29
空堀川 3月30日、空堀橋〜柳瀬川合流点準用河川認定
 
 
空堀川 12月28日、東大和庚申橋〜柳瀬川合流点準用河川認定
1955
昭和30
空堀川 官報公示
1957
昭和32
空堀川 東村山町広報 空堀川改修記事掲載
1964
昭和39
空堀川 東村山市全図 4月1日市制発足

 
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