この本を手にしたとき、「アイウエオ」と「いろは」の発明というサブタイトルに興味がわいた。というのも「アイウエオ」は、小学校へ入学して初めて学んだものであり、「いろは」も幼い日「いろはにほへとちりぬるを・・」と口ずさんだものであることを思い出したからである。
1904年(明治37年)にわが国で最初に発行された国定の日本語教科書(尋常小学読本)は、「イエ」「スシ」という言葉で始まっているし、また1933年(昭和8年)より使用された尋常小学校の国語の教科書における冒頭文は「サイタ サイタ サクラガサイタ」であったことはよく知られている。
私自身もこの教科書で学んだが、幼い日、後輩の1年生が私たちと違って<ひらがな>から学ぶのを奇妙に思った。直線書きの多い<カタカナ>の方が、曲線の多い<ひらがな>より小さい子どもには読みやすいし書きやすいのではと思ったりした。
本書の8章、9章、10章で五十音図ができるまでのことが詳しく説明されている。では1947年(昭和22年)<ひらがな>表記の五十音図ができるまで<カタカナ>が日本のメインだったかというとそうではなかった。
<ひらがな>は「いろは」によって覚えられ使われていた。「いろは」は五十音のように子音と母音を組み合わせ作られたシスティマテックなものでなく「いろは」は「いろは歌」とも呼ばれるように情緒的な要素を含む五七調の歌であった。
ではなぜいろは引きからアイウエオ引きに移行したのかということについて、著者は次のように述べている。明治という時代は情緒よりシステムの構築を必要とした時代であった。大槻氏が語彙(ごい)の検索に便利であるとして「言海」に採用した「あいうえお順」の配列は、こうした明治の風を受けることによって得たシステムとしての日本語という認識が生まれたからではないかと。
私たちが<アイウエオ>と小学校入学とともに学ぶのは、分からない言葉を国語辞典で引けるようになるための準備でもあったとも思われる。
日本語は「いろは」という情緒を支える世界と「アイウエオ」というシステムを支える世界によって培われてきた。「いろは」と「アイウエオ」の両輪によって情緒と論理の言語的バランスをとることができる。このような仕組みの言語は日本語以外ないと、著者は終章で述べている。
RPの声 HP151('08.6月号) 新刊図書室 No.293
本の紹介と感想
---- 小森鐘二(栗東市)
『老年学に学ぶ』――サクセスフル・エイジングの秘密 ――
―――― 山本恩外里(しげり) 著
―――― 出版社 角川学芸出版 2008年1月 発行
充実した老年期の過ごし方
長壽者の唯一の共通事項は、「前向きな性格と楽観主義」と「死を生の一部として受け入れる」という興味深い著者の言葉にひかれ、本書を取り上げました。
ありふれた長寿法や健康法でなく、欧米で発達した「老年学」に学ぶ充実した老年期の過ごし方。「長い余生を、健康で楽しく暮らしたい。そして、最後までボケずに、安らかに死にたい。そのために、これからどんな暮らし方、どんな生き方を選択すればよいのか」
この本を読んで、老後の生活の質は、「何を持っているか」でなく「生きがいがあるか」で決まることを知りました。
この本は、次のような構成になっています。
第1章 寿命と老化について
第2章 老いの意味・老いの価値
第3章 老年期をどう過ごすか
第4章 現代養生訓
第5章 死をどう準備するか
各章ごとに、一部抜粋してご紹介します。
第1章 寿命と老化について
健康寿命という考え方。脳は生まれてから死ぬ日まで続く進歩の中で機能しており、いくら年老いても脳の機能を高めることができる。老衰を宿命と諦める老年学から、人生の最後まで成功は維持できると見る老年学へ、人間の寿命の範囲内で長く高度な生命の質を維持しようという研究への転換という。
成功加齢の三要素
健康を維持する「病気を防ぐ」「心身の機能を高く保つ」「積極的に社会とかかわる」
| @ |
運動――昨日できたことが、今日もできる。しかし、一度止めたら、それは永久に駄目になる。不断の訓練は、驚嘆すべき成果を生む。最後まで体を使うことこそ賢明な道。毎日長く歩くことは、上手に年を取るための仕事の一部である。 |
| A |
食事――老化対策は、食事から始めるのが良い。基本的には、好きなものを食べればよい。嫌いだが健康に良い食品を無理して食べて長生きしても、何のために生きているか分からない。現実的に目標を設定して、糖分・脂肪分を減らし、野菜か果物などをとるよう心がける。栄養補助食品は、自然食品でとる努力を怠ってはいけない |
| B |
脳と学習――頭の運動は、体の運動と同じくらい大切である。「今日という日も、きっと何か新しいことを運んできてくれる。まだ経験していない何かをすることになる」 |
第2章 老いの意味・老いの価値
「老いはこうして作られる」の中で育児用語を使った高齢者に対する「子ども扱い」を取り上げている。日本の病院や施設では、家族でない者が高齢者に向かって「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけ、「ハイ、おじいちゃん、お注射ですよ!」と育児用語が飛び交う。高齢者に対する「あわれみ」であり、「子ども同様の無力な存在」という誤解が、子ども扱いを生んでいる。
「年を重ねるから老いるのではなく、年寄りとして扱われることで、老け込んでしまいます」
「山の頂に辿(たど)り着き、第二の成人期という新しい領土を眺めた時、そこにあるのは、裏側の一本の下り道だけではない。そこにあるのは息を呑むようなパノラマである。初めて全ての方向が見渡せる360度の展望が得られる。自分が来たところ、つまり自分の行動様式をはっきり見ることができる」
我々の肉体は運動の疲労によって衰退するものであるが、我々の精神は働かせておくことによって抑揚されるのである。
第3章 老年期をどう過ごすか
人にも余暇があったら、心を穏やかに静かにし、日を長くして、あわててはいけない。特に老いては残る年がようやく少なく、時節の過ぎることもことさら早い。時刻を惜しんで、一日を十日と思い、一年を十年と思って楽しむ。楽しまずにむだに月日を暮らして、あとで悔いてはならない。
「だいたいのことは友を得ないとできない。ただ読書の一事は、友がなくても一人で楽しめる。一室にいながら天下四海のうちを見、天地万物の理を知る。数千年の前を見る。今の世にあって古人にむかいあう。わが身は愚かなのに聖賢に交わる。これみな読書の楽しみである。およそ万事のすることのなかで、読書の益にまさるものはない。それなのに世の人はこれを好まない。これを好む人は天下の至楽を得る。」
豊かな第二の人生を過ごすためには、職業的な人生から完全に離脱して、自分の趣味に従い、個人的な興味や能力に従ってどのように第二の人生活動を作り上げるかは、全く個々の人々にまかされる。
「老いるということは偉大なる特権である。」
第4章 現代養生訓
養生法と健康法との違いは、人間の「生命力」に対する認識の相違に基づくと考えられる。「自分のからだ」を信用するかどうかは「自然治癒力」に対する信頼に左右される。何が病気を構成しているのか、誰が病気か、病人に対して何をするかを決定する権利を、医者に譲渡してしまった。医療的な世話において、「治療する」のでなく、患者になり、「治療される」健康な身体の追求が、今日では病気を作りだしている。
「養生訓」では、飲食のほかに、重要な項目として運動と睡眠を挙げている。運動は毎日少しずつする、食後の散歩は特に必要。
ボケないために――老境を迎えて、多くの人が抱く不安は「ボケる」「長患いする」ことであろう。物忘れ=認知症ではない。
◎頭の働きを悪くする法
@テレビの見すぎ A責任の回避・転換 B不平ばかり言う・他人の批判
C悲観・あきらめ・絶望 D新しい問題に取り組まない
◎頭の働きを良くする法
@問題に直面しても逃げない A良い本を読む B情報を選択して取り入れる
C未知の分野に目を向ける Dいい友人を持つ E特技・趣味を持つ
第5章 死をどう準備するか
「正しく生きた人にとっては、死は怖いものではありません。私たちは死ぬことを心配するよりも、今日何をすべきかを心配すべきです」
どの時代に生きても完全な人生というものはありえない。失敗はいくつもあるけれど、自分の力でできる範囲で挑戦する。
平成20年4月7日