RPの声  HP151('08.6月号)  新刊図書室 No.291

 本の紹介と感想 ---- 中村 進(高槻市)

『文章のみがき方』

     ――― 辰濃 和男 著   
     ――― 出版 岩波新書     2007年 10 月 発行

その昔中学生になったころ、漱石の草枕の一節「山路を登りながら、かう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角人の世は住みにくい。----」
 何回も読みそらんじる。世の生き方を的確にとらえ、流暢(りゅうちょう)でリズムがある。こういうのを名文というのであろう。このような魅力ある文章を誰しも書きたいと思う。
本書は文章を書く過程でのポイントを幾つかあげ、書いた文章を推敲(すいこう)し、いい完成文にしていく実例を多くの作品から引用している。
著者の辰濃和男氏は1930年生まれで、関西RPの多くの会員と同世代である。大学卒業後朝日新聞入社、ニューヨーク特派員、編集局など歴任し、1975〜88年「天声人語」を担当、93年退社し、現在ジャーナリスト。88年発行の辰濃和男著「天声人語『人物編』と『自然編』」2冊が、くしくも私の書棚の一隅を飾っている。
一般に良い文章の条件には、平明、正確、具体性、独自性、品格などの要素をもつことといわれ、著者は各要素を作家の文を引用して分かりやすく述べている。

文章を書くための基本(心がけ)
@ 本を読んで「これはうまい文章だ」と思うものをノートに書き留めておく。
井上靖の言葉「自分の心を揺さぶられた文章は骨董品のように大切にしている」。
A 自分で素晴らしいと思った文章は暗記するぐらい繰り返し読む。
大岡昇平は漱石の「坊ちゃん」を30回以上読んだとの由。
B 漱石は「自分の思ったこと、感じたことを素直に分かりやすく書いておれば、そのうちに文章が上達し、見識も備わり名文が書けるようになる」という。
(関西RPの会豊中地区のネットメール交流は、まさしくこれに値するであろう)
C 文章を書くときには必ず辞書(類語辞典、用語の手引き、逆引き辞典)を手元に置く。
たとえば「うとうと」と「うつらうつら」の差異や「特長」と「特徴」の違いを調べたり、また逆引き辞典で「雨」をひくと、「小糠雨」「梅の雨」「鉄砲雨」「花の雨」「若葉雨」「そぞろ雨」「しぶき雨」「涙雨」と多くの表現が出る。

書いた文を推敲して直す(磨きあげる)
本書の書名「文章のみがき方」の主要部と思う。推敲でどういう点に気を配ったらよいか、20項目以上列記されているが、関西RPホームページのフォーラムや新刊図書室(書評)などで留意すべき点を記すと
@ 文章がちゃんとこころよくリズムをもって流れているか。
A 枠内に内容を盛り込み過ぎ、文章が窮屈になっていないか。
B 過剰な表現、語句の重複がないか。(美しい、至福、おいしいなど)
C 一つの文が長過ぎ、読みにくくなっていないか。----段落の問題
D 言葉の順序がおかしくなっていないか。
たとえば「ふと、山道を歩いていてヤマザクラに出あう」は「山道を歩いていて、ふとヤマザクラに出あう」の方がよい。
E 文末が単調になって、たとえば「である」が何回もつづいたり、「だった」が何回も現れていないか。
F 読み返し、所どころ冗長な文の削除や時には勇気をもって全体文の1/4から〜1/5 削り、主題をはっきりさせることも肝要である。

更なる文章修業
1)落語に学ぶ
漱石は寄席通いが大好きで、「吾輩は猫である」「三四郎」「草枕」など多くの作品に落語の影響がみられる。著者は「落語に出てくる平易な言葉や流れのよさを学べ」と。
2)土地の言葉(方言)を大切にする
会話文に方言を用いると、土地の状況がいきいきし、あったかい情感がにじみ出る。藤沢周平文学の面白さや太宰治作品がよい例で、今年度芥川賞受賞の川上未映子作「乳と卵」も冗舌な大阪弁で雰囲気を出している。
3)感受性を深める
文章力を高めるというのは作文のワザを磨くだけでは不充分で、五感を練る修業が大切。
 すなわち、空・風・火・水・地のふんだんにある大自然の中で感性を深めることが必要と、説いている。たとえば「森の雨は木の密度を教えてくれる」「広葉樹の雨はまるで傘に落ちる滴のように、あちこちでポトポトとつぶやいている」……など感性の高い文といえよう。

前述の辰濃和男著「天声人語『自然編』」を手に取る。月ごとに編集され、題名がついている。
 最初の1979.1.1富士の日の出で「----雲海のかなたに、そのさらにかなたの朝焼けのもやの奥から太陽が顔をのぞかせる。みずみずしい朱色である。雲の海、雪のはだ、樹海、刻々と変わる天空の色----」
このようなリズム感のある文章が書けたらとため息をつく。この天声人語の本を座右にして時々読むことを心がけようと思う。
 本書「文章のみがき方」を一読すれば、なんらかのインセンティブを与えてくれると思う。
平成20年5月2日

RPの声  HP151('08.6月号) 新刊図書室

 本の紹介と感想 ---- 馬場 雍子(高石市)No.292

『日本語の奇跡』
   ――<アイウエオ>と<いろは>の発明――

   ―――― 山口 謡司 著
    ―――― 出版社 新潮新書 2007年12月 発行


この本を手にしたとき、「アイウエオ」と「いろは」の発明というサブタイトルに興味がわいた。というのも「アイウエオ」は、小学校へ入学して初めて学んだものであり、「いろは」も幼い日「いろはにほへとちりぬるを・・」と口ずさんだものであることを思い出したからである。

ひらがなとカタカナ
序章で著者は、日本人は漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字といった世界に類をみない雑多な表現を使い分ける国民であると述べている。
 では日本語はどこから来たのであろうか。これまでも多くの学者が日本語の起源を求めて研究しているが、はっきりしたことはまだ分かっていないようだ。日本語が発達するためには中国から渡来した漢字がなくてはならなかったことは衆知のことだが、漢字だけでは十分にその機能を果たすことはできなかった。長い時間をかけながら漢字から<ひらがな>や<カタカナ>が生みだされたのである。

漢字から生まれた<ひらがな>と<カタカナ>は日本語を学ぶ基本であり、われわれは小学校に入学して、まず「あいうえお」という母音から始まる五十音を学習する。
 「あいうえお」と<ひらがな>で表記される五十音図ができたのは1947年(昭和22年)文部省著作教科書が発行されたのと同時で、それほど古いことでない。
 1947年以前は、五十音図は「アイウエオ」と<カタカナ>で書かれることが普通で、戦前の尋常小学校で習う文字は<ひらがな>よりも<カタカナ>が先だった。

1904年(明治37年)にわが国で最初に発行された国定の日本語教科書(尋常小学読本)は、「イエ」「スシ」という言葉で始まっているし、また1933年(昭和8年)より使用された尋常小学校の国語の教科書における冒頭文は「サイタ サイタ サクラガサイタ」であったことはよく知られている。
 私自身もこの教科書で学んだが、幼い日、後輩の1年生が私たちと違って<ひらがな>から学ぶのを奇妙に思った。直線書きの多い<カタカナ>の方が、曲線の多い<ひらがな>より小さい子どもには読みやすいし書きやすいのではと思ったりした。

五十音図の誕生〜システムの誕生
本書の8章、9章、10章で五十音図ができるまでのことが詳しく説明されている。では1947年(昭和22年)<ひらがな>表記の五十音図ができるまで<カタカナ>が日本のメインだったかというとそうではなかった。
 <ひらがな>は「いろは」によって覚えられ使われていた。「いろは」は五十音のように子音と母音を組み合わせ作られたシスティマテックなものでなく「いろは」は「いろは歌」とも呼ばれるように情緒的な要素を含む五七調の歌であった。

第6章「いろはの誕生」の章で、いろは歌の作者は不詳だが、おどろいたことに「いろは」引の辞書があったことが紹介されている。
 1889年(明治22年)大槻文彦氏によって「言海」という国語辞典が作られるまで、ほとんどの辞典が「いろは」順に作られていたということにもおどろきである。「いろは引き」に慣れていた当時の人々には「アイウエオ」順引きには「引きにくくてしょうがない」と不評だったようだ。
 福沢諭吉は「風呂屋の下足箱さえいろは順になっているのに、なぜ言葉をあいうえお順なんかに並べるのだ。不便でしょうがない」と不満をもらしていたという。
ではなぜいろは引きからアイウエオ引きに移行したのかということについて、著者は次のように述べている。明治という時代は情緒よりシステムの構築を必要とした時代であった。大槻氏が語彙(ごい)の検索に便利であるとして「言海」に採用した「あいうえお順」の配列は、こうした明治の風を受けることによって得たシステムとしての日本語という認識が生まれたからではないかと。
 私たちが<アイウエオ>と小学校入学とともに学ぶのは、分からない言葉を国語辞典で引けるようになるための準備でもあったとも思われる。

ひらがな先習の意味
日本語は「いろは」という情緒を支える世界と「アイウエオ」というシステムを支える世界によって培われてきた。「いろは」と「アイウエオ」の両輪によって情緒と論理の言語的バランスをとることができる。このような仕組みの言語は日本語以外ないと、著者は終章で述べている。

終わりに、まったくの私見を付け加えさせていただきたい。
 幼い日、後輩の一年生が、なぜひらがなを先に学ぶのかなと疑問に思ったと感想をのべたが、ここにきて、小学校にて1年生を何度も担任した者として、ひらがな先習の意味を私なりに理解できた。
 それは4月に入学した1年生は1学期末には短い文章をつづれるように学習するが、本書のいう日本という風土に根ざした情緒を表現するためにはひらがなが必要であったことに符合する。
 和歌は決して<カタカナ>ではなく、<ひらがな>で書くように、1年生の子どもたちの素朴な気持ちを文章化させるためにはひらがなの先習が自然であり、理にかなったことだと思っている。
平成20年5月11日

RPの声  HP151('08.6月号)  新刊図書室 No.293

 本の紹介と感想 ---- 小森鐘二(栗東市)

『老年学に学ぶ』――サクセスフル・エイジングの秘密 ――

   ―――― 山本恩外里(しげり) 著
    ―――― 出版社 角川学芸出版  2008年1月 発行

充実した老年期の過ごし方
長壽者の唯一の共通事項は、「前向きな性格と楽観主義」と「死を生の一部として受け入れる」という興味深い著者の言葉にひかれ、本書を取り上げました。
 ありふれた長寿法や健康法でなく、欧米で発達した「老年学」に学ぶ充実した老年期の過ごし方。「長い余生を、健康で楽しく暮らしたい。そして、最後までボケずに、安らかに死にたい。そのために、これからどんな暮らし方、どんな生き方を選択すればよいのか」
 この本を読んで、老後の生活の質は、「何を持っているか」でなく「生きがいがあるか」で決まることを知りました。
 この本は、次のような構成になっています。
 第1章 寿命と老化について
 第2章 老いの意味・老いの価値
 第3章 老年期をどう過ごすか
 第4章 現代養生訓
 第5章 死をどう準備するか
 各章ごとに、一部抜粋してご紹介します。

第1章 寿命と老化について
健康寿命という考え方。脳は生まれてから死ぬ日まで続く進歩の中で機能しており、いくら年老いても脳の機能を高めることができる。老衰を宿命と諦める老年学から、人生の最後まで成功は維持できると見る老年学へ、人間の寿命の範囲内で長く高度な生命の質を維持しようという研究への転換という。
成功加齢の三要素
 健康を維持する「病気を防ぐ」「心身の機能を高く保つ」「積極的に社会とかかわる」
@ 運動――昨日できたことが、今日もできる。しかし、一度止めたら、それは永久に駄目になる。不断の訓練は、驚嘆すべき成果を生む。最後まで体を使うことこそ賢明な道。毎日長く歩くことは、上手に年を取るための仕事の一部である。
A 食事――老化対策は、食事から始めるのが良い。基本的には、好きなものを食べればよい。嫌いだが健康に良い食品を無理して食べて長生きしても、何のために生きているか分からない。現実的に目標を設定して、糖分・脂肪分を減らし、野菜か果物などをとるよう心がける。栄養補助食品は、自然食品でとる努力を怠ってはいけない
B 脳と学習――頭の運動は、体の運動と同じくらい大切である。「今日という日も、きっと何か新しいことを運んできてくれる。まだ経験していない何かをすることになる」

第2章 老いの意味・老いの価値
「老いはこうして作られる」の中で育児用語を使った高齢者に対する「子ども扱い」を取り上げている。日本の病院や施設では、家族でない者が高齢者に向かって「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼びかけ、「ハイ、おじいちゃん、お注射ですよ!」と育児用語が飛び交う。高齢者に対する「あわれみ」であり、「子ども同様の無力な存在」という誤解が、子ども扱いを生んでいる。
 「年を重ねるから老いるのではなく、年寄りとして扱われることで、老け込んでしまいます」

「山の頂に辿(たど)り着き、第二の成人期という新しい領土を眺めた時、そこにあるのは、裏側の一本の下り道だけではない。そこにあるのは息を呑むようなパノラマである。初めて全ての方向が見渡せる360度の展望が得られる。自分が来たところ、つまり自分の行動様式をはっきり見ることができる」
 我々の肉体は運動の疲労によって衰退するものであるが、我々の精神は働かせておくことによって抑揚されるのである。

第3章 老年期をどう過ごすか
人にも余暇があったら、心を穏やかに静かにし、日を長くして、あわててはいけない。特に老いては残る年がようやく少なく、時節の過ぎることもことさら早い。時刻を惜しんで、一日を十日と思い、一年を十年と思って楽しむ。楽しまずにむだに月日を暮らして、あとで悔いてはならない。

「だいたいのことは友を得ないとできない。ただ読書の一事は、友がなくても一人で楽しめる。一室にいながら天下四海のうちを見、天地万物の理を知る。数千年の前を見る。今の世にあって古人にむかいあう。わが身は愚かなのに聖賢に交わる。これみな読書の楽しみである。およそ万事のすることのなかで、読書の益にまさるものはない。それなのに世の人はこれを好まない。これを好む人は天下の至楽を得る。」

豊かな第二の人生を過ごすためには、職業的な人生から完全に離脱して、自分の趣味に従い、個人的な興味や能力に従ってどのように第二の人生活動を作り上げるかは、全く個々の人々にまかされる。
 「老いるということは偉大なる特権である。」

第4章 現代養生訓
養生法と健康法との違いは、人間の「生命力」に対する認識の相違に基づくと考えられる。「自分のからだ」を信用するかどうかは「自然治癒力」に対する信頼に左右される。何が病気を構成しているのか、誰が病気か、病人に対して何をするかを決定する権利を、医者に譲渡してしまった。医療的な世話において、「治療する」のでなく、患者になり、「治療される」健康な身体の追求が、今日では病気を作りだしている。
 「養生訓」では、飲食のほかに、重要な項目として運動と睡眠を挙げている。運動は毎日少しずつする、食後の散歩は特に必要。

ボケないために――老境を迎えて、多くの人が抱く不安は「ボケる」「長患いする」ことであろう。物忘れ=認知症ではない。
◎頭の働きを悪くする法
 @テレビの見すぎ A責任の回避・転換 B不平ばかり言う・他人の批判
 C悲観・あきらめ・絶望 D新しい問題に取り組まない
◎頭の働きを良くする法
 @問題に直面しても逃げない A良い本を読む B情報を選択して取り入れる
 C未知の分野に目を向ける Dいい友人を持つ E特技・趣味を持つ

第5章 死をどう準備するか
「正しく生きた人にとっては、死は怖いものではありません。私たちは死ぬことを心配するよりも、今日何をすべきかを心配すべきです」
 どの時代に生きても完全な人生というものはありえない。失敗はいくつもあるけれど、自分の力でできる範囲で挑戦する。
平成20年4月7日

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