06/12/25 死刑執行があった夜、聞こえてきた死刑囚房からの叫びー林眞須美さんからの手紙


林眞須美さんからの手紙 07.2.1
 
大勢の方からクリスマスカードなど年賀状を頂きどうもありがとうございました。
今までのクリスマス、1月1日、2日、3日の年賀状は最高の数で大変うれしくすごしました。私は11月に1回しかない大阪拘置所での年賀状購入申し込み時、領置金不足で購入できず、又、一日2通の発信枠ではとても発信することが出来ませんでした。獄中者(受刑・未決)の方には、貴重な発信枠からどうもありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願いします。
 
12月29日から1月3日までの6日間の正月休みは、お菓子類とか飲み物が例年と同じようなものがでました。1月1日の昼食時に配食のおせち料理も毎年同じようなもので大阪拘置所で6回目のお正月を迎える私は、お正月休みだといって特別に楽しみにすることもなく布団に寝てラジオを聴きながら読書して6日間すごしました。おもちは例年1月1日に2個しか出ません。私は数の子が大好きなので数の子がおかずの一品として1年に1回大盛りで配食されるのが唯一うれしいことです。おせち料理は2000人以上分ものお得意先なのに、もっと食べる側になって心と愛情を込めた1年に1度のお正月気分、夢の見れる料理にしてほしいものです。入れ物の箱だけが豪華で見た目もいかにもまずそうで、貧弱なありきたりの品々で、お金儲けのみを強く感じるおせち料理です。入所2年目には何回も面接で言ったのですが、年々、質素になってきてまして、上層部の職員に「おせち料理を自分の目で見て、又、試食してみてください」と何回も言ったのですが、正月休みに出勤してるわけありませんし、大阪拘置所では無意味です。
前の和歌山丸の内拘置支所では、面接で、長期収容者のことを考えて毎年、同種のものは変更してほしい、おせち料理も収容されるものの側になってもっと考えてください、と言えば、所長さんが改善してくれました。処遇は所長裁量によると言いますが、お正月ぐらい夢と心よりの愛情たっぷりにしてほしいのですが・・・・・まったくです。

12月9日から1月3日まで6日間の休み中に、入浴は12月30日と1月2日の2回ありました。今回は立会い職員が良かったのか、バスクリンのとてもいい香りがして、入浴中もとても気分がよく、部屋に戻ってからも髪の毛や体からほのぼのといい香りがしてささやかな幸せ気分を感じながら過ごせました。こんなことは拘置所生活になって10回のお正月休みの入浴で、初めてのことでした。あとの9回は、香りが乏しくお湯に色がわずかについているだけの、ごく少量のバスクリンが入ってただけでした。(どケチの為か私にだけそうしたのか判りませんが)
 
 私はカンパ生活で新聞は毎日購入申し込みできる余裕が全くありませんので、見ておらず、12月中頃に「救援」を目にしまして死刑囚の再審棄却相次ぐとの掲載が目に飛び込んできて、長勢甚遠法務大臣は執行ゼロの年をつくらないためにも年内に執行してくるのでは?と毎日、胃がキシキシと痛む日々になりました。私のほん近くにも日本最高齢で死刑判決が確定した女囚がいます。80歳ですが、ピンピンしており、職員との会話も同階で一番大きくて、点検時も同階で一番の大声です。元気一杯で大変気丈な性格のおばあさんじゃなくおばちゃんで、確定囚なのに普通の独居です。又、同じ5舎の階上には男子確定囚が16人(?)もいるとのことでして、毎日毎日とても気にしながら過ごしていましたら、23日祝日のおやつがいつもの昼食に「みかさまんじゅう」と「きびだんご」(うすっぺらくした物)の二つがついてきました。
あれえ、二つもついたことないのに、今までで初めてやなあと思いました。クリスマスイブの24日の夕食に、これもまた例年同じ物の生クリームの、なんと小さな栗を、それも1/2に切った物がのった、マロンケーキが、それも例年と同じ、リボンの絵のついた箱に入ってでました。
私は水色が大好きなので、この箱の色だけ見て、少しだけ気分良く過ごしたのですが、急に全身の血液が逆流でもしだした様になり、気分が変になりました。クリスマスケーキは、今まで25日の、それもおやつが配食につくのは、いつも夕食ではなく昼食です。だから私は、これは明日、25日クリスマスに大拘でも執行があるなあと直感しました。そして、夕食も毎年25日の夜にでてたメニューとなっていました。照焼きチキン、マヨネーズ、マカロニサラダ、コーンスープ、ごはんでした。12月21日木曜日に10日分の食事メニューの回覧がまわって来てたので遅くても21日には大阪拘置所では25日の執行は理解しており、25日の夕食のメニューを24日の夕食にし25日の昼食に出すケーキも24日の夕食にしたのだと思います。

そして私は、平成10年12月29日カレー事件で起訴された日の最後の日の取り調べを終えての帰り際、小寺哲夫検事からののしりながら、ムキになって、大声で叫ばれた「最後の言葉」がよみがえってきました。私は逮捕されたH10年10月4日より12月29日まで約3ヶ月、刑事、検事の朝8じ30分〜夜中の12時30分まで続く取り調べに黙秘してました。連日、大声で、「眞須美、お前は極刑だ。死刑だ。地獄行きだ。自殺して死ね。そしたら誰も引き取り手のない死体で、東警察の霊安室から出しちゃる。」とか、灰皿をひっくり返し放り投げたり、机やイスを蹴飛ばしたり、手や頭を殴りつけたり、又、机を、壁際に背を向けてイスに座っている私の胸のところまで連日、押し付けてきたり、食事に安全ピンを入れられたりしました。狭い窓もないタタミ2枚あるかないかの部屋で連日男子3〜4人との時間で、私の人生の中でこの3ヶ月は本当に地獄の日々でした。小寺哲夫検事の最後の言葉というのは、
「眞須美、よう覚えとけよ。おまえは、わしの言うとおりにしないで逆らった女だ。一生拘置所生活をさしちゃるからな。子供とも健治(主人)とももう一生会えんようにさしちゃるからな。わしに、眞須美、お前が逆らったバツとして一生都島の大阪拘置所に放り込んどいてやる。死んだ時やないと出れん人生やぞ。ようわしのこの言葉を覚えとけよ。わしからの、そうや、お前へのプレゼントとして都島の大阪拘置所に一日も早く送り込んでやるからな。お前が大阪拘置所に行ったら、わしの生きてる限り毎年、死刑執行してやるから、覚悟しとけよ。眞須美、そのたびに、震え上がってすごせ。健治や子供達は、その度、お前以上に震え上がるぞ!」大声でののしって去って行ったのが最後でした。
 そのときの言葉通りにか、私が大阪拘置所に14年12月26日に来てから
15年9月12日
16年9月14日
17年9月16日
18年12月25日と毎年執行があり、5舎の死刑囚の人たちもその度にイヤな思いをして過ごしていることでしょう。

12月24日の夕食を食べてから、明日、同じ五舎(5階まであり、1・2階は女区で3・4・5階は男子です)で、誰かが執行されるのは間違いないと感じ、24日イブの夜のラジオもうわのそらで過ぎてしまい、なかなか寝つけませんでした。
25日、7時30分に起床してから、廊下を気にかけてみてましたが、上司の誰の巡回もありませんでした。廊下を右から左に必ず3〜4人は朝食までに巡回、歩いていくのです。もうこれは、今ごろ確実にと感じていました。午前中に、クリスマスプレゼントにと贈ってくださった方のカードや書面やポストカード(札幌雪まつりや横浜の夜景)やパンフ類が室内に入り、目にして過ごしてました。私が大阪拘置所に来てから執行があったときには、今までは、毎年11時前後頃にはヘリコプターが飛んできてたのですが、午前中に一度も飛んでこなかったので、もしかしたら私の思い過ごしだったのかな?と思っていました。大原礼三様よりの初めての「カナリア」第15号(藤波・高田さんの会発行)が午前中室内に入り何回も目にして過ごしました。お二人のことを、私は知らなかったので、年報死刑廃止の本などを見て次回発行の6月までに少しでも激励文をと思ったりしていました。
夕食後の17時10分からのお昼の録音のニュースで、4人への執行の事を耳にし、「ええっ」今まで目にしていた「カナリア」のもしかして、藤波さん?っと大変驚きました。75歳で再審請求中と思っていたので、何で?と。又、同じ5舎での福岡さんと聞き、なんで再審していなかったんだろうか?っと。東京拘置所での77歳と75歳の高齢の人たちを、よりによってクリスマスの日にしなくてもと。執行する職員もクリスマスの日に「人殺し」をしたということが、一生ついてまわるだろうにと・・・・

17時10分のニュースのあとから五舎全体が沈没してしまったように、寒々とした中、今までにない異様なもの静けさに包まれてしまいました。誰かが窓から外に向けて
「こらあ、お前ら仲間やのに、なんで再審するように言ってやらんかったんや。アホ野郎。同じめし食ってるのに、自分だけ再審したらいいのかよおー。仲間全員ちゃんと再審しろやあ〜〜。小林薫もすぐ再審しろ」っと叫んでました。寒々としているなかで、みんなシーンとしていてそれに言い返す人は誰もいませんでした。そして
「アホの汚職刑務官野郎!アホの中山厚(現大阪拘置所長)め。よくもクリスマスの日に執行しやがったな。この人殺しの汚職刑務官のアホ野郎たちめ。何もクリスマスの日にせんでもエエやろうが。せっかくのクリスマスもだいなしや。お前らようもクリスマスの日に人を殺したなあ。一生ついてまわるんじゃ。この人殺し野郎。線香の一本でもあげたんかよお。」と何度も叫んでいましたが、職員もなぜかこの日は静まり返っていて五舎全体が異様な静けさに包まれてました。

「死刑と人権」bP43に執行があったら夜8時に大阪拘置所前に集るとありましたので、夜8時のラジオの時報のあと、すぐに私は窓を開けて外に耳をやりました。向かいの職員事務所もいつもの人影は全く見えず、この夜は収容者も職員も異様な雰囲気の静けさに包まれてしまっていました。今ごろ、坂口さんたちが抗議に来てるんやろうなあっと思い窓の外に向かって耳を傾けていましたら、どこからか階上より男の人のすすり泣いているような声が聞こえてきて
「クリスマスの日に何でや。何でクリスマスの日に、ここで同じ五舎の人を殺さんとあかんのや。天国にいけやあ。誰かに引き取りにきてもろうたんか。そうか、良かったなあ。天国にいけやあ・・・」そしてすすり泣いている様子で言い続けてました。私は耳にしていて、きっと執行された福岡さんと一緒の生活をしている死刑囚のひとやろうなあと思い涙が溢れてきて止まりませんでした。
すると何処からか別の男子の声で
「クリスマスの日やのに・・・おにいちゃん、もう寒いし布団入ってやんと風邪ひくぞお。職員は人間やない。ここの職員は、人殺せ言われて平気で殺すやつらばっかりや。信用したらあかんでえ。職員もワシらの敵やでえ。仕事やいうけど、普通の人は仕事でも人を殺す事なんかようせんもんじゃ。こいつらは人間やない。ゼニのための機械なんや。人殺しやろうや。心配せんでももう、天国に行っとるわ。早よう寝な風邪ひいてしまうぞお」とか言ってました。
外はものすごく寒そうでしたので、今ごろ坂口さんたちも震え上がっているやろなあっと思いながら私も窓を閉めて布団にもぐりこみました。
この日はせっかくのクリスマスも何もありませんでした。ラジオの音楽も全然耳に入ってませんでした。
翌26日に、特別購入で読売新聞130円(25日の夕刊と26日の朝刊)を申し込みましたら、トホホ・・・領置金不足で購入できず。いまだに25日の夕刊は目にすることは出来てませんが、藤波さんは75歳で一人で立つことも歩くこともできなくて、半病人で病舎処遇だったといいます。どうしてこのような75歳の藤波さんを長勢法務大臣が選ばなきゃあならないのか。職員の人たちは、一歩も歩くことが出来ず立つことも出来ない人をどうやって執行したのだろうか。想像するだけでも残虐極まりない行為ではないか。今回長勢法相が行った事は決して許されない事だと私は思います。
年末の30、31日はフセイン処刑のニュースばかりがリアルタイムでラジオより流され続け、クリスマスから年末の2006年の暮れは、もう処刑の事ばかりでして私自身も私のいる5舎全体も今までに感じたことのない寒々とした日々の中、異様な静けさの中でのお正月でした。

1月8日は成人式でした。4人姉弟の上から三番目の長男が今年やっと20歳になりました。私は手紙で励ますことしか出来ません。スポーツが好きなのでスポーツ精神で男らしく過ごすように毎回書いてきました。学園(施設)から通った高校時代は、バスケット部のキャプテンをしていました。長男は、私の耳には入れなかったのですが、主人に一番辛かった事は、バスケットボールの近畿大会で、神戸に行ったときに、長男のシュートが決まり続けたときに、「死刑囚の子」と大声でやじがとんできたことだったと言ったそうです。
この時の長男のことが私は今もとても痛々しい思いで強く残っています。私は死刑判決を1、2審で受け上告中ですが、私本人よりも、家族(主人と4人の子供)、親族、友人、知人と私の周りにいた、外の社会にいる人たちのほうが、はるかに厳しい社会の目を向けられていることは、特に4人の子供には、大変痛々しい思いですごしています。
                                     林 眞須美


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