06/10/14高村薫講演「死刑について思うこと」(死刑と人権bP43)


10/14・日弁連 死刑執行停止に関する全国公聴会/大阪から
高村 薫さん講演
「死刑について思うこと」

私にとって死刑は遠いものだった。映画やドラマで執行のことを見てきたが、自分とは関係がないものとしてきた。
そう感じることに二つのことがある。
@普通に生活していれば被告にはならない。実感が持てない。
A死刑がどんなものか誰も知らない。それを見た人が外部に漏らすことはなかった。原爆の作り方さえネットで調べられるのに死刑に関する情報はない。国家機密なみ。
平成21年から裁判員制度が実施され死刑にかかわることになる。しかし、それがどんなものか知らない。それはまるで政治家が軍隊に攻撃命令を出すようなもの。知らないとか実感がないではすまない。
そのためには第一歩は精一杯想像してみること。具体的な姿を思い描くことが必要だと思う。

●制度としての死刑を考えてみる。
死刑とは具体的にどんなものかと想像してみた。絞首刑。アメリカの西部劇で高いところから吊るし、足の踏み台を外すと落下する。そのときに落下する力が加わる。自分も残酷な小説を書いてきた。死体がどんなものか法医学書で写真を見たこともある。それは大変なもの。山口で同級生を殺害した男子が山で首を括り死んでいた。時間が経過していたこともあるがその遺体は凄まじい状態だったという。さらに刑死というのはどれだけ異常か。どれほど凄まじいか。即死しない。窒息死。痙攣を起こす。目を覆いたくなるものだと思う。絞首刑は打ち首、磔に比べまだ残酷でないと言うが。
いま、現実の姿をテーブルの上にさらすべきだ。知らずに語るのは不十分だ。北朝鮮の核、それへの対抗する為に核を持つべきなどのことが言われる。その人たちは被害の姿を知らない。死刑と似ている。是とする根拠、存続させる根拠。本当の姿を想像すべき。どんなものかを知った上で認めるのか。死刑制度は近代国家に不可欠なものではない。日本では必要と言うならその根拠は何か。隠されてきたのは酷いためで見せられないということが大きかったのではないか。

●死刑判決出せない第一の理由
裁判員制度が実施され私たちが死刑か無期かを決めることになる。私は自信を持って死刑判決を出せそうにない。その根拠を述べる。
 死刑の適用基準が裁判によってまちまちだということ。同じような事案なのに死刑や無期に分かれる。最高裁の判例、社会情勢、被害者遺族によって違ってくる。広島と奈良での女児殺人事件があった。どちらも性犯罪、計画的ではないなど同じような事件であるのに一方は死刑。裁判官の個人の心証や判例が関係してくる。裁判員の中でも、私という個人により死刑になったり無期になったりすることが許されるのか。

●第二の理由―刑事裁判の難しさ
有力証拠がない場合、有罪か無罪か難しい。取り調べでは分からない。公判廷でそれは事実ではないと被告が否定した場合どちらを信用するのか。物的証拠への不信もある。必ずしも全部出てくるわけではない。裁判員が目にするものは益々限られたものになる。こうした現状の中で状況証拠しかない、自白がないといった公判に向きあったとき死刑か無期か、それ以前にそもそも有罪かどうかは私たちは判断できない。
 和歌山カレー事件で被告は一度も犯行を自供したことがない。ヒ素は白アリ駆除の会社をしていた自宅にあっても不思議ではない。ヒ素を鍋に入れたという証明もない。被告の動機もハッキリしていない。このような状況に立てば私が裁判員だったら頭を抱えてしまうと思う。被告以外にカレー鍋に入れたものはいないだろう。おそらくやったんだろう。そういう個人的印象で、個人の心証だけで人を一人死刑にする勇気は私にはない。
 このような難しい裁判であったとき、私たち裁判員はどうしたらいいんでしょう。林眞須美被告に死刑判決をだせばいいんでしょうか。素人にとって刑事裁判は簡単なものではない。被告の精神鑑定が問題になる場合がある。宮崎勤氏の場合、一審二審で多くの精神鑑定が行われた。専門家によって出てくる結果はマチマチで最終的に死刑が確定した。私が裁判員だったらどうしただろうかと思う。有罪は確かだろうけど、果たして死刑にするだろうか。私は結論を出せなかっただろう。

●第三の理由―命を奪うことの困惑
誰が見ても明らかな場合はどうか。池田付属小学校事件では自供もあり物証もある。死刑判決を簡単に出せるか。私はやはり出せない。その理由は、法の名の下に死刑判決を下してよいという裁判員制度の根拠が良く分からないからだ。一市民が委任状一枚をもって人間一人の命を左右する権利を持つというのが分からない。自分が被告の命を奪うという一点にある。どんなに極悪非道な犯罪者でも、最終的に人間であることに変わりない。その命を自分が奪うということに困惑がある。これが死刑判決を出せない第三の理由です。
国家に人の命を奪う権利があるのかと聞かれたら、現行刑法上あると答えるしかない。
国家の主体である私たち国民が最終的に死刑制度の是非を判断すること、一裁判員として、一人の被告に死刑判決を下せないのであれば私はまた、国家も死刑を容認してはならないと思うわけです。

●第四の理由―もし間違っていたら
ただでさえ難しい刑事裁判で、個々の裁判官、裁判員にゆだねられるとすると、判決が絶対正しいという保証はどこにもない。これまでのように最高裁のワクにしたがうというワクがあったなら、納得させられることがあるが、最近の場合のように、ケースバイケースとなると、判決は正しかったのか、裁判員が一人で一生悩むことになる。人間はいい加減な生き物だけれど、いくら忘れようとしても、自分が人の命を奪ったという事実は消えない。
死刑とは、どんなに体裁を整えようとも国家による殺人です。書類1枚で呼び出された、普通の小市民がその命令を下すというのは、どれほど大きなことでありましょうか。
 裁判員制度導入のメリットを承知しているが一般市民を刑事裁判にかり出すというのであれば、せめて、死刑制度を廃止するか、あるいは執行停止にしてからにしてほしい。それが本音です。

●死刑制度は誰の為にあるのか
平成11年に法務省のした世論調査で八割が死刑存続に賛成していた。 理由として死刑は凶悪化犯罪抑止に繋がると言われる。しかし、そういうことは統計的に確認できていない。その賛成した八割の人も綿密に考えたわけではなくて、ましてや目には目をという厳しい報復感情で賛成したのではない。むしろ反対するだけの積極的理由が分からないからであって消極的に賛成したのではと思われる。
今のところ死刑をめぐる賛否は多分に抽象論の対立であるように思う。抽象になるのが仕方がないのは死刑が私たちには抽象的なものでしかないということがある。犯罪抑止につながっているかどうかも抽象的でしかない。犯罪と死刑の関係が実証されたら死刑は私たちの為にあるということになるでしょう。死刑が必ずしも社会のため、私たちの為にあるものではないということは別の角度から見ても明らか。死刑の実際を知らされていないし、運用の仕方も知らされていない。いつどこで誰が執行されたのか。国民に事前に知らされないし執行後にわずかに流すという始末。こんな制度が社会や私たちのための制度であるはずがない。
第二に死刑確定囚は私たちから全く隔絶されて、どのように過ごしているのか、分かることもない。これも死刑制度が社会や私たちのものでない証左です。また、さらに死刑制度が社会や私たちのものであるなら、再審請求の扉ももっと無実の人を軽くていいはずです。無実の人を死刑にしてはならないと望んでいるわけですが、そうした声はなかなか裁判所には届きません。死刑制度が私たちのためにあるなら再審制度も私たちのためにあるはず。しかしそうではない。死刑制度が私たちのためにあるのではないことは明らかだろう。

●遺族の怒りと喪失感
それでは死刑制度は誰の為にあるのか。
一つは被害者と遺族の為にある。個人の復讐を認めていないから被害者に代わって国家が懲罰を代行する。一定程度正しいだろう。加害者の謝罪反省というものが被害者遺族の怒りを埋め合わせるものではない。家族を殺された怒りと直接に対応するのは報復です。
しかし、被害者家族にあるのは怒りだけではない。もっと大きな喪失感。怒りと喪失感の相関関係を見てみると、怒りは喪失感の代行ではないが一定程度埋め合わせることができる。怒りは報復で埋め合わせられるけれど、喪失感を埋め合わせていた怒りが収まると、喪失感はより一層大きくなる。犯罪被害者にとって最も深刻な喪失感、それが永遠に続くということ。喪失感があるから怒りが生まれる。怒りによって喪失感はある程度かわされる。しかし、加害者が死刑になって怒りの対象を失うと喪失感は元に戻ってしまう。死刑によって何も癒されない。死刑制度が被害者遺族にとって一時的な慰めにはなるかもしれないが。犯罪被害者見舞金のように人為的なものであってもないよりましの意見もある。ここが難しいところだと思う。どうせ喪失感が百パーセント残る物であるなら報復してほしいという意見もある。
心の問題だと思う。ここにこそ宗教の出番がある。死刑制度が被害者の怒りや喪失感を一定程度埋め合わせる為にあるとしたら、心を埋め合わせる為に宗教を持ち出すのはあながち(間違い)とは言えない。
私自身、阪神大震災の後から考え始めたのですが、理屈や道理では納得できない心理が起こるのが人というものであると心から思いました。地震の被害は犯罪とは違うかもしれません。地震で家族を失った人にもやはり怒りはあった。それは家族を死なせた怒り、生き残った自分自身に向かう他ないもの。自分を責めることで喪失感を埋め合わせていたのは犯罪被害者でも同じではないか。同じように喪失感はまるごと残る。
 死刑制度は被害者家族の喪失感を埋めるものではない。
 死刑制度が被害者遺族の報復の装置として機能しているのは果たして本当に望ましい刑法の姿なのだろうか。
 これは、近代法体系の問題というより私たちの死生感の問題です。
私は、仏教の立場に立って死刑制度には反対です。

●国民は死刑を支持しきれない
法律の法律による法律の為の死刑制度だと思う。隠されていることもそう。法務省の考え方はコロコロと変る。90年のころ、執行停止されていたその理由が不明。再開したことの理由も不明。内閣により変る。一審の死刑判決の数が変る。しかし、2000年以降犯罪は増えていない。確定から執行までの期間が10年というときもあったが宅間(さん)の場合一年未満だった。「世論」に配慮してという。宅間さん自ら早くしろと言っていた。オウムの松本智津夫(さん)のことを世論は忘れている。しかし被害者は忘れない。宅間さんの執行について被害者遺族を配慮してと言うが、一様に望んでいた動機解明はなされなかった。

死刑制度は被害者でも国民でもないところを見ている。その運用の理由付けに被害者感情、国民世論などが持ち出されている。

死刑制度はいったい誰の為にあるのか。国民にとって必ずしもハッキリしない。
こんないいかげんなことでは国民は支持しきれるものではない。
こんな恣意的なことでよいとなったら市民が裁判員になったあかつきには、さらに混乱することになるのは明らかだと思う。
(まとめ・坂)

9. 高村薫さんへの手紙 

 死刑と人権bP43に10/14日弁連・死刑執行停止に関する全国公聴会・大阪で行われた高村薫さん講演の報告をしています。その内容についてぼくの思うところを、会を主催した大阪弁護士会を通じて高村薫さんにお聞きしたいということで手紙を書きました。

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 ●裁判員制度に反対する理由の一つとして「刑事裁判の難しさ」(第二の理由)をあげていて、「有力証拠がない場合、有罪か無罪か難しい」そのあとに「カレー事件」のことに言及して「和歌山カレー事件で被告は一度も犯行を自供したことがない。ヒ素は白アリ駆除の会社をしていた自宅にあっても不思議ではない。ヒ素を鍋に入れたという証明もない。被告の動機もハッキリしていない。このような状況に立てば私が裁判員だったら頭を抱えてしまうと思う」と。そして「被告以外にカレー鍋に入れたものはいないだろう。おそらくやったんだろうと思う。しかし、そういう個人的印象で、個人の心証だけで人を一人死刑にする勇気は私にはない。」と話しました。
●「個人的印象で、個人の心証だけで人を一人死刑にする勇気は私にはない」と言いながら、数百人の聴衆の面前で「おそらくやったんだろう」と言ってしまうことは死刑と言い渡していることと変わりないのではないかと、思います。
●「国賠ネットニュース」最新号で土屋翼さんが、「犯人は林眞須美さんと言ったらしい」と、集会だけに止まらずに高村さんの発言は広がっています。それを林眞須美さんはすでに知っていて、「本当(ですか)?」と手紙で聞いてきました。
●そういうことから、高村さんとしてどうかがえますかという手紙を書きました。以下に。

11.

ただ、高村さんと同じ過ちをぼく、坂口はしています。テープおこしをして文章をまとめながら、このまま出して良いのか、と思いました。高村さんが死刑に反対する立場からの話をしている、その報告を載せたいという思いがありました。それから、今号死刑と人権に眞須美さん無実の訴えが掲載されているということから、そのまま掲載してしまいました。でも、高村さんが「眞須美さん、おそらくやったんだろう」の言葉はそれだけで歩き出しています。自分の安易さを謝罪すると共に、高村さんにも自分の発言の意味することを分かって欲しいという思いから手紙を書きました。
 
●高村さんの住所が分からなかったので会の主催者の大阪弁護士会の「委員会担当・フジサワ」という人に連絡を取り、以下の高村さん宛の手紙を送りました。
今のところ、返事はありません。(06/12/24)
 

12

 高村薫さん
 
10/14日弁連・死刑執行停止に関する全国公聴会・大阪で高村さんは「死刑について」というテーマで話されました。
裁判員制度が導入され、自分が裁判員となったとき、「私は自信を持って死刑判決を出せそうにない」その理由を述べられていました。言われたことに対してそのとおりだと思いました。ただ、ひとつ、ぼくには納得できない事がありました。そのことについて高村さんはどう思われるのか知りたいと思いました。
 
「死刑判決が出せない理由」として、四つ挙げられています。その第二の理由として「刑事裁判の難しさ」を話されました。

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 「●第二の理由―刑事裁判の難しさ
有力証拠がない場合、有罪か無罪か難しい。取り調べでは分からない。公判廷でそれは事実ではないと被告が否定した場合どちらを信用するのか。物的証拠への不信もある。必ずしも全部出てくるわけではない。裁判員が目にするものは益々限られたものになる。こうした現状の中で状況証拠しかない、自白がないといった公判に向きあったとき死刑か無期か、それ以前にそもそも有罪かどうかは私たちは判断できない。
 和歌山カレー事件で被告は一度も犯行を自供したことがない。ヒ素は白アリ駆除の会社をしていた自宅にあっても不思議ではない。ヒ素を鍋に入れたという証明もない。被告の動機もハッキリしていない。このような状況に立てば私が裁判員だったら頭を抱えてしまうと思う。」
 
のあとに、
「被告以外にカレー鍋に入れたものはいないだろう。おそらくやったんだろうと思う。しかし、そういう個人的印象で、個人の心証だけで人を一人死刑にする勇気は私にはない。」
 
と話されました。
 

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 「個人的印象で、個人の心証だけで人を一人死刑にする勇気は私にはない。」と話しながら、自供も無い、証拠(証明)も無い、動機もハッキリしないにもかかわらず、林眞須美さんを「被告以外に(ヒ素を)をいれたものはいないだろう、おそらくやったんだろう」と言うことは矛盾しているのではないでしょうか。
知人とのおしゃべりの中でのことではなく、数百人という聴衆の前で、名の知られた、高村さんが「おそらくやったんだろう」といってしまうことは、裁判の中で裁判員として「死刑」判決を言うことと違わないのではないでしょうか。
高村さんは、「和歌山カレー事件」についてどれだけの事をご存じなのでしょうか。
裁判は今、上告審です。一審、二審ではきちんとした裁判が行われなかったということで、被告の林眞須美さんを支援する会も作られ今年四度の集会を開き「林眞須美さん無実」を訴えてきています。被告、弁護団の主張をご存じなのでしょうか。その上で言われたことなのでしょうか。高村さんはマスコミでの報道のみでそのように言われているのではないでしょうか。
一人の人を犯人視して、取材し報道する。マスコミの問題があると思います。和歌山カレー事件ではそれが著しいと思います。
そういうぼく自身、マスコミ報道を鵜呑みにして、林眞須美さんを犯人だと何も考えずに決め込んでいました。でも、林眞須美さんの訴えを知ったり支援会の集まりで弁護士の話を聞くことでたくさんの疑問があることがわかりました。それは、林眞須美さんは犯人ではない事を示していると思います。
「おそらくやったんだろう」という言葉は、林眞須美さんを死刑に追いやるものとして聞こえます。
 
高村さんが林眞須美さんのことを「おそらくやったんだろう」と発言した事は、すでにいくつかのミニコミ紙で取り上げられています。
 
高村さんはどう思われますか。
 


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