朝日新聞・素粒子欄記事をめぐってードスト論争


朝日新聞・素粒子欄記事をめぐってードスト論争

話の始まりは、林眞須美さんのことでのテレビ放映内容についてだった。7/25が和歌山カレー事件の起こった日で、これから上告審が戦われるということで弁護団が組まれ7/22日に「支援する会」の集会が行われ、マスコミがたくさんきていた。25日にあわせてテレビ朝日の「スーパーモーニング」大阪の朝日系列の「ムーブ」で3度取り上げられた。7/27「スーパーモーニング」のなかで朝日新聞の(問い合わせて論説委員と知る)Sがカレー事件のことをレポートした。眞須美さんから獄外の知人宛ての手紙などを紹介した。その最後に「犯人でないというのなら、なぜ真犯人への恨みの言葉がないのでしょうか。それからしてもおかしいと思う」といい終わって終わった。ぼくは「いちゃもん」やと思った。眞須美さんにそういう思いがあったとしていつもそれを言わなければならないということはない。発言がないから犯人とするこの朝日の記者のことを腹立たしく思った。

●朝日新聞に対してこれまでもおかしいとの思いをもってきた。04年9月に大阪拘置所で宅間守さんが死刑により殺された。9/15の朝日新聞夕刊の「素粒子」。
ー「人を殺したからといって」とドストエフス欄に次のようにあったキーは「白痴」の主人公に言わせる。「その人を殺すのは、そのもとの罪に比べて比較にならないほど大きな刑罰です」作家自ら政治犯として死刑判決を受け、処刑直前減刑となった。しかし蕾をむしるように児童8人を殺し、贖罪の言葉もなかった死刑囚の処刑は当然と考える」ー
「人を殺したからといって、その人を殺すのは、そのもとの罪に比べて比較にならないほど大きな刑罰です」この文章をどのように読むのかということ。「比較にならないほど大きな刑罰」である死刑は、行ってはならないとドストエフスキーは自分の体験から言っているとぼくは思う。そのことを紹介しておきながら「素粒子」氏は「死刑囚の処刑は当然と考える」と結んでいた。矛盾ではないかと思った。
 「天声人語」などを読んでいて、書物からの引用などがよくあり、本を沢山読んで知識のある人だと思う。この素粒子氏もきっとそういう人だと思う。でも、本当に書かれていることを理解しているのかという思いを持った。いくら本を沢山読んでも、知識はもっていても判断が間違っていると。
朝日新聞の論説委員が書く「素粒子欄」で「処刑は当然と考える」と死刑賛成をはっきりと出していることを朝日新聞社としての考え方だと思った。
前述したカレー事件のレポートのこともあって、ぼくは、おおさかフォーラムのメンバー宛てに、「朝日の記者の、『賢いやつら』の共通項」と書いて非難したことからフォーラムのなかでメールでの論争になった。

●ぼくの「賢い奴らの、朝日の記者の共通項」などとの書き込を批判した人は、その人の知人である朝日記者への批判と受け止めてのことだった。流れとしてはそうであることを認め、そのことを認めその人に謝罪した。しかし、「賢い奴らの朝日の記者の共通項」との「呪文」のような思いは消えてはいない。すでに2年過ぎているが、この「素粒子」の文章についてはっきりさせようと思った。


●ぼくは、はじめ単純に考えていた。「人を殺したからといって、その人を殺すのは」「もとの罪に比べて比較にならないほど大きな刑罰です」といっておきながらで「死刑囚の処刑は当然と考える」としているのを読んで、この文章、素粒子氏は「矛盾」していると思った。
そういう言葉を引用しておきながら、そのあとで、「死刑囚の処刑は当然」と書いていることについてそう感じた。

 ★朝日新聞東京本社の素粒子欄宛てに書き送った。

朝日新聞社・「素粒子」欄・論説委員の方へ
最近、この文章の解釈について考えています。
教えていただきたいと思いこれを書きました。

「人を殺したからといって、その人を殺すのは、そのもとの罪に比べて比較にならないほど大きな刑罰です」とのドストエフスキーの文を紹介したあとに「しかし」とあり、そして「死刑囚の処刑は当然と考える」と続きます。これをどう解釈したらいいのでしょうか。「人を殺したからといって、その人を殺すのは、そのもとの罪に比べて比較にならないほど大きな刑罰です」とのドストエフスキーの言葉は、否定されているのでしょうか。
自身が政治犯として死刑判決をうけ、処刑直前に減刑となったドフストエフスキーはこの文章で死刑制度を否定していると思うのですが、それを、「しかし」のあとの文章で、これを書かれた人は反対する意見を書いたということなのでしょうか。
「人を殺したからといって、その人を殺すのは、そのもとの罪に比べて比較にならないほど大きな刑罰です」をどう解釈したらいいのでしょう。人を殺した、その人を殺すことー死刑は、犯した「罪」にくらべ「比較にならないほど大きな刑罰です」というドストエフスキーの言葉、考えはあやまっているということなのでしょうか。

「素粒子」欄で「死刑囚の処刑は当然」としていることは、朝日新聞社の考えとして、死刑制度に賛成していると考えていいのでしょうか。
   

★8/15付けの葉書が「朝日新聞論説委員室・素粒子 拝」より送られてきた。

ー「死刑論、死刑廃止論に様々な意見のあることはご承知のとおりです。ドスト氏のような考えもあるでしょう。殺人を禁じる国家が死刑を行うのは矛盾しているという指摘も論理としてはもっともです。ただし、池田小事件を目前にして、この犯人を死刑に処すのは当然と考えたものです。コラム子の考えで朝日新聞社としての統一見解ではありません」−



★ぼくから出した手紙や電話で話し質問していることに何一つ触れられていないので、電話した。
朝日新聞論説委員室は東京で、「素粒子 拝」とあるだけで名前はなかった。こういう葉書をもらったけれど書いた人を出してほしいということから始まった。「K」という名前を名乗る。
聞きたいことが何も書かかれていないということを言う。で、ぼくからもう一度説明する。
はじめ、「ドス氏の言葉は、肯定も否定もしていない」と言っていた。でも、Kさんとしてはこの言葉を肯定しますか、否定しますかと問うていくと「肯定する」ことを認める。
それなら、ドス氏の言葉を認めることと宅間さんの処刑は当然と考えることは矛盾しているのではないか、と問う。
ごちゃごちゃがあったが、「言葉の意味上」は「矛盾している」ことを認める。「言葉足らずであった」とも言う。
いろんな解釈にとられたりしてしまうことと、文章として矛盾しているのなら「訂正する」必要があるのではないかとぼくは言う。
「訂正するものではない」という。「そういうもんでしょ」とも。「言葉の意味上といったのであって、その背後にあるものを・・・」とか言うので「その背後にあるものは何か」と問う。ゴチャゴチャ言うがぼくには理解できなかった。背後にあるものを語っているとは思えないという意味で。そのことを言う。
で、今話してきたこと、「言葉の意味上」ではなく、この文章が矛盾していないと考える理由、根拠について返事を文書でもらいたい、と要求する。
Kさんは「考える」ということで終わる。
Kさんの対応の仕方、きちんと向き合おうとはしていないとぼくは感じたから、おそらくこれで終わりやろなあと思った。

★8/16朝日新聞河谷さんとの電話でのやりとりが強い調子だったこともあって、「考える」と言ったけれど、もうあれで最後かなと思っていた。が、19日になって、Kさんから封書が送られてきた。ちょっと意外だった。 
 

拝啓
 ドストエフスキーの言葉を引用した上で、
処刑を「当然と考える」としたことが「わか
らない」とおっしゃいましたが、筆者として
は、池田事件死刑囚の蛮行、その後の
無反省といったことを知るにつけ、処刑は
当然という思いを抱きました。
 ドストの言葉を肯定するのか、ということ
ですが、彼の苛酷な経験を透かして考える
とき、かれがそういう感慨を持つに至った
ことは、よく分かります。
 死刑廃止論は「分かる」といい、「しかし」
でつないで、後段で処刑を併記するのは
矛盾だといわれました。
「しかし」は一般に逆説の接続詞として
使われますが、もう一つ「今まで述べてきた
事柄を受けて、話題を転じるときに用いる」(大辞泉)
という機能もあります。
 あの小さな記事で私が何を言いたかった
かといえば、幾百幾千の死刑廃止論がある
ことは承知している。「しかし」池田小事件
の悲惨さを目の当りにしたあと、死刑囚
の処刑は是とする感想を持ったということです。
 右、お答えまで。
    ニ〇〇六年八月十七日
 

内容的には、ぼくとはやはり違うと思った。それから16日電話で話したときの「文書上は矛盾」と言ったことからは後退しているが、後まで残る文書で返答してくれたことは評価したいと思った。
 ただ、問題として、一点
「かれがそういう感慨を持つに至ったことは、よく分かります」の「分かる」とはどういう意味か。「肯定する」とは違うのか、ということが分からないと思い、それを直接聞こうと思い、電話する。
 
「分かる」と「肯定する」とは違う。「あなたの意見は分かるが、あなたに賛成しない。そういう言い方をしたことはありませんか?坂口さんは」と言う。
分かる、理解できるが、同じではない。

ふっと、そういうこともあるなあと思った。

朝日の社論ではないとして、Kさんは池田小事件のことを言い、被害者がどんな思いでいるか、そういうことから自分は死刑に賛成すると言った。
体調が悪くきちんと対応できなかったこと、社の中で、死刑に反対するものも多い。これからも考えていこうと思う、とも。光市の事件のこととか被害者感情(非被害者感情)のことで少し話になった。Kさんとの違いがぼくの中でハッキリしたように思えた。それ以上は言えなくなり電話を終えた。
 

★朝日Kさんとのドスト論争、論争になっていないのだけれど、こんなふうにして終わった。 終わったのだけれど、もやもやしたものが残っている。はじめに書いた「賢い奴らの、朝日の記者の共通項」の思いは消えないばかりか朝日新聞を読むたびに湧き起こる。 
 先日、辺見庸さんの講演のテープを聞いた。(集会主催者側スタッフだったので辺見さんの話が聞けなかったからテープをかりて聞いた)「恥」ということを語る中での話。 2003年12月9日自衛隊いらく派兵を閣議決定した。コイズミは憲法前文を理由として引用していた。辺見さんは「泥棒から防犯を教えられるようなもの」「あのファシストが平和憲法の解釈を語る」「コイズミのはなしを聞いていた記者団から声なかった。疑問に思っていない。それはないだろう、それは変だろう、と言うのがスジだろう。それを有りがたそうに聞いている」「どのメディアが日本の戦争に立ち向かってきたか。一社もない」辺見さんは記者に向かってののしった、「手前ら、クソバエだ」と。いい服を着て、いい車に乗ったクソバエだと。朝日のなんたらはイラク爆撃正当だったと言う。少しずつシフトしていく。そしていつのまにか全て正当化していく。「最も偽善的」「サンケイよりも悪い」と。
ぼくの中でモヤモヤして残っていたもの、自信がなくなって言葉にできなかったものを正確に言葉にしていると思った。「賢い奴ら」なんかではない。「手前ら、クソバエ」だ。     


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