―ぼくの死刑廃止運動―


「自分の<場>にこだわる」ということ

6月18日に国会が閉会した。いつも、国会での追及を避けるかのようにして、国会の閉会時を狙って死刑執行は行われてきていると思う。それも閉会直後というときもあったことから、19日夜、フォーラムで大阪拘置所への夜廻りをすることになった。19日に集ったのは、小端さんとぼくの二人だった。都島駅から大拘正門前へ、「死の用心、大阪拘置所死刑をするな!」とマイクで言いながら歩く。拍子木を叩く。拘置所横の官舎をひと回りする。そして再び正門に戻る途中、「死刑執行したらあかんぞお」のぼくらの声に合わすようにして、からかうようにして、「死刑賛成・・・」との声が向かいの公園の暗闇の中からあがり、それを執拗に繰り返した。
相手にはしなかったけれど、その事で、何かしんどさも増した。終わって、駅への戻り道、小端さんが呟く。「俺あんまり、夜廻りって好きやない」。それは、ぼくも思っていたことでもある。官舎のまわりで「死刑」を言うことに「ためらい」みたいなものをいつも感じながら続けてきた。「でもなあ」と。「誰も何にも言わえんかったら、なんの問題もなしに死刑していきよるで」「こうやって言うもんがおるから、何か波風が立つんやろ」「そうやなあ」とのやりとりがあった。
何でこういうことを続けて来たのかということを、思い直してみた。

@ぼくが、大阪拘置所に、「死刑するな」と意識して言いに行くようになったのは、94年1月27日からだ。
93年3月26日、それまで、3年4ヶ月執行がなかったのに、大阪二人仙台でひとり執行があった。その年の11月26日に大阪二人東京、札幌で一人ずつの執行。何で大阪が続くんや。運動が弱いからか?もう一人の死刑も許せへん、ということからかたつむりの会の水田ふうさんが、94年1月から執行のあった毎月26日に大拘への「見張り」に立とうと呼びかけた。まだ「夜廻り」という形ではなくて昼間と夜の二回、都島駅でのビラ配りや大拘の周りをひと回りする行動だった。そのころ、かたつむりは、メンバーが結婚や仕事やいろいろのことでゴッソリいなくなっていた。ぼくは、そういうかたつむり、ふうさんへの「助っ人」で93年に続いた執行抗議行動や「見張り」に関わり始めていた頃だった。
1月26日に反原発の女たち、獄中者組合の人たちと一緒に行動を終えて、犬山に帰っていたふうさんから27日夕方に電話があった。「ハッキリしてへんねんけど、大阪拘置所で死刑の執行があるかもしれんという情報が入ってん。明日28日が危ないらしい」と。ぼくは「殺すな」以外には言葉を持っていなかった。「どないしたらええねん」と動転してしまった。電話でぼくにふうさんが「拘置所に向かって死刑執行せんとってて言うたら」と言ってくれた。ああ、それならぼくにもできるなあと思った。自分の思いをそのまま言葉にしたらええんや、って。
周りの友人達に呼びかけて、とにかく夜の大拘正門前に集り、門の中に向かって呼びかけた。このことが、それ以後の死刑廃止運動の、ぼくにとっての運動、というか、こだわる事として続いている。「自分の(いる)場所」にこだわる。遠く見えない法務省ではなく、目の前の執行の場、大阪拘置所にこだわるということだ。

Aふうさんの呼びかけから始まった「見張り」は、その後、「死刑廃止」の文字の入ったちょうちんをあつらえ、本当の舞台で使われる「拍子木」が用意されたりして、今行われているような「夜廻り」の形になっていく。
「夜廻り」についてはこれまでいろいろ言われてきた。「刑務所長、刑務官というのは、法務大臣の命令で死刑、やってるんやから、言うべきところは法務省やで」と。今年(2006年)も6月12日に大拘所長面会をして「執行せんように」の申し入れをした。そのとき、副所長だったかが、「自分たちは法務大臣の命令でやってるんだから」と言った。でも本当にそうなのか、所長や刑務官に「罪」や「責任」はないのか。何も問えないのか。問うべきではないのか。
ずっと、そのことをどう考えたらいいんかと思っていた。そういう頃に野田正彰さんの「戦争と罪責」(岩波書店)という本に出会った。

 Aさんのこと。1940年入隊し中国湖北省に見習い士官として転属。45年敗戦までの間に、何度も、捕虜(だけではない)虐殺を自ら行ったり部下に命令した。45年8月ソ連軍に武装解除され抑留。50年中華人民共和国に移送。初めに思ったのは、自分のした事を考えると中国側に捕まった以上必ず殺されるという不安と自分は命令されてやっただけなのに戦犯とされる理不尽への怒りだった。Aさんは自分の関わった一つの虐殺の事を考える。Aさんらの指導教官が、24名の後ろ手に縛られ座らされた「捕虜」のことを「これが君らの腕試しの材料だ」と言った。Aさんは戦闘の経験がないというコンプレックスから、余計に積極的に行動し「つとめ」を果たした。その時これで、一人前となったと実感した。
戦犯となったAさんは「自分たちのやったことは間違っていた」と考えるようになった。しかしそこでぶつかるのは「確かに自分は悪かったが、それは上官の命令によるものだった。悪いのは命令者だ」というものだった。Aさんがいた中国の管理所の建物は日本軍がいた所でコンクリートの壁の所々に引っかいたような跡があるのを見つける。「打倒日本帝国主義」爪で書いたものか黒く血がこびりついていた。反満抗日の中国人が拷問され殺される前に書き残したものらしい。それを前にして、Aさんは殺したのは俺の意思ではなかった。上官の命令で仕方なしに斬ったと思ってきた。しかし、殺される側からすると、上官の命令によって斬るという弁明に何の意味があるというのか、命令だから止むを得なかったということでは殺される側としては通らない。そういうことから「命令するものには命令するものの責任がある。実行者には実行者としての責任がある」と考えるようになる。

戦争での捕虜虐殺のことと死刑を同じものとしては考えられないのかもしれない。しかし、その両者で、実行しているものの中から同じ言葉が聞かれることを思う。「それは上の命令によるものだ」と。それは死刑においても、拘置所長や刑務官は執行する事に「うしろめたさ」を感じていることを意味している。同時に、「上からの命令」を言うことで、「責任」を逃れようとしていると思う。やはり、命令したものには命令した責任がある、実行したものには実行したものの責任がある、と言いたい。

3

フォーラム等が拘置所長との面会したとき「質問状」を提出した。
その中で大阪拘置所の元看守長の手記にあった「罪を犯した人間を立ち直らせるのが本来の職務である刑務官にとって、生きている人間を殺してしまう死刑は正反対の職務である」「死刑というのは人殺しなんですよ」という言葉を引用した。刑務官自身が自分の事を「人殺し」といわなければならない職業。いやな仕事、やりたくない仕事なのだと思う。でも、法律がある。命令がある。しかたがない・・・と向き合おうとしない。それでいいのか。それでは何も変らないやないか。

B大阪拘置所の獄中にいる人の書いたものに次のようにあった。
「(宅間守さんの死刑執行のあった2004年9月14日の翌日)階上の男性が『死刑執行反対』と夕食後に大声で窓から外に向けて『国家権力に負けないぞ!俺は社会復帰するぞ!』と何回も何回も叫び(それに)『賛成』と言っている人もいました。私はこの人は確定死刑囚だと思い、聞いていてかわいそうでなりませんでした」と。
この叫んだ人(たち)はこの後どんな処分を受けたのかと思う。きっと懲罰を受け辛い目にあったのではないか。明日あるいは今、執行されるかもしれないときに、実行者に向かって「止めろ」と言うことや、人が殺られた事に対して抗議したりするのは当然のことではないか。処分をうける事を覚悟の上で、抗議した人の側にぼくは立とうと思う。それでも、拘置所は上の命令でやっているのであって、言うていくべきは法務大臣であり法務省であるというのやろうか。

Cでも、所長には何の権限もない。上から命令されれば実行するしかない、と言われてきた。何もしようとはしない拘置所側の言い逃れの理由として使われたりしてきた。しかし、そうではなく拘置所としてできることがあることを見つけ出した。恩赦法施行規則第一条の二に
「〔特赦等の上申〕左に掲げるものは、職権で、中央更正保護審査会に特赦、特定のものに対する減刑又は刑の執行の免除の上申をすることができる。
一 在監者については、その監獄の長 」
とある。
 刑務官の人たちに自分のしていることを「本来の職務ではない」と思わせたり、自分のことを「人殺し」との思いにさせないために、死刑執行させないために拘置所長にはできることがある。恩赦法で執行の免除、減刑の上申を行うことだ。刑務官のことを思い、自身のことを考えるなら、やろうとする意思があればできることだとして面会時に主張した。所長は「恩赦は慎重に行うべきものであり軽々しく扱われるべきものではないと考える」等と言った。ならばぜひ、執行命令が来たときには、執行の免除、減刑の上申を「慎重」にその都度行ってもらいたいものだ。執行を止める為に拘置所は何も出来ないということはない。やろうと思えば「恩赦法」がある。やろうとしないだけではないのか。

D大阪拘置所長は2年で代わっている。矯正管区の長などになったりしている。上の執行命令を「恩赦」などで覆すような事をしなければ矯正管区長からやがては法務省へと上り詰めていく事になる人たちなのだ。自分たちは直接手を下さず、それだけ罪悪感も薄い。刑務官の苦悩などわからないと思う。
刑務官はまた、死刑執行が職務としてある事や他の理由でやめていく人もいると聞くが、多くは上司の命令をそのまま実行することでその仕事にとどまる。執行の仕事を終えて「一人前」と言われるとも聞いた。
その人たちに、どうすればぼくたちの思いが通じるのかと思う。

緒方正人さんの「水俣病私史―常世の舟を漕ぎて」を読んだ。
企業や行政と交渉や話していていつも感じる事は、彼らと話しても何にも変わらない、ある線を境に一歩も越えられないという無力感だった。それは、かれらが、企業や行政という立場に立って話しており、ぼくは、会やグループという立場から話しているからだと思う。「システム」のなかの一人としてでしか互いは話しいないということに緒方さんの本から気づかされ、「個と個にならない限り接点は生れない」という言葉にうなづかされた。
拘置所長との面談は、国、法務大臣らに繋がるそのシステムとの面談であり、所長という個と話しあってはいないという事だ。ぼくたちの思いが通じる事はないのかもしれない。

Eそれでも執行が心配されるとき所長面談や、夜廻りして拘置所の外から訴えている。その事に何の意味があるのかということになる。
初めに戻るのだけれど、何もしなければ、何の波風も立たずに、執行は行われることになる。執行があるだろうことが分かっていて、何も言わないということでいいのか、と自分の事を思う。やはり彼らに言いたい。「殺すな」と言いたい。
法務大臣に手紙を書くことでもいいし署名を集める事でもいい。なんでも自分の納得する方法で自分の意志を示せばいいと思う。

12年前に、「執行があるかもしれない」といわれて「どないしたらええねん」と悩んだときのぼくのままです。執行しようとする人たちに向かって「殺したらあかんぞ」と言う以外にぼくには何もできません。
獄中で「死刑反対!」と叫んだ人たちと同じように(ぼくは獄外という安全な場所にいるのであり同じではないのですが)、ぼくも叫ぶことしかできません。
それが、大阪拘置所という自分の<場>にこだわることが、ぼくの死刑廃止運動です。                
                                    

                     坂口 誠也    



 


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